午後からの授業は、眠気が伴う。
 特にこの日の最終授業は、精神共に疲れがいつもよりもひどかった。
 うとうとする眠気との戦い。
 現実と夢の狭間にいるようで、何が現実に起こった事なのかあやふやになってくる。
 誰にも打ち明けられず、話したところで自分の味方になってくれるような人もいない。
 一人で抱え込んで、もやもやしていた。
  ベアトリスは片手を頬につきながら、前日とこの日起きたことについて頭の中で巡らせていた。
 ノートの端に黒い影を落書きし、あの時見た恐ろしい形相の野獣は一体何だったのかはっきりしたくて仕方がなかった。
 まさか、あれがヴィンセント……
 あまりにも唐突な結論過ぎて、即座に否定してしまう。
 それじゃやっぱり夢? 
 ベアトリスは自分が見たものに自信がもてなかった。
 夢と思った方が全ての筋が通る。
 考えれば考えるほど頭は混乱していた。
 精神異常をきたす一歩手前は、きっとこういう状態なのかもしれない。
 そう考えると、最後は自分を守りたいがために、夢ということで片付けたくなってきた。
 夢、夢、そう悪夢。
 それで終わり!
 その時、授業の終わりを知らせるベルがなり響いた。

 帰り支度のために自分のロッカーから荷物を取り出していたとき、後ろから声を掛けられた。
 振り返れば、またあの子が微笑んでいた。
「サラ!」
 そうだこの子、この子が言ったあの言葉の真相を聞かないと。
 ベアトリスの心が一気に跳ね返る。
 一旦夢で片付いた事柄が、また現実へと引き戻され、不安定な心では絶えず考えが変わり一つに定まりきれない。
「ベアトリス様、お時間ありますでしょうか」
 それは願ってもないと、ベアトリスは真剣な眼差しで、即、首を縦に振る。
 サラは飛び跳ねるように「キャー」と喜んだ。
 慕ってくれるのは素直に嬉しいが、積極な性格の裏にきついものも感じていた。
 遠慮なく自分に近づいて来ることで油断させ、その都度計算してから行動するようなどこかずる賢さが見え隠れする。
 味方だと心強いが、敵に回れば手のひらを返すような信用置けない不安定さが、ベアトリスとサラの間にあるようだった。
 もろく壊れやすい関係を懸念しながら、ベアトリスは自分の性格とは全く正反対の年下のサラに少しおどおどしてしまった。
 それを悟られないように、精一杯の笑顔を見せ、ベアトリスはサラについていく。
 学校から数ブロック先のファーストフード店に二人は向かっていた。
 そこにはアイスクリームを使ったデザートが沢山あり、学校帰りの生徒達でいつも賑わっている。
 ダイエット中のベアトリスにはアイスクリームを食べるには抵抗があったが、サラがチョコパフェを注文すると、付き合いと誘惑で同じものを注文していた。
 とにかく今日は特別なんだから。
 ベアトリスは理由をつけて、これから食べるアイスクリームの罪悪感を消そうとしていた。
 窓際の4人がけのテーブルが開いていた。そこで二人は腰を落ち着けた。
 ベアトリスが話し出す前に、サラは一度にこっと笑顔を見せて、自分から朝の話のことを振った。
「私がなぜパトリックのことを知ってるか、気になってらっしゃるんでしょう」
 話をまたそらされるかもと覚悟を決めていたベアトリスは、単刀直入の質問にあっけに取られて、どもって返事をした。
「私、パトリックの友達の友達の友達なんです」
「えっ、友達の友達の友達……?」
 沢山友達が連なって目をぱちくりしたが、直接の知り合いではないがとにかく知っているということかと、まずは大人しく聞くことにした。
「小さい時に婚約したという噂を聞いて、なんかロマンチックだなってずっと思っていたんです。きっと魅力ある素晴らしい人なんだとお話だけで私の憧れにもなってました。まさかその婚約相手がここにいらっしゃるなんて、そう思うと嬉しくってつい声をかけてしまったんです」
「でもなぜ、私だとわかったの?」
 ベアトリスの顔はまだスカッと晴れない。
「あっ、それはその、名前が偶然同じだったので、以前から存じてましたし、顔で確認というより私の勘です」
 滑らかに話していたサラの口調が少し詰まった。
 ベアトリスも半信半疑で聞いていた。
「だけど、変なこと言ってなかった? 光とか、解禁とか、それに私の両親の事故がダークライトのせいとか」
「それは、あの、光のせいで髪が違う色に見えたので、お噂ではベアトリス様はプラチナブロンドだと聞いてました」
 ベアトリスは髪を押さえはっとした。
 子供の頃は確かに透き通るくらいの金髪だった。
 でも今はダークストロベリーブロンド。
 こんなにも髪の色が変わるものかと、がっかりした時期もあった。
 今もあれくらいの色だったらジェニファーよりも目立った髪だったかもしれない。
 顔のことはおいといて、髪は確かに昔はきれいだったとベアトリスは思い出していた。
 ベアトリスが髪の話に違和感をもたなかったので、サラはいい調子だとばかり話し続ける。
「解禁なんて私言いましたでしょうか。感激と言ったつもりだったんですけど、あまりも驚いて変な発音だったのかもしれません。それからご両親の事故のことはほんとにお気の毒です。あれは車のライトが故障して夜道がはっきりと見えなくて事故に繋がったと聞いたのでダークライトとつい勝手に、あっ、でも又聞きなので私も詳しいことは全然わかりません」
 サラは一度下をうつむいてちらりとベアトリスを垣間見る。
 ベアトリスはサラの言ったことをきちっと覚えてる訳でもなく、すでに曖昧になってしまい何も言い返せないままきょとんとしていた。
 その時、注文していたチョコレートパフェがテーブルに運ばれてきた。
 サラは嬉しそうにスプーンをすぐに手に取り、早速すくって口の中にいれると、美味しいと言わんばかりの笑顔をベアトリスに向けた。
 それに釣られてベアトリスも食べだした。
 アイスクリームの甘さと冷たさが頬を緩ます。
 サラの言葉はこの日のこととは全く関係なかったとベアトリスはがっかりしたものの、 やはり全ての出来事は夢、とそういう風になっていった。
 二人は暫く無言でアイスクリームを頬張っていたが、目が合うと、くすっと笑いが洩れた。
「ねぇ、だけど私のことベアトリス様って呼ぶの止めてくれる? いくら一年上だからといってプリンセスでもあるまいし、やっぱり変。ベアトリスでいいわよ。それに私達もう友達でしょう」
 スプーンを持ってたサラの手が震え、目を潤ませてベアトリスを見つめた。
 大げさでわざとらしいが、悪い気はしない。
「えっ、友達…… いいんですか、ほんとに」
「ちょっとそこまで感激することでもないでしょうに。ここだけの話だけど、私これでもクラスではいじめられることもあるの。こんな私なんかと友達になってもらう方が恐縮よ」
 ベアトリスがため息を一つついて寂しく語る。
 素直に喜べばいいのに、つい否定的な言葉を発してしまった。
「何を言ってるんですか!」
 サラが拳でテーブルを叩いたと同時に、一気に周りの視線が集まった。
「ちょっと、サラ、落ち着いて! どうしたのよ」
 ベアトリスはおどおどと辺りを気にしながら小声でなだめた。
「だって、ベアトリス様…… いえ、ベアトリス…… がいじめに遭うなんて許せません。どこのどいつですか。仕返しに行きます」
「だから、どうしてそう話が変な方向に行くの。大丈夫だから。それに私を守ってくれる素敵な友達もいるのよ」
 ベアトリスは焦った。サラは極端すぎる。
「素敵な友達ってあのジェニファーとヴィンセントという人たちですか?」
「どうして二人のことを…… やっぱりあれだけ素敵だと学校で知らない人いないよね。私も彼らと友達なことが不思議なくらいだもの。私が側にいたら皆気になっちゃうよね」
「いえ、違います。あの人たちが身の程知らずです。何か下心があって近づいているのがバレバレです」
 興奮しすぎてサラはまた暴走しだした。
「ちょっと、まって、下心があるってどういうこと?」
 ベアトリスはまた眉間に皺がよった。
「いえ、その、とにかくあの人たちは、あなたとは合いません」
 サラがそう言い切ると、ベアトリスは苦笑いになった。
「それは私が一番わかってるのよ。でもあの人たちが優しいから仲良くしてくれるの」
「だから、それが偽りなんです。ベアトリスは自信なさ過ぎです。あなたほどの方があんなのに心を支配されて、私は悔しいです。もっと自信持って下さい。あなたはもっと輝けるお人なんです。そうじゃないと私、納得できません!」
 サラは急に怒り出し、残りのアイスクリームがなくなるまで黙々食べ続けた。
 ──え? 納得できないってどういうこと?
 ベアトリスはサラの考えてることにどう返していいかわからず、持って行きようのない気持ちで表情が強張った。
 下をうつむきアイスクリームをぼそぼそ食べていた。
 沈黙がさらに気まずくさせた。
 サラが最後の一口を食べ終わると、カランとスプーンを空の入れ物に入れた。
 両手を膝に乗せ、失望したように体を震わせている。
 ふと顔をあげ、口を開くが、声がともなってない。
 また顔をそらして一文字にぎゅっと口を結び、その様子は何かに葛藤していた。
「サラ、何か他に言いたいことでもあるんじゃないの?」
 ベアトリスは何を言われても覚悟が出来てるとばかり、穏やかに問いかける。
「いえ、私、やっぱりでしゃばったことをしてしまいました。私が言うべきことじゃなかったんです。でもこのままではあなたは自信がないままで見ていて歯がゆいし、私どうしたらいいのかわからなくなって」
「サラが悩むことじゃないと思うんだけど…… どうしてそこまで私のことを心配してくれるの」
 有難いのか迷惑なのかどう判断してよいのか、ベアトリスの顔は半分笑い、半分気分を害して引き攣った。
 サラもまた、黙り込み口を閉ざしていた。
 さっきまで気にならなかった周りの笑い声が突然耳に響きだした。
 このテーブルだけ暗く闇がつきまとってるようで、皆から変だと思われて笑われたのかとベアトリスは辺りを見回した。
「人目を気にしすぎです」
 サラがぼそっと言った。
 ベアトリスは言葉に反応してハッとしてしまう。
「わかった。人から見ると私ってとてもイライラさせるんでしょうね。自分に自信がないのは認める。つい誰かに何か言われているようで、人目を気にしてしまう…… 私の悪い癖ね」
 ベアトリスの目は遠くなる。
 このときばかりじゃないと過去の行動にまで振り返り、情けなさを痛感していた。
 サラはその様子をじっと見つめて奥歯を噛みしめる。
 自分の抱いていたものを砕かれ、自分よりも年上なのに、この頼りなさに不快感を抱いてサラは耐えられなくなった。
「あなたが悪いんじゃないことはわかってます。でも……」
 ここまで言いかけたがその先の言葉に詰まってしまった。
 喉から出る言葉を飲み込むように、自分が言ったことをごまかそうと、わざとらしく腕時計を見つめた。
「ご、ごめんなさい、私そろそろ帰らないと。この後用事があったのを突然思い出しました」
 慌てて席を立ち、半ば逃げ腰で簡単に挨拶をして去っていった。
 ベアトリスは一人テーブルに残された。
 振り回され過ぎて、唖然としてしまったが、すぐにまた周りを気にしてしまう。
 そして自分も一人でこんなところにいられないと、食べたあとの容器をゴミ箱に捨て店を去った。

 家に帰宅途中、色々なことが頭に浮かんでいた。
 めまぐるしい展開──。整理しきれない。
 こんなとき何を優先に考えるべきなのか、それを思ったときふと浮かんだ。
「あっ、今日の朝食とお弁当、テーブルに置きっぱなしだ。食べてないってばれたらアメリアの機嫌が悪くなる。早く帰って始末しないと。見つかったら大変」
 突然一目散に走り出した。
 玄関に着いたとき、息は切れ、汗だくになっていた。
 慌ててカギを差込み、乱暴にドアをあけた。
 あと少しでアメリアが戻ってくると思うと、バックパックの鞄を居間のソファーに放り投げ、あたふたしてキッチンへと駆け込んだ。
 しかし、そこで急に足が止まった。
「えっ、これ何?」
 キッチンはダイニングエリアを含む長方形の空間。
 三分の一が調理場となっている。残りの部分に飾り棚やテーブルが置かれている。
 そのテーブルの上は朝に食べるはずだった朝食がそのまま乗っていた。それは目玉焼き、ソーセージ、トーストが一つのお皿に盛り付けされ、隣にはミルクがグラスに注がれたままであったが、不思議なほどそれらがキラキラと光っているのだった。
 ベアトリスは恐々と近づいた。
 顔を近づけそっとトーストを指で撫でてみれば、ラメが入った白い粉が指先に付着する。
 人差し指と親指を重ねこすり合わせてみた。
 さらさらしたパウダーのようだった。
 牛乳は表面がキラキラとしている。そっと持ち上げて軽くまわすように振ってみた。するとそれは静かに沈んで中に浸透していった。
「これって一体何? カビ? でもこんなにキラキラするものじゃないし、今日は特別のスパイスでもかかっていたってこと? だけどこんなの見たら怪しすぎて食べる気なくしてしまう。何か間違いで変なものがふりかかったんだろうか」
 そして茶色い袋に入っていたお弁当を覗いて見た。アルミホイルにつつまれたサンドイッチ、紙パックのフルーツジュース、手作りのクッキーが入っていた。 これは何も変化が見られなかった。
 ベアトリスは首をあげ、天井を見つめる。何かの塗料が上からおちてきたのかとも考えたが、落ちてきたとしてもテーブルの上はどこもキラキラしていない。やはりおかしいと首をかしげた。
 しかし、ふいに時計を見れば、アメリアの帰宅時間が迫っていた。
 考えている暇はない。証拠隠滅──。
 それが頭によぎると、皿とグラスをとり、流しの水を出しっぱなしにする。
 ディスポーサーの中へまずミルクを流し残りは突っ込んだ。そしてスイッチを入れるとそれらは豪快な音を立てて全てが流れていった。
 少し勿体無かったが、仕方がない。
 次、サンドイッチの紙袋からリンゴを取り出して、フルーツ入れの籠に戻し、紙パックのフルーツジュースは冷蔵庫に、クッキーは迷った挙句口の中、サンドイッチはどうしようかと悩んでいるときに、玄関のドアが開いた。
 アメリアが帰って来た。
 ベアトリスはサンドイッチを後ろに隠し、平常心を装いアメリアの前に姿を見せた。
「ハーイ、アメリア」
 ベアトリスの口がクッキーでもごもごしている。
「あら、つまみ食い? すぐに食事の用意するからちょっと待ってて。あれ? ベアトリス、髪がなんか変ね」
 アメリアの顔色が急に変わった。
「えっ、あのね、シャンプーがなくって、その辺にあったもので洗ったらパサパサに」
「そっ、そう、後で新しいのすぐに用意しておくね。ところで今日学校で何かあった?」
 アメリアが恐る恐る聞く。
「えっ、あっ、あの、火災報知器の誤作動があって、その、少し騒がしかったかな」
 ベアトリスもよそよそしく答える。それ以上のことは話さなかった。アメリアに全てのことを話しても騒ぎ立てるだけで、詳細は不要だと本能でわかっていた。だがアメリアは顔をしかめた。
「それだけ?」
「うっ、うん。そうだけど、どうして?」
「誰かにその髪のことで何か言われなかったかなと思って」
「それなら散々言われたわ。変だって」
 不満が蘇り、ベアトリスの口が尖がる。
「もしかして、ヴィ……」
 アメリアが言いかけて口を噤んだ。
「えっ、何?」
「ううん、何でもない。ちょっと着替えてくるから」
 アメリアは自分の部屋へと向かった。疲弊が猫背から伝わる。足に重りがついてるかのように引きずっているような歩き方だった。
 アメリアは常に背筋を伸ばして、キビキビと歩く。疲れている様子などベアトリスは一度も見たことがなかった。普段と違うその様子はベアトリスを不安にさせた。
 パタンと奥の部屋のドアが閉まる音が聞こえ、静けさが広がると落ち着かなかった。
 ベアトリスはアメリアの部屋のドアの前に立ち、ノックしようか拳をドアに向け迷った。
 その時、部屋の奥からアメリア以外の声がかすかに聞こえた。男の声だ。そうとわかるだけで何を言っているのかまではわからない。
 電話から洩れた声かもしれないと思うと、ノックする手を下ろし、一旦その場を去った。
 ベアトリスは部屋のベッドに腰掛け、電話の相手の事を考えてみた。
 アメリアに恋人がいても不思議ではない。
 自分が原因で結婚したくてもできないのかもしれないという気持ちは常に感じているし、もしかしたら疲れきっているのも恋人と何かあってのことなのかもしれない。
 ベアトリスはあれやこれやと詮索しながら、気がついたら手で持っていたサンドイッチにかぶりついていた。
 はっとしたが、他に処分する方法が思いつかず、全部食べきってしまった。
「さて、ウォーキングに行って消化するか」
 ベアトリスはアメリアの部屋の前で、歩きに行くことをドア越しに伝えた。
 だが返事がなかった。
 アメリアの名前を呼んでみたが、それでも返事がない。
 不安になり、ドアを突き破る勢いで開け、部屋を見渡した。
 そしてアメリアがうつぶせに床に倒れてるのを見ると、頭から血の気が引いた。
「嘘、アメリア! やだ、救急車呼ばなくっちゃ」
 ベアトリスがおろおろ取り乱し、部屋中を見渡し電話を探すが、その部屋に電話はなかった。
「えっ、電話がない……でもさっき確かに他の人の声がした」
 ベアトリスがまたこんがらがってしまった。その時弱々しいアメリアの声がした。
「ベアトリス、心配しないで。すぐによくなるから。ちょっと貧血起こしただけ」
「でもアメリア、病院に行った方がいい。アメリアが病気になったところ見たことない」
 アメリアは心配ないと、よろよろと立ち上がる。そしてベッドの淵に腰を掛けた。
「本当に大丈夫。ごめんね、心配かけて。ただ暫くは動けないかもしれない。私、一体どうしたらいいのか」
 泣きそうな声を堪えた声。見たこともないしおらしい弱気なアメリアに、ベアトリスは目覚めたように鼻から意気込んだ息が突然出た。
「心配しないで、私がアメリアの看病する。それに今までアメリアにお世話になりっぱなしだった。今こそ自分でなんでもできるって見せなきゃ。うん!」
 一人で興奮していたその時、落ち着けと突っ込まれたかのように、電話の音が小さく鳴り響いた。
「えっ、電話?」
「ベアトリス、そこにある鞄を取ってくれない」
 ベアトリスが床に落ちていたビジネスバッグをアメリアに渡すと、中から携帯電話が出てきた。
 電話はあったが、先ほど話していてすぐに鞄に戻すものだろうかと何か違和感を覚える。
 それよりも、アメリアはディスプレイを見つめながら何かを思案するように、中々電話に出ない事の方が気になった。
「アメリア、電話にでないの?」
 ベアトリスの声でアメリアは覚悟を決めて通話ボタンを押す。
 静かな部屋に、アメリアと相手の会話が始まり、時折電話から男性の声がもれてきていた。
「そうだったの。わかったわ…… そうよ、《《誰かさん》》のせいでね、あなたが思ってる通りの事態なの。癪だけど仕方がない。あなたと《《もう一人の方》》に助けて貰わないとやっていけない。だからよろしく頼むわ。今回は特別ということで」
 アメリアがつっけんどんに要件だけ言うと電話を切った。大きくため息を一つ吐く。
「アメリア、大丈夫? 誰から? 何かあったの?」
「ベアトリス、あなたは何も心配いらない。これは私の仕事のこと。でも、私が元気になるまで、一人でちゃんとできる? あまり無茶をしないで欲しいの。例えば、何か変わったことがあったとしても羽目を外さないで欲しいの。あなたに何かあったら私は……」
 アメリアの言葉を最後まで聞かないでベアトリスは口を挟んだ。
「大げさね。私も、もう子供じゃないのよ。本当ならなんでも自分でやらなければならないんだから。それにそんなに心配することなんてないわ。ほんとに過保護なんだから。もうそろそろ私を自由にしてもいいときじゃないの?」
 ベアトリスはリラックスさせようと冗談のつもりだった。笑いも交えて軽い気持ちは誰の目にも分かるほど厭味でもなんでもなかった。だが、アメリアの目は揺らいだ水面のように潤っていた。次第に溢れて頬に沿ってこぼれてしまう。
「ベアトリス、私は……」
 アメリアが何かを主張したそうに取り乱す。だがその後の言葉が封印されたように出てこない。
「アメリア、落ち着いて。私、責めたわけじゃないのよ。アメリアにはとても感謝してるし、母親以上に大切にされてるって分かってるのよ。これ以上アメリアに負担を掛けたくなくて、私もそろそろ自分で出来ることは自分でした方がいいと思って」
「違うの、ベアトリス。違うのよ。でもいつかきっとわかる。だから、これだけは覚えていて欲しいの。私もベアトリスを愛してるってことを。あなたが私を憎もうとこれだけは変わらない」
 いつになく弱気になっていたアメリアは、溢れる自分の感情を抑えきれないと、ベアトリスを強く抱きしめた。
「アメリア、どうしたの。とにかく疲れて情緒不安定になってるのよ。弱ったアメリアなんて嫌だわ。やっぱりいつものアメリアでないと。だからゆっくり休んで。私が何でもするから」
 ベアトリスが強く抱き返し多少落ち着きを取り戻すも、アメリアまだ焦点を合わせずどこか遠くを見つめていた。
 一人にした方がいいと思い、ベアトリスはそっと部屋を出る。
 アメリアの病気に全てのこの日起こった事柄が、吹き飛ばされる思いだった。