ベアトリスは、締め付けられるその腕に咄嗟に体の力が入ったが、恐怖に怯え震えているのは抱きついている腕の方だとわかると、抵抗せずに自分の体にもたせかけた。
「ちょっとどうしたの、パトリック」
「一人でこんな暗くなるまで外にいるなよ。心配するじゃないか」
「ちょっと大げさに心配しすぎだよ。でも早く帰らなかった私が悪いんだけど……」
 ベアトリスはその理由がパトリックにあると思うと、体を捩じらせてパトリックの腕から離れようとした。
 パトリックはお構いなしにさらにきつく抱きしめた。
「ちょっと、苦しいって。どうしたの? 何かに怯えている子供みたい」
 ベアトリスの言葉にはっとしてパトリックは一瞬にして手を離した。
「ごめん。ちょっと疲れてた。つい君に甘えてしまった」
 表情が暗かったのはこの暗闇のせいだけではなかった。いつものおどけたパトリックの前向きな明るさが言葉から感じられなかった。
「パトリック、その…… さっきもそうだけど体の調子は大丈夫?お腹が痛いとかもうない?」
「あっ、そ、それはもう大丈夫。でも今日は朝から君に会えて興奮しすぎて突っ走りすぎて疲れたよ。とにかく帰ろうか」
 二人は肩を並べて歩く。ベアトリスは時折パトリックの表情を見ては何かを思いつめてる感じを受けた。一人で背負おうとする責任感みたいなものが伝わってくる。
 パトリックが視線を感じ、ベアトリスを優しい眼差しで見つめると、精一杯の微笑みを浮かべた。それがベアトリスには重荷となった。素直に微笑を返せず、つい下を向いてしまった。そのまま家に着くまで二人は一言も話さなかった。

 一方、コールがホワイトライトを感知した場所に来たものの、そこには何も見当たらなかった。
 緩やかな丘が広がり、遠くの地平線にうっすらとした夕日の沈んだ後の消え行きそうな光が線を引いたように残り、すぐその上から闇が押し寄せてきていた。
 まばらに住宅街の光が小石をばらまいたように点々と遠くに見える。ここには周りは何もなく平野が続き、めったに人が歩いて来るような場所ではなかった。
 だがまだ何かを強く感じていた。
「これはどういうことだ。こんなにはっきりと近くで感知できるのに、なぜ見えぬ」
 その時コールは足元からホワイトライトの光を強く感じた。自分の足附近を見ると、そこには白い鳥の羽根がコールをあざ笑うかのように光を発していた。
 それを拾うと、顔を引き攣らせ握りつぶすように掴み、羽根はコールの手の中で焼けて消滅した。手を広げると燃え残った少量の灰が風に吹かれて飛んで行き、ホワイ トライトの気配も同時に消えた。
「くそっ、まるでホワイトライトに遊ばれてるようだ。俺に対する挑戦状か。それならば受けてやろう。お前を必ず捕まえてやるさ」
 コールは怒りで平野を暴走車のごとく駆け抜けると、焼け焦げた跡がついたように後ろに道が出来ていた。
 空気を切り込むように爪を立てて腕をスライドさせれば、地面は切り裂かれ、切られた芝生が宙を舞い踊っている。その威力は地平線の先まで届く勢いだった。見られていることを意識して力を見せつけていた。
 ゴードンの元に戻ると、機嫌の悪さをすぐにぶつけた。
 ゴードンはそれだけでホワイトライトの確保に失敗したと悟り、何も言わずにコールを連れて瞬間移動していた。
 その直後、頭からすっぽりと厚い布のベールを被った男が、霞が一点に集中して形を成すように徐々に姿を現した。顔全体は布が深く覆われてよく見えないが、口元は楽しむかのようにニヤリと笑っていた。
「あいつが、アメリアの言っていたコールか。リチャードもてこずる存在。面白い。それならばまずはお手並み拝見としよう。私が手を加えるのは最後の最後で充分」
 それだけ呟くとこの男もすっと消えてどこかへ行ってしまった。
 それは、ベアトリスとパトリックが買い物に出かけた後、ライトソルーションの入った壷を通してアメリアが話をしていた男だった。
 名前はブラム。
 髪は銀色に近いペールブロンドの長髪を持ち、すらっと背は高く、ハンサムというより芸術の域の美しい顔立ちをしていた。
 アメリアは襲われたことで危機を感じ、さらにコールの存在が驚異的となりベアトリスを守るためにブラムに助けを呼ばざるを得なくなった。
 しかしプライドの高いアメリアがこの男に頭を下げるのは余程の覚悟がいった。毛嫌いしているホワイトライトでもあり、頼れるのがこの男しかいないということが癪に障った。

「麗しのアメリア。怪我してるじゃないか。大丈夫かい。首のギプスが痛々しいよ。それの報告で私を呼び出したのかい? それでも嬉しいよ君の方から連絡をくれるなんて。いつもは私の方から一方通行の愛だったからね」
「余計なことは言わないの、ブラム。単刀直入に言うわ。ダークライトに襲われたの。そしてもっとやっかいな他のダークライトも現れた。名前はコール。この男か らベアトリスを守る手伝いをして欲しいの。お願い力を貸して。それにもし何かあればあなたにも都合が悪くなってしまうことになるし……」
「うーん、君の頼みなら仕方がない。いずれはこうなることも予測していた。いつまでも君とリチャードだけでベアトリスの存在を隠し通すことなどできないと思っていたよ。判った、地上に降りるよ。まずはコールがどんな奴か様子を見てから対策を練ろうとしよう。闇雲に動いても私が狙われるって事にもなりかねな い。私だって命は惜しい」
 アメリアは頼みごとをする立場で黙って聞いていたが、ブラムの軽々しくいう言い方には我慢できないものがあった。結局は自分の事しか考えてないのがよく伝わった。それはこの時に始まったことではなかった。
「ありがと」
 それでもアメリアは本来の感情を抑えて礼を言う。
「私を頼ってくれて嬉しいよ、アメリア。時には私の愛も受け入れて欲しい」
 ブラムは優しい潤った瞳でアメリアを見つめる。アメリアはこれ以上我慢できないと、顔をそらした。
「わかったわかった。ちょっと気持ちをぶつけすぎた。そんな資格がないこと充分承知しているよ。それじゃこれで失礼する。またこの件については連絡する」
「ちょっと、待って。この間も言ったけど最近ライトソルーションの量が少ないの。もう少し増やしてくれない」
「私もできるだけと思っているのだけど、何せ隠れてこそこそ送り込んでるから、自由にすぐには与えられない。なんとかしてみるがこれが現状なのも理解して欲しい」
「判ったわ。私の分をベアトリスにまわせばなんとかなる」
「それはだめだ、君も摂取しないといけない。ライトソルーションが全て体から抜けてしまえば、それに慣れきった君の体はやっかいなことになってしまう。一 度摂取すれば一生摂取しないといけない体だ。君はディムライトでもノンライトでもない、ホワイトライトとのハイブリッドだから、ライトソルーションなしではもう生きていけないはずだ」
「ホワイトライトのハイブリッド…… なりたくてなったんじゃないわ」
「ごめん、そういうつもりじゃなかった。君を心配してのことなんだ。わかって欲しい。私もできるだけ用意する。だから君も自分の体のことを気遣ってくれ。 君が動けなければベアトリスだって心配するはずだ」
「わかったわ」
 アメリアが渋々承諾すると、ブラムはにっこりと笑顔を残してその姿は消えた。アメリアはライトソルーションの壷を冷ややかな瞳で暫く見つめる。そしてベッドに戻り横になり、その日の午後はいろんなことを思いながらずっと寝ていた。
 アメリアはブラムとこうやっていつも連絡を取り合っていた。以前ベアトリスが部屋の外から聞いた声もブラムとの会話の最中だった。
 しかし、アメリアはブラムと会うといつも気が滅入ってしまっていた。
 自分で助けを請うたとはいえ、この時抱える問題にさらに重石が圧し掛かかってしまった。
 だがそれとは反対にブラムは、コールを挑発しゲーム開始の始まりを楽しもうとしている。やっと自分の出番が来たかと思ったように──。

 ベアトリスたちが家に戻ると、居間のソファーにアメリアは座って二人の帰りを待っていた。
 コーヒーテーブルの上には大きなピザの箱、紙皿、そしてナプキンが置かれていた。
 テレビも付けられ、これからカジュアルなパーティでも始まりそうな雰囲気だった。
「アメリア、起きてて大丈夫なの」
 ベアトリスが心配して近寄るとアメリアは腕を一杯に広げて優しくベアトリスを包み込んだ。
「私は大丈夫よ。それよりもあなたのことが心配」
 普段口やかましいアメリアとは違って、気弱さが感じられる。
 ──アメリアってこんなに華奢で、か細かったっけ?
 ケガのせいだけじゃなく、心身から弱ってる感じがベアトリスには伝わる。心配しすぎて神経が磨り減ってるようだった。
 それを誤魔化すようにアメリアは明るく振舞おうとしていた。
「さあ、さっきピザが届いたところなの。温かいうちに早く頂きましょう」
「アメリア、ここで食べるの? しかもテレビ観ながら?」
 行儀作法にはうるさいはずなのにと、ベアトリスは驚いた。
「あら、ピザって言うのはこういう風に食べるのがおいしいのよ、ねぇ、パトリック」
 パトリックは突然話を振られて返事になってない声を発し、その場を慌てて繕う。
「えっ、あっ、それじゃ、僕、飲み物を持ってきます。ベアトリスは座って先食べてて」
 パトリックは台所に入り、今一度まじまじとピッチャーを見詰め、そして一滴でも無駄にできないと震える手でレモネードをグラスに注いだ。
 コールとかなりの接近をしてからライトソルーションに過度の依存をしてしまう。慎重にそれを持ってベアトリ スの前に息を飲んで差し出した。
 ベアトリスは紙皿を抱えてピザに無邪気にぱくついてるところだった。
 そしてパトリックからグラスを差し出されると、ピザをテーブルに置き、グラスを手にとって「ありがとう」と軽く口をつけて飲んだ。
 アメリアもパトリックも、レモネードを飲むベアトリスを思わず凝視してしまった。
「えっ、どうしたの二人とも。私の顔になんかついてる?」
 刺すような二人の視線にベアトリスは怪訝な顔をした。パトリックは誤魔化すように笑い、視線をピザに移し、「おいしそう」と呟いて演技をする。
 それに合わせるようにアメリアも、「なかなかいけるわよここのピザ」と相槌をうっていた。
「テレビ、なんか面白いのやってないかな」
 パトリックがリモコンを手にしてチャンネルを次々変えていった。
 ぎこちない二人の様子にベアトリスは首を傾げ、手に持っていたレモネードを何気なしに見つめた。
「変なの」
 ベアトリスはまたレモネードに口をつける。二人はそれを横目で見ながらピザを頬張っていた。

 テレビの音をバックグラウンドにピザを囲んで三人は何気ない会話をしていたとき、交通事故のニュースが飛び込んできた。
 事故現場を目撃した証言が流れると、アメリアが怪訝な顔をし、パトリックが真剣にテレビの画面に釘付けになった。
 目撃証言に、二人の人影が突然現れ、そしてまた宙を飛ぶように消えたとあり、それが何を意味しているのかアメリアとパトリックには分かっていた。
「突然現れ消えた……」
 ベアトリスが言いかけると、その話題に触れまいとパトリックがすくっと立って話をそらす。
「あっ、そうだ、チョコレート買ってたんだ。デザートに皆で食べよう」
 パトリックは席を外し、チョコレートを取りに行った。
 ベアトリスはテレビから視線を離し、パトリックの姿を目で追った。また再びテレビを見るとすでに他の話題に変わっていた。
 何気なしに口から出た言葉だったが、深く考えることもなく、ベアトリスは再びその話題を話すことはなかった。
 パトリックが目の前にチョコレートの詰め合わせが入った箱を差し出すと、話は自然とそっちに流れた。
「いつの間にこんなの買ってたの。これ高いチョコレートじゃない」
 ベアトリスが珍しいものを見るような目をして言った。
「甘いものを見ると心が優しくなるような気がして、いつもベアトリスのこと思い出すんだ。君に会えなくて寂しいときはよく甘いもの口にしてたな。今日は君と再び会えた記念にとびっきり美味しいのを買ってみたんだ」
 パトリックは自分の気持ちを正直に言ってみたが、側にアメリアがいることに気がつくと、少し恥ずかしさがこみ上げはにかんだ。
 アメリアはここでも罪悪感を感じてしまった。パトリックもまた自分が影響を与えた被害者の一人だと思えてならなかった。
 パトリックそしてヴィンセントがベアトリスに思いを寄せる。アメリアは側で見ていて辛いものがあった。ベアトリスもどう答えを返していいかわからない表情も、三角関係に影響されて複雑な乙女心が垣間見れる。
 ──この危機を乗り越えたら、また心を鬼にしなければならない日が来る。ベアトリスを守るには仕方がない。
 アメリアは二人からベアトリスを遠ざけることを考えていた。それは二人の前から姿を消すことであった。それが自分の仕事と言い聞かせ、何かを新たに思う ときは癖のようにメガネの位置を事務的に整え、すくっとソファーから立ち上がる。
 パトリックには助けを請いながら、その後のことを考えるとさすがに良心の呵責を感じていた。嫌われることには慣れていると強がっていながら、逃げるように疲れたと自分の部屋に戻っていった。
 ベアトリスは心配の眼差しを向けていた。
「アメリア大丈夫かしら」
「ああ、大丈夫さ、あの人は鋼のように強い人だよ」
「私はそうは思わない。アメリアは無理をしている。本当は繊細な人なんだって、一緒に住めば住むほどよくわかってくる。私が重荷になってるんじゃないかって思うほどよ。だから私、高校卒業したら就職して一人で生きて行こうって思ってるんだ」
「それならいい就職先があるじゃないか、僕と……」
「その先は言わないで! 結婚は考えてないから」
「ちぇっ、考えてないって酷いな。婚約者なのに」
 ベアトリスは急に真剣な顔になり、パトリックに体を向けた。
「いい機会だから、正直に言うね、実は好きな人がいるの」
 ベアトリスはまっすぐパトリックを見つめたが、パトリックは慌てず慎重な顔をして聞いていた。
 暫く二人は沈黙してお互いの表情を眺めていた。
 ベアトリスはパトリックの出方を待っていたが、パトリックは一言も発しない。感情を一切出さずに黙ってベアトリスを見つめるだけだった。
 付けっぱなしのテレビから聞こえる音は、沈黙の二人に気を遣うことなく好き勝手に流れていた。
 ベアトリスは、パトリックの反応が得られないことに痺れを切らして、再び話し出した。
「ずっとその人のことが、好きだったの。最初は憧れてるだけだった。好きなのにその気持ちを抑えてて、とやかく言うこともなかったんだけど、やっぱり心は嘘はつけないって、本当に大好きなんだなって、ある日気がついた。そしたら、もう自分の気持ちが抑えられなくなって、叶わない恋だけど、でも彼を、この先も思い続けたいの。それが正直な気持ち」
 ベアトリスが様子を見ながら、途切れ途切れになって話しているのに対し、パトリックは余裕にも微笑んでいる。
「本当は知ってたんだ、君に好きな人がいるってこと。七年も離れていたんだ、この間に僕が知らないことがあっても仕方がない」
「パトリック…… それじゃ」
 ベアトリスの言葉をかき消すように、強くパトリックは主張する。
「僕は決して諦めないよ! だってベアトリスは僕を好きになるっていっただろ。それにそいつ、君に連絡して来たのかい?」
「そ、それは、ちょっと複雑な事情があってその」
「ほうら、相手は君のこと何も考えてないじゃないか」
「違うの! 今は自分でもうまく説明できないけど、彼に何か事情があって、私、その、なんていうか、真実が知りたいの」
「真実?」
 パトリックは少し訝しげになった。
「うん。気がかりなことがあるの。それを確かめて……」
 ベアトリスはその後の言葉に詰まる。
「確かめてどうするんだい」
「わかんない。事実を突き止めて自分がどうしたいか、考えてもみなかった」
「なんだよ、それ。それじゃただの片思いなだけじゃないか。恋に恋して自分にいいように考えてるだけの恋愛ごっこじゃないか」
「でも、好きになるってそういうことじゃないの。あれこれ考えて、自分の中で膨れていく。結局は先の事も考えられず、思いだけが先走ってしまう。それが恋だと思うの」
「僕もベアトリスに恋をしてるよ。その気持ちは痛いほど分かる。だけど僕がいいたいのは、相手が君の事を考えていたら、僕と同じ行動をしてるということだよ。そいつは君の事なんとも思っていないんじゃないかってこと。それにもし真実を知ったとき、君は、その相手を変わらず好きでいられるのかい?」
 パトリックはつくづく自分が意地悪だと自覚していた。ヴィンセントが自分と同じ行動をしているのは知っている。
 自分と同じ思いを抱いてることも知っている。
 そしてその真実が何かも知っている。
 それを全て分かっている上で、ベアトリスを試すように悪役になっていた。
「今はうまく言葉に表せないの。まともに相手とも話せないし、ただその真実を知らなくてはいけないって、自分の使命を感じるの。それがすごく大切なことのように思える。だからいつまでも私の心の中には彼がいるの!」
 ベアトリスは感情が高ぶり自分の想いを噴出した。これで自分の正直な心情が心置きなく吐き出せたと思った。言い切った清々しさを一瞬感じ、胸のつかえが取れた気分だった。
 だがパトリックは首を斜めに少し掲げて冷静に対応する。
「それで?」
「えっ?」
 パトリックの落ち着いた笑顔が予想外だった。まるでこの状況を喜んでいるようにしか見えなかった。
「だから君が何を言いたいかだよ。君の気持ちはわかったと言っておこう。だけど、僕の気持ちは変わらない。君はただ迷ってるだけだろ。想い人がいる、でもそんなときに僕が現れた。僕が側にいることで気持ちに変化が現れて、それを自分で筋道立てようと僕に話をした。心揺れ動くのが自分でも認められなくて罪悪感を感じたってところかな。今の言葉は自分で自分のために言い聞かせたってことだ。僕のために言った言葉じゃない」
「なっ、何をいうの」
「いいっていいって、慌てるところが、図星ってことさ。それが心というものだよ。僕が側にいることが心苦しくなったんだろ。ベアトリスの考えていることくらいわかるさ。君は純粋なんだよ。自分の気持ちの変化ですら罪深いと考えてしまう。でも僕は却って嬉しいよ。だってそれって、僕にもチャンスがあるってことだから。僕は君のこと諦めない」
 パトリックの穏やかで静かに見つめる瞳は、ベアトリスに心の中を見せているようだった。何があっても心はゆるぎなくベアトリスしか見ていないことを瞳に映している。
 ──この瞳。この瞳が私を惑わせるの。悔しいけどパトリックの言う通りかもしれない。私……
「ねえ、一つ聞いていい? どうしてそこまで私のことを想えるの。あんなに年月をおいても、子供のときからの気持ちをずっと持ち続けられるの。私、パトリックのこと忘れてたんだよ。今だって、昔と違って別人のようになってるのに、それなのにどうして」
「人を好きになるってなぜだと思う?」
 ベアトリスは逆に質問され、言葉に詰まり答えられないでいた。
「ほら、それが答えなんだよ。君は何もいえない。すなわち、明確な答えがないってわかってるんだよ。誰にも説明できない。自分でもわからない、なのに心は知ってるんだ。 僕の心に君が入り込んでから、僕は自分では説明できないのに、心は君を想い続ける。理由なんてないんだ」
「でも、私はそのあなたの気持ちに甘えたくないの。他の人を想いながら、パトリックの気持ちを受け入れるなんて私にはできない」
「やっぱり原因はそこか。いいんだよそれで。僕は少なからず君の心に少し入り込んだってことだね。嬉しいよ。そうやって気持ちをぶつけてくれて」
「パトリック、あなたに何を言ってもいつも前向きな答えしか返ってこない。だけど私……」
「じゃあこうしようっか。ちょっと待ってて」
 パトリックはソファーから立ち上がると、自分の部屋に行って何かを持ってきた。それをベアトリスの目の前に差し出した。
「それは、婚約証明書。これをどうするの」
 パトリックは突然それを二つに切り裂いた。ビリッという紙の音が耳の鼓膜に衝撃を与え震わした。突然のパトリックの行動にベアトリスは面食らって息を飲んだ。
「どうだい、すっきりした? 僕もこれで君に恋するただの片思いの男。こんなものがなくったって僕はいつだって本気だよ。さてと、僕も疲れちゃったからこれ片付けてもう寝ちゃっていいかな」
 パトリックは、コーヒーテーブルの上の食べ残しのピザや紙皿を片付け、台所に入った。ベアトリスは言葉をなくし、ただ呆然とソファに座っていた。
 パトリックが再び顔を出し「お休み」と笑顔であいさつする。
「おや……すみ」
 ベアトリスも返事を返したが、パトリックの予期せぬ行動に驚きすぎて放心状態になっていた。婚約証明書が破棄されて嬉しいはずなのに、そんなものに頼らずに自分の思いを真剣にぶつけてくるパトリックの本気に押されていた。
 ──パトリック、やっぱりあなたって人は予測不可能。それって私はこの先も振り回されるってことなの?
「パトリック・マコーミック…… 」
 ベアトリスは小さくその名前を呟いていた。

 パトリックは部屋に入り、ふぅーと息をつく。先ほど破った婚約証明書はまだ手元に残っていた。だがゴミ箱には捨てられず、破られたまま机の引き 出しに突っ込んだ。
 ベッドにごろんと横になり、頭の下で手を組む。
 天井を見つめながら、この日のことを振り返っていた。七年振りのベアトリスとの再会で得たものは喜びだけじゃなかった。ずっとこの日を待ち望みハッピーエンドを想像していただけに、幾つもの試練と苦しさの幕開けにかなり参ってしまった。
「でも僕は負けないよ。負けるわけにはいかないんだ。ダークライトにも、そしてヴィンセントにも」
 パトリックは心を奮い立たせようと机に飾っていた子供の頃の写真に目をやった。
「今度は僕がベアトリスを助けるんだ。そして幸せにするんだ。あの時の事故が意味するもの、それを理解して守ってあげられるのは僕しかいない。だけど今日は疲れた」
 視界がぼやけ瞼はあっさりと閉じて、パトリックはそのままいとも簡単に眠りについてしまった。

 ベアトリスはソファーに一人残され、テレビのリモコンをいじって、観たい番組があるわけでもないのに、チャンネルをため息混じりに次々変えていた。
 チャンネルを変えるのと同じように、心も一定のものを映し出す安定感がなかった。
 ミステリー番組が映し出されると、そのとき手元が止まった。
 説明がつかない超常現象が、人々の体験を通じて再現されている番組だった。ある程度誇張されているが、それが嘘だと決め付けられない。
 本来なら誰にも信じてもらえない話。だけどこの時、ベアトリスはミステリー番組が自分のドキュメンタリーに見えてしまった。
 暗闇の中で人間じゃない何かに追いかけられて襲われるシーン。それがあの時の事と重なる。
「私はあの時、襲われそうになった。それをあの野獣が助けてくれた。あれがもしヴィンセントだとしたら、私はその事実を確かめたときどうしたいのだろう」
 独り言を呟けば、パトリックの質問が頭でこだまする。
『もし真実を知ったとき君はその相手を変わらず好きでいられるのかい?』
 ベアトリスは目を瞑り、ヴィンセントの顔を思い描いていた。
 笑顔、クールな瞳、ドキッとさせられたウィンク、真剣な面持ち。
 色々と彼の表情が浮かぶ。そして突然浮かんだヴィンセントの恐ろしい表情──。
 物置部屋で二人で過ごしたときにヴィンセントが見せたあの獲物を捕らえるような何かにとり憑いた目を思い出すと、ベアトリスの胸は突然スイッチを入れられたようにざわめいた。
「あの時、ヴィンセントが別人に見えたんだ。だけど……」
 はっとすると同時に、ヴィンセントが突然我を忘れてベアトリスに近づいたあの瞬間、慌てることもなく、怖がることもなく、ベアトリスの心はどうすべきかもうすでに答えを知っていたと気がついた。
「私、あの時逃げないって、ヴィンセントはいつだって私の知ってるヴィンセントなんだって、自ら飛び込んだんだ。あのとき心がそうさせた。自分でも不思議なくらい落ち着いた感情が押し寄せて、胸がとても熱くなって、そして私はヴィンセントの全てを受け入れた。なぜだか説明はできない。でも心はどうすべきかすでに判っていた」
 ベアトリスは胸に手を当てる。
 頭で考えなくとも、その時真実が目の前に現れれば、自分の心は答えを出す。
 だからその真実を必ず見つけなければならない。ヴィンセントは正体を隠さなければならない何かを抱えていると思うと共に、救えるのは自分しかいないという感情がどこからか無意識に芽生えていた。
 その気持ちが芽生えると同時に、ベアトリスは難問に答えて正解を得たような表情になっていた。
 テレビのリモコンの電源を切る指に力が入る。テレビの画面が消えたとき心の迷いも一緒に吹き飛んでいた。
「言葉では説明できない。だけど心は知っている。そう、私の心はどうすべきか判っている」
 その思いはどうすべきか導きを示すように、ベアトリスの表情を明るくした。弾むようにソファーから立ち上がり、更なるリフレッシュ を求めてベアトリスはお風呂に入ろうとバスルームに向かった。
 夜は更けて行く。
 静かな闇の中、全てのものが眠りにつこうとしているとき、風が急に吹きだした。この日はまだこれで終わりではないと何者かの登場を待ち構えていた。
 ベアトリスは熱いシャワーを浴びながら、泡たっぷりにまみれて頭を洗っていた。
 その頃、パトリックはすでに軽くいびきを掻き夢の中にいた。
 アメリアもベッドの中で本を読んでいたが、疲れて眼鏡をはずし、目頭を抑えこむ。軽く欠伸がでた後は、そのままベッドの中に潜りこんでいった。
 外はすでに寝静まり、ストリートは各家から洩れる少しの電気の明かりに照らされ、薄暗さの中ぼやっと見える程度だった。
 その暗闇の中、人のシルエットを形どったものがぼやけた光を発しながら現れた。
 ゆっくりと歩き、ベアトリスの家の前で立ち止まると、暫く動かずじっとしていた。

 同じ頃、コールは頭に血が上り、発散するかのように飛びながら素早い動きで色んな場所を走り続けていた。
 ホワイトライトの捕獲に失敗し、ゴードンに連れられ、瞬間移動でなんとか拠点に戻ってきたものの、屈辱で怒りが収まらず、勢いで外に飛び出してしまったのだった。
「コール、あまり変なことしないでよ。リチャードに怪しまれるよ」
 ゴードンの言葉など聞く耳持たず、好き勝手に暴れていた。

 星がところどころ雲に覆われ、姿を消したり出したりしている。その雲は生き物のように形を変え空を滑るように流れていく。強い風がそうさせていた。
 その風に長い髪をなびかせて、まだベアトリスの家の前に人影は静かに立っていた。
 ベアトリスはその時、髪を洗い終わり、ボディーソープをスポンジにたっぷりつけて今度は体を泡まみれにしていた。そしてふと手が止まった。
「ん?」
 何かを感じ、シャワーカーテンをずらしてバスルームを見渡した。
「誰も居るわけないか。なんか人の気配がしたけど気のせいか。まさかパトリックが覗きってことないよね」
 そんなことはありえないと、その時は笑って鼻歌交じりにまた体を洗いだした。
 最後の仕上げに再び熱いシャワーを浴びた。勢いよく出るお湯が体に心地よく、マッサージを受けてる気分だった。暫くそのまま目を閉じて水圧の刺激を楽しんでいた。
 そしてその時コールも、ピタッと動きが止まった。目を閉じて神経を研ぎ澄まし一定方向に集中すると鋭い目つきになり、先ほどよりも数倍の速さで駆け巡った。
 外の風が止んだとき、家の前に立っていた人影は姿をすっと消した。次にその人影が現れたのはシャワーカーテンを挟んだベアトリスの前だった。
 ベアトリスは何も知らず、お湯が激しくほとばしるシャワーを浴びている。その人影は、カーテンの向こう側にいるベアトリスのシルエットを、ただ静かに見ていた。
 ベアトリスがお湯を止めたときだった。急に人の気配を強く感じ、シャワーカーテンの方に目をやると黒っぽい人影が目に飛び込んだ。
 ──うそ、誰か居る。まさかパトリック。
 ベアトリスはカーテンの端を持ち怖い気持ちを抱きながらも、勢いつけて顔だけ出した。
 だがそこには何もいなかった。
「あれっ、やっぱり気のせいか。なんかさっきから変な感覚を感じる。でもバスルームのカギは閉めてるし、誰も入れるわけないか」
 パトリックがいるだけで過敏になりすぎて、変な気の回し過ぎだと済ませた。
 だが人影は次にアメリアの部屋に現れた。アメリアが寝ているのをいいことに、手を伸ばし首元のあたりに掲げると、優しい乳白色の光がぼわっとにじみ出だした。
 アメリアはそれに反応して目を覚ました。
「ん? ブラム! 今何時だと思ってるの、それに勝手に入り込むなんて失礼じゃないの」
 体を慌てて起こす。
「助けを求めたのはそっちだろう。折角地上に降りてきたんだ、もっと歓迎してくれてもよさそうなのに。やっとまたこうやって会えたんだから」
「いつも会ってるじゃない」
「あれはホログラムで、実際の私の姿ではない」
「あっ、それよりブラム。ベールをつけてないじゃない。ダークライトが気づいたらどうするの」
「大丈夫だって。長居はしないから。君の首のことが気になったから寄ってみたんだ。ちょっと手を加えといたよ。そのギプス外しても大丈夫だ。それじゃ目的は果たせたから今日はこれで帰るとしよう。またね、愛しのアメリア」
 ブラムはあっさりと姿を消した。アメリアは呆れたようにため息を一つ吐いた。そしてギプスに手をかけそっと外し、首を左右にゆっくり回してみた。
 ブラムの言ったとおりすっかり治っていた。ブラムの行為に素直になれない思いは、ため息になって現れた。
 ふてくされたようにまたベッドに潜り体を横に向けると、何かを抱きつくように体を丸める。目をぎゅっと瞑りながら肩を震わせていた。まつ毛はその時ぬれて光っていた。

 コールは加速をつけ、風そのものになっていた。だが突然危険を察知して急ブレーキをかけたように町の一角で止まった。
「これは、ダークライトのテリトリー。リチャードか! くそっ! 迂闊に近寄れない。しかし……なるほどそういうことか。リチャードに俺の動きを封じさせるための罠か。一度ならず二度までも俺をバカにしやがって」
 コールの煮えくる怒りはもう少しで正気を失わせるところだった。噴火しそうなほどの怒りを抱きながら、踵を翻す。ここでは暴れることもできない苛立ちが脳天までふっ飛ばしそうに、顔を恐ろしいほどに歪めて元来た道を戻っていった。
「作戦を立てなければならない。必ずこの礼はさせてもらう」
 コールのホワイトライトに対する執着は何倍にも膨れ上がった。

 ベアトリスは髪をタオルで挟みながら、念入りに水分をとっていた。先ほど見た黒い影をまだ気にしていた。
「パトリックを疑う訳ではないけれど、どうも引っかかる」
 ベアトリスはバスルームから出てパトリックの部屋に向かった。
 明かりがドアの隙間から洩れている。そしていびきが聞こえてきた。
「やだ、電気つけたまま寝てるじゃない。やっぱりさっきのはパトリックじゃなかったんだ。自分の見間違いか。疑って悪かったかも」
 ベアトリスはそっとドアを開けた。覗きをしているようで後ろめたかったが、電気を消すために仕方がないと、顔を引き攣らせて中を覗いた。
 パトリックは着替えもせずに、ベッドの上に大の字になっていた。そのベッドの隣のスタンドが赤々と電気がついたままだった。
 音を立てまいとそっと部屋に入り込み、パトリックの寝てる姿を見ないように背を向けて、スタンドのつまみに手を伸ばした。それを回せば電気が消えるはずだった。
 しかし回すときカチャリと音がすると、驚いた声が同時に聞こえた。
「わぁ、ベアトリス、何してんだこんなところで」
 突然パトリックが目を覚ましてベッドからバネのように体を起こした。ベアトリスは毛が逆立つほど驚いて振り返り、手をバタバタとあたふたしていた。言葉が出てこない。
 ベアトリスのパジャマ姿とぬれた髪、本能をそそられるようにパトリックはドギマギしている。
「そ、そんな格好で僕の前に現れたら、僕どうしていいかわからないじゃないか。それともまさか僕の寝込みを襲いに」
 ベアトリスは思いっきり首をブンブンと横に振った。
「ご、誤解しないで、電気がついてて、そのいびきかいてて、だから」
 ベアトリス自身、何言ってるかわからなかった。
 パトリックは笑い出した。
「参ったよ、そんなに僕のことが気になってたなんて」
「だから違うって言ってるでしょ! でも、ずっと寝てたの? 寝たふりとかしてないよね」
 ベアトリスはここまで言われて逆切れしてしまった。その反動でバスルームに来たことを隠すためにわざといびきをかいたフリをしてたのではとまた疑ってしまう。
「なんだよ、そんなに怒らなくてもいいじゃないか。勝手に君から現れておいて。ああ、すっかり寝てたから、物音で目が冷めてびっくりしたんだよ。気づいていたらこんなにびっくりしないよ。ほら僕の心臓ドキドキしてるよ」
 パトリックはベアトリスの手を引っ張って、ベッドに引き寄せた。その力は強く、ベアトリスはパトリックの胸元に倒れるように覆いかぶさった。
「なっ、すごいスピードで動いているだろう」
 パトリックの厚い胸板の上でベアトリスは抱きかかえられていた。
「わかったから、離して」
 今度はベアトリスの心臓がドキドキしだした。
「嫌だ。離したくない。君が悪いんだ。そんな格好でこんなところにくるから。僕抑えられないじゃないか」
「もうやめてよ、また冗談なんだから」
「僕は本気だよ」
 パトリックのその言葉に驚きすぎて、ベアトリスは固まって動けなくなる。
「でも、安心して、何もしないから。暫くこのままでいさせて。とても心安らぐよ」
 パトリックの腕の中は温かだった。
 ベアトリスは判断を失いパトリックに抱かれるままになっていた。
「ちぇっ、今頃になって腹が減っちまった」
 ヴィンセントは台所に入り、何か食べるものはないかと辺りを見回す。
 広い台所では、調理台がアイランドのように台所の真ん中に設置されている。調理側の反対はそこで食事ができるように足の長いスツールの椅子 も二つ置かれていた。
 ヴィンセントは調理台の上を唖然として見つめた。
「親父の奴、夕飯に何作ったんだ。包丁とまな板とレタスが半分に切れてそのまま置いてあるだけじゃないか。また事件かどうか知らないが、慌ててどこかへ出かけちまいやがった。これを俺に食えってか。他になんかないのか」

 大きな冷蔵庫のドアを開けば中はスカスカで、それでも食べられるものはないかじっと見ていた。
 そして赤ピーマンを掴むと、後ろを振り向いて咄嗟に投げた。
「誰だ! そこにいるのは」
 赤ピーマンは何もない空間で払いのけられた。
「さすが、リチャードの息子。良く気がついたな」
 徐々にベールを被った男の姿が光の粒が集まるように現れる。
「お前はブラム。こんなところに何のようだ」
 ブラムは頭のフードを外すと、ニヤリと微笑を浮かべた。
「地上界に降りたので、リチャードに挨拶しにきた。だが彼は留守なようだ。ヴィンセントだったな。お前に会うのも久しぶりだ。まだ心はベアトリスに支配されてるのか」
「どういう意味だ」
「お前の母親が息を引き取った日。お前は悲しみから自分を抑えられなくて、感情を高ぶらせてしまった。そのとき、側にいたベアトリスがお前の心に入り込みホワイトライトの力でお前の感情を吸収した。その力を極力浴びたお前はベアトリスに心を支配されたということさ」
「あれは支配なんかじゃない。彼女は必死で俺を助けてくれたんだ。人から聞いた話を元に勝手に内容を作り変えるな」
「同じことさ。ホワイトライトが心の中に入り込み直接語りかけ、そして心を奪うように何もかも吸収する。我々には支配するということさ」
「違う。俺はそれ以前からもう彼女のことが好きだった。それが一層強くなっただけだ」
「まあ理由はどうであれ、そのせいでベアトリスは眠っていたホワイトライトの力を目覚めさせてしまった。彼女はその力を使うことは許されず、本人も知らずに封印されていた。あのまま知らなければ、時と共にあの力は自然と消滅するはずだった。あともう少しで消滅だったというのに、封印はその前に解けてしまった。 一度あの力を得るともう二度と封印できない。そして彼女は我々の世界にも戻ることはできない」
「ああ、俺のせいだよ。ベアトリスの人生を狂わせたのは全部俺のせいだ。そんなことをわざわざ言うためにやってきたのか」
「いや、そうではない。コールとか言う、力を持つダークライトが動き出したからリチャードに用があってやってきた」
 ヴィンセントはその原因も自分にあると思うと言葉につまった。
 ブラムは何もかもお見通しのように、鼻で小さくくすっと笑って話を続けた。
「そいつがベアトリスを狙うとまずいんでね。奴の狙いはライフクリスタルだ。あれがダークライトの手に渡れば、大変なことになるからね。そして私にも責任重大だ」
 ヴィンセントは責任を感じ、下を向きながら曇った小声で救いを求めるように声を発する。
「俺にも何かできることはないのか」
「愛する人を守りたいってところか。でもお前の出る幕はないようだ。ほらこれを見るがいい」
 ブラムは手を広げて宙を撫ぜるような仕草をした。そこだけ光がぼわっと浮き出ると、スクリーンに映し出されるように、映像が浮かび上がった。
 ヴィンセントは一瞬にして頭に血が上り目を見開いた。醜い嫉妬がこみ上げて、拳を握り震えている。
 そこにはベッドの上で、パトリックがベアトリスを抱いている姿が映し出されていた。
 ブラムは、あまりのタイミングの良さに口笛を思わず一吹きした。
「少々刺激が強すぎるようだな。だがベアトリスはパトリックが守っているということだ」
 ヴィンセントは顔を真っ青にしながら、立ってるのがやっとの思いでふらついていた。
「相当ショックを受けたみたいだね。すまなかった」
 謝っている割にはブラムの顔は意地悪く笑っている。ヴィンセントを虐めて楽しんでいた。
 映像は次第にフェードアウトしていった。
「おっと、変な感情をもって、ダークライトの力でパトリックを殺すなよ。そんなことするんだったら、正々堂々とパトリックと勝負してベアトリスを手に入れ るがいい。だが、お前には不利な条件が揃いすぎているけどね」
 ヴィンセントの正気は埋もれようとしていた。また感情の渦がうねりを上げて暴れている。ヴィンセントは必死に耐えながらハアハアと呼吸が荒くなると、目の色がじわりと赤褐色を帯び出した。
「ヴィンセント、このままではお前は感情を吐き出してしまいそうだ。そんなことされては私も困る。この辺一体が爆発して死者でも出たら、私は責任はとりたくないからね。どうだろう、お詫びと言っちゃなんだが、一度だけベアトリスと過ごせるように手助けをしよう。あのシールドがあっても近づけるようにしてやろう」
 ブラムはヴィンセントの目の前にクリスタルの小瓶を出した。ひし形を形取りトップに尖った蓋がついている。中の液体がダイヤモンドの輝きのように見る角度を変えるとキラキラと光を発していた。
 その光を見たヴィンセントの瞳は徐々に元の色に戻っていった。落ち着きを取り戻し、ヴィンセントはその小瓶に釘付けになった。
「これはライトソルーションで作ったポーションだ。これを飲めば、ダークライトの気配を隠し、お前はシールドからはじかれない。ベアトリスに思う存分近づけて、触れることもできる」
 ヴィンセントはその小瓶を戸惑いの目で眺めていた。
「どうした、いらないのか」
 ブラムの言葉にはっとして、ヴィンセントはおどおどとそれに手を伸ばし掴んだ。
「但し、使い方は、必ず朝日を浴びて飲むこと。そして効き目は日没までとなっている。ダークライトのお前が一度それを使用すると、次回からはどんなにお前に与えても、二度と効き目がなくなる。たった一度きりのチャンスだ。よく考えて使うんだな。それじゃ、リチャードも居ないことだし、また出直すとしよう」
 ブラムは含み笑いを浮かべながら消えていった。
 先ほど見た映像がヴィンセントの記憶に焼き付いてしまった。必死に逃れようと救いを求めて力強くポーションの小瓶を握りしめる。
 期待する欲望の炎が点火する。しかしチャンスは一度だけ──。
 ヴィンセントはブラムにもてあそばれているような気分にさせられた。弱みを握られ弄られる悔しさがこみ上げながらも、目の前の欲望を満たしてくれるポーションに素直に尻尾を振る自分がいた。
「俺も落ちぶれたものだ」
 プライドも捨て、なりふり構わずにポーションの煌く光に蝕まれていくようだった。

 ベアトリスはパトリックに抱かれているのをヴィンセントに見られていたとも知らず、抱かれるままにパトリックの胸の温もりと鼓動の響きを感じていた。
 自分のことをこんなにも思ってくれてる。しかしそれに応えられない。この状況でも自分を見失うことなく落ち着き、心ははっきりと答えを出していた。
 パトリックの抱きしめていた腕の力が弱くなったとき、突然ベアトリスの顔が自分の意思とは関係なく上を向いた。パトリックがベアトリスの顎を指で支えていた。
 パトリックはベアトリスの瞳をじっと見つめ、そして目を閉じ近づく。
 ベアトリスは咄嗟のことに震え出した。お互いの唇が重なり合う寸前、震えは強くなり、パトリックの目を覚まさせた。彼ははっとして目をぱっと開き、失敗を認める歪んだ顔つきを見せ、ベアトリスを自分の腕から解放して首をうなだれた。
「ごめん、ベアトリス。こんな状況では、ただの男になってしまう。頭ではわかっても感情は抑えられないや。僕スケベだし。僕の気が変わらないうちに、早く部屋から出たほうがいい。そうじゃないとほんとに狼になっちまう」
 パトリックは苦笑いをしていた。
 しかしパトリックの正直に気持ちを述べる言葉は、ベアトリスには憎めなかった。何もなかったように振舞おうと背筋を伸ばし立ち上がった。
「パトリック、謝るのは私の方よ。ごめんなさい。勝手に入ってしまった私が悪いの。でもこれからは寝るときは電気消してよ」
 何も言わずただ首を縦に振ってパトリックは笑っていた。
 ベアトリスは静かに部屋を後にした。ゆっくりとドアを閉めると、ふっと吐き出す息と共に力が抜けた。
 パトリックは電気を消し、くすぶる感情にイライラさせられながら枕を抱きかかええると同時に、寸前で理性を取り戻してよかったと胸をなでおろしていた。一度ならぬ二度までもと、自分で自分の頭を殴っていた。

 そしてこの日もう一人、頭を悩ませるものがいた。
 リチャードは夕飯の支度中、同僚から事故の連絡が入り、慌てて現場に駆けつけていた。自分の担当する地区ではないが、不思議な要素が含まれる事件は些細なことでも連絡をして欲しいと仲間に告げていた。
 事故もまた、目撃証言から得た『突然目の前に二人現れて空中で消えた』という言葉のために連絡を受けていた。
 事故現場でリチャードはダークライトの残留を感じようと感覚を研ぎ澄ます。強い気をもつ者は去った後でも多少の存在をリチャードは感じられた。この時、ほんの微量のダークライトの気を感じていた。
「やはりそうか。コールは動き出した。そして仲間がいる。瞬時に移動できるもの……ゴードンか。奴はゴードンを利用してホワイトライトを見つけようとしている。きっと罠も仕掛けているに違いない。なるほど、これでわかった。アメリアを襲ったのもゴードンという訳か」
 リチャードは車に乗り込み、おもむろに町中を走り出した。鋭い眼差しを至る所に向けた。そして赤く滲んだレーザー光線を絡ませたような気の糸を見つけると、スナップでパチンと指を鳴らし、指先から出た青白い炎で焼き尽くしていった。
「こんなことをしても、全部は把握しきれず、いたちごっこになるのは判っているが、ゴードンがこの事に気づくには時間を要するだろう。その間に少しでも危険を回避しなければ」
 リチャードはベアトリスの行動範囲と人が集まりそうな場所を検討しながら一つ一つ罠がないか確認していった。
 そして夜も更け、疲れも出てくるとリチャードは作業を切り上げようとした。家路に向かってるときだった。針を突き刺されたような危険信号を、突然肌で感じとった。
 素早く車の向きを変更すると血相を変え車を走らせた。そこは自分のテリトリーでもあり、ベアトリスの住んでる住宅街附近だった。
「コールが近づいた。なぜあそこがわかった。偶然にしてはおかしい」
 テリトリーといっても、すぐ側まで近づかなければそれはわからないようにしていた。安易に縄張りを主張すれば、却って怪しまれてしまう。
 そしてあの附近にはいくつもそういった場所をカムフラージュで作っていたにも関わらず、そこに引っかからずに一番知られたくないテリトリーが最初に見つかったことが腑に落ちない。
 リチャードがそこへついたときは、コールの姿はどこにもなかった。だが残留の気は残っていた。
「奴はいずれ本格的に動く。これはその奴からの挑戦状なのか。それとも一体何を意味している」
 リチャードはいつもになく動揺していた。
 ブラムが気まぐれに動いたことで、ベアトリス、パトリック、アメリア、ヴィンセント、コールそしてリチャードまでもがこの金曜の夜に心乱されていた。
 ブラムはそれを知ってか知らずか星空の下、広い草原の中で真紅のバラを一本夜空に投げ飛ばした。
「この赤いバラはベアトリス、君に捧げよう。まだ何も知らぬ君。だがそのうち真相から君に近づいていくことだろう。その時は覚悟してくれたまえ……本当に君には誰もが魅了されるよ。この私でさえも」
 空を見上げるブラムの微笑は夜空の星の輝きで憂いを帯びたように見えた。ブラムはこれからの成り行きを見守るように星に願いを込めた。
 かき乱された心を整理するように、それぞれの週末は羽目を外すことも、目立った事件が起こることも、全くない静かなものの様に思われた。
 だがそれは表面的なもので、確実にそれぞれの思惑はその下で渦を巻いていた。
 コールはホワイトライトの挑発に爆発し、リチャードにも正面からぶち当たる覚悟を決めた。そうでもしないと隠れてこそこそ罠を張るだけではホワイトライトなど捕まえることはできないと判断したからだった。
 油断した時を狙う奇襲作戦を企み、それを実行に移す本気の構えを見せ始めた。
 リチャードは仕事仲間からの情報はもちろん、力の弱いダークライトたちに接触してコールの動きを探っていた。同じダークライトにつくならどっちが得か、コールに気をつけろと暗黙で自分の力を見せ付けていた。
 アメリアは首の痛みも取れ、心配するベアトリスを押しのけ、仕事の遅れを取り戻すために休日出勤に出かけた。何かをしなければ、色々なことで心が押しつぶされそうになっていた。
 パトリックはベアトリスとの適度な距離を保とうと、一人で出かけては頭を冷やしていた。そして同時にダークライトによる不穏な動きはないかデバイスを片手に注意を払っていた。
 ヴィンセントはポーションを見つめ、カレンダーと朝日を浴びることができるこの先の天気予報をチェックしていた。確実にベアトリスに近づける日を検討し、その時のためにどうすべきなのか今後の対策を練っていた。
 そして、中心人物のベアトリスは誰も居ない家で、スナックを片手にテレビを観て呑気に過ごしていた。自分が原因で周りがそれぞれの思惑で動いているなど知る由もなかった。

 週末が明けた月曜日、どんよりとした曇り空で肌寒かったが、ヴィンセントとジェニファーのことを考えると、心も晴れなかった。
 学校が崩壊した後の登校は、あまり気が進まない。
 混乱が続くのに、また一人ぼっちが心細かった。
「待って、ベアトリス。僕が車で送ってってあげるよ」
 パトリックが後ろから叫んだ。
「いいよ、歩いていくのも運動なんだ」
 パトリックはそれならと一緒に歩いていくことにした。
 断ってもどうせついてくるだろうとベアトリスは好きにさせた。だが、一緒に歩いてくれる人がいると幾分心が落ち着いた。
 二人して肩を並べて学校に向かう。スクールバスが行きかい、子供達が自分の学校目指して歩いている光景が目に入る。朝は通学ラッシュだった。
「本来なら、僕も高校生で、こうやって学校に通っているところだったんだな」
 パトリックはそれが楽しいことのようにしみじみと語った。
「その若さで大学まで卒業しちゃってるし、先を急ぎすぎだよ。だけどそれだけパトリックは優秀だったんだね。尊敬する」
「違うよ、ただ無理をして急ぎすぎただけなんだ。本当はとても苦しかった。だけど僕はそうすることで自分を奮い起こしてる部分があった。勉強は自分だけ一生懸命やればいいと思っていたけど、学校生活は全く楽しくなかったよ。周りは全部年上で、僕のこといいように思ってなかったから友達なんて一人もできなかった」
「普通に通ってる私だって、あまり学校生活楽しくないかも。私も友達あんまりいないし……。学校ではどこか誰かに変なこと言われてそうで、といっても実際言われてるんだけどね。だからいつもおどおどしてしまう」
「ベアトリスらしくないな。昔の君なら、知らない人にでも声を掛けて、すぐに友達になっては皆から愛されていたのに。でもここでの暮らしが君に合ってないだけなんだよ。それは君のせいじゃないと思う」
「私のせいじゃない? まるで何か他に原因があるみたいな言い方ね」
 ベアトリスはパトリックの無茶な慰め方に笑ってしまった。パトリックはうまく言えないもどかしさを抱え、言葉を選んで説明する。
「ああ、君は特別な人なんだよ。変な虫がつかないようにするには、最初から人が寄ってこない方がいいんだ。だから寄せ付けちゃいけないオーラが身を守るために出ているだけさ」
「えっ、それって、私には自然に嫌われるオーラが出てるみたい。いくらパトリックが慰めようとしてくれても、なんだか余計に落ち込んじゃうな」
「あっ、そういう意味じゃなくて……ごめん。だけど、そんなこと気にせずに、学生生活は自分のやりたいこと思いっきりやるといい。周りがなんと言おうと、強く自分を信じてごらん。君はなんだってできるんだよ。時にはアメリアの言うことなんか無視する勢いでさ」
 パトリックの言葉はベアトリスの胸に光が差し込むように届く。少し勇気が湧いて自然と顔がほころんでいた。
「ありがとう。なんだか今日一日頑張れそうな気がする」
 学校の門の前まで来ると、パトリックはまた後でと手を振り、ベアトリスが校舎に入るまで見送った。
「ねぇねぇ、プロムの相手見つかった?」
 パトリックが女子生徒の会話をすれ違いに耳にした。
「一緒に行きたい人がいるけど、今探りいれてるところ。そういうあんたは」
「私は多分うまく行きそう」
 キャッキャという黄色い笑い声と共に、女子生徒達は校舎へ向かっていた。
「プロムか」
 パトリックは小さく呟いて元来た道を戻っていった。

 学校内はほんの数日で、ガラスが全て新しいものに入れ替わっていた。しかし教室内はまだ完全には元通りになったとは言いがたく、隅々には壊れたものの破片が残り、荒れた雰囲気はそのままだった。
 ベアトリスはパトリックがくれた勇気を抱いて、教室内へと足を踏み入れた。
 ジェニファーがアンバーと黒板の前で楽しそうに話している姿が目に入った。ベアトリスはできるだけ平常心を装い、いつも通り振舞うがジェニファーがベアトリスの存在に気がつくと露骨に無視をした。
 ベアトリスは仕方がないと黙って自分の席に座る。
 話をする友達も居ないとわかっていたので、時間を潰すために予め本を持参していた。それを取り出し、読み始めた。
 これなら誰にも迷惑はかけず、本という世界に入り込んで暫しの孤独も紛れる。考えた末に用意したものの、いざ学校で本を読もうとしても自分の置かれてる立場が心に大きく影響して全く頭に入ってこない。
 それでも、教室では疎外感を感じこれを乗り越えるには読んでるフリをするしかなかった。
 そしてヴィンセントの席に目がいった。まだ彼は来ていない。彼の席を見つめながら頬を手で押さえ机の上で肘をついていた。
 その様子を遠くからジェニファーは憎悪の感情を抱き睨んでいた。
「ジェニファー、どうしたの。表情が怖いわよ。いつものあなたらしくない」
 アンバーに指摘されて、ジェニファーは一瞬はっとしたが、自分を取り戻したとき体の中から何かが暴れる感覚を覚えた。挑発されるような押さえられない感情がくすぶっているようだった。
 それはベアトリスを見ると波が押し寄せるように表面に出てくる。ジェニファーはベアトリスの存在を無視しようと必死に見ないようにし た。
 クラスが始まるギリギリの時間にヴィンセントが教室に入ってきた。ベアトリスはその姿にドキッとしてしまう。
 思わず目を伏せたが、首を横に振り、自分の 立てた仮説を抱きながら勇気を振り絞りヴィンセントを見ていた。
 ヴィンセントは無表情で、誰とも接触する気を見せず、ただ前を向いて席に着いた。ジェニファーがチラチラと様子を伺っていたが、ヴィンセントはもう言い訳しようとも近づこうとも、ジェニファーを見ることすらしなかった。
 ジェニファーはそれが気に入らず、目を細めきつい表情になっていた。
 先生が教室に入ってくると生徒の心のケアーを兼ねて、その日のクラスの一時間目は変更されてホームルームとなった。
 それは表向きで教室の片づけをさせられた。それが終わると自習となり、まだすんなりと授業再開とまではいかなかった。
 生徒達は好き勝手にグループを作り、話し込んだりしていた。ベアトリスは一人ポツンと教室の隅で本を読む。ページはいつまでも変わらず同じところを開いていた。
 ヴィンセントもまた誰も近寄せることもなく、一人で焦点も合わさずポケットに手を突っ込んでだらけて座っていた。
 そして昼休みになると、各自昼ごはんを求めて教室を出て行った。ヴィンセントもその一人だった。
 生徒がまばらになった教室で、ベアトリスは一人本を読むフリをしながら食事をしていた。そこにベアトリスを呼ぶ声がした。
 声のする方向を見ると、ドア附近でレベッカとケイトが手を振っていた。ベアトリスは席を立ち上がり、二人に近寄った。
「どうしたの、二人ともこんなところまで」
「これを渡してくれってたのまれて」
 レベッカが四つ折にされた紙を差し出した。ベアトリスはきょとんとしてそれを受け取った。
「それじゃちゃんと渡したからね」
 ケイトが早口で言うと、二人は逃げるように去っていった。辺りを気にしながら何かに怯えているようだった。
「変な二人」
 ベアトリスが席に戻ってその紙を広げて驚いた。
 ヴィンセントからだった。
 心臓がドキドキと大きな音を立てて、息が速くなる。ごくりと唾を飲み込み、震える手でその手紙を読んだ。


 親愛なるベアトリス

 君とジェニファーが仲たがいをしてから、僕は君に安易に近づけなくなった。
 僕が君に近づけばもっと君たちの仲を複雑にしてしまうと考えたからだ。
 教室内では適度の距離を保ってしまうけど、僕はいつも君の事を考えている。
 君に迷惑をかけてすまないと思ってる。
 今度ゆっくりと二人だけで君と話がしたい。
 その時はまた僕と一緒に授業をさぼってくれるかい?
 また連絡する。

 ヴィンセント

 
 ベアトリスは手紙を抱きしめる。水面のように目が潤んでいた。ヴィンセントが自分のことを考えていてくれたことが感激するほど嬉しくてたまらなかった。
 ベアトリスは飛び上がりたいほどの感情を抱え、一人で浮かれていた。
 そこへジェニファーが教室へ戻ってきた。
 ベアトリスが一人でも笑顔で楽しそうに座っている姿が気に食わない。
 足が自然にベアトリスの方へ向かい、殴り飛ばしたいほどの感情が湧いて、殴りかかるために本当に拳に力を込めていた。
 ベアトリスはジェニファーが近づいてることにも気がつかず、ヴィンセントの手紙ばかりうっとりと見つめていた。
 ジェニファーがベアトリスに近づこうとしたその時、ジェニファーの体が沸騰しそうなほど熱く煮えたぎった。苦しくて呼吸困難に陥ると、我に返り後ずさった。
 教室内に生徒が次々と帰ってくる。ジェニファーはそれに紛れて自分の席に戻っていった。
 ヴィンセントが戻ってくると、ベアトリスはすぐに彼を目で追った。
 ヴィンセントも何が起こってるかわかっているのか、ベアトリスの顔を見なかったが、少し口元を上向きにしていた。
 ベアトリスはそれだけで自分にサインを送っていると感じ取った。
 しかしそれをジェニファーも目を光らせて見ていた。体の中で何かが今すぐ暴れろと指示を出す。それに葛藤するかのように胸を押さえていた。
 ジェニファーは人目のつくクラスの中だと自制し、まだこの時はなんとか感情を制御できていた。
 その日のクラスが全て終わると、ベアトリスは一日が無事に終わったことにほっとして、ふうっと息が自然に洩れた。
 何よりも、ヴィンセントから手紙を貰って頬が緩む。
 ベアトリスも会って聞きたいことは山ほどあった。自分が立てた仮説の真実を突き止めたい気持ちも忘れてはいなかった。
 だが、またヴィンセントと話ができると思うと、仮説や真実などもうどうでもよくなるくらい舞い上がって浮かれていた。
 真剣に考え、悩んでいたことを忘れるほどヴィンセントからの連絡は一瞬にして全てを吹き飛ばし、自分に都合がいいようにしか受け取れなかった。
 ベアトリスは帰り支度をしているヴィンセントをそっと見つめた。
 その時ヴィンセントが振り返り、その瞳はベアトリスを優しく捉えていた。
 ベアトリスも目を逸らすことなくその視線を受け入れた。
 するとヴィンセントの口が動いた。
 『またあとで』
 そしてヴィンセントはさっさと教室から出て行った。
 ほんの1、2秒の出来事だったが、ベアトリスは泣きたくなるくらい嬉しく、暫く席から立てなかった。いや、余韻を楽しんでいただけなのかもしれない。心はヴィンセントで一杯だった。
 どれくらいの時間が経ったのか感覚もつかめず、気がつけばベアトリスはクラスに一人ポツンと取り残されたように座っていた。
 いい加減、家に帰ろうと席を立ったときだった、ジェニファーが走って教室に戻ってきた。ベアトリスに気づくと、体に力を入れゆっくりと自分の席に向かい、置き忘れていたカーディガンを手にした。
 ベアトリスは息を飲むように緊張しながら声をかけるべきか思案していた。
 だが、ジェニファーは突然ベアトリスにキーっと突き刺すような視線を向け、人が変わったようになった。
「ジェニファー、私、あの」
 ベアトリスは何を言っていいのかわからず、ただ声をかけてその場を繕うとしていた。でもなぜか肌にさすような危機を感じる。まるでジェニファーが自分に飛び掛って襲いそうな気がしていた。
 ジェニファーは一歩一歩ベアトリスに近づいていた。緊迫した空気が漂い、ベアトリスは追い詰められた小動物のようにジェニファーの気迫に負けて後ろずさった。
 突然ジェニファーの息が荒く苦しそうに喘ぎ出し、胸を押さえて前かがみになるとそこに留まりながら顔を下に向けて歯を食いしばっていた。
「ジェニファー、どうしたの。大丈夫?」
 ベアトリスの声に反応した瞬間、顔をさっとあげ、野犬が歯をむき出しにして唸るような表情を向ける。
 異常な程に怒りをぶつける目、そして敵意をむき出しにした歪んだ表情に、ベアトリスはぎょっとした。まるで狂犬病に犯された犬を見ているようだった。
「ジェニファー?」
 ベアトリスは心配のあまり近づく。ジェニファーは体にたいまつを振られたように後ろにのけぞった。
 その時、話し声が教室に近づいてきた。誰かが来る。ドア附近でその音ははっきり耳に届いた。
「あ、いたいた」
 パトリックの声だった。
側にはサラが一緒にいた。ベアトリスを迎えに来て門の外で待っていたパトリックに声を掛け、案内してきたようだった。
 パトリックは気軽に教室に足を踏み入れるや否や、デバイスのアラームが小さく音を立て、それに反応して一瞬にして緊張した。
「ベアトリス!」
 ディバイスを手に持ち、素早い動きでベアトリスの前に立ちふさがった。ジェニファーに挑むようにデバイスを武器のように胸元で見せ付けた。
 しかしすぐ怪訝な顔になった。
 ──おかしい、彼女はダークライトではない。だがどういうことだ。
 ジェニファーはまたはっと正気に戻り、状況を飲み込めないまま、小走りに去っていく。ドア附近でサラとぶつかりそうになり逃げるように教室を出て行った。
「大丈夫か、ベアトリス」
 パトリックは振り向くと同時に、手に持っていたデバイスを慌てて隠すようにまたジーンズのポケットにしまいこんだ。
 ベアトリスは信じられないとでも言いたげに呆然としていた。
「今の子はなんなんだ? かなりベアトリスに敵意を抱いていたように見えたけど。まさかいじめられてたのか」
 ベアトリスはあの状況をまともに説明することもできず言葉を失っていた。
「彼女は、ベアトリスの親友のジェニファーでしょ」
 サラが口を挟んだ。
「親友? あれが? そうは見えなかったぜ」
「元親友って言った方がいいのかな。ちょっと三角関係でややこしくなっちゃったんだよね」
 サラは余計なことを言い出した。
「三角関係? どういうことだ?」
 パトリックの質問にサラは知ってる範囲で答えた。そしてそこにヴィンセントという名前をしっかりいれてパトリックの反応を伺った。
 ベアトリスがヴィンセントと一緒に授業をサボり、ヴィンセントに思いを寄せるジェニファーがそれを気に入らなくて怒ってることをまるで自分が見たことのようにサラは話した。
「サラ、やめて。それにどうしてあなたがそんなこと知ってるの」
 ベアトリスは部外者の口から言われることにショックを受け、肩を震わす。
 パトリックも、以前聞いたヴィンセントの話と照らし合わせて、あの時抱いた感情をまた蘇らせていた。
「ご、ごめんなさい。でしゃばって。でも学校ではかなり噂になってたから」
 ベアトリスの反応よりも、パトリックが顔を引き攣らせているのをみて、サラは慌てて自分を庇うように弁解した。
 ベアトリスは顔を歪まして首を横に振り、否定したい気持ちを抱えつつ、学校で笑いものになる程、自分達の出来事が広まっていると再確認させられた。
「サラ、お願い、私の話を人にはしないで。これは私の問題なの。パトリックも鵜呑みにしないで。さあ、もう帰ろう」
 ベアトリスは帰り支度をして、教室を出ると二人も無言でついていった。
 校舎を出るとサラが気を取り直して明るく話しかけた。
「あの、よかったら、一緒にアイスクリーム食べにいかない?」
「ごめん、今そんな気分じゃないんだ。また今度ね。でもパトリック、折角だからサラと行って来れば?」
 ベアトリスの言葉にサラは敏感に反応した。もしかしてと淡い期待を抱く。
「いや、君を置いて行ける訳がないだろう」
 あっさりと断られ、サラはがっかりすると共に、ベアトリスを睨んでいた。ジェニファーもきっとこんな感じだったのだろうと思うと、ジェニファーの気持ちが容易に理解できた。
 帰る方向が違うサラは名残惜しそうにパトリックの顔を見ながら、バイバイと手を振って去っていった。何度も後ろを振り返りながら、パトリックの後ろ姿を寂しげに見ていた。

「わざわざ、迎えに来てくれなくてもよかったのに」
 ベアトリスがポツリと言った。
「ちょっと用事で近くまで来たら、ちょうど学校終わる時間だったから」
「見え透いた嘘を」
 パトリックはつっこまれて笑っていたが、学校の中でも危険が迫る状況に不安を抱いて、覇気のない笑いになっていた。
 ダークライトでもないただのノンライトが、嫉妬や憎しみだけでディバイスが危険を察知するほどの力を出すのが信じられないでいた。
「ベアトリス、さっきの女の子だけど、なんだかかなりベアトリスのことを嫌ってそうだった」
「うん……」
 ベアトリスは曖昧な返事をした。
 かつては親友であり、つねに優しかったジェニファー。原因は自分にあるとしても、あそこまでジェニファーが変わってしまうのはとても衝撃的だった。もちろんその要因はコールが偶然仕込んだ影とジェニファーの元々抱いていたベアトリスを憎む気持ちのせいだが、それを知らないベアトリスはこの先どうしていい のか途方に暮れていた。
 そしてサラが自分の話を口にしたことで、学校で噂になるほど人の関心を集めていることも拍車をかける。
 ヴィンセントから貰った手紙を思い出すと、自分だけ浮かれていたことに罪悪感を覚え、それが間違いであるかのように感情が萎んでいく。
 ジェニファーも苦しんでいると思うと、自分だけこそこそと ヴィンセントと接触するのを躊躇いだした。何より、人目についたときの周りの目も気になってしまう。必ず何か言われるのが目に見えていた。
 ──このままではずっと最悪のままだ。どうすればいいんだろう。
 朝からどんよりした曇り空だったが、その時、白いものがこぼれるように空から降ってきた。
「うわぁ、雹が降って来た」
 パトリックがベアトリスの肩に手を回し、早く歩くように示唆した。それと同時に雹からベアトリスを守ろうとしている。素直に頼りたくなるほど、彼の手は優しく頼もしかった。
 ──一体自分は何を求めてるんだろう。あれだけ心に迷いはないといいつつ、またパトリックを頼っている。
 ベアトリスはもつれるような足取りになりながら早足で歩いていた。
 はっきりしないベアトリスに喝をいれるかのように一筋の光が突き刺すと、雷が苛立つ剣幕で轟音を落とす。
 ベアトリスは体を収縮させ怯えた。パトリックは笑い声と共に大丈夫だともっと強く肩を抱き寄せる。
 雷の怖さと、心の弱さでパトリックに助けを求めるようにベアトリスは抱きついてしまった。
「ご、ごめん。ついそこに抱きつくものがあったから」
 すぐにパトリックから手を離す。
「なんだよそれ、電信柱でもよかったような言い方。遠慮なく僕を頼ってくれていいんだぜ。そのために僕はここにいるんだから。さあとにかく急ごう」
  雹は勢いをつけ、全ての物に八つ当たりするように叩きつけてきた。
 二人は歩いてられないと、街路地に植えてあった木の下に身を寄せる。
 パトリックは雹から庇うようにしっかりとベアトリスを胸の中に収めていた。
 ベアトリスは落ち着いて、抱かれるままにぼんやりと雹をみていた。無数の白い粒が、建物の屋根に当たり、滑るように転がり落ち地面ではねている。じっとみてると生き物のような動きに見えてきた。こぼれた白いビーズは辺りをあっという間に白くした。
 雨でもない雪でもない氷の塊。どっちにもなりきれずに無数の苛立ちをぶちまけてるように見える。空から行き場のない思いが雹となって降り注ぐ光景は自分の心と重なっていた。
 ジェニファーが見せた行動はベアトリスを不安に陥れると同時に、ヴィンセントに簡単に近づくなと警告されてるようにも感じる。
 ヴィンセントと接触すれば、ジェニファーを傷つけ、人々はまた好き勝手に噂し、そしてそれに自分も苦しくなっていった。そこまでして思いを貫いていいものだろう かとまた迷い出した。
 中途半端な気持ちで覚悟を決められないまま、その思いをぶつければこの雹と同じになってしまう。雨や雪と違って、雹は当たれば傷つけるように痛い。
「そういえば、昔、グレープフルーツくらいの大きさの雹が降ったって聞いた事がある。あれはかなりの被害が出たそうだ。こんな小さな粒でも歩けないくらい迷惑だよな。雹は突然降ると困るからね。ちょっと冷えてきたようだけど、ベアトリス寒くないかい?」
 パトリックは温めようと力を入れて抱きしめた。全てのことから守ろうとしてくれる気持ちが伝わってくる。ベアトリスの心に降り注ぐ雹がとけていくような気がした。
「パトリックのお陰で暖かい。ありがとう」
 ベアトリスは目を閉じた。そしてパトリックの体に腕を回して抱きついた。
「また何かに怯えて、僕は電信柱かい?」
「ううん、違う。パトリックの優しさが嬉しくて、それに対してのお礼」
「お礼か。悪くないよ」
 ベアトリスはパトリックのことを少し考えた。気持ちを受け入れられずに否定ばかりしていたが、パトリックが気遣ってくれることに対してまだ感謝の気持ちを表していない。素直に感謝の気持ちだけは表現したかった。
 だが、この時、もしも自分がパトリックを受け入れたらどうなるのだろうという疑問も軽はずみに抱いてしまった。
「ベアトリス、雹が止んだよ」
 ベアトリスはパトリックの言葉ではっとすると、彼から離れ、頭に浮かんだ言葉をかき消すように先を急いで歩き出した。
 あたり一面の氷の粒は歩くと同時にバリバリと音を立てる。自分の心を踏んでいるような気がして、優柔不断な自分に腹を立てさらに雹を踏み潰す。
  ヴィンセントを思う気持ちには嘘はつけない。しかしその想いを抱けば抱くほど、窮地に追いやられていくようだった。
──ヴィンセントの真実を知ったとき、きっと後に引けない何かが待っていると思う。そしてそれが自分にとっていいことなのか悪いことなのか今は判らない。 想いを貫いてまでそれを知るべきなんだろうか。それとも気づかないフリをしてそっとしておくべきことなんだろうか。
 迷いながら、注意を払わずに歩いてるときだった。四つ角交差点のストリートを渡りかけたとき、右折してきたバイクが雹にタイヤを取られて滑るように ベアトリスに突っ込んだ。
 重いものが叩きつけられる音が鈍く響いた。
「ベアトリス!」
 パトリックの悲痛の叫びが轟いたとき、ベアトリスは何が起こったかわからなかった。
 突然ふわりと宙に浮いた感覚を覚え、目に飛び込んだ景色は絵の具が入り乱れあったパレットのように混ざり合ってぐるぐる していた。
 どーんと体が衝撃を感じると、闇にじわりと飲み込まれていくようだった。
 誰かが抱えて名前を呼んでいる。そこには泣きそうな顔をしている人の姿がぼやけて見えた。
 それは実際パトリックだったが、ベアトリスには誰だかわからないほど意識が遠のいていた。しかし、そこで記憶がフラッシュした。
 ──あれ、前にもこんなことがあった。
 同じように目に涙を溜めて自分の名前を呼ぶ誰かがそれと重なる。ぼんやりとした記憶が見せたその誰かはまだ幼い少年に見えた。その顔に見覚えがあると認識したとき、ベアトリスは谷底へすとんと落ちるように意識がなくなった。
 遠くから救急車のサイレンが聞こえ、四つ角交差点辺りに居た人たちは一点を見つめたまま動かなかった。

 その次の日の朝は雲一つない空が広がった。
 ヴィンセントは裏庭で朝日を浴びながら腕を伸ばして、深呼吸をしていた。中身が入っていない小瓶を片手に握りながら ──。
 ヴィンセントが朝食を求めて台所に入ると、リチャードが出来立てのコーヒーをカップに注いでいるところだった。
 それをヴィンセントは横から奪った。
「おいおい、ヴィンセント、今朝は早く起きたと思ったら、珍しくコーヒーを飲むのか。しかもそのシャツ、アイロン使っていやにピシッとして、気取ってるじゃないか。なんかいつもと違うぞ」
「いいじゃないか、別に」
 いつもと違うのは見かけだけじゃないとリチャードは首を傾げた。ダークライトの気が感じられない。
「体の調子でも悪いんじゃないのか」
「すこぶるいいよ。こんな気分のいい日は久しぶりさ」
 ヴィンセントはコーヒーを口に含んだ。ほろ苦さが口いっぱいに広がる。
『チャンスは一度だけ』
 その言葉と一緒に飲み込んだ。
──俺は真実を隠しながら、ベアトリスにどこまで想いを伝えることができるだろう。
 ヴィンセントは残りのコーヒーも飲み込むが、変化を求めるように一生懸命無理して飲み干してるようだった。
 リチャードは何も言わず、その様子を見守っていた。

 ヴィンセントは張り切って学校へ向かった。学校の近くまで来ると、深く息を吸い込み、これからのことを案じた。
 ふと道行く人の会話が耳に入る。
「あそこの交差点で昨日、事故があったんだって。バイクで女の子がはねられたんだって」
「へぇ、その子、どうしちゃったの」
「意識不明の重体だって噂だよ」
「お気の毒に」
 それを聞いてヴィンセントも同じ言葉が頭によぎった。
 それよりも自分のことで頭が一杯だった。事故の真相も知らずにベアトリスのことを思いながら挑むように学校へ出陣していった。
 教室に入り、ベアトリスの笑顔を求めて彼女の机をすぐに見る。
 ちょうどジェニファーがタンポポを小さな花瓶に入れてベアトリスの机に飾っているのが目に入り、ヴィンセントは眉をしかめた。
「何の真似だ、ジェニファー」
 ヴィンセントが思わず走りよった。
「あら、知らないの、昨日ベアトリスったらバイクにはねられて意識不明の重体なんだって。それでお悔やみの花を添えてるの」
「嘘だ! 何かの間違いだ。それにこんな縁起の悪い酷いことするな」
 ヴィンセントは小さな花瓶を払いのけた。タンポポは散らばり、花瓶は床に落ちて簡単に割れた。
「あら、酷いのはどちら。勝手に人のものを壊すなんて。信じられなかったら、自分の目で確かめたらいいじゃないの。昔、暗殺された大統領が運ばれた有名な病院に居るって誰かが言ってたわ」
「ジェニファー、君はどうかしてるよ。いつもの君はこんな酷いことをしない」
 捨て台詞のように吐いて、ヴィンセントは教室を飛び出した。
 残されたジェニファーは目に一杯涙を溜めていた。
「誰のせいでこんな風になったと思ってるのよ」
 ジェニファーはまた胸を押さえ込んだ。影はジェニファーの中でせせら笑っていた。

「やっぱり朝になってもまだ意識が戻らない」
 アメリアは、病室でベッドに横たわるベアトリスを見つめながら呟いた。
 側でパトリックが魂をどこかに置き忘れたように憔悴していた。
「申し訳ありません。僕が側にいながらこんなことになってしまって」
「パトリック、それは何度も言ったはずよ。これはあなたのせいではないの。昨日知らされたときは心臓が止まるかと思ったけど、でもただの事故だったの。それに命の別状はないと医者も言ってたでしょ。幸いにも軽傷だった」
「でも、意識が戻らないのはなぜですか」
「何かがベアトリスの意識を妨げてるのかもしれない。彼女は無理やり塗りつぶされた過去の記憶がある。頭を打った拍子にリチャードが閉じ込めた記憶の闇が飛び出したかもしれない」
「記憶の闇?」
「リチャードは闇を操って記憶をコントロールできるダークライト。思い出させたくない記憶は闇で塗りつぶすの。ベアトリスは過去にリチャードとヴィンセントに関わった記憶を全部黒く塗りつぶされた。ほんの少しの闇なら体に悪影響は与えない。でもベアトリスの場合は通常の闇では塗りつぶせなかったらしく、リ チャードは力の強い闇を使った。何も刺激を与えなければ、それはそこに留まったままになる。しかし強い刺激が加わって一部の記憶が戻るとバランスを崩し闇は広がり意識を支配する」
「リチャードにまた元の状態に戻して貰えば元に戻るってことですか」
「それが、こうなってしまったらリチャードは記憶をもう一度塗りつぶすことができなくなるの。一度思い出した記憶は、何度塗りつぶしても時間が経てば独りでに蘇っては同じことの繰り返しになってしまうから」
「それじゃ、ベアトリスはどうなるんですか」
「この闇を取り除けば彼女は意識を取り戻す。だけど記憶も一緒に蘇る。過去にヴィンセントと接触していることを思い出せば、今の状況に益々疑問を抱く。もう嘘は突き通せない」
「でもそれしか方法はないじゃないですか。何もかも話して……」
「それができたら、とうにやってるわ」
 アメリアはそれが一筋縄ではできないと言ってるようなものだった。
「とにかく意識を取り戻すことの方が先決です。リチャードを呼べばいいんですね」
「待って、危険だけどもう一つ方法があるわ。ヴィンセントならベアトリスの意識を引っ張って、記憶の闇を元の位置に戻せるかもしれない」
「どういうことですか。リチャードにはできなくてヴィンセントにはできる。それに危険って一体どんなことをするんですか」
「ヴィンセントならベアトリスの意識に入ることができる。ベアトリスはかつてヴィンセントと意識を共有している。ベアトリスの眠っていたホワイトライトの力を引き出したあの日の出来事。あなたもあのとき側に居たから見てたはずよ」
 パトリックは声にならない驚き方をした。
「ヴィンセントがベアトリスともう一度意識を共有するの。そしてヴィンセントにベアトリスの意識を闇から引っ張り出してもらう。ベアトリスの意識が元に戻れば、記憶の闇は意識の力に制御されてまた元の場所に留まることしかできなくなる。だけど、失敗すればヴィンセントの意識は闇に飲まれて消滅してしまうかもしれない」
「そんなこと、ヴィンセントに頼むんですか」
「判ってるわ。ヴィンセントにこんな危険なこと頼めるわけがない。それに、シールドではじかれて近づけないわ。もう覚悟を決めるしかないわね。ベアトリスに全てを話すときが来たわ。諦めてリチャードを呼びましょう」
「待って下さい。その役目俺が引き受けます」
「ヴィンセント!」
 アメリアとパトリックは同時に名前を呼んだ。
「すみません、ドアが開いていて、カーテンで仕切られていただけだったので、立ち聞きしてしまいました。事故のこと学校で聞いて、すぐにここに駆けつけた 次第です。まさか本当の話だったとは」
 ヴィンセントはベアトリスの寝ているベッドまで近づく。
「お前、シールドにはじかれてないじゃないか。ベアトリスのシールドは切れてるのか」
 堂々とベアトリスに近づいたヴィンセントにパトリックは目を見開いた。
「ヴィンセント、ライトソルーションを飲んだわね」
 アメリアが指摘した。
「はい。今朝飲みました」
「どこで手に入れたんだ」
「そんなことはどうでもいいんだ、パトリック。とにかくこれで好都合だ。こんな形で役に立つとは思ってもみなかったけど」
 喜んでいいのか、悲しんでいいのか、ふと微笑んだその顔は哀愁を帯びていた。これも運命。こうなることのためだったと思うと、ヴィンセントはきりっと眉を引き締めた。
「タイムリミットは日没。それまでに戻れなければ俺はベアトリスのシールドにはじかれ、意識がない体は焼かれてしまう。意識を共有してるときに体だけ離されても、俺の意識はベアトリスの中で消滅する。どっち道同じこと。だが時間はたっぷりある。その間に必ずベアトリ スの意識を戻して見せます」
「もしも、万が一の時は……」
 パトリックは不安が拭えない。
「そんな心配、俺がする訳ないだろう。必ずベアトリスの意識を引っ張って戻ってくるさ。俺だってベアトリスを守らないといけないんだ。これぐらいで俺がへたばるはずがない。パトリックばかりに美味しいところもっていかれちゃ困るのさ。お前には負けたくない」
「わかった。癪だけど、お前を信じるよ。必ず成功させろよ」
「ヴィンセント、無理はしないで。ダメだと判ったら、すぐに切り離して戻ってきて」
 パトリックとアメリアは祈る思いでヴィンセントを見つめた。
 ヴィンセントはベアトリスを愛しげに眺める。
 ベッドの側にあった椅子に腰掛け、ベアトリスの手を両手で握った。
 ──やっとまた触れられたよ、ベアトリス。さあ、目覚めるんだ。早く目を覚まして、日没のタイムリミットまでに俺を抱きしめておくれ。
 ヴィンセントとベアトリスの体に異変が起きた。二人の体から柔らかい煙のような光が放たれると、それが絡み合って調和し二人は膜に覆われるように包まれた。
 ヴィンセントはそのとき、ばさっと前かがみに倒れこんだ。
 パトリックとアメリアは息を飲み、二人を見守るしか術がなかった。
 宇宙に放りだされたようなどこまでも続く暗闇の中で、ヴィンセントはうつ伏せになって倒れていた。
 徐々に集まるノイズのざわめきと、キーンと耳を貫く音で気がついた。
 闇の不穏な音が耳元で不快にまとわりついている。振り払うように立ち上がり、辺りを見回した。
 四方八方に広がる闇はヴィンセントを飲み込もうとしていた。
「ベアトリス、君は一体この闇のどこにいるんだ」
 まずは闇雲に動き回る。だが、走り回っても何にもぶつからず、方向さえもわからない。
「ベアトリス、ベアトリス」
 呼んでも返事がない。
 ヴィンセントは何の手がかりも得られないまま、ただ辺りを無闇に走り回ることしかできなかった。
「くそっ、何も見えない、何も触れられない。これがベアトリスの意識の中なのか」
 まだたっぷり時間はあるとはいえ、時間の感覚もわからず、タイムリミットのことを考えると、簡単にパニックに陥りそうだった。
 意識の中に入れば、容易くベアトリスを見つけて引き出せると思っていただけに、自分の甘さにヴィンセントは腹を立てた。
「どうすればいいんだ」
 何かを見つけなければと、勘を頼りに走った。闇の中では景色の変化もなく、まるでフィットネスでマシーンにのってランニングしている気分だった。
「これじゃ拉致があかない」
 それでもヴィンセントは何かにぶち当たるまで走り続けるしかなかった。
「ベアトリス! どこにいるんだ」

 病室では、アメリアは部屋に設置されていたソファーに腰掛け、不安の表情を露骨に表して腕を組んでいた。
 パトリックは落ち着かない様子で、狭い病室を何度も歩き回っていた。
「パトリック少しは落ち着きなさい。あなたがここで歩き回っても何も解決しないのよ」
「すみません。でもこの状況で落ち着く方が難しい。何かヴィンセントの手助けはできないのですか」
「あったら私も手伝ってるわよ」
 パトリックは黙り込んでしまった。そして腕時計を見る。
「今の時期の日没は7時50分ごろ。10時間切ったってところか」
「まだたっぷり時間はあるわ。私達ができることは、この二人を信じて見守ることだけ」
 アメリアとパトリックには二人がどのような状況にあるのか全く想像もつかない。ヴィンセントはベアトリスのベッドに頭をもたげながら側でただ寝ているように見えるだけだった。
 パトリックは唇をかみ締めながら、二人の安否を祈っていた。

 ヴィンセントはまだ走り続けていた。必死にベアトリスの名前を呼びながら、闇の中、目を見開き何か手がかりはないか、手を伸ばし触れるものはないか、手当たり次第に探していた。
 どれほどの時間が経ったのか、全く見当がつかない。
「ダメだ、何も得られない。くそ!」
 無駄に動いても無理だと諦め、ヴィンセントは落ち着こうとその場に留まり、目を閉じた。
「目で見て感じられぬのなら、耳だ」
 集中させて、耳を研ぎ澄ます。
 するとそこは無音ではなかった。
 ざわざわと不安に落としいれる闇の音がした。耳鳴りのように不快にまとわりついた音にも聞こえ、ヴィンセントはさらにその音を分析する。
 ラジオの周波数がずれてるだけの音に聞こえ、ところどころ、言葉として単語が聞こえてきた。
 聞いた音を拾い、そして繋げて口にする。
「い、かな、いで…… おれ、なん、でもす、るから、やみ、に、のまれ、ちゃだめだ」
 どこかで聞いたことのある台詞だった。
「これは俺があの時ベアトリスに言った言葉。ベアトリスが俺を救おうと俺の心に入り込んで、そして俺が放した闇にベアトリスが飲み込まれそうになったときの必死に叫んだ言葉だ…… わかった! ベアトリスはあの時の記憶を思い出したんだ。そして記憶の闇のバランスが崩れてしまった。その記憶をまず探せば、 ベアトリスは見つかるかもしれない」
 ヴィンセントは集中する。ラジオのつまみを回し周波数を探し出すように声のする方向を見極める。
 ピタッと合った瞬間目を見開いた。一直線にぶれることなくそこを歩む。
 何度も繰り返される自分自身が発した言葉。歩けば歩くほど雑音が減少し、言葉がクリアーになっていく。確実に目的の場所へと近づいている手ごたえを感じた。
 そしてヴィンセントもあの時の記憶が蘇り、自分の記憶も一緒に辿る。二人が同時に思い出す記憶は徐々に一つになり、暗闇だった空間が懐かしい景色へと突然変貌した。
「ここは、あの夏俺が過ごした場所。そしてベアトリスが住んでいた町。これが、ベアトリスの記憶の中なのか」
 山間に囲まれた静かな町。
 広がる草原に点々と散らばる牛や羊たち。充分な距離を取って家が建っている。緩やかな坂を上れば森に入り込み、下りれば小さな下町へと続く。
 ちょうど中間地点のところ、まだ塗装されていない砂利道を少年が一人、両手で紙袋を抱き、元気ない足取りで重く歩いていた。
 ヴィンセントが立ってる前をその少年が素通りしていくと、ヴィンセントは息を飲んだ。
「これは、俺じゃないか」
 ヴィンセントは少年時代の自分を唖然として見ていた。小さなヴィンセントは黙々とただ歩いていた。
 小屋の側を通りがかったとき、二人の少年が待ち伏せしてたかのように現れた。
 にやりと意地悪な笑みを浮かべ、片手には小石を宙に投げてはまた掴んでいる。
「よぉ、ダークライト。なんでお前みたいな奴がこの町にいるんだよ。とっとと出て行きやがれ!」
 その少年は持っていた小石を小さいヴィンセントに投げつけた。それは命中して頬に当たった。
 小さいヴィンセントの怒りの感情は高まり、目が徐々に赤褐色に染まり出した。
「ちょっと、あんた達、何してるの!」
 誰かの声が聞こえる。叫び声がする方向を振り返ると、透き通るような長い金髪をなびかせた女の子が、ピンクの自転車を必死にこいで走ってきた。
「この子はベアトリスじゃないか」
 ヴィンセントは久しぶりに見る子供の姿のベアトリスに目をぱちくりした。
「やべぇ、ベアトリスだ。あいつノンライトの癖に変な力もってて、ややこしいんだよな。あいつに関わると、ディムライトの俺たちですら叶わないんだよな。 あのパトリックですら、ベアトリスの子分になっちまったし。ここは逃げるが勝ち」
 少年二人はひたすら草原を走って逃げていった。
 ヴィンセントは一部始終を見ながら、唖然とでくの坊のように突っ立って我を忘れていた。
 自転車のブレーキがキーっとなると、ザザーっとタイヤがいくつかの小石を蹴飛ばし自転車は止まった。それを無造作に放りだしてベアトリスは小さいヴィンセントに近づいた。
「大丈夫だった? あっ、ほっぺたから血が出てる」
 ベアトリスは背中にしょっていた小さなバックパックを持ち出して、中から絆創膏を取り出した。そして小さいヴィンセントの頬に貼ってやった。それと同時に赤褐色を帯びた彼の目の色は元に戻っていった。
 小さいヴィンセントも大きいヴィンセントも口をぽかんと開け、同じ表情でベアトリスを見ていた。
「これでよし。私、この町の救急隊よ。困った人や怪我した人が居たらいけないから、いつも持ち歩いてるの。あっ、そうだこれ食べる?」
 飴を一つさし出した。両手を荷物でふさがれてる小さいヴィンセントはどうすることもできなかった。
 ベアトリスははっと気づいて、飴の包み紙を外し無理やり小さいヴィンセントの口の中につっこんだ。
 小さいヴィンセントは片方の頬を膨らませ面食らっていた。
「あなたの心、色がついてるというより、とても真っ暗。何か心配事でもあるの? この町に来たのはその心配事があるからじゃないの? 私、あなたを助けたい。だってあなたの心が助けてって叫んでるよ」
「うるさい、ほっといてくれ」
 小さいヴィンセントはベアトリスを無視して歩き出した。だがしっかりと口の中で飴を転がし味わっていた。
 ──おいっ、もっと素直になれよ。
 大きいヴィンセントは突っ込まずにはいられない。そして目的を忘れ、この状況に魅了され、まるでドラマを観るように簡単にのめりこんでいた。
 ベアトリスは、倒れていた自転車を拾い、小さいヴィンセントの後を追えば、大きいヴィンセントも同じようについていった。
「なんでついてくるんだよ」
「だってまだ名前知らないし、自己紹介もしてないから。私はベアトリスよ」
「……俺はヴィンセント」
「あっ、ちゃんと教えてくれた。ありがとう」
 ベアトリスの素直な言葉に心を動かされ、小さいヴィンセントは振り返った。ベアトリスは屈託のない笑顔で眩しく笑っている。その笑顔に釣られてヴィンセントも口元を上げていた。
 ──そう、この時、俺、ベアトリスがかわいいなって思ったんだ。そしたら急に離れたくなくなったんだ。
「飴をありがとうな。甘くて美味しいよ」
「どういたしまして。名前教えて貰ったし、それじゃ私帰るね」
「えっ、待って」
 小さいヴィンセントは咄嗟に呼び止めていた。
「ん?」
「俺んち、来ないか。あの森を入ったらすぐなんだ。俺、この夏だけここに来てるんだけど、友達居ないし暇なんだ」
「いいの? 誘ってくれて嬉しいな」
 ベアトリスは自転車を押しながら小走りになり、小さいヴィンセントの横に並んだ。ベアトリスは小鳥が囀るように、自分のことやこの町について色々話し出し た。
 二人のヴィンセントの口元が同時にほころんだ。
 ──ベアトリスのおしゃべりが、テンポのいい音楽を聴いてるみたいで心地よかったんだ。
「俺、ここに滞在してるんだ」
 木々の間から光が差し込み、スポットライトを浴びたように建物が浮かんで目に飛び込んだ。
「うわぁ、なんて素敵なコテージ」
 ログハウスにテラスがついていて、傘のついたテーブルが設置され、夏の暑さを逃れるように涼しげにたたずんでいた。
「父さんの友達の別荘なんだ。母さんが体の具合が悪いから、環境のいいこの場所に、この夏、招待してくれたんだ」
「そうだったの。お母さん、具合悪いんだ。それがヴィンセントの心配ごとだったんだ」
 小さいヴィンセントはベアトリスを別荘の中に招いた。
 ベアトリスは遠慮がちに入り口のドアから顔だけ覗かせた。その後ろで大きいヴィンセントも恐る恐る中を覗いていた。
「ヴィンセント、帰ってきたの。あら、ほっぺたに絆創膏」
 ──母さん!
 大きいヴィンセントもベアトリスに続いて家の中に入っていく。ベアトリスの意識の中の記憶だと言うことも忘れ、目の前の優しく微笑む母親に、甘えて抱きつきたい気持ちで目を潤ませていた。
 母親は長いライトブラウンの髪を束ね、髪留めでアップに留めていた。白い肌は病気の青白さのせいで透き通って見えるようだった。
「これはなんでもないんだ。それより母さん、起きてても大丈夫なの?」
「うん、今日は気分がいいの。あら、そちらのお嬢さんは?」
「初めまして。ベアトリスです。さっきそこでヴィンセントと友達になりました」
「あら、ハキハキとしたかわいらしいお嬢さんだこと。ヴィンセントもこんなかわいい子を誘ってくるなんて、よほど気に入ったのね」
「ち、違うよ。暇だったから」
 母親はクスクスと笑っていた。
 ──母さんはなんでもすぐに見通せたっけ。
 ベアトリスは気がかりな顔をして、ヴィンセントの母親の前に近づくと、突然抱きついた。
「あら、どうしたの?」
「おばさんの心の色、とても優しい色。でも、一箇所だけ渦があるの。それを取り除かなくっちゃ」
「面白いこというのね、ベアトリス。あなたとても温かいわ。おばさん、元気がでてくるようよ。ありがとうね」
 微笑むヴィンセントの母親とは対照的に、ベアトリスの目は悲しげだった。
 ──このとき、ベアトリスはすでに気づいてたんだ。俺の母親の命が短いことを。
 そして車のエンジン音が突然聞こえピタッと止むと、車のドアが閉まる音を立てた。
 ──あっ、親父が帰ってきたんだ。
 リチャードが家に入って来る。
「シンシア、起きてちゃだめじゃないか。ちゃんと寝てないと。あれ、その子は?」
「この子はベアトリス。ヴィンセントのお友達」
 シンシアは意味深に笑顔を浮かべて伝えていた。リチャードも、隅に置けない息子だと、ヴィンセントを茶化すように目を細めて一瞥を投げかけた。
 ──この時の親父の目は今と違って優しかったんだ。
「おじさん、水を探してる人だよね」
 ベアトリスが聞いた。
 リチャードは驚きの表情を隠せないでいた。
「お嬢ちゃん、どうしてそんなことを?」
「パトリックの家で、あっ、パトリックは私の友達なんだけど、おじさんが水を分けてくれって言ってたの、偶然通りかかって聞いたの。どんなお水が欲しいの? 私も探すの手伝ってあげる」
 ──ライトソルーションのことだ。俺たちがここへ来たのも、ディムライトたちが多く集まる町にはホワイトライトが必ず光臨すると聞いてたからだ。母親の病気を治すために、藁をも掴む思いで、親父はなりふり構わずディムライトに頭を下げに行ってたんだ。ライトソルーションを手に入れるために。そんなことをしても無駄だと判っていたのに。
「お譲ちゃん。心配してくれてありがとう。でも大丈夫だからね」
「うん、だけどその水があれば、おばさんの病気よくなるんじゃないの? 私絶対見つけたい」
 ──親父も母さんも、ベアトリスの言葉に驚いたんだ。この時、ベアトリスは俺の母親をどうしても助けたかった。なぜこんなに人助けがしたいのかこの時はわからなかったけど、ホワイトライトの本能というべき力が無意識にでていたんだろう。引き金さえ引けば、ベアトリスもホワイトライトの力を爆発させるところ まで来てたのかもしれない。
 ヴィンセントはひたすら観客になってこの状況を見ていた。

 パトリックは腕時計を睨んでいた。いたずらに時間だけが進む。タイムリミットがある待ち時間は、時間の経つのが早く感じる。
 一時間、また一時間と無常に経つ度、早送りになってるかさえ思えた。かなりの時間が経っているのに、あっという間の感覚でしかなかった。
 残り時間が減るたび、絶望感が心一杯に広がっていく。信じなくてはいけないのに、時間は無駄だと語りかけられてる気分だった。
「日没まであと3時間あまり。一体、ヴィンセントは何をしてるんだ。遅すぎる。ピクリとも動かない」
 息苦しくなり、何度も深く息を吸って吐いていた。
「まさか、記憶の闇に捕まってるんじゃ」
 アメリアはその線が濃いとばかり、顔を歪めた。
「どういうことですか」
「二人は同じ記憶を持っている。意識を共有しているとき、それが重なり合うと、記憶の闇はその場面を映し出す。そしてその記憶がヴィンセントの心を捉えてしまうと、のめりこんで目的を忘れてしまうの。それが意識に飲み込まれるってことなの」
「そんな…… 」
「困ったことになったわ。ヴィンセントが気づかない限り、どうする術もない」
「ヴィンセント! しっかりしろ。お前の目的はベアトリスをつれてくることだろうが。過去の記憶なんかに囚われるな!」
「無駄よ、ヴィンセントには何一つこちらからの声は聞こえないわ」
「それじゃ、一体どうすれば」
「ヴィンセントを信じるしかないわ。彼ならきっと気づいてくれる」
 二人の心配をよそに、ヴィンセントは目的を忘れ、ベアトリスの意識の中で様々な過去の記憶を没頭するように辿っていた。そして時間は刻々と進み、太陽は徐々に沈んで行こうとしていた──。
 ──これはパトリックと初めて会ったときのことか。
「ベアトリス、こいつ誰だよ」
 パトリックが露骨にヴィンセントに嫌な顔を見せた。
「ヴィンセントよ。お友達になったの。パトリックも一緒に遊ぼう」
「こいつ、ダーク…… いや、こんな奴と付き合っちゃだめだ、ベアトリス」
「どうして? ヴィンセントはいい子だよ」
 パトリックは不機嫌さを露にし、気に食わないと、憎しみがあからさまに目に表れ、噛み付くような敵意を向けていた。
 ──俺がダークライトだからとはいえ、この瞬間から俺たちは恋敵だったのか。
「パトリック、病気が治る水って、どこにあるか知ってる? どうしてもそれが欲しいの」
「病気が治る水?」
「うん、ヴィンセントのお母さんが病気なの。だから早くその水を見つけてあげたいの。とても手に入れるのが難しそうだけど、パトリックのお父さんお母さんは知ってるんじゃないの? 知ってたら教えて。お願い」
「あっ、水って、まさか……」
 パトリックはヴィンセントをチラリと見た。ヴィンセントは思わず目をそらした。
 ──ディムライトにライトソルーションを手に入れたいなんて思われるのが嫌で、この時俺はプライドを傷つけられたようで悔しかったんだ。
「そんなの僕知らない。ベアトリス、そんな奴なんか放っておいて、あっちで遊ぼう」
 パトリックはベアトリスの腕を引っ張った。
「離して、私水を探すの」
 ──ベアトリスがあまりにも一生懸命で、俺は却って申し訳なくなってしまった。でも彼女を好きになっていく気持ちが、この時もっと強まっていった。
「ベアトリス、もういいんだ。水なんて手に入らないの判ってるんだ。知ってる人がいても誰も教えてくれない。病気が治る水があったら、みんな自分のものに したいだろう」
「でも、困った人が居ればみんなで助け合えないの?」
「人によるのさ。俺みたいなものはどこへ行っても嫌われるんだ」
「そんなことない。私、ヴィンセントのこと大好きよ」
 ──今聞いてもドキッとするもんだ。しかしパトリックの奴、よほど悔しかったんだろうな、唇噛んで震えてやがる。そしてこの後自棄になって暴走したんだっけ。
「わかったよ、水を探せばいいんだろ! 待ってろよ。僕が持ってきてやる。そしたらベアトリスはそいつより僕のこと好きだって言ってくれるかい」
「落ち着いてパトリック。そんなに興奮しなくても」
 ──でも結局、もって来れなかった。ディムライトもライトソルーションを手にするのは必死。容易く人に分け与えることは絶対しない。それでもベアトリスに好かれようと、こいつもこの時から必死だったんだよな。
 ヴィンセントは過去に夢中になっていた。
 ベアトリスを巡って、パトリックといつの間にか張り合ってる自分が可笑しいと笑ってみているくらいだった。
 ダークライトでありながら、ベアトリスを通してディムライトのパトリックと無邪気に遊んでいる姿はまだ子供だったと、すっかり過去の記憶にのめりこんでいた。
 ──パトリックも俺のこと嫌いながら、ベアトリスと一緒に俺んちに遊びに来ていた。この日は親父も楽しそうにハンバーガーなんかテラスのグリルで焼いてちょっとしたパーティ気取りだった。そうこの時まではそれなりに楽しいひと夏だったのかもしれない。
 しかし、次の場面から微笑んでは見られなかった。ヴィンセントの母親が急に苦しみ出すシーンが始まる。
 一度その場面を見ているヴィンセントも辛い苦しい思いが蘇っていた。
 ──そうか、とうとうあの場面になるのか。
 ヴィンセントは一時目を逸らすが、体にぐっと力を込めて再び見ることを選択し、リチャードの隣に立った。
 ベッドルームにリチャードがシンシアを運び、そっと寝かした。後ろから三人の子供達も心配して覗き込んでいた。
 シンシアは痛さを我慢して、心配かけまいと気丈にふるまっていたが、顔は自然と険しくなっていく。痛さまでは誤魔化せなかった。
 ベアトリスは夢中でベッドに駆け寄り、思いを込めて必死にシンシアの手を強く握った。
 そこでシンシアの表情から苦しさが取り除かれていく。
 ──あっ、親父が驚いている。このときすでにベアトリスがホワイトライトだって気がついたんだ。そして母さんも。
「ベアトリス、ありがとう。痛みが和らいだわ。あなた本当に不思議な子ね。まるで…… ううん、なんでもない」
 ベアトリスはベッドから離れ、今度はヴィンセントを気遣った。泣きそうな顔をして突っ立っていたヴィンセントを見ると、状況を察してパトリックの腕を 引っ張り部屋の外へ出ていった。
 ──ここは俺が鮮明に覚えている。また見るのは辛いが、今なら母さんが何を言いたかったかよく理解できる。
「ヴィンセント、そんな悲しい目をしないの」
「母さん、治るよね」
 シンシアは消え行きそうな笑顔を浮かべた。
「リチャード、ヴィンセントをお願いね。私はもう限界だわ」
「何を言うんだ、シンシア。きっとよくなるさ」
 リチャードの瞳は必死に涙をみせないように堪えていた。
「本当ならこんなにもたなかった。あの子がここへやってきてから寿命が少し延びた気がする。さっきも痛みをやわらげてくれて最後の最後まで穏やかな気分だわ。 あの子のお陰で笑ってお別れを言えそうよ。本当にここへ来てよかった」
「母さん」
 ──母さん
 どちらのヴィンセントも呟く。
「ヴィンセント、よく聞いてお母さんは今から旅立つの。決して悲しんじゃだめ。最後の最後で気がかかりなことから解き放たれた。あなたはもう大丈夫。ダー クライトの力をいいことに使いなさい。ベアトリスを守ってあげなさい。その力はそのためにあるのよ。闇に決して負けちゃだめよ」
 ──母さんが気がかりだったこと、感情に左右されてすぐに爆発をする俺の底知れぬダークライトの力。母さんは自分が死んだ後、俺が闇に落ちることを心配し ていた。だけどベアトリスが現れて、彼女の正体を知り、俺の役割ができたことを喜んでいたのか。だが、そんなこと、この時俺がすぐにわかる訳がなかった。
 この後、暫くしてシンシアは息を引き取った。それは安らかに眠るように笑顔を最後に残して──。
 そしてヴィンセントの目が赤褐色を帯び出した。

「くそっ、段々外が暗くなってきた。日没まであと1時間切ってしまった」
 パトリックは、我慢がならないと、片手で拳を作り、もう片方の手で自分のパンチを何度も受けていた。
「パトリック、まだ1時間もあるのよ。悲観するのは早いわ」
「よく落ち着いてられますね。もし、ヴィンセントが戻ってこなかったら、どうするおつもりですか。リチャードだって自分の息子を失えば怒りも収まらないで しょう。そしたらその腹いせにベアトリスのライフクリスタルを奪ってしまうかも」
「あなた、リチャードがそんな人だと思ってるの。それにヴィンセントは必ず戻ってくる。焦る気持ちはわかるわ。だけど信じましょう。必ずヴィンセントはやり遂げてくれるわ」
 パトリックは安易に愚痴をこぼしてしまったことを恥じ、バツの悪そうな顔をしていた。祈るしか他ならないと、椅子に座りり、強く念じるようにびくとも動かなくなった。
 残り1時間を切ってしまった。それでもヴィンセントはまだ過去の映像にこだわっていた。

 ──ここからだ、大変なことが起こるのは。俺は母さんの死に耐えられなくなって外へ飛び出し、ベアトリスとパトリックが心配して後を追いかけてきた。だが、もうその時点で辺りの木をいくつか感情任せで倒してしまった。
「ヴィンセント、落ち着いて」
 ベアトリスがヴィンセントにタックルするように後ろから抱きついた。
「離せ、離さないと君も吹っ飛んでしまうぞ」
「嫌、絶対離さない」
「ベアトリス、危ない。そいつから離れるんだ。うわぁ」
 パトリックの目の前に木が倒れこんできた。リチャードが間一髪のところ、パトリックを抱えて避けた。パトリックを安全なところに置き、リチャードもヴィンセントの後を追う。
「ヴィンセント、やめるんだ。母さんの言ったこと思い出すんだ」
「あー!」
 ヴィンセントの悲痛な叫びが森に響き渡る。ベアトリスは渾身の力を込めて必死に食い止めていた。その時、ベアトリスの体から光が突然放たれた。リチャー ドもパトリックも目を見張った。
 その光はヴィンセントを包み込んだ。
 ヴィンセントは全く動けなくなり、電気ショックを与えられたように目を見開いて痺れていた。
 二人は溶け合って一つの塊になるように光り輝く。
 ヴィンセントの心にベアトリスが入り込み、この時意識が共有された。
「ヴィンセント、落ち着いて。大丈夫だから、私が側にいるから」
 ベアトリスの言葉は直接ヴィンセントの心に届く。
 ベアトリスの肌の温もりのような温かさを体全身で感じ、彼女に優しく撫ぜられている気分だった。心地よい安らぎがじわじわと黒く覆われていた闇の心をほぐしていく。
 ベアトリスは無我夢中で自分の心のままにイメージしたことを実行する。ヴィンセントの悲しみと闇に支配された心を、本来持っていた自分の力をもって取り除く。全てを吸収して自分に取り入れていた。
 その闇の力は幼いベアトリスには許容範囲を超えていたにも関わらず、ヴィンセントを救いたいがために、ありったけの力を出し切っていた。
 ベアトリスが抱きついていた手が緩んだとき、光が消え、ヴィンセントの目の色も元に戻っていた。
「ベアトリス…… 」
 ヴィンセントの心に不安がよぎると同時にベアトリスの手が離れ後ろへ倒れていった。
 大きいヴィンセントですら、自分の体験を再び見ることで圧倒されていた。ベアトリスが必死で助けてくれたことを再確認すると、ベアトリスの存在の大きさが胸いっぱいに広がる。彼女を想う気持ちが一層心に刻まれた。
 その時、記憶の闇が映し出していた映像がプッツリと消えてまた辺りは闇に包まれた。
「どういうことだ。真っ暗じゃないか。この後の続きが見られないのか。あっ、そっか。ベアトリスが意識を失ってこの後の記憶がないということか」
 その時、暗闇からすすり泣く少女の声が聞こえた。
「誰かいるのか」
 ぼやっとうっすら明かりを帯びて少女が座り込んで泣いているのが徐々に現れた。
「ベアトリス!」
 ヴィンセントは走って近寄ると、ベアトリスは顔を上げた。不思議そうな顔をしてヴィンセントを見つめた。
「俺が見えるのか?」
 ベアトリスは頷いた。
「お兄ちゃん誰?」
「俺は、ヴィンセントだ」
「ヴィンセント? ヴィンセントはもっと小さいよ」
「あっ、その、ここでは大きくみえるんだ。だけど、ベアトリス、なぜ泣いてるんだい」
「寒いの。凍えるくらい寒いの。それに暗くて、とても怖い。闇が体に入り込んじゃった」
 ──これはあの続きなのか。ベアトリスが意識を失ってからのベアトリスの心の中。
「ヴィンセントは大丈夫?」
「うん、俺は大丈夫」
「そう、それならよかった」
 ベアトリスは安心して笑みを浮かべると、姿が消えかけていった。
「ベアトリス、消えちゃだめだ」
「どうして? 私疲れちゃった。ヴィンセントを救えたし、これでゆっくり眠れる」
 ベアトリスが目を瞑ると、闇が煙のようにまとわり突き出した。彼女の姿がどんどん薄くなり、消滅しそうだった。
「だめだ、ベアトリス起きて!目を覚ますんだ!」
 この時ヴィンセントは自分の言葉にはっとした。自分の目的を思い出した。
 ──俺、一体何してたんだ。今何時だ。

 パトリックは腕時計を鬼の形相で睨み、窓の外の暗さを恨んでいた。
 残り時間まであと10分あるかないかだった。
 外は夕日が最後に放つセピア色の光を残し、夜がすぐそこまで迫っていた。
「カモン、カモン、カモン、ヴィンセント!」
 アメリアも必死に落ち着こうと、目をぎゅっと閉じていた。信じることで精神が磨り減っている状態だった。それでも信じることをやめない。
「ヴィンセントは必ず戻ってくる」

 ──俺はベアトリスを連れ戻す!
 目の前の小さなベアトリスは闇の中に埋もれていく。
 ヴィンセントは手を差し伸べるが、煙を触れるごとく、手応えが全くない。
 ──落ち着け、落ち着くんだ。あの時もこんな風だった。ベアトリスが意識を失い、息をしていなかった。俺はあの時どうしたんだ。どうやってベアトリスを引き戻したんだ。
 ヴィンセントはあの時の記憶を辿った。
 すると、また辺りは森の中の景色を映し出した。だがさっきと違っていたのはヴィンセント自体が子供の姿になり、ベアトリスを抱えていた。
 ベアトリスの顔は青白く、闇が体を蝕むように入り込んでいた。
 目に涙を溜めて、ヴィンセントはありったけの想いを込めて声にした。
「ベアトリス!行かないで!俺、何でもするから、闇に飲まれちゃだめだ」
 その想いをこめた声は風のようにベアトリスに付きまとった闇を蹴散らした。
 ベアトリスは、こほっと小さく息を吹き返し目を覚ました。
「ヴィンセント? ヴィンセントなの?」
 ベアトリスが言葉を発したとき、その姿は少女ではなかった。高校生のベアトリスだった。そしてヴィンセントも元の姿に戻っていた。
 ヴィンセントはベアトリスを力いっぱい抱きしめた。
 ベアトリスはそれが嬉しいとばかり、自らもヴィンセントの体に手を回した。
 眩しいばかりの光が二人の体から溢れ出てきた。
 辺りは真っ白く強く光り輝き、二人は溶け合い、辺りを明るくして消えていった。

 その頃病室では、完全な日没まであと数秒しか残ってなかった。
「ダメだ! 時間切れだ」
 パトリックが絶望した声を上げたときだった、ヴィンセントの体がぴくっと動いた。
「ヴィンセント!」
 パトリックは慌てて、ヴィンセントの体を持ち上げ、ベッドから急いで離し、病室の外へ出た。
 そこで完全な夜を迎えた。
 パトリックはヴィンセントを抱えたまま、へなへなと壁伝いに、しゃがみこんでしまった。ヴィンセントがパトリックに覆いかぶさるように、二人は病院の廊下で抱き合って座っていた。
 行きかう人がジロジロと見ていく。
 パトリックはそれでもお構いなしに、ふーっと息を吐いた。
 ヴィンセントはようやく意識を完全に取り戻し、ゴツゴツした硬いものに抱きついてるのを不思議に思い、顔をあげた。
 あまりにも近くにパトリックの顔があり、「うわぁ」と悲鳴をあげてのけぞっていた。