朝、ベアトリスは自分の部屋のベッドで目が覚めた。
頭が働かず、寝ぼけてベッドから起き上がれない。
カーテンの隙間から陽光が差し込み、いつもの朝なのに、この日は何かが違う。
そう思った時、頭の一部分が熱を持つようにズキンと疼いていることに気が付いた。
そっと触れれば、盛り上がっているように感じ、さらに強く押さえ込めば痛さが増した。
頭がすぐに働かないせいで、暫く目をショボショボさせて、頭をさすっていた。
昨晩の事を思い出そうとしたその時、 突然炎に包まれたアメリアの映像がフラッシュした。
「あっ!」
布団を跳ね除け、部屋を飛び出る。
「アメリア、アメリア」と半狂乱に叫びちらしていると、居間から落ち着いた声が聞こえた。
スーツに身をまとったアメリアが、ソファーに座ってコーヒーを片手に新聞を読んでいた。
それはいつもの朝の光景の一つではあるが、ベアトリスには違和感だった。
「何、そんなに朝から騒いでるの。早く支度しないと学校に遅れるわよ」
「アメリア、水、水が燃えて……」
「何、寝ぼけてるの。変な夢でもみたの? 早くシャワー浴びて目を覚まさせなさい」
「夢? 夢を見た? あれが夢?」
ぼけっと立ってるベアトリスにアメリアは新聞から目を離さず、人差し指だけ壁に掛かった時計に向けた。
その時計の針が指す時間は、ベアトリスを現実へと簡単に引き戻した。
それと同時に、ベアトリスがバタバタと慌しくバスルームへ駆け込んだ。
暫くして家全体にシャワーを出す水の音が響き渡った。
アメリアはそのシャワーの音を聞き、何もかも洗い流してくれることを期待した。
バスルームに火が持ち込まれなかったことが不幸中の幸いだったと、再び胸をなでおろすのだった。
「もう少しでバスルームが火の海になるところだったわ」
アメリアはソファーから立ち上がる。
真相を聞きたがるベアトリスとこれ以上顔を合わせない方がいいと、ここはさっさと家を出ることにした。
夢で片付けば、何もかも上手くいくし、前日の事を誤魔化すにはもってこいだった。
時間が経てば経つほどベアトリスも夢と現実の境目があやふやになっていくことを見込んで、アメリアは仕事に向かった。
またいつもと変わらない日常にしなければならない。
だが、炎によって燃え尽きてしまったことでいつになく体がだるく、前日の思いがけない事故を引き起こした主犯者を恨んだ。
アメリアには事の真相の全てが分かっていた。
ベアトリスは勢いよく出るお湯を頭から受け、黒い紙、青白い炎、燃えるアメリアの映像を思い出していた。
夢で見たことを鮮明に思い出せることが、ベアトリスには不思議だった。
かといって、こんなことが現実に起こることもありえないと否定してしまう。
現にアメリアは何の問題もなくピンピンしていたし、やけどの跡も全くなかった。
「もう、一体なんなのよ」
シャンプーを取ろうと、手が無意識にいつもあるところを触ろうとするが、かすって手ごたえが得られない。
「あっ、そうだ。切れてたから新しいのを昨晩のうちにアメリアにお願いするはずだったのに、忘れてた。アメリア、シャンプーとって」
シャワーカーテンの端から顔を出し何度も叫ぶ。
だが仕事に出かけたアメリアは答えてくれるはずはなかった。
ただでさえ時間がないのにと焦り、ベタベタとぬれたまま、タ オルだけを巻いてバスルームの戸棚を空けてその辺を探す。
だがシャンプーは見つからない。
仕方がなく台所に向かい、食器洗い用洗剤を少量手に取った。
あわ立つものならなんとかなるだろうと、安易にそれで頭を洗ってみた。
しかしそれは髪には適してなかった。
後悔している暇もなく、このままでは学校に遅れてしまう。
ゆっくり髪を乾かすこともできず、アメリアが用意してくれたテーブルに並べられた朝食も食べずに、作ってくれた弁当も忘れ、最悪のコンディションで学校にかけこんだ。
「遅刻だ!」
幸いにもギリギリ学校に間に合ったが、慌てて飛び込んで教室に入ったベアトリスを見たクラスの数名の女子がクスクスと笑った。
「よくあんな格好で来られるわね」
誰かが呟いた。
これ見よがしに直接言いに来る者もいた。
「ねぇ、ベアトリス、今日のあんたの髪、最悪ね。笑える。あっ、そうそう、ジェニファーは今日休みなんだって。風邪気味だそうよ。残念ね。いつも三人で仲がいいのにね。今日はお一人? フフフ」
意地悪く、性格のきついアンバーだった。
言うことだけいうと、大きくウエーブがかかった肩までの金髪を当てつけるようにすくい上げ、ざまあみろと嬉しそうに笑って去っていった。
ベアトリスが一人の時は嫌悪感を露骨に表し、ジェニファーとヴィンセントが一緒のときは、見事に180度変わって、こんな態度はとらないのである。
なぜコロコロと態度が変わるのかというと、ジェニファーが居ないと、ヴィンセントもベアトリスには近づかないため、利用するメリットが全くなくなるからだった。
ジェニファーが側にいるから、ベアトリスはまともに相手にされる訳であり、そのバランスが崩れれば、アンバーのような表面だけの付き合いの人間は敵意を表す。
今に始まったことじゃなく、ベアトリスには慣れっこだった。
ジェニファーが側に居ない時は、仕方がないとあっさりと受け入れていた。
ヴィンセントもジェニファーが側に居なければ自分と一緒にいる理由はない。
だから、ジェニファーが休みの時はヴィンセントも休む事が度々あり、二人が休むと学校をサボってデートと噂されてしまうこともあった。
ヴィンセントとベアトリスが二人っきりになることは一度もなく、ジェニファーが居ない時は一人ぼっちになるのを割り切っていた。
しかし、この日は違った──。
「ベアトリス、その髪型ユニークだね。でも僕は嫌いじゃないよ。自然な野生児って感じで好きだな」
耳に心地いい声が響く。
「ヴィンセント! お、お、お、おはよう」
ジェニファーが側に居ないのに、ヴィンセントがやってきた。
いつになく嬉しそうに笑っている。
いや、おかしくてたまらない様子と言った方がいい。
ケラケラ笑うヴィンセントにベアトリスははっとして髪を両手で押さえた。
一体自分はどんな髪型をしているんだろう。
「ごめんごめん、君の髪を笑ってるわけじゃないんだ。今日は僕すごく気分がいいんだ。なんていうんだろう。ずっと願ってたことが叶ったっていうか、その……とにかく、こんな気分のいい日は思いっきり笑ったっていいだろう」
爽やかに笑うヴィンセントの笑顔。
これが自分に向けられたものだと思うと、ベアトリスはドキドキせずにはいられない。
頬が薄っすらと赤くなった。
しかし次の瞬間、さらに真っ赤にならざるを得なくなった。
「グルルルルルル」
ベアトリスの腹の虫が露骨に騒いでしまった。
「あれ、朝ごはん食べてこなかったの? あのアメリアが今日は朝食作ってくれなかったの? 規則正しい生活をしないと鉄拳が飛びそうなほどの人と一緒に住んでるのに、珍しいね。その髪型といい、今日は何かあったのかい?」
ヴィンセントがわざとらしく含みを帯びた言い方をした。
「あんもうー、やだ、恥ずかしい。実は昨晩からちょっと不思議なことがあって……」
ベアトリスが言い掛けると、聞きたいとばかりにヴィンセントは身を乗り出してきた。
だが、ふと考えれば、言ったところで信じてもらえず、益々笑われると思うと口をつぐんでしまった。
モジモジしていると、ヴィンセントはにたっと白い歯を見せて、より一層楽しそうに笑っていた。
こんなヴィンセントを見たことがない。
昨晩から何かがおかしくなってる。
これもあの夢かもわからない夢のせいなのだろうか。
ベアトリスが目を白黒して不思議そうにヴィンセントを見つめると、ヴィンセントはこの時とばかりウインクを返す。
息が止まりそうになった。
周りで女子たちが羨望の眼差しと嫉妬を向けている。
ベアトリスはそれに気が付かないはずがない。
我に返り、これが自分に釣り合わないことがわかってますよと体を小さくするのだった。
先生が現れたことで、各々に散らばっていた生徒達は慌てて机に向かい、いつもどおりの授業が始まった。
その後もヴィンセントは後ろの窓際に座るベアトリスをちらちら見る。
ベアトリスはヴィンセントの視線に授業どころではなかった。
一時間目が終わるや否や、ベアトリスはトイレへと駆け込んだ。
どんな髪型なのか気になって仕方がないのもあるが、ヴィンセントが側にくることで、クラスの女子に何か言われるのも嫌で逃げ込んだ。
ベアトリスが恐れてるのはジェニファーがいないことをいいことに、ヴィンセントを独り占めしてると思われることだった。
誰かが着色してジェニファーに必ず告げ口をする。
そこまで先が読めていた。
例え不利に語られたとしても、ジェニファーがそんな話を鵜呑みにするとも考えられなかった。
二人の友情はそんなものじゃないとベアトリスは信じていた。
それよりもここにある問題の方が今は重大だった。
トイレの鏡に映る自分に絶句してしまった。
「何、これ!」
叫ばずにはいられない。
シャンプー以外で髪を洗ってはいけないことを深く知らされた。
静電気を浴びたように跳ね上がり、使い古した箒のように、先が変な方向を向いてパサパサとはねている。
洗っているときも手がキシキシとして滑らかさが感じられなかったが、これほど酷いとは思わず、わなわなと恥ずかしさに震えていた。
ベアトリスが絶望感一杯で鏡を見ている時、ポニーテールの黒髪の下級生がモジモジしながら声を掛けようか背後で迷っていた。
勇気を出したのか、一歩前に出て声を振り絞った。
「あのぉ、マクレガーさんですか?パトリックの婚約者の……」
ベアトリスは自分の名前を呼ばれることより、パトリックの名前に反応して思いっきり力が入って振り向いた。
「ちょっと! どうしてパトリックのことを…… それに婚約者のことも。あなた一体誰?」
「やっぱりあなたがベアトリス様だったのね。そうじゃないかと思いながらもずっと光が感じられなかったから半信半疑でした。でもまさかこんなに近くにいらっしゃるなんて、なんという幸運でしょう。とうとう解禁されたんですね。おめでとうございます。私、サラと申します。初めてお会いしますが、ベアトリス様のお噂はよく存じております。あの時は本当にお気の毒で、ご両親の事故もダークライトが関わってると聞きました。絶対にに許せません。私で宜しければいつでもお力になります。是非何でも仰せ下さい。ベアトリス様のためなら……」
興奮して一人ペラペラと喋り、一向に終わる気配がない。
話が進めば進むほどベアトリスにはチンプンカンプンで、話が見えない会話に不快感だけが募っていく。
ただでさえ、髪の毛のことで機嫌が悪いのに、これ以上訳のわからないことを話されたらたまらないと一歩前に出て言葉をさえぎった。
「ちょっと待って、一体なんのことを話しているの。私には全くわからないの。なのにあなたは私のことを知っている。そして私の両親のことも。どういうことなの」
二人の距離が狭まると圧迫感が増した。
ベアトリスの苛立ちに、サラは、はっとして萎縮した。
「申し訳ございません。私、ですぎた真似をしました。ベアトリス様どうぞお許し下さい。私のことはどうかアメリア様にもお話にならないようにお願いします。私もここでベアトリス様とお会いし、お話したことは誰にもいいません。本当にごめんなさい」
サラは自分の失態に苛まれて、逃げるようにトイレを飛び出していった。
「ちょっと、待ってよ。なぜアメリアのことも知ってるの?」
後を追いかけようとしたが、鏡に映った自分の髪にまた目が向いた。
何かがおかしい。
先ほどまでの髪の恥ずかしさなど疾うになくなっていた。
怪訝な目で見つめ、そこに映る自分の存在を疑う。
「私の知らない私を知ってる人がいる。じゃあ私は誰?」
鏡に映る自分に問いかける。
鏡に映った自分が意思を持って答えるのではと思うくらい、そこに映った表情も険しく何かを言いたげに口元を震わせていた。
教室に戻ったとき、すでに次の授業は始まっていた。
「コホン」とわざとらしい咳払いを先生にされ、ベアトリスは遅れたことを謝罪した。
クスクスと意地悪な笑い声がしたが、ベアトリスの耳には届かなかった。
辱めようとしたのに、思った反応を得られず、からかっても面白くないと女子生徒達は肩をすぼませて残念がった。
それとは対照的に、ヴィンセントは一瞬でベアトリスの様子がおかしいことを読み取った。
まさかあいつらと接触して、余計なことを言われたのか。
自分の思惑通りに事が運ばない苛立ちで、唇をかみ締め、眉をしかめる。
授業中のクラスの中、動けないもどかしさから、足をガタガタと揺らしていた。
時間の経つのが遅く癪に障ると、教室の壁にかかってる時計を睨みつけた。
「くそっ!」と心の中で怒りを露にしたとき、ヴィンセントのヘーゼルナッツ色の瞳が突然赤褐色を帯びる。
その瞬間ヴィンセントがはっとした。
「しまった!」
そう思った時は手遅れだった。
ヴィンセントが頭を抱え込むと同時に、火災報知器がけたたましく鳴り出した。
「火事? それともただの訓練?」
生徒達が口々に言う。
教室内だけでなく、学校中が一斉に騒がしくなった。
「落ち着け、みんな。とにかく避難だ」
先生がそう言うと、生徒は一斉に立ち上がり、出口を目指す。
廊下が一瞬にして人で溢れかえった。
何が原因がわからぬまま、不安になる者、ただの訓練だとお気楽な者、ぶつかるなと喧嘩ごしになる者、ただ先生だけが冷静に指示を出し、事の真相を知ろうと隣のクラスの教師の様子を見に行った。
ベアトリスは生徒達が慌しく動き回る中、自分の気持ちを整理することができず、混乱していた。
まだ机に向かい髪を押さえたまま座り込んでいた。
「これがバッドヘアーデー」
髪の毛が上手く決められないと、その日一日何もかもうまく行かないということから人はそう呼ぶが、こんなにもめまぐるしい変化が起こるなんて、腹立ちまぎれにベアトリスは髪をぐしゃっと掴む。
クラスの生徒達は慌ただしく避難しているのに、それでもベアトリスは動こうとしなかった。
「何してるんだい。早く避難しよう。早く!」
いつも冷静で何事にも動じないヴィンセントが、酷く焦って取り乱し叫んでいた。
危機を感じていないベアトリスに、じれったいとヴィンセントは彼女の腕を取り強く引っ張った。
ベアトリスは一瞬ドキッとしたが、ヴィンセントの方が目を見開き、まるで感電したかのように体が小刻みに震えていた。
その時悲劇が起こった──。
ヴィンセントが突然喘ぎながら苦しみだしたのだ。
咄嗟にベアトリスの手を振り払い、床にうずくまる。
「えっ、ヴィンセント、大丈夫?」
教室は既に二人を残して空になっていた。助けを呼ぼうにも誰もいない。
ベアトリスはおろおろするしかなかった。
ヴィンセントを支えようと彼の肩に手を置いたとき、さらにヴィンセントは悲鳴をあげた。
咄嗟にベアトリスは手を離し、慄いた。
「ベアトリス、僕から離れろ」
ヴィンセントは何かを必死に抑えて歯を食いしばり耐えていた。
そのとき、煩く鳴り響いていた警報装置が突然止まった。
急に静けさが漂うと、教室に黒い人影が滑るように入ってきた。
「あっ、先生?」
ベアトリスが顔を上げたそこには、人の姿などなかった。黒い人影のみが、ゆらゆらとたゆたっていた。
それらがじりじりと近づいてくる。
そしてまた一体、また一体と、すっとどこからともなくどんどん数が増えていった。
今度は後ろにも現れ周りをすっかり取り囲まれてしまった。
ベアトリスは、息を飲み、目を見開く。
体が震えて、足が思うように動かない。
ヴィンセントはこの危機をなんとかしようと、足に力を込め、机によりかかりながら必死に立ち上がった。
前屈みのままベアトリスに背を向け、ふらつきながらも踏ん張った。
「ベアトリス僕が道を作る、だから走れ、早く逃げるんだ」
ヴィンセントがもてる限りの力を振り絞り、獣が怒り狂ったような雄叫びを出す。
右手を前に出した瞬間、エネルギーを吸い取るように、辺りの空間が歪み出 した。
そこに黒い影が引っ張られていった。
「ベアトリス、今だ、隙間を走り抜けるんだ」
「でも、私……」
ベアトリスは目の前の出来事に圧倒されて、咄嗟の判断ができなくなっていた。
ヴィンセントが焦り出す。
その焦りが一瞬の隙となり、一体の影がベアトリスめがけて飛び込んできた。
「キャー」と悲鳴を上げ、ベアトリスは咄嗟に避けようとバランスを崩し、床に尻餅をついてしまった。頭を抱え恐る恐る前を見たときだった。黒い影だったものが、恐ろしい形相の怪物となり、口を開け今にも飲み込もうと襲い掛かった。
「ベアトリス!」
ヴィンセントが叫んだその時、辺りが真っ赤に染まった。
もうそこは教室ではなかった。熱く、湿気を含みジメッとした不快感が纏わり付く。
まるで弾力性のあるゼリーに挟み込まれて押さえつけられているように、体は締め付けられ圧迫を感じた。
『シュッ』という音とともに風を感じ、目の前にいた怪物は切り裂かれ、ずたずたに影が散らばっていく。
それが消滅し、視界に遮るものがなくなったその先に、赤い目のキバをむき出すものがそこに立っていた。
体が怪しげに黒光りし、それがヴィンセントなのかベアトリスにはわからない。
それは人間の姿とはかけ離れた野獣に見えたからだった。
そしてその野獣は次々に黒い影を始末していく。
やがて最後の一体も消え、全てを退治した。
その野獣はベアトリスに背中を向け、首をうなだれる。
悔悟の念で肩を震わしていた。
ベアトリスはゆっくり立ち上がる。
事の真相を確かめたいが、恐ろしさで声をかけるのを躊躇ってしまった。
「ヴィン……セント……なの? あっ……」
やっとの思いで声を搾り出したが、この不快な環境で立ちくらみを起こし意識を失った。
崩れそうになったとき、ヴィンセントが走りより抱きかかえた。
その姿はベアトリスが見た野獣のままだった。
「ごめん。まさかこんなことになるとは思わなかった。全く浮かれすぎてたよ。本当にごめん」
ベアトリスを丁寧に床に置き、ヴィンセントは静かにその場を去った。
気がついたとき、ベアトリスは来賓客用の部屋の黒皮のソファーで横になっていた。
扱いに困って、適当にそこで寝かされていたようだった。
はっとして体を起こし、ソファーに座りなおした。
「あら、気がついたみたいね。大丈夫? どうする、このまま早退する?それとも授業に戻る? といってももうお昼前だけどね。ランチが先かしら」
スクールナースだった。
たおやかな笑顔をベアトリスに向け、隣に腰掛けた。
さりげなくベアトリスの腕を取り、脈を計っては、健康状態を気にしてくれている。
放心状態のベアトリスに、満面の笑みを添えて色々と体調について質問していた。
質問に答えるまでもなく体調は悪くないと自分でもわかっていた。
そんなことよりもただ気になったことは一つ。
ヴィンセントはどうなったの? ヴィンセントはどこ?
突然、取り乱すベアトリスに、落ち着いてとスクールナースが背中を優しく撫でた。
「何も恥ずかしがることないのよ。気を失ったのはあなただけだったけど、誰しも状況によってはパニックになるものよ。火災報知器の誤作動とはいえ、あの危険を知らせる音は、人間誰しも恐怖感を植え付けられるわ」
スクールナースのずれた答えが返ってくると、ベアトリスはうんざりしてしまった。
すくっと立ち上がり、丁寧にお礼を言うや否や廊下を走って教室に向かった。
ヴィンセントの無事を確認したい。それだけで頭が一杯だった。
教室のドアを勢い良く開けると、ベアトリスの登場に失笑が洩れた。
誤作動で気絶したことがクラスの笑いの種になっていた。
そんなことはどうでもよかった。
気になるのはヴィンセントのこと。
ベアトリスが心配して視線を向けるも、彼は何事もなかったかのように席について、しかも周りと一緒に静かに笑っている。
あまりのショックにベアトリスは無表情で、ただヴィンセントを見つめる。
ヴィンセントは決して目を合わすことはなかった。
教室内に変化はなく、黒い影もどこにもない。
あの不快に感じた赤いゼリーの空間はそのかけらも残さず、全てが何事もなかったように、いつもの光景がそこにあるだけだった。
また気絶して悪い夢をみたと片付けられる筋書き。
このあとは誰にも聞くこともできずに、自分だけで処理しなければならない展開。
「おい、ミス・マクレガー、授業を受けられるんだったら早く席につきなさい。みんなもからかうんじゃない」
先生はただ事務的にその場をやりすごした。
ベアトリスに視線を向け小声でひそひそ話をするものがいても、それ以上何も言わなかった。
ベアトリスは重い足取りで席に向かう。
そしてヴィンセントに再び一瞥を投げかける。
ヴィンセントは先生の話に耳を傾けノートを取っていた。
ベアトリスを無視してやり過ごしたものの、ペンを持つ手に力が入っていた。
授業が終わると、次はランチタイムだった。
ヴィンセントは逃げるように教室を誰よりも早く出て行く。
ベアトリスは納得がいかず、真相を聞きだしたいとすぐに追いかけた。
「あーら、ジェニファーに内緒でヴィンセントとランチデートでもしようと思ってるの? この身の程知らずが」
アンバーがベアトリスの腕を後ろから掴み、行く手を阻んだ。
がくっと体が前につんのめり、妨げられた苛立ちの反動で体の中の何かに引火した。
勢いよく振り返り、ベアトリスの唇がぶるぶる震え、怒りが露わになって行く。
アンバーの顔を睨み、手を振り払うと同時に、突然パッとフラッシュが光った。
その眩しさにアンバーは目をしょぼしょぼさせた。
ベアトリスも何が起こったかわからなかったが、今はそれどころではないと、ヴィ ンセントを追いかける。
廊下は人でごった返しになっている中、人と人の間にヴィンセントの姿が見え隠れしていた。
それをめがけて走ろうとするが、何度も道をふさがれた。
右、左と方向を変え、やっと人ごみを抜けた廊下の突き当たり、ヴィンセントが立ち止まっているのがみえた。
だがもう一人向かいに誰かがいた。
黒いスーツを着こなし、背の高い男性が鬼の形相になってヴィンセントを睨みつけている。
ヴィンセントは目を伏せ肩を落としていた。
「ヴィンセント!」
ベアトリスが呼ぶと、黒いスーツをきた男性が、驚きの眼差しを向けた。
ヴィンセントは咄嗟にベアトリスに背を向け、胸を押さえ込んだ。息が段々と荒くなっていた。
「ヴィンセント、聞きたいことがあるの。少しいい?」
黒いスーツを来た男性がヴィンセントを庇うように前に立った。
「お嬢さん……初め……まして」
どこか躊躇いながら挨拶をして、精一杯の笑顔を見せた。
その紳士も、ベアトリスを前にすると、何かを感じて少し後ずさるように警戒していた。
「あの……」
ベアトリスは言葉に詰まる。
「申し遅れました。私はリチャード・バトラー、ヴィンセントの父です。申し訳ないのですが、ヴィンセントの体の調子が優れなくて、迎えにきた次第です。私も仕事の合間を縫って来てるものですから、時間がないのでまた後日と言うことにして頂けませんか?」
ふとヴィンセントに視線を向けると、本当に息苦しそうにしていた。
「それでは、失礼します」
父親はこれ以上長居はできないと、ヴィンセントの肩に手を添えて二人はさっさと去っていった。
ベアトリスは視界から消えるまでその親子の後姿をずっと眺めていた。
その光景は一瞬忘れていた何かを思い出したような気にさせられた。
「あの親子……」
そう思ったとき、お腹の虫が最上級に鳴り響いた。
お腹を咄嗟に押さえ込む。
空腹だったことを今さら思い出した。それと引き換えに、一瞬頭に浮かびそうになった過去の記憶は消されてしまった。
ランチを忘れ、ジェニファーも側にいない。
こんなとき一人でカフェテリアで食事をするのは勇気がいった。
お弁当を持っていたら、教室の隅やあまり人が来ないところでぱっと済ませられたが、大勢の中に混じって一人で食べるのは何かを言われているのではと被害妄想に陥る。
だが、お腹が空ききっている今、本能には勝てなかった。
空腹と疲れを抱いて居たら、また全てを夢の出来事に変換させてしまう。
何が起こったか、頭を整理させるためにもまずは腹ごしらえからとベアトリスはカフェテリアへ向かった。
口にできるものなら何でもいい。
トレイを手にして、列につく。自分の好きなものを取るセルフサービス式なので、適当に食べ物を取り支払いを済ませ、空いている席を探した。
ガヤガヤとグループになって皆楽しそうに食べている。目立たない場所を選ぼうと探していると、そこに黒髪のポニーテールの女の子が友達とわいわいしながら食事をしている姿が目に入った。
朝出会ったサラだった。
トイレで話しかけられた言葉、それが自分自身の疑問を解くカギになるかもしれないと、ベアトリスは迷わず彼女に近づいた。
「サラ……だよね」
ベアトリスの声にサラが振り返る。
咄嗟に手を口にあて驚き、さっと席を立った。
「はい、ベアトリス様!私に御用でしょうか」
その声が大きく周りの注目を浴びて、ベアトリスは急に落ち着かなくなった。
「そんな大きな声を出さないで。それにベアトリス様なんて呼ばないで」
ベアトリスがあたふたしてる傍で、サラは全く気にもせず、どこか嬉しそうに胸をはっていた。
その周りで席についていたサラの友達は目を見開いて驚いていた。
「ベアトリス様もお食事ですか。良かったら私の隣に」
サラは隣に座っていた友達を気が利かないとばかり押しのけ、その椅子を提供した。
押しのけられた女の子も、どうぞとおどおどと手を差し伸べる。
こうなるとベアトリスは言われるままに腰掛けた。
テーブルにトレイを置く。
サラは得意げな顔をしてベアトリスの横に座った。
周りにいたサラの三人の友達はまじまじとベアトリスを見つめていた。
ベアトリスは居心地悪く、やけくそで開き直った。
「サラ、聞きたい事があるの。朝、私に話してくれたよね。あれってどういうことか詳しく聞きたいの」
「あっ、あの時は大変ご無礼をいたしました。あの、勝手にペラペラと喋りまして、本当に申し訳ございませんでした。私、その何も知らなかったので、つい」
サラは弁解に必死だった。
「だから、その話をまた聞きたいから……」
ベアトリスがそれはどうでもいいからと真相を聞きだそうとすると、邪魔が入った。
「ねぇ、サラ、私達のことも紹介してよ」
三人次々に喧しく言い出せば、サラは得意げになりもったいぶっていた。
この状況で自分の思うように会話するのは一苦労だった。
とにかく我慢、我慢。
周りが落ち着くまでベアトリスは食事して様子を窺った。
サラが一人一人ベアトリスに紹介する。
髪は長いが、体は一番小さいお嬢様風の子がグレイス。
おかっぱで、眼鏡をかけてクールにすましているのが、ケイト。
ショートヘアーにそばかすがある元気な子がレベッカ。
三人はベアトリスに気に入られたくて、よそ行きの笑顔を作っていた。
ベアトリスが、ニコッと愛想笑いを返せば、皆嬉しそうにキャーキャーと騒ぎ出したのには驚いた。
下級生のノリにはついていけないものがある。
しかし、年上で学年が一つ上なだけで、なぜちやほやされるのもわからない。
それを考えているうちに話の舵を取り損ね、サラが聞いてもいないことを次々話出した。
結局は何も知りたい事柄を聞きだせず、サラ一人の自己紹介で話が終わった。
しゃべるだけ喋った後で、次のクラスの準備があるからと四人は名残惜しそうにしながら席を去っていった。
ベアトリスは一人残され、じれったさから頭を掻き毟り、またバッドヘアーデーの祟りを再度確認すると、大きくため息が洩れた。
カフェテリアも気がつけば人がまばらになり、人が去って行った。
もう誰にも気兼ねがないと、黙々とヤケクソで残りの食べものを口に詰め込んでいた。
カフェテリアを出て、ベアトリスが見えなくなったところでサラが三人に念を押す。
「いい、このことは誰にも秘密よ。まだベアトリス様は何も知らない。余計なことは言わないように」
三人は頷く。
「だけど、今日のあの火災警報装置の誤作動だけど、あれベアトリス様を狙っての奴らの仕業じゃないの? ベアトリス様も力を解放されてるみたいだし、なんか危ないことにならないといいんだけど」
心配そうにグレイスが呟く。
長い髪を指でカールしながらいじっていた。
「グレイスは心配性で怖がりだもんね。でも私はベアトリス様にもっと近づきたい。危ないなんて言ってられないわ」
レベッカはチャンスとばかりに握りこぶしを目の前で作りながら気合を見せていた。
顔にも力を込めて、そばかすが鼻の中央に集まる勢いだった。
「レベッカは後先考えないで突っ走りすぎ。時にはよく考えてから行動しないと、後悔する事だってあるかもしれない。私はまず慎重に行動したいわ。ベアトリス様の周辺をまずはチェックしてからってところかしら」
ケイトは物静かに言った。
不意にきらりと光る眼鏡の反射が用心深さを表していた。。
「なんやかんや言っても、皆心の中では仲良くなりたいってことでしょう。それぞれ自分のやり方でアプローチすればいいんじゃないの。まあ私は皆より一歩先に進んでるけどね」
サラが好きにすればいいと他人事のように言った。
楽しそうに足取り軽く先に一人で歩いていく。
後ろで三人は優越感を帯びたサラの発言にむっとするものがあったが、サラに言い返す気持ちは起こらなかった。
一番短気なサラを怒らしても何の得にもならないと、呆れてお互いの顔を見合わせていた。
頭が働かず、寝ぼけてベッドから起き上がれない。
カーテンの隙間から陽光が差し込み、いつもの朝なのに、この日は何かが違う。
そう思った時、頭の一部分が熱を持つようにズキンと疼いていることに気が付いた。
そっと触れれば、盛り上がっているように感じ、さらに強く押さえ込めば痛さが増した。
頭がすぐに働かないせいで、暫く目をショボショボさせて、頭をさすっていた。
昨晩の事を思い出そうとしたその時、 突然炎に包まれたアメリアの映像がフラッシュした。
「あっ!」
布団を跳ね除け、部屋を飛び出る。
「アメリア、アメリア」と半狂乱に叫びちらしていると、居間から落ち着いた声が聞こえた。
スーツに身をまとったアメリアが、ソファーに座ってコーヒーを片手に新聞を読んでいた。
それはいつもの朝の光景の一つではあるが、ベアトリスには違和感だった。
「何、そんなに朝から騒いでるの。早く支度しないと学校に遅れるわよ」
「アメリア、水、水が燃えて……」
「何、寝ぼけてるの。変な夢でもみたの? 早くシャワー浴びて目を覚まさせなさい」
「夢? 夢を見た? あれが夢?」
ぼけっと立ってるベアトリスにアメリアは新聞から目を離さず、人差し指だけ壁に掛かった時計に向けた。
その時計の針が指す時間は、ベアトリスを現実へと簡単に引き戻した。
それと同時に、ベアトリスがバタバタと慌しくバスルームへ駆け込んだ。
暫くして家全体にシャワーを出す水の音が響き渡った。
アメリアはそのシャワーの音を聞き、何もかも洗い流してくれることを期待した。
バスルームに火が持ち込まれなかったことが不幸中の幸いだったと、再び胸をなでおろすのだった。
「もう少しでバスルームが火の海になるところだったわ」
アメリアはソファーから立ち上がる。
真相を聞きたがるベアトリスとこれ以上顔を合わせない方がいいと、ここはさっさと家を出ることにした。
夢で片付けば、何もかも上手くいくし、前日の事を誤魔化すにはもってこいだった。
時間が経てば経つほどベアトリスも夢と現実の境目があやふやになっていくことを見込んで、アメリアは仕事に向かった。
またいつもと変わらない日常にしなければならない。
だが、炎によって燃え尽きてしまったことでいつになく体がだるく、前日の思いがけない事故を引き起こした主犯者を恨んだ。
アメリアには事の真相の全てが分かっていた。
ベアトリスは勢いよく出るお湯を頭から受け、黒い紙、青白い炎、燃えるアメリアの映像を思い出していた。
夢で見たことを鮮明に思い出せることが、ベアトリスには不思議だった。
かといって、こんなことが現実に起こることもありえないと否定してしまう。
現にアメリアは何の問題もなくピンピンしていたし、やけどの跡も全くなかった。
「もう、一体なんなのよ」
シャンプーを取ろうと、手が無意識にいつもあるところを触ろうとするが、かすって手ごたえが得られない。
「あっ、そうだ。切れてたから新しいのを昨晩のうちにアメリアにお願いするはずだったのに、忘れてた。アメリア、シャンプーとって」
シャワーカーテンの端から顔を出し何度も叫ぶ。
だが仕事に出かけたアメリアは答えてくれるはずはなかった。
ただでさえ時間がないのにと焦り、ベタベタとぬれたまま、タ オルだけを巻いてバスルームの戸棚を空けてその辺を探す。
だがシャンプーは見つからない。
仕方がなく台所に向かい、食器洗い用洗剤を少量手に取った。
あわ立つものならなんとかなるだろうと、安易にそれで頭を洗ってみた。
しかしそれは髪には適してなかった。
後悔している暇もなく、このままでは学校に遅れてしまう。
ゆっくり髪を乾かすこともできず、アメリアが用意してくれたテーブルに並べられた朝食も食べずに、作ってくれた弁当も忘れ、最悪のコンディションで学校にかけこんだ。
「遅刻だ!」
幸いにもギリギリ学校に間に合ったが、慌てて飛び込んで教室に入ったベアトリスを見たクラスの数名の女子がクスクスと笑った。
「よくあんな格好で来られるわね」
誰かが呟いた。
これ見よがしに直接言いに来る者もいた。
「ねぇ、ベアトリス、今日のあんたの髪、最悪ね。笑える。あっ、そうそう、ジェニファーは今日休みなんだって。風邪気味だそうよ。残念ね。いつも三人で仲がいいのにね。今日はお一人? フフフ」
意地悪く、性格のきついアンバーだった。
言うことだけいうと、大きくウエーブがかかった肩までの金髪を当てつけるようにすくい上げ、ざまあみろと嬉しそうに笑って去っていった。
ベアトリスが一人の時は嫌悪感を露骨に表し、ジェニファーとヴィンセントが一緒のときは、見事に180度変わって、こんな態度はとらないのである。
なぜコロコロと態度が変わるのかというと、ジェニファーが居ないと、ヴィンセントもベアトリスには近づかないため、利用するメリットが全くなくなるからだった。
ジェニファーが側にいるから、ベアトリスはまともに相手にされる訳であり、そのバランスが崩れれば、アンバーのような表面だけの付き合いの人間は敵意を表す。
今に始まったことじゃなく、ベアトリスには慣れっこだった。
ジェニファーが側に居ない時は、仕方がないとあっさりと受け入れていた。
ヴィンセントもジェニファーが側に居なければ自分と一緒にいる理由はない。
だから、ジェニファーが休みの時はヴィンセントも休む事が度々あり、二人が休むと学校をサボってデートと噂されてしまうこともあった。
ヴィンセントとベアトリスが二人っきりになることは一度もなく、ジェニファーが居ない時は一人ぼっちになるのを割り切っていた。
しかし、この日は違った──。
「ベアトリス、その髪型ユニークだね。でも僕は嫌いじゃないよ。自然な野生児って感じで好きだな」
耳に心地いい声が響く。
「ヴィンセント! お、お、お、おはよう」
ジェニファーが側に居ないのに、ヴィンセントがやってきた。
いつになく嬉しそうに笑っている。
いや、おかしくてたまらない様子と言った方がいい。
ケラケラ笑うヴィンセントにベアトリスははっとして髪を両手で押さえた。
一体自分はどんな髪型をしているんだろう。
「ごめんごめん、君の髪を笑ってるわけじゃないんだ。今日は僕すごく気分がいいんだ。なんていうんだろう。ずっと願ってたことが叶ったっていうか、その……とにかく、こんな気分のいい日は思いっきり笑ったっていいだろう」
爽やかに笑うヴィンセントの笑顔。
これが自分に向けられたものだと思うと、ベアトリスはドキドキせずにはいられない。
頬が薄っすらと赤くなった。
しかし次の瞬間、さらに真っ赤にならざるを得なくなった。
「グルルルルルル」
ベアトリスの腹の虫が露骨に騒いでしまった。
「あれ、朝ごはん食べてこなかったの? あのアメリアが今日は朝食作ってくれなかったの? 規則正しい生活をしないと鉄拳が飛びそうなほどの人と一緒に住んでるのに、珍しいね。その髪型といい、今日は何かあったのかい?」
ヴィンセントがわざとらしく含みを帯びた言い方をした。
「あんもうー、やだ、恥ずかしい。実は昨晩からちょっと不思議なことがあって……」
ベアトリスが言い掛けると、聞きたいとばかりにヴィンセントは身を乗り出してきた。
だが、ふと考えれば、言ったところで信じてもらえず、益々笑われると思うと口をつぐんでしまった。
モジモジしていると、ヴィンセントはにたっと白い歯を見せて、より一層楽しそうに笑っていた。
こんなヴィンセントを見たことがない。
昨晩から何かがおかしくなってる。
これもあの夢かもわからない夢のせいなのだろうか。
ベアトリスが目を白黒して不思議そうにヴィンセントを見つめると、ヴィンセントはこの時とばかりウインクを返す。
息が止まりそうになった。
周りで女子たちが羨望の眼差しと嫉妬を向けている。
ベアトリスはそれに気が付かないはずがない。
我に返り、これが自分に釣り合わないことがわかってますよと体を小さくするのだった。
先生が現れたことで、各々に散らばっていた生徒達は慌てて机に向かい、いつもどおりの授業が始まった。
その後もヴィンセントは後ろの窓際に座るベアトリスをちらちら見る。
ベアトリスはヴィンセントの視線に授業どころではなかった。
一時間目が終わるや否や、ベアトリスはトイレへと駆け込んだ。
どんな髪型なのか気になって仕方がないのもあるが、ヴィンセントが側にくることで、クラスの女子に何か言われるのも嫌で逃げ込んだ。
ベアトリスが恐れてるのはジェニファーがいないことをいいことに、ヴィンセントを独り占めしてると思われることだった。
誰かが着色してジェニファーに必ず告げ口をする。
そこまで先が読めていた。
例え不利に語られたとしても、ジェニファーがそんな話を鵜呑みにするとも考えられなかった。
二人の友情はそんなものじゃないとベアトリスは信じていた。
それよりもここにある問題の方が今は重大だった。
トイレの鏡に映る自分に絶句してしまった。
「何、これ!」
叫ばずにはいられない。
シャンプー以外で髪を洗ってはいけないことを深く知らされた。
静電気を浴びたように跳ね上がり、使い古した箒のように、先が変な方向を向いてパサパサとはねている。
洗っているときも手がキシキシとして滑らかさが感じられなかったが、これほど酷いとは思わず、わなわなと恥ずかしさに震えていた。
ベアトリスが絶望感一杯で鏡を見ている時、ポニーテールの黒髪の下級生がモジモジしながら声を掛けようか背後で迷っていた。
勇気を出したのか、一歩前に出て声を振り絞った。
「あのぉ、マクレガーさんですか?パトリックの婚約者の……」
ベアトリスは自分の名前を呼ばれることより、パトリックの名前に反応して思いっきり力が入って振り向いた。
「ちょっと! どうしてパトリックのことを…… それに婚約者のことも。あなた一体誰?」
「やっぱりあなたがベアトリス様だったのね。そうじゃないかと思いながらもずっと光が感じられなかったから半信半疑でした。でもまさかこんなに近くにいらっしゃるなんて、なんという幸運でしょう。とうとう解禁されたんですね。おめでとうございます。私、サラと申します。初めてお会いしますが、ベアトリス様のお噂はよく存じております。あの時は本当にお気の毒で、ご両親の事故もダークライトが関わってると聞きました。絶対にに許せません。私で宜しければいつでもお力になります。是非何でも仰せ下さい。ベアトリス様のためなら……」
興奮して一人ペラペラと喋り、一向に終わる気配がない。
話が進めば進むほどベアトリスにはチンプンカンプンで、話が見えない会話に不快感だけが募っていく。
ただでさえ、髪の毛のことで機嫌が悪いのに、これ以上訳のわからないことを話されたらたまらないと一歩前に出て言葉をさえぎった。
「ちょっと待って、一体なんのことを話しているの。私には全くわからないの。なのにあなたは私のことを知っている。そして私の両親のことも。どういうことなの」
二人の距離が狭まると圧迫感が増した。
ベアトリスの苛立ちに、サラは、はっとして萎縮した。
「申し訳ございません。私、ですぎた真似をしました。ベアトリス様どうぞお許し下さい。私のことはどうかアメリア様にもお話にならないようにお願いします。私もここでベアトリス様とお会いし、お話したことは誰にもいいません。本当にごめんなさい」
サラは自分の失態に苛まれて、逃げるようにトイレを飛び出していった。
「ちょっと、待ってよ。なぜアメリアのことも知ってるの?」
後を追いかけようとしたが、鏡に映った自分の髪にまた目が向いた。
何かがおかしい。
先ほどまでの髪の恥ずかしさなど疾うになくなっていた。
怪訝な目で見つめ、そこに映る自分の存在を疑う。
「私の知らない私を知ってる人がいる。じゃあ私は誰?」
鏡に映る自分に問いかける。
鏡に映った自分が意思を持って答えるのではと思うくらい、そこに映った表情も険しく何かを言いたげに口元を震わせていた。
教室に戻ったとき、すでに次の授業は始まっていた。
「コホン」とわざとらしい咳払いを先生にされ、ベアトリスは遅れたことを謝罪した。
クスクスと意地悪な笑い声がしたが、ベアトリスの耳には届かなかった。
辱めようとしたのに、思った反応を得られず、からかっても面白くないと女子生徒達は肩をすぼませて残念がった。
それとは対照的に、ヴィンセントは一瞬でベアトリスの様子がおかしいことを読み取った。
まさかあいつらと接触して、余計なことを言われたのか。
自分の思惑通りに事が運ばない苛立ちで、唇をかみ締め、眉をしかめる。
授業中のクラスの中、動けないもどかしさから、足をガタガタと揺らしていた。
時間の経つのが遅く癪に障ると、教室の壁にかかってる時計を睨みつけた。
「くそっ!」と心の中で怒りを露にしたとき、ヴィンセントのヘーゼルナッツ色の瞳が突然赤褐色を帯びる。
その瞬間ヴィンセントがはっとした。
「しまった!」
そう思った時は手遅れだった。
ヴィンセントが頭を抱え込むと同時に、火災報知器がけたたましく鳴り出した。
「火事? それともただの訓練?」
生徒達が口々に言う。
教室内だけでなく、学校中が一斉に騒がしくなった。
「落ち着け、みんな。とにかく避難だ」
先生がそう言うと、生徒は一斉に立ち上がり、出口を目指す。
廊下が一瞬にして人で溢れかえった。
何が原因がわからぬまま、不安になる者、ただの訓練だとお気楽な者、ぶつかるなと喧嘩ごしになる者、ただ先生だけが冷静に指示を出し、事の真相を知ろうと隣のクラスの教師の様子を見に行った。
ベアトリスは生徒達が慌しく動き回る中、自分の気持ちを整理することができず、混乱していた。
まだ机に向かい髪を押さえたまま座り込んでいた。
「これがバッドヘアーデー」
髪の毛が上手く決められないと、その日一日何もかもうまく行かないということから人はそう呼ぶが、こんなにもめまぐるしい変化が起こるなんて、腹立ちまぎれにベアトリスは髪をぐしゃっと掴む。
クラスの生徒達は慌ただしく避難しているのに、それでもベアトリスは動こうとしなかった。
「何してるんだい。早く避難しよう。早く!」
いつも冷静で何事にも動じないヴィンセントが、酷く焦って取り乱し叫んでいた。
危機を感じていないベアトリスに、じれったいとヴィンセントは彼女の腕を取り強く引っ張った。
ベアトリスは一瞬ドキッとしたが、ヴィンセントの方が目を見開き、まるで感電したかのように体が小刻みに震えていた。
その時悲劇が起こった──。
ヴィンセントが突然喘ぎながら苦しみだしたのだ。
咄嗟にベアトリスの手を振り払い、床にうずくまる。
「えっ、ヴィンセント、大丈夫?」
教室は既に二人を残して空になっていた。助けを呼ぼうにも誰もいない。
ベアトリスはおろおろするしかなかった。
ヴィンセントを支えようと彼の肩に手を置いたとき、さらにヴィンセントは悲鳴をあげた。
咄嗟にベアトリスは手を離し、慄いた。
「ベアトリス、僕から離れろ」
ヴィンセントは何かを必死に抑えて歯を食いしばり耐えていた。
そのとき、煩く鳴り響いていた警報装置が突然止まった。
急に静けさが漂うと、教室に黒い人影が滑るように入ってきた。
「あっ、先生?」
ベアトリスが顔を上げたそこには、人の姿などなかった。黒い人影のみが、ゆらゆらとたゆたっていた。
それらがじりじりと近づいてくる。
そしてまた一体、また一体と、すっとどこからともなくどんどん数が増えていった。
今度は後ろにも現れ周りをすっかり取り囲まれてしまった。
ベアトリスは、息を飲み、目を見開く。
体が震えて、足が思うように動かない。
ヴィンセントはこの危機をなんとかしようと、足に力を込め、机によりかかりながら必死に立ち上がった。
前屈みのままベアトリスに背を向け、ふらつきながらも踏ん張った。
「ベアトリス僕が道を作る、だから走れ、早く逃げるんだ」
ヴィンセントがもてる限りの力を振り絞り、獣が怒り狂ったような雄叫びを出す。
右手を前に出した瞬間、エネルギーを吸い取るように、辺りの空間が歪み出 した。
そこに黒い影が引っ張られていった。
「ベアトリス、今だ、隙間を走り抜けるんだ」
「でも、私……」
ベアトリスは目の前の出来事に圧倒されて、咄嗟の判断ができなくなっていた。
ヴィンセントが焦り出す。
その焦りが一瞬の隙となり、一体の影がベアトリスめがけて飛び込んできた。
「キャー」と悲鳴を上げ、ベアトリスは咄嗟に避けようとバランスを崩し、床に尻餅をついてしまった。頭を抱え恐る恐る前を見たときだった。黒い影だったものが、恐ろしい形相の怪物となり、口を開け今にも飲み込もうと襲い掛かった。
「ベアトリス!」
ヴィンセントが叫んだその時、辺りが真っ赤に染まった。
もうそこは教室ではなかった。熱く、湿気を含みジメッとした不快感が纏わり付く。
まるで弾力性のあるゼリーに挟み込まれて押さえつけられているように、体は締め付けられ圧迫を感じた。
『シュッ』という音とともに風を感じ、目の前にいた怪物は切り裂かれ、ずたずたに影が散らばっていく。
それが消滅し、視界に遮るものがなくなったその先に、赤い目のキバをむき出すものがそこに立っていた。
体が怪しげに黒光りし、それがヴィンセントなのかベアトリスにはわからない。
それは人間の姿とはかけ離れた野獣に見えたからだった。
そしてその野獣は次々に黒い影を始末していく。
やがて最後の一体も消え、全てを退治した。
その野獣はベアトリスに背中を向け、首をうなだれる。
悔悟の念で肩を震わしていた。
ベアトリスはゆっくり立ち上がる。
事の真相を確かめたいが、恐ろしさで声をかけるのを躊躇ってしまった。
「ヴィン……セント……なの? あっ……」
やっとの思いで声を搾り出したが、この不快な環境で立ちくらみを起こし意識を失った。
崩れそうになったとき、ヴィンセントが走りより抱きかかえた。
その姿はベアトリスが見た野獣のままだった。
「ごめん。まさかこんなことになるとは思わなかった。全く浮かれすぎてたよ。本当にごめん」
ベアトリスを丁寧に床に置き、ヴィンセントは静かにその場を去った。
気がついたとき、ベアトリスは来賓客用の部屋の黒皮のソファーで横になっていた。
扱いに困って、適当にそこで寝かされていたようだった。
はっとして体を起こし、ソファーに座りなおした。
「あら、気がついたみたいね。大丈夫? どうする、このまま早退する?それとも授業に戻る? といってももうお昼前だけどね。ランチが先かしら」
スクールナースだった。
たおやかな笑顔をベアトリスに向け、隣に腰掛けた。
さりげなくベアトリスの腕を取り、脈を計っては、健康状態を気にしてくれている。
放心状態のベアトリスに、満面の笑みを添えて色々と体調について質問していた。
質問に答えるまでもなく体調は悪くないと自分でもわかっていた。
そんなことよりもただ気になったことは一つ。
ヴィンセントはどうなったの? ヴィンセントはどこ?
突然、取り乱すベアトリスに、落ち着いてとスクールナースが背中を優しく撫でた。
「何も恥ずかしがることないのよ。気を失ったのはあなただけだったけど、誰しも状況によってはパニックになるものよ。火災報知器の誤作動とはいえ、あの危険を知らせる音は、人間誰しも恐怖感を植え付けられるわ」
スクールナースのずれた答えが返ってくると、ベアトリスはうんざりしてしまった。
すくっと立ち上がり、丁寧にお礼を言うや否や廊下を走って教室に向かった。
ヴィンセントの無事を確認したい。それだけで頭が一杯だった。
教室のドアを勢い良く開けると、ベアトリスの登場に失笑が洩れた。
誤作動で気絶したことがクラスの笑いの種になっていた。
そんなことはどうでもよかった。
気になるのはヴィンセントのこと。
ベアトリスが心配して視線を向けるも、彼は何事もなかったかのように席について、しかも周りと一緒に静かに笑っている。
あまりのショックにベアトリスは無表情で、ただヴィンセントを見つめる。
ヴィンセントは決して目を合わすことはなかった。
教室内に変化はなく、黒い影もどこにもない。
あの不快に感じた赤いゼリーの空間はそのかけらも残さず、全てが何事もなかったように、いつもの光景がそこにあるだけだった。
また気絶して悪い夢をみたと片付けられる筋書き。
このあとは誰にも聞くこともできずに、自分だけで処理しなければならない展開。
「おい、ミス・マクレガー、授業を受けられるんだったら早く席につきなさい。みんなもからかうんじゃない」
先生はただ事務的にその場をやりすごした。
ベアトリスに視線を向け小声でひそひそ話をするものがいても、それ以上何も言わなかった。
ベアトリスは重い足取りで席に向かう。
そしてヴィンセントに再び一瞥を投げかける。
ヴィンセントは先生の話に耳を傾けノートを取っていた。
ベアトリスを無視してやり過ごしたものの、ペンを持つ手に力が入っていた。
授業が終わると、次はランチタイムだった。
ヴィンセントは逃げるように教室を誰よりも早く出て行く。
ベアトリスは納得がいかず、真相を聞きだしたいとすぐに追いかけた。
「あーら、ジェニファーに内緒でヴィンセントとランチデートでもしようと思ってるの? この身の程知らずが」
アンバーがベアトリスの腕を後ろから掴み、行く手を阻んだ。
がくっと体が前につんのめり、妨げられた苛立ちの反動で体の中の何かに引火した。
勢いよく振り返り、ベアトリスの唇がぶるぶる震え、怒りが露わになって行く。
アンバーの顔を睨み、手を振り払うと同時に、突然パッとフラッシュが光った。
その眩しさにアンバーは目をしょぼしょぼさせた。
ベアトリスも何が起こったかわからなかったが、今はそれどころではないと、ヴィ ンセントを追いかける。
廊下は人でごった返しになっている中、人と人の間にヴィンセントの姿が見え隠れしていた。
それをめがけて走ろうとするが、何度も道をふさがれた。
右、左と方向を変え、やっと人ごみを抜けた廊下の突き当たり、ヴィンセントが立ち止まっているのがみえた。
だがもう一人向かいに誰かがいた。
黒いスーツを着こなし、背の高い男性が鬼の形相になってヴィンセントを睨みつけている。
ヴィンセントは目を伏せ肩を落としていた。
「ヴィンセント!」
ベアトリスが呼ぶと、黒いスーツをきた男性が、驚きの眼差しを向けた。
ヴィンセントは咄嗟にベアトリスに背を向け、胸を押さえ込んだ。息が段々と荒くなっていた。
「ヴィンセント、聞きたいことがあるの。少しいい?」
黒いスーツを来た男性がヴィンセントを庇うように前に立った。
「お嬢さん……初め……まして」
どこか躊躇いながら挨拶をして、精一杯の笑顔を見せた。
その紳士も、ベアトリスを前にすると、何かを感じて少し後ずさるように警戒していた。
「あの……」
ベアトリスは言葉に詰まる。
「申し遅れました。私はリチャード・バトラー、ヴィンセントの父です。申し訳ないのですが、ヴィンセントの体の調子が優れなくて、迎えにきた次第です。私も仕事の合間を縫って来てるものですから、時間がないのでまた後日と言うことにして頂けませんか?」
ふとヴィンセントに視線を向けると、本当に息苦しそうにしていた。
「それでは、失礼します」
父親はこれ以上長居はできないと、ヴィンセントの肩に手を添えて二人はさっさと去っていった。
ベアトリスは視界から消えるまでその親子の後姿をずっと眺めていた。
その光景は一瞬忘れていた何かを思い出したような気にさせられた。
「あの親子……」
そう思ったとき、お腹の虫が最上級に鳴り響いた。
お腹を咄嗟に押さえ込む。
空腹だったことを今さら思い出した。それと引き換えに、一瞬頭に浮かびそうになった過去の記憶は消されてしまった。
ランチを忘れ、ジェニファーも側にいない。
こんなとき一人でカフェテリアで食事をするのは勇気がいった。
お弁当を持っていたら、教室の隅やあまり人が来ないところでぱっと済ませられたが、大勢の中に混じって一人で食べるのは何かを言われているのではと被害妄想に陥る。
だが、お腹が空ききっている今、本能には勝てなかった。
空腹と疲れを抱いて居たら、また全てを夢の出来事に変換させてしまう。
何が起こったか、頭を整理させるためにもまずは腹ごしらえからとベアトリスはカフェテリアへ向かった。
口にできるものなら何でもいい。
トレイを手にして、列につく。自分の好きなものを取るセルフサービス式なので、適当に食べ物を取り支払いを済ませ、空いている席を探した。
ガヤガヤとグループになって皆楽しそうに食べている。目立たない場所を選ぼうと探していると、そこに黒髪のポニーテールの女の子が友達とわいわいしながら食事をしている姿が目に入った。
朝出会ったサラだった。
トイレで話しかけられた言葉、それが自分自身の疑問を解くカギになるかもしれないと、ベアトリスは迷わず彼女に近づいた。
「サラ……だよね」
ベアトリスの声にサラが振り返る。
咄嗟に手を口にあて驚き、さっと席を立った。
「はい、ベアトリス様!私に御用でしょうか」
その声が大きく周りの注目を浴びて、ベアトリスは急に落ち着かなくなった。
「そんな大きな声を出さないで。それにベアトリス様なんて呼ばないで」
ベアトリスがあたふたしてる傍で、サラは全く気にもせず、どこか嬉しそうに胸をはっていた。
その周りで席についていたサラの友達は目を見開いて驚いていた。
「ベアトリス様もお食事ですか。良かったら私の隣に」
サラは隣に座っていた友達を気が利かないとばかり押しのけ、その椅子を提供した。
押しのけられた女の子も、どうぞとおどおどと手を差し伸べる。
こうなるとベアトリスは言われるままに腰掛けた。
テーブルにトレイを置く。
サラは得意げな顔をしてベアトリスの横に座った。
周りにいたサラの三人の友達はまじまじとベアトリスを見つめていた。
ベアトリスは居心地悪く、やけくそで開き直った。
「サラ、聞きたい事があるの。朝、私に話してくれたよね。あれってどういうことか詳しく聞きたいの」
「あっ、あの時は大変ご無礼をいたしました。あの、勝手にペラペラと喋りまして、本当に申し訳ございませんでした。私、その何も知らなかったので、つい」
サラは弁解に必死だった。
「だから、その話をまた聞きたいから……」
ベアトリスがそれはどうでもいいからと真相を聞きだそうとすると、邪魔が入った。
「ねぇ、サラ、私達のことも紹介してよ」
三人次々に喧しく言い出せば、サラは得意げになりもったいぶっていた。
この状況で自分の思うように会話するのは一苦労だった。
とにかく我慢、我慢。
周りが落ち着くまでベアトリスは食事して様子を窺った。
サラが一人一人ベアトリスに紹介する。
髪は長いが、体は一番小さいお嬢様風の子がグレイス。
おかっぱで、眼鏡をかけてクールにすましているのが、ケイト。
ショートヘアーにそばかすがある元気な子がレベッカ。
三人はベアトリスに気に入られたくて、よそ行きの笑顔を作っていた。
ベアトリスが、ニコッと愛想笑いを返せば、皆嬉しそうにキャーキャーと騒ぎ出したのには驚いた。
下級生のノリにはついていけないものがある。
しかし、年上で学年が一つ上なだけで、なぜちやほやされるのもわからない。
それを考えているうちに話の舵を取り損ね、サラが聞いてもいないことを次々話出した。
結局は何も知りたい事柄を聞きだせず、サラ一人の自己紹介で話が終わった。
しゃべるだけ喋った後で、次のクラスの準備があるからと四人は名残惜しそうにしながら席を去っていった。
ベアトリスは一人残され、じれったさから頭を掻き毟り、またバッドヘアーデーの祟りを再度確認すると、大きくため息が洩れた。
カフェテリアも気がつけば人がまばらになり、人が去って行った。
もう誰にも気兼ねがないと、黙々とヤケクソで残りの食べものを口に詰め込んでいた。
カフェテリアを出て、ベアトリスが見えなくなったところでサラが三人に念を押す。
「いい、このことは誰にも秘密よ。まだベアトリス様は何も知らない。余計なことは言わないように」
三人は頷く。
「だけど、今日のあの火災警報装置の誤作動だけど、あれベアトリス様を狙っての奴らの仕業じゃないの? ベアトリス様も力を解放されてるみたいだし、なんか危ないことにならないといいんだけど」
心配そうにグレイスが呟く。
長い髪を指でカールしながらいじっていた。
「グレイスは心配性で怖がりだもんね。でも私はベアトリス様にもっと近づきたい。危ないなんて言ってられないわ」
レベッカはチャンスとばかりに握りこぶしを目の前で作りながら気合を見せていた。
顔にも力を込めて、そばかすが鼻の中央に集まる勢いだった。
「レベッカは後先考えないで突っ走りすぎ。時にはよく考えてから行動しないと、後悔する事だってあるかもしれない。私はまず慎重に行動したいわ。ベアトリス様の周辺をまずはチェックしてからってところかしら」
ケイトは物静かに言った。
不意にきらりと光る眼鏡の反射が用心深さを表していた。。
「なんやかんや言っても、皆心の中では仲良くなりたいってことでしょう。それぞれ自分のやり方でアプローチすればいいんじゃないの。まあ私は皆より一歩先に進んでるけどね」
サラが好きにすればいいと他人事のように言った。
楽しそうに足取り軽く先に一人で歩いていく。
後ろで三人は優越感を帯びたサラの発言にむっとするものがあったが、サラに言い返す気持ちは起こらなかった。
一番短気なサラを怒らしても何の得にもならないと、呆れてお互いの顔を見合わせていた。