深く考え事をしながらベアトリスは歩いているために、景色が目に映っていても視界に入ってこない。
 心は、腹立たしさと満たされない思いで惨めになり、逃げずに立ち向かうと言った自分が情けない。
 自分で自分の心を傷つけ、軽蔑することで、もっと傷口を深くしていった。
 ダメな自分のイメージがまた膨らんでそれに飲み込まれては、自信喪失、自己嫌悪に陥る。
 体に蓄積された重苦しい気持ちに我慢できず、目を一度強く瞑り、歯を食いしばった。
 発狂しそうになる一歩手前まできたとき、ふと目を開けた目の前の風景がいつもと違うことに驚き、気持ちがヒューズのように飛んだ。
 心が感情に囚われすぎてどこをどう歩いたのか全く覚えがない。何年も毎日歩いてる場所だというのに、違う時空に迷い込んだように、町の風景が全く見覚えのないものに摩り替わっていた。
 左右を見ても後ろを振り返ってみても、見慣れた道路や、建物、曲がり角すらなく、そこは突然緑に溢れる大地と大きな湖があるだけだった。
 湖の向こうには古城が薄っすらとみえ、まるでおとぎの国に足を踏み入れたようだった。
「これ、どういうこと。私夢をみてるの?」
 目をこすり、頬をピシャピシャと軽く叩いてもう一度見ても、その景色は変わらなかった。
「やあ、ようこそ」
 その声のする方向に、ベアトリスは慌てて振り返った。
 そこには透き通るような金色の長い髪をした男性が、民族衣装のような正装をして、威厳に満ちて立ってい た。 ブラムだった。
 声を出すことも忘れ、ベアトリスはただ驚いてそこに立ち尽くしていた。
 ブラムは輝くほどの美しい笑顔でベアトリスに近づいた。そして彼女の手を取ると、礼儀正しくそっとキスをした。
 ベアトリスは驚きを通り過ごし、意識のない状態のように呆然とした。
「かなりいろんなことに巻き込まれて、そして振り回されているようだね、ベアトリス。まだ君は何も気がつかないのかい? それとも何かに気がついているけど、怖くて見て見ぬフリをしてるだけかい?」
「あなたは誰? なぜ私のことを知ってるの」
「私は君に一番近い存在。そして君の事はなんでも知っている。君が生まれたときからずっと見守っていたよ。そしてここは君が生まれたところ」
「えっ、私が生まれたところ?」
 ベアトリスはもう一度辺りを見回した。一度も見たことがない風景、そして自分の住んでる国にも見えなかった。
「君は自分の名前について何も疑問に思わないのかい? 自分の名前を呟いてごらん」
「私の名前? …… ベアトリス・マクレガー」
「マクレガーはこの地域出身を意味する名前の一つ。そしてベアトリスも幸せをもたらす女性の意味がある。さらに王女様の品格も添えられている。君はこの土 地で人々を幸福にする使命を帯びて生まれたんだ。だけど君は何も知らされず、ここから離れ本来の暮らしとは違う生活を強いられている。君は真実を知りたく ないのかい? 私は君の魂をいつでも自由にすることができる。私が必要になったとき、強く私のことを念じて欲しい。その時私は迎えに行く」
 ブラムは一方的に言うことだけ言うとすっーと姿を消した。
「待って! どういうことなの?」
 ベアトリスが我に返って意識を強く持ったとき、辺りの風景は見慣れたいつもの景色に戻っていた。
 頭の中を引っ掻き回されたようで放心状態になりながら、暫くその場所に根を生やしたように突っ立っていた。
 いつまでも突っ立っているわけにも行かず、心を囚われたまま、ただ足だけ動かしていると、気がつけば家の前についていた。
 頭の中は飽和状態で筋道がうまく立たない。当惑したまま家のドアを開けた。
 赤いエプロンを着けたパトリックがにこやかに出迎えてくれた。しかしベアトリスの様子が おかしいことにすぐに気がつき、怪訝な表情になった。
「おかえり、どうしたんだい、なんか元気なさそうだ。どこか具合でも悪いのか?」
「えっ?」
 ベアトリスは頭の中には、パトリックの言葉も入らなかった。
「どうした? 熱でもあるんじゃないか?」
 パトリックがベアトリスの前髪をかき上げて自分の額と合わせた。ベアトリスはまたパトリックの顔をまじかに見て、驚いてやっと我に返った。だがもう拒む力も残っていなかった。
「熱はないようだけど、やっぱり変だな。なんか友達とあったのか?」
「友達?」
「一緒にどこかへ行ってきたんだろう」
 ベアトリスは思い出したくない事柄を思い浮かべると、スイッチが入ったようにまた涙がこぼれそうになった。しかし必死に堪える。
「どうしたんだ? もしかしていじめられたのか」
 ベアトリスは首を横に振り、パトリックを見つめた。
「パトリックの言ったこと正しいのかもしれない」
「僕が言ったこと?」
「うん。忘れた方がいいって言ったでしょ」
「へっ?」
 ベアトリスはそういい残し、自分の部屋へ無気力で入っていった。
 パトリックは唐突に言われてなんのことかわからず、暫くたたずんでいたが、セットしていたタイマーのアラーム音が聞こえると慌てて台所へ走っていった。

 ベアトリスは机に向かって暫く座っていた。泣いても仕方がないと、涙をふき取ると、コンピューターの電源を入れる。そして何気なしに自分の苗字をネットで検索し始めた。
 ハイランド、タータン、バグパイプ、キルトといったキーワードが目に入る。そしてお城や湖が映りこんだ風景の画像も出てきた。
「この写真、幻をみたときの風景に似ている。私はここで生まれた? まさか…… そうだとしたら私は外国人になってしまう。あれっ? そう言えばパトリックの名前も確か『マコーミック』だった」
 ベアトリスは同じように検索すると、自分と同じキーワードがひっかかり、はっとした。
 さらに検索を続けていると、パトリックという名前には貴族という意味があることを知った。
 さっと立ち上がり、部屋を飛び出してパトリックに駆け寄った。
「どうしたのそんなに慌てて、もしかして、お腹すいた? でも、あともうちょっと待ってね。アメリアももう少ししたら帰ってくると思うから」
 パトリックはお鍋をお玉でかき混ぜていた。
「パトリックはどこで生まれたの?」
「えっ、どこって、あそこだよ。ベアトリスが10歳まで住んでた場所だけど。どうしたの?」
「でも、マコーミックって名前は元々外国から来た名前だよね」
「ああ、昔先祖が移民してきたからね。血筋はそっち系ってことになるのかな。でもなんで急に?」
「じゃあ、私もそうなのかなって思って。そこはお城や湖が多いところだよね。それにパトリックって名前も貴族の意味が含まれていて高貴なイメージなんだね」
「おじいちゃんが言ってたんだけど、昔はそういう湖の側にあるお城に天上人が時々舞い降りてくるって聞いたことがあるんだ」
「天上人?」
「空の上に住む特別な身分の高い人たちってところかな。幸せをもたらし、心を満たしてくれる人々らしく、僕の先祖は天上人に特別にお使いするために選ばれた種族だって言っ てた。天上人が現れると外敵から守ったり、身の回りの世話をする。その見返りに、特別な力を与えられるんだ。その名残りで僕も高貴な仲間入りを願ってパトリックって名付けられたのかも」
 これぐらい言っても差し支えないだろうと、パトリックは気軽に笑いながら話した。
 初めて聞く話に、ベアトリスは真剣に聞いていた。
「外敵から守るって何?」
「ああ、この場合、天上人の力を手に入れたい邪悪な者のことになるかな。天上人は永遠の命を持ってるんだ。だけどこの地上に降りてここで生活すると命の長 さは一般の人間たちと変わらなくなるらしい。でも天上人は天上界と地上を行き来する力を持ってるから、それを邪悪な者が奪ってしまうと、力を得てこの地上だけではなく天上界も支配して世界は破滅…… ってことになるんだって。なーんて、よくある神話だけどね」
「もしその話が本当だとしたら、この世の中には、天上人、力を与えられたもの、普通の人間、そして邪悪な存在がいるってことになるね」
 ベアトリスの話の飲み込みの良さに、パトリックは余計なことを言ってしまったかと、顔色が変わった。慌てて誤魔化すために付け加えた。
「そう考えたらなんでもこの世には存在していることになるね。吸血鬼とか妖精とかパワーレンジャーなんかもありかな」
「それじゃ、野獣に変身して、怪物を退治する人もいるかもしれない」
 遠い目になりながら、ベアトリスは呟いた。
 パトリックはこれ以上この話はしてはいけないと、話を変えた。
「あ、そうだ、プロムのドレス、どれにするか決めた? 僕はタキシード、白がいいかな、黒がいいかな、ベアトリスはどう思う?」
「パトリックなら何を来ても似合うと思うけど。ねぇ、あの賭けのこと覚えてる?」
「えっ?」
「私、賭けをする。もし、ヴィ…… あの人が他の誰かを誘ってプロムに来たら諦める」
「ど、どうしたんだい急に」
「ちょっと、なんかもう疲れちゃっただけ」
 忘れたい、全てのことから逃れたい。その一心でベアトリスは忘れるきっかけを無理に作ろうとしていた。
 パトリックはベアトリスの決断に驚き、暫く動けなかった。
「パトリック、なんか焦げた匂いがする」
「うわぁ、いけねー」
 パトリックは慌てて、オーブンを開け素手で中のものを取り出そうとした。
「パトリック、何やってんの、火傷しちゃうよ」
 ベアトリスがナベつかみを差し出す。
「あっ、そうだった。ありがとう」
 かなり動揺し、鼓動もバクバクとしては取り出したディッシュを持つパトリックの手は震えていた。
 その隣でベアトリスは魂を失ったように無表情で夕食のおかずを見つめていた。

 ヴィンセントは自分の部屋でコードレスフォーンを掴み、睨んでは、ベッドに寝転がり、また起き上がってはナンバーをプッシュすべきか悩んでいた。
 ベアトリスと話をするには電話しかない。しかし、電話をかけたところで何を話せばいいのかもわからない。誤解を解こうにも、またサラが側に居なければベ アトリスに近づけない。そうすればまた同じことの繰り返しになり、再びぬかるみにはまり込むと思うと、自分でもどうしていいかわからなかった。
 結局は掛けられず諦める。そしてその受話器を宙に投げると、跳ね返ってきた。
「いつからそこにいるんだよ。笑いたければ笑え」
「やっぱり気がついていたか」
 ブラムが姿を現した。
「今日は一体何の用だ。またかき回しに来たのか」
「コールの動きもぱったりと止まって、ちょっと退屈だから遊びに来た。さっきベアトリスにも会ってきたんだけどね」
「えっ、なんでそんなことを」
「大丈夫大丈夫、ばれてないから」
 ブラムはヴィンセントの目から見てもいい加減に見えた。
「一体、あんたの目的はなんだ」
「私の目的? それはもちろんベアトリスの運命を見守ること。それが私の使命」
「その割には仕事がいい加減じゃないか」
「直接手を出せないから、それは仕方がない。全てはアメリアに任せたことだったが、君のせいでこんな状況になってるからね。ホワイトライトの力を手にしたベアトリスは本来ならこの世に存在してはならぬ者。他のホワイトライト達にバレれば即抹殺……」
「やめてくれ。だから親父やアメリアが必死で守ってるんじゃないか。あんたも手伝ってくれるんじゃなかったのか」
「私はやれるだけのことはやってるよ。だが私にも立場がある。全てをベアトリスに捧げることは難しい」
「お願いだ。彼女を抹殺するのだけは絶対避けてくれ」
「んー、私には保障できない。全ては君にかかってるんじゃないのか。第一、何もかも君が引き起こしたことなんだから」
 ヴィンセントは悔やみきれない表情で唇を噛みしめ自責の念にかられた。
「おっと、ちょっと意地悪になりすぎた。ごめんごめん。最大限のことはするつもりではいる。私も勝手に彼女が抹殺されるのは避けてもらいたいからね」
 他人事のように話すブラムにヴィンセントは耐えられなくなった。腹の底から声を絞り出した。
「俺だって、守れるものなら命を賭けてでも守りたいんだ」
「いざというときは君には自分の命を捨てる覚悟があるんだな」
「ああ、ベアトリスを救えるのならなんだってやる」
「わかった、その言葉忘れるなよ」
 ブラムは消えていく。姿が薄くなっていく中、ホワイトライトだというのに、その口元は不気味な笑いが妙に目立っていた。