ベアトリスは玄関を飛び出し、一目散に住宅街のストリートを走っていく。真実を確かめたい。その思いつきだけで衝動に駆られた。
 ──あのときの人影はヴィンセント…… 
 パトリックの嘘から出た誠。ベアトリスが玄関を開けて辺りを見回したとき、蜂蜜色の髪をした男性が逃げるように先の角を曲がった。
 この時になってベアトリスは自分が思った直感が正しいとやっと肯定できた。
 なぜ、あのとき追いかけなかったんだろう。どうして確かめなかったんだろう。
 いつも自分から何もしようとしない。深く考えることもせず、なんでもすぐに諦めてしまう。自分で自分を信じればいつだって真相は見えてくるはずなのに。
 目の前が涙でかすむ。手でふき取りながら、それでも必死に走る。しかし角を曲がればもうそこにはあのとき見た人影はいなかった。
 それでも探したいと、潤んだ目で辺りをキョ ロキョロとしていた。
「ベアトリス、どうしたんだ」
 パトリックが追いついてベアトリスの腕を掴んだ。
「離して、今忙しいの」
 振り切ろうと腕を振るが、パトリックの力の方が強かった。彼の手はベアトリスの腕を離さない。素直に離せないほど心乱れていた。
「落ち着くんだ。訳を話してくれ。一体何を探してるんだ」
 自分がとった行動が何かと結び付けてしまった可能性を考えると、指先の切り口がドクドクとうずいてくる。まず自分が落ち着こうとパトリックは深く息をする。
 ベアトリスは、邪魔をされ鬱陶しいとばかりに、苛立ってパトリックを睨みつける。
 それでもパトリックは穏やかな表情を見せ笑っていた。
 憎めなかったパトリックの笑顔がこの時作り物に見えた。ベアトリスをコントロールしようとする意図された笑顔に──。
「パトリック、お願い離して。私の好きにさせて。それとも何か都合でも悪いことがあるの?」
 血を見せたパトリックにもまだ疑念が残る。この男も何かを知ってるに違いないと思うとベアトリスは強気につっかかる。
「君が急に走りだすから何事かと思って、その理由が知りたいだけだよ。あんな風に突進したら誰だって心配になるじゃないか。一体どうし たんだい」
「ねぇ、あの時指を切ったこと、あれはわざとだったんじゃないの。私に血を見せるために」
「何を言ってるんだい。なぜそんなことわざとしないといけないんだい。僕の不注意からに決まってるじゃないか。一体それとこれが何の関係があるっていうんだい」
 パトリックがバカバカしいと頬をプクっと膨らましたように機嫌を損ねた態度をとった。
 それはベアトリスには意外だった。怒るなんて思ってもいなかった。 さっきまでの強気が少し消沈する。
 パトリックの見せた態度は折角のベアトリスの確信の柱を傾けた。
「ごめん、ちょっと気がかりなことがあって、それでつい」
 少しおどおどしてベアトリスが気まずくなった。
「それでもまだよくわからないんだけど。それなら気が済むまで探し物見つけてきたらいい。僕は家で待ってるから」
 パトリックはベアトリスの腕を離し、くるりと踵を翻して帰っていった。ベアトリスは、少し躊躇いながらもヴィンセントの姿を探しに走り出した。
 パトリックは振り返り、走って行くベアトリスを見る。
 自分が軽はずみで取った行動が確実に影響していることに気づくと、渋った顔になった。
 下手に隠して笑顔を見せて誤魔化すより、わざと機嫌を損ねてみたが、その場しのぎの応急処置にすぎなかった。
 そしてベアトリスが何を探しているかくらいすぐにわかった。
「アイツが来てたのか」
 ポケットから銀色の懐中時計のような形をしたデバイスを取り出した。
 蓋を開けると、ぼわっと光が浮き上がる。中には分厚いレンズのようなガラスがはまり 込んでるだけだった。
 それはディムライトの中でも地位を約束されたものだけがもつ護身用の道具。
 ダークライトの存在を知らせたり、また身を守るための武器となるものだった。そしてそこから煙のような光が出たかと思うと、向きを知らせるようにある方向に向かって流れ出した。流れていく方向を確認しながらパトリックは歩き出した。

 我武者羅に走り続け、闇雲に手当たり次第を探し続けるベアトリスに対し、パトリックは光が示す方向を静かに歩いていた。それはベアトリスが向かった方向と全く逆を示している。
 住宅街を離れ、大通りに面した道路にたどり着く。そしてバス停で男が一人ポツンと立っている姿が見えた。
 パトリックの持つ道具はそこを示し、そしてそいつはバ スを待っていた。
「ダークライトが律儀にバスに乗って行動とは笑わせるね」
 パトリックはデバイスの蓋を閉め、ポケットにしまいこみながら側まで近づく。
「パトリック、久しぶりだな。お前がここにいるとはな」
「君が派手な行動をとってくれたお陰でベアトリスの所在地がわかったんだ。礼を言うよ、ヴィンセント」
 不自然な学校の崩壊。テレビに映りこんだベアトリス。ヴィンセントが絡んでいることはパトリックにはすぐに見通せた。
 ヴィンセントは苦虫を噛んだような顔をした。何もかも全てが裏目に出てしまった軽はずみの自分の行動が腹立たしくてたまらない。拳を握り手を震わせていた。
「言いたいことはそれだけか」
「いや、他にもある。お前、ベアトリスの前で血を見せたのか」
「なんのことだ」
「とぼけるな。忠誠を誓い、魂を捧げる。その証として自分の血を見せる誓いの血のことだ」
「だったら、なんだっていうんだ」
「いつどうやって、何も知らないベアトリスにそんなことしたんだ」
「彼女は気づいてないよ。俺は本気だったけど、彼女の前ではちょっとした遊び半分でごまかした」
「余計なことをしてくれたよ。彼女はおかしいと気づいてしまったよ。僕も成り行きで同じことをしてしまったからね。まさかそれに彼女が疑問を持つとは思わなかった。それよりもお前に先を越されてるとは…… 」
 パトリックは最後の言葉だけもごもごと小さく呟く。
「血ぐらいで、どうってことないだろう」
「それがあるんだよ。彼女はお前を探そうと走り出した。今も当てもなくその辺を探しているよ。おかしいと思わないか。血を見て血相を変えてお前を探 そう とする。彼女はそれがきっかけで何かを関連させて気がついたことがあるに違いない」
 ヴィンセントの顔色が変わった。
 パトリックは嫌な予感を感じ、間違いであってくれと思いながら質問する。
「お前、まさかベアトリスの前で」
「ああ、見せちまったよ。俺の本当の正体。でもあの時彼女は気絶した。そのお陰で夢だと片付いた」
「一体何をしたんだ。自分の立場わかってるのか。この時期にベアトリスに変なことを勘ぐられたらやばいんだよ。アメリアも襲われ、要注意ダークライ トが出回ってるときに」
「すまない」
「なんだよ、かなり素直に謝るもんだな。お前らしくもない」
「違うんだ、全ての責任は俺にある」
 ヴィンセントは正直に事の発端を話し出した。ライトソルーションを燃やすために何度も仕掛けをしたことから、影やダークライトを呼び寄せ、この時に至るまでベアトリスと接触したことを隠さず話した。
「それじゃ全てはヴィンセントが引き起こしたってことなのか。ただベアトリスに近づきたいがために」
「ああ、そうだ」
「僕と同い年のお前がベアトリスと過ごしたいために学年を一年遅らせ、そしてさらに欲望が深まって、この有様か」
 パトリックは憤ると体に力が入っていった。それはヴィンセントの行動にも腹を立てていたが、ベアトリスと離れていた間に、ヴィンセントが彼女と時間を共有していたことへの嫉妬の方が、どんどん膨れていった。
 ヴィンセントは一年遅らせていた間、パトリックは何年も飛ばして先を急いだ。ライトソルーションを与えられていたとはいえ、能力はノンライト以上でも、 二倍速の速さで大学まで卒業するのは並大抵ではなかった。全てを勉強に費やし、ひたすら努力してきた。
 自分が側にいればこんなことにならなかったのにと、パトリックは悔しくてたまらなかった。
 ──こんないい加減な男など許せない!
 パトリックの拳がぶるぶると震えていた。
「殴りたければ殴ればいい」
「お前を殴る? そんな価値などない。だが、ベアトリスには二度と近づくな。隠れてこそこそとすることも許さない」
「判ってるよ。思いはすでに断ち切ったよ。親父の前でも同じことを言われて約束した。今日は昨日のアメリアの事件の後にダークライトが何も感づいてないか確かめに来ただけだ。幸いそれは大丈夫だった。それにお前が来てることもわかったし、これで安心だ」
 ヴィンセントは飼い猫のように大人しくなり淡々と語った。
 言葉とは裏腹に落ち込んで立ち直れない弱さが伝わる。
 嫌いな相手ながら、ヴィンセントの態度がやるせなく、目を覆いたくなる程見たくない光景に出くわして、パトリックは戸惑った。
 生意気で自信過剰な奴だったはずなのにと思うと、この態度はありえなかった。
 二人はこの後、沈黙したが、バスがやってきたことでヴィンセントは無言でそれに乗った。
 バスにはまばらに数名の乗客が座っているだけで空いていた。
 パトリックはヴィンセントが座席に座るまで外から見ていたが、ヴィ ンセントは一度もパトリックと目を合わさなかった。
 バスはウィンカーをカチカチ点滅させて、黒い排気ガスを噴出し、一般乗用車の中に紛れて去っていった。
「あいつ、口では思いを断ち切ったとか言ってるが、気持ちは全くついていってないのがバレバレなんだよ。言い訳してこそこそやってきているくらいだ、必ずまた暴走するに決まってる。あいつはそういう奴なんだ」
 パトリックは来た道を戻りながら、今後の対策を練っていた。どこまで白を切れるか、パトリックもまたベアトリスに真実を知られるのを恐れた。その時自分に不利になることが見えていた。
 ディムライトがホワイトライトを追いかける。
 親同士が作った婚約証明書がある限り、どうみても権力を手に入れたいがための構図が出来てしまうと懸念した。
 ベアトリスがなぜ自分の身分を知らされずにこの地上界にいるのか、アメリアやリチャードがなぜそれを必死に隠そうとしているのか、その謎を彼女が解いたとき、また新たな困難にぶち当たる。それもまたパトリックの頭を悩ます種だった。
 そしてダークライトが動き出してしまった。
 穏便に事が運ぶなどと、断然思えない。
 眉間を押さえながら何かいい対策はないかパトリックは必死に考えていた。
 いっそこのままベアトリスをどこか遠いところへ連れて行きたかった。だがこのタイミングでそれをしてしまうと、益々ベアトリスに怪しまれる。
 危険が迫る中で秘密を守り通し、ダークライトの攻撃をかわす。
 パトリックは頭が痛かった。自分でもできるかどうか不安になるほどの問題だった。しかしやるしかない。やらなければベアトリスを待ってるものは──。
 考えただけでパトリックはぞっとした。それは口にだすのも恐ろしい言葉であった。
 ベアトリスはゆっくりと住宅街を歩いていた。気がつけばいつものウォーキングコースを歩いているのと変わらなかった。
 ヴィンセントを探しきれなかったが、自分が取った行動は真実と向き合う始まりの一歩だと思えた。
 ヴィンセントもパトリックも行った、儀式のような血を見せる行為。
 偶然では片付けられない。
 自分の知らない何かが必ずそこにあるとベアトリスはそれに気が付いても、この状態では暗闇の中を手探りで見つけようとするようなものだった。
 仮説を立ててみても、落ち着けばそれを証明できる証拠など何一つないことに気がつく。
 あやふやな記憶だけを信じてみてもどうすることもできなかった。
 いつもはここで都合のいい妄想という理由をつけて終わってしまいそうになるが、今回は違う。逃げずに突き止めたいという気持ちで溢れていた。
 もしヴィンセントが人間じゃなかったとしたら──、不快な空間で怪物に襲われたときに見た野獣がヴィンセントだったとしたら──、ベアトリスはそれでも真相を突き止めたかった。
 怖いという感情はそこになく、ヴィンセントを強く思う気持ちが、真実に目を向けるように追求させる。
「これには必ず訳がある」
 そう思うことで、ベアトリスはヴィンセントと離れてしまったことに前向きになった。
 自分が突き止める努力をするという選択をベアトリスは選んだ。
 いや本当はヴィンセントを思い続けたいという理由が欲しかっただけかもしれない。
 そしてパトリックにも何かがひっかかる。
 無邪気で憎めないところがあるが、時にはそれが計算されたようでもあると気づき始めた。
 何かを隠すために真実をうもらせるための演出──。
「今まで疑うことなどなかったけど、疑問があればとことん追求。そこから何かがわかるかもしれない」
 ベアトリスはこの時、自分を変えなければと強くなることを決意した。背筋を伸ばし、シャキシャキと突然リズム良く歩き出す。
 ベアトリスが家に戻った頃、パトリックは空いていた部屋でベッドの上に腰をかけ、荷物を広げてごそごそしていた。
 客間用にしていたその部屋は、アメリアのセ ンスで、すでに色々と揃えられていた。ベッド、タンス、ちょっとした机なども置いてある。すぐにそこで生活できる準備はすでに整えられていた。
 パトリックは長期の旅行のために用意したかと思われるスーツケースの中身を取り出して、しまえるところに収めていく。机にはノートパソコンが置かれ、すぐにイ ン ターネットが出来る状態になっていた。
 ベアトリスは開きっぱなしのドアをノックした。パトリックは一度顔を上げたが、すぐにまた荷物整理に手を動かした。
「やあ、結構長かったね。それで探し物は見つかったのかい?」
 パトリックは少し冷たい言い方をしたが、これもまた計算した戦略だった。怒ったフリをすればベアトリスは落ち着かなくなり、話の主導権がパトリッ ク側に流れるのを期待していた。
「探し物? うん、見つかったよ。一番自分に必要なものを見つけた」
 ベアトリスの落ち着いた返事はパトリックには予想外だった。胸騒ぎがするのか急に手元が止まった。何かが違う。急激なベアトリスの変化に不安にさせられた。
「ふーん、それで何を探してたんだい」
「自分だけの大切なものだから、それは内緒。ところでなんか怒ってる?」
 ベアトリスはパトリックの様子を落ち着いて観察する。何かを知っていたとしても、それを聞いたところで簡単に教える人ではないことをよく理解していた。
 これから一緒に住めば何かを聞き出すチャンスもいつかあると自分の取った行動についてあまり触れないようにした。
「いや、怒ってないよ。そっか、見つかったのならそれでいいけど」
 パトリックは自分の計算した通りの展開にならずに心が乱れていた。
──ベアトリスは何を考えてるんだ。
 二人は心の中で気まずい気持ちを抱き、お互い探りあいながらも、表面は何もなかったように振舞っていた。
「何か、手伝おうっか」
 ベアトリスがパトリックの側に近づき一緒にベッドに腰をかける。ベッドの上にあったスーツケースの中を覗きこんだ。
「大した荷物はないから、大丈夫さ」
「あれ、これ何?」
 ベアトリスがスーツケースの中に手を突っ込みそれを取り出した。
「おい、勝手に人のもの触るな」
 パトリックは取り返そうと手を伸ばすが、ベアトリスはそれを交わし目の前でじっくりと見つめた。
「これは……」
 それは写真立てだった。べそをかいた子供の頃のパトリックが満面の笑顔のベアトリスと手を繋いで一緒に写っていた。
「笑うだろ、その写真。でも僕には一番大切な思い出なんだ」
 華奢な体に、透き通った輝きのある金髪の女の子。ベアトリスが自分で思うのも変だったが、それはとても美少女に見えた。自分の昔の姿に驚き、軽くショッ クを受けていた。そしてこの頃のことを良く思い出せない。
「やっぱりこれはパトリックと私なの?」
「ああ、そうだよ。この時、君から僕の手をぎゅって強く握ってきたんだよ」
「どうしてパトリックは泣いてるの。もしかして私が泣かしたとか?」
「そうだよ」
「えっ、私何かしたの?」
 ベアトリスは驚き、思い出そうと眉間に皺を寄せ考え込んだ。
「僕はあの時、傲慢で何でも一番にならないと気がすまなかった。子供ながら生意気なガキだったと思う。友達も作らずいつも一人で、他の奴らとは違う選ばれたものなんだって、そればかり思ってた。だから他の奴らを見下していたんだ」
「それで私が腹立って殴っちゃったとか?」
「ハハハハ、違うよ。君は僕を心配したんだ。『トゲを一杯つけたままだと誰も近づけないよ』って」
「それでどうしたの?」
「君は僕にキャンディをくれたんだ。それを食べると優しい気持ちになってトゲが落ちるとか言って。僕はそんなのいらないってムキになって投げ捨て ちゃったんだ」
「ひどーい」
「だろ、それなのにその時君は、ニコって笑うんだよ。『楽しかった?』って言って。僕ははっとしたんだ。全然楽しくなかったって。『自分が楽しかったら それでいいけど、でも楽しくなかったらそれは間違ってる』ってまた君は言ったんだ。僕は今まで意地になって突っ張ってたことが楽しくなかったんだってやっ と気がついた。そしたら君の前で泣いちゃったよ。君は僕の手を力いっぱい握って支えてくれた。あのときの君の手は本当に温かかった。暫くそのままで歩いて いたら、強情な僕が女の子に泣かされてると思った人が、その時面白半分でこの写真を撮ったんだ。後で笑いものにでもしようとしたんだろうね。でも僕はこの 時のお陰で目が覚めた。そして思った。君は僕を救ってくれたんだって。それからさ、君に夢中になったのは」
「私、すっかり忘れてた。そういえば、急にパトリックはしつこく私につきまとったよね。カエル持ってきたときは驚いたし、私に恨みでもあるのかと思ってた」
「ええ、酷いな。あれは君を慕っての行為だったのに。あのカエルなかなか手に入らない珍しい種類だったんだぞ。だから君にあげたかったのに」
「カエルでそんな風に思える訳ないじゃない。だけど私、なんでそんなこと言ったんだろう。でも小さい頃、人の心の色が見えたような気がした。心に傷を負っ てたり、悲しんでいる人とか見ると、妙に救ってあげたいとか思ったりしたっけ。今じゃ考えられないかも。私の方が救って欲しい感じだもの」
 パトリックは写真立てをベアトリスから受け取り、すくっと立ち上がると、大事そうに机の上に飾った。
「だから今度は僕がずっと側にいて、君を幸せにするよ」
 さらりと気持ちを伝えるパトリックの言葉。それはいつも自然にベアトリスの心の中に入ってきては、鐘を突然鳴らすようにドキリとさせられる。
 ベアトリスはその言葉に心を縛られてパトリックを見つめてしまった。
 澄みきったブルーの瞳が愛情一杯に潤い、ベアトリスの心まで静かに届けとパトリックは見つめ返す。二人の距離が無意識に縮まっていった。
──なんて優しい目で見つめるの。本当に私しか見ていない目。
 心の奥にまで訴えてくるパトリックのその眼差しはベアトリスの視線を釘付けにする。パトリックの顔がどんどん目の前にせまる。雰囲気が二人を飲み込もうとしていた。
 部屋という密室、そして目の前に想い焦がれていた人。この環境でこの状況はパトリックは我を忘れそうだった。その寸前ではっとして、ベアト リスの頭に軽く手を乗せ、ぐしゃっと髪を掴むように撫ぜ、ニコッと笑顔を作った。
「あっ、キスすると思ったでしょう。それともして欲しかった?」
 ベアトリスは枕を掴み「バカ」と投げつけて立ち上がった。
 パトリックに掻き回されていいように遊ばれているだけなのか、それとも意図があって先の読めない行動をわざとするのか、ベアトリスは持っていきようのない気持ちを握りこぶしを作って、体に力を込めて発散させていた。
 パトリックが背後でクスクスと笑っている。しかし心は寂しげに、触れたら割れそうなくらいの薄いガラスの入れ物にベアトリスを思う気持ちを入れて大切に抱えていた。
 どこかで気持ちを押さえなければ、パトリックもまたヴィンセントのように暴走しそうになる。
──これじゃ人のこと言えないな。
 パトリックは落ち着けとばかり、大きく息を吐き出し、また荷物整理をし始めた。
 ベアトリスは自分の部屋に入ると、ドアを強く閉めた。その音は家中に響き、苛立っているのがこの上なく表現され、パトリックも離れた部屋にいながら肩をもちあげるように身 縮める程だった。
 ジャガイモが入った袋が投げ捨てられるようにベアトリスはどさっとベッドにうつぶせに寝転んだ。
「もう、あの男の行動は本当に読めない。うっかりしてたら、本当に流されてしまう。これじゃ聞きたいことも聞けやしない」
 ベアトリスはこの先が思いやられると思うと、手足をバタバタしてもがいていた。
 ふと、パトリックが持っていた写真のことが頭に浮ぶと、がばっと体を起こして、クローゼットの中をごそごそしだした。奥から箱を引っ張り出し、中身を確認する。
「あった」
 小さいが厚みのあるアルバムをベアトリスは掴んだ。ずっと考えないようにしていた過去のことだったが、パトリックの持ってた写真を見たせいで昔が妙に恋しくなる。
「私が小さかった頃の写真が入ったアルバム。長いこと見てなかった。あの頃、これをみたらパパとママのこと思い出して泣いてしまうからって、自分で封印し たんだった。誰もきっちりとした情報を教えてくれないまま、悲しみだけが残った事故だった。あのときの記憶はないけど、覚えていたらもっと辛かったんだろ うか」
 両親を失った心の傷は癒えたというより、それと向き合うことを許されてはいなかったために、考えることもせず悲しみを深く抱くことはなかった。
 この時は懐かしい人に会う気持ちでアルバムを開いてみた。だがページをめくってもめくっても頭に描いた二人の顔に対面できなかった。
「あれ、パパとママの写真がない。どうして」
 最後までベアトリスはページをめくっていく。そこには自分の小さかった姿が写りこんだ写真はあるが、家族と一緒に写っているものは一枚もなかった。
「まるでパパとママの存在すらなかったみたい。もしかしたら分けてどこかに入れ込んだのかもしれない」
 ベアトリスは箱の中に落ちてないか探した。小さい頃の持ち物や思い出の品は入っているが両親の写真はどこにもなかった。思い違いで最初からもってこなかったのだろうかとも思えてきた。
 おぼろげな記憶だけの両親の姿は写真なしではさらにぼやけていく。
 このまますっかり忘れてしまうのではと思うとベアトリスの目から涙が溢れ出した。ずっと考えないようにしていたことを後悔し、そして写真までもなくしてしまったことは両親がいたという事実までも抹消してしまった気持ちにさせた。
 悲しみに沈んでいたとき、ドアをノックする音が聞こえた。ベアトリスは涙を急いでふき取ると、小さなアルバムを箱に戻して、慌ててそれを部屋の隅に押しやっ た。
 入ってもいいと許可をすると、ドアは開きパトリックが恐る恐る覗き込んだ。
「何よ!」
 泣いていたことを誤魔化そうとすると、ベアトリスはつっけんどんに答えてしまった。
「なんだい。まだ怒ってるのかい。まいったな。これじゃ一緒に買い物行こうって誘ってもついてきそうもないな」
 パトリックは邪魔したと遠慮してドアを閉めようとした。
「待って、一緒に行くわよ」
 きつく言い過ぎたかと少し罪悪感を覚え、ベアトリスはむきになってしまう。
 何よりパトリックは子供の頃の自分のことを知ってると思うと、思い出を取り戻したくて一緒にいたくなった。
 二人はアメリアに一言声をかける。
 アメリアはベアトリスが出歩くことに少し心配そうな表情を見せたが、パトリックは任せて欲しいと胸を張る。
 アメリアはこんな状況でもベアトリスが明るく振舞っているのは、パトリックのお陰でもあると認めていた。
 彼が現れなかったらベアトリスはふさぎこんでいたかもしれないと思うと、ここはパトリックに任せてもいいように思えてきていた。
 アメリアが何も口を挟まないことに、パトリックはそれが信頼の証だと受け取った。それに応えるように白い歯を見せて力強い笑顔を返していた。
 パトリックとベアトリスは車で出かけると、アメリアはベッドから起き出し、窓のカーテンを閉めた。先ほどパトリックから返してもらった壷を目の前にして何やらブツブツ と呪文らしい言葉を発した。
 言葉に反応して真珠のような飾りが光だし、映写機で投影されたように人影が現れた。そしてそれは声を発す。
  アメリアは感情を一切出さず、まるで苦手な気持ち悪い虫を見るような目をしてそれと向き合った。
 それが姿を現す度、避けて通ることができない試練をいつも味わっていた。
 アメリアはそれと暫く語っていた。
 広大な土地が広がるこの辺りの地形は、四方八方に山がなく、ひたすら平野が続き、高いビルや建物が目の前を遮らなければ地平線が当たり前のように見渡せる。
 ダウンタウンで、密接してそびえて建っている近代ビルを遠くから見ると、地平線が広がる土地では、そこだけ生け花をさしたように目立っていた。
 それを背にしながらコールはハイウエイを走っていた。
 高速を降り、住宅街に入って目的地へと車を急がせる。
「おっと、ここでスピード違反をしたらリチャードが飛んできてしまう。気をつけねば」
 広い緑の土地に囲まれた池の向こう側に屋敷が見えると、焦る気持ちを抑え適当な場所に車を止めて、そこからは歩きだした。
 このあたりは土地が豊富なため安く、家もそこそこの値段で大きなものが建つ。
 ある程度の余裕があれば、豪邸も夢ではないかもしれない。
 そんな豪邸の中でも、値段が極端に安かったりすれば、いわくつきの可能性もあるかもしれないが、実際過去に殺人事件の舞台となり、人々は呪われた屋敷と噂する家があった。
 もう何十年も人が住んでいないが、門の向こうは広い土地と木々に囲まれ、何軒もの家を足したような大きさの立派な屋敷が建っていた。
 コールはその家の門前に立った。
 過去に悲鳴が部屋中響き、赤い血の海に染まった屋敷だと思うと肌に合うと興奮し舌なめずりをした。
「さあて、ゴードンを探すか」
 門がどんなに高くとも、超人並の動きで軽がるジャンプしては、あっという間に敷地内へ入っていく。誰かに見つかり追いかけられたとしても、コールは捕まる心配は全くなかった。
 それよりも追いかける奴の背後に素早く移動して、いざとなれば首を絞めることだろう。この男には下手に近づけば命の保障はない。
「ゴードン、居るか。いるんだろう。でてこい」
 コールはかくれんぼの鬼のようにゲーム感覚で辺りを探す。
 誰もいるはずのない二階の部屋の窓に物影がすっと動くと、そこだとめがけて屋根に飛び乗り素早い動きでコールは追いかけた。
 逃がすかと、窓ガラスの部分に体をすり抜けさせた。
 コールはガラスであれば、それを液体化させて、そこを通り抜ける能力を持っていた。
 やはり素早い動きのコールには敵わずに、ゴードンはいとも簡単に首根っこを捕まえられていた。
「やっと見つけたぜ、ゴードン。なんで逃げるんだ」
 コールの顔は笑っているが、低く不気味な声をだしていた。
 それ以上変な行動をすると容赦はしないと言っているようなものだった。
「コール、何しにきたんだよ。おいら何もしてねーよ」
 コールが怖いのか、丸い体をさらに猫のように丸め、ゴードンは怯えていた。力関係がありありと見えた。
「あれだけノンライトたちの世界で騒ぎを起こしておいて、何もしてないだと。嘘つくと為になんないぞ」
 ゴードンは床に投げ飛ばされた。体がふくよかで丸いせいかボールのように跳ねて転ぶ。乱れた少ない髪を後ろになぜてぷくーっと頬を膨らませた。
「痛いじゃないか。ただでさえ、足腰が痛いっていうのに。もしかして昨晩のことを聞いてるの? あれはホワイトライトじゃなかったよ。引っかかった反応が いつもと違ったからおいらも変だと思ったんだ。そして確かめにいったらやっぱり違った。ディムライトよりは力ありそうだったけど、中途半端な奴だった。だから腹立って虐めてやった」
「ホワイトライトじゃなかったのか。それでも反応はあったってことなんだろう。そいつは何者だ」
「そんなのわかんない。役に立たないものはいらないからどうでもいい」
「まあ、それはいいとして、そこで物は相談だが、罠をあちこちに仕掛けてくれないか。ホワイトライトがこの辺にこっそりと潜んでいるんだ。それをどうしても見つけたい」
 コールの顔をちらりと見ながら、嫌悪感を露にし、ゴードンは渋るような態度を見せた。
「罠ならもうあちこちにしかけてある。おいらもホワイトライトを手に入れたい。足腰が痛いからそれ治して欲しいだけ。それ以上のことは望まない」
「お前、わかってねぇーな。ホワイトライトに足腰の痛みを治して欲しいだと。あいつらは医者か。それよりも、ホワイトライトのもつライフクリスタルを手に入れれば、あいつらの世界に行き来でき、永遠の命を持つことができるんだぜ」
「ライフクリスタルは彼らの命のことじゃないか。そんなのとったらホワイトライト死んじゃう」
 ゴードンはダークライトでもすれてない部類だった。深く物事を考えられず、他のダークライトの間では頭が足りないと見下されている存在だった。
 それがゴードンのコンプレックスでもある。
 だがホワイトライトを見つける能力は誰よりも優れているために、自分の意思とは裏腹に利用されやすい存在でもあった。
「何言ってんだ。あいつらばかりいい思いして、のうのうと永遠に暮らしてやがる。それをダークライトが乗っ取ってやるんだ。この世は面白くなるぜ。俺たちが全ての世界を支配するんだぜ。なっ、協力するだろう」
「コール、ずるいから信用できない。今までいろんなダークライト騙した」
「お前はちょっと頭の足りない奴だと思っていたが、ここまでバカだったとは。俺に逆らうってことはどういうことかわかってるのか」
 コールは凄みをきかせ、褐色の目になり数体の影を呼び集めた。
 ゴードンはそれに取り囲まれ、じりじりと追い詰められていった。
「何すんだよ。おいら、影嫌い。こいつらおいらの中に入って好き勝手する。暴れたらリチャードに目をつけられる」
 影は通常ノンライトにとり憑くが、ゴードンのような気弱なタイプのダークライトも、ときには影が入り込み、いいように弄ばれる。
「昨日あれだけ暴れておいて、もうとっくに目を付けられてるんじゃないのか。そんなこともわからないのか」
「あれは、殺してない。腹立ったからちょっと虐めただけ。あれくらいならリチャード許してくれる。でも影がおいらに入ったらのっとられて誰か殺しちゃう。そしたらリチャードに抹殺される。嫌だ」
 ゴードンは弱いために、他のダークライトに利用されないようにと、リチャードのいるこの土地をわざと選んでいる。
 悪事を働きたい、力を持つダークライトは反対に、この土地を敬遠するので、無茶をしなければ平和に暮らせるのをゴードンは良く知っていた。
「だから、ホワイトライトを手にしたらリチャードなんて怖くなくなるんだよ。俺たちの方が偉くなるんだよ」
「偉くなる? それっておいら賢くなるってことか?」
 急にゴードンの目がキラキラする。憧れと希望が瞳に現れた。
 コールはその手があったかとイライラしてた気分が急に晴れ、笑顔と共に最大限にゴードンの欲望を刺激した。
「ああ、そうだ。もう誰にもバカにされずに、賢くなって皆から認められる」
「そっか! 賢くなるのか。それじゃ手伝う。でもコール絶対おいらのこと裏切らない?」
「当たり前だろうが。お前は俺の相棒じゃないか。お前と俺でダークライトを一番偉いものに変えようぜ」
「賢くなれる。もうバカとは呼ばれない。うん、わかった協力する。だからこの影どこかへやって」
 コールは影を蹴散らした。
 だが一体だけ、まだゴードンの背後にいる。それに指示を与えると、何も知らないゴードンの背中にすーっと入っていった。
 コールは鼻で小バカに笑うも、何事もないようにゴードンの肩を抱いて大親友のように豪快に優しく接した。
 ゴードンは何も知らず気分よく無邪気に浮かれていた。

 この日、突然学校が休みになると、考えることは皆同じなのか、暇をもてあそぶ高校生達がモールや映画館に足を運んでいた。
 サラ、グレイス、レベッカ、ケイトの四人組みも映画館から出てきて、先程鑑賞した映画の感想を好き勝手に述べていた。
「禁断の恋か。ねぇ、吸血鬼って本当にいるのかな。あんなかっこいい吸血鬼なら私も恋に落ちたい」
 レベッカが目をとろんとさせて語っている。
「あんたじゃ無理よ。せいぜい、血を吸われて捨てられて川に浮かんでるわ」
 ケイトがメガネを押さえて、あざ笑うかのようにあっさりと返すと、レベッカはケイトの頭を叩いた。
「でもあの映画観てたら、主人公たちがベアトリスとヴィンセントと重なっちゃった」
 ぼそっとグレイスが言った。
 サラは何も言わずスタスタと前を歩いている。
「そしたら、もう一人でてきた恋敵の狼男の役はパトリックになってしまうじゃない」
 レベッカが笑いを取ろうと冗談を言ったつもりが、サラが突然振り返り強く睨んでいた。
「どうしたのよ、サラ、何をいらついてるの。映画面白くなかったの?」
 レベッカが走りよって声をかけるが、サラは無視をした。ほっとけとケイトが目で伝えると、レベッカも頷く。
「ねぇ、まだ時間あるし買い物にいかない」
 グレイスが気を遣って三人をモールへと導いた。
 ぶらぶらと四人が歩いていると、ショーウインドウに飾られたドレスに目が行き立ち止まる。
「そう言えば、プロム(ダンスパーティ)がもうすぐね。私達ソフォモア(10年生)は来年からになるけど、もしジュニア(11年生)シニア(12年生)の男子に誘われたら 出られるんだよね。誰か誘ってくれないかな」
 レベッカが憧れの眼差しを向けて言った。
 彼女はショートヘアーでボーイッシュな感じがするが、内面は白馬の王子様を待つような女の子であった。
 だが、ソバカスがコンプレックスなために、それを補おうと明るく振舞い活発な雰囲気が目立ってしまう。
「この中で一番可能性がありそうなのはグレイスね。この間デート誘われてたじゃない。あれは確かジュニアじゃなかった?」
 ケイトがしっかり見てたと言わんばかりに言った。
「やだ、ケイトったら、見てないようでちゃんと観察してるんだもん。監視カメラみたい」
 グレイスははにかみ、困惑した態度をとった。
「でも、断ったんでしょ。グレイスが見知らぬ男性に声を掛けられてホイホイついて行くわけないじゃない」
 話の腰を折るようにぶっきらぼうにサラが言った。
 三人は顔を見合わせる。サラの機嫌が悪いことを感知して、またいつもの悪い癖が始まったと確認しあっ た。
「だけど、サラだって隣のクラスの男の子からデート誘われたわよね。あっさり断ってたけど。あの子、結構もてるのにもったいないな。でもサラってどういうタイプが好みなの?」
 ここはサラ中心の会話を取らせようと、レベッカが話を振った。
 しかしサラは黙って三人の前を歩いていた。質問に答えようとはしなかったが、質問の内容はしっかりと把握し、サラの頭の中には憧れの人の顔が浮かんでいた。
 でも、そんな事はこの三人の前では言えるわけがなかった。
 サラの反応がいつまで待っても得られないので、三人は好きにすればいいともう放っておくことにした。
「ねぇ、なんか飲まない? 喉渇いちゃった」
 ケイトがモールの中心にあるフードコートに行こうと誘った。
 各々の好きなものを手に入れ、空いているテーブルを見つけ一息つく。
 だけどサラだけは、何も頼まず静かに座っていた。
 グレイスが気を利かせて、自分の飲み物を勧めるが、いらないとサラは手ではたいてしまった。
 その時カップがテーブルに倒れしまい、蓋がしてあったがストローを差し込んだ隙間から少し中身が飛び出してしまった。
「サラ、いい加減にしなさい」
 レベッカが注意をすると、グレイスはこれ以上こじれるのを避けるためになだめていた。
「大丈夫だって。私の不注意で傾いただけだから。ちょっと手が汚れたから洗ってくるね」
 グレイスは立ち上がり席をはずした。
 サラのおかしさがいつもの機嫌の悪さとは違うのを気にしていた。

 パトリックとベアトリスも同じモールで買い物していた。
「でかいモールだな。ここじゃなくても、その辺の適当なところでよかったんだけど、もしかしてベアトリスがここに来たかったのかい。僕とのデートのためにいいところを選んでくれたんだね」
 また出たかとベアトリスは思ったがもうすでに免疫がついていた。
「ここが一番近かったの。ここなら欲しいもの大体揃ってるからちょうどいいでしょ」
「そして、映画館もある。なるほど一緒に映画っていうのもいいね」
「アメリアを放っておいて映画なんて観てられないでしょう。早く欲しいもの買って帰りましょう」
 ベアトリスが後方にいるパトリックに視線を向けながら前も確認せずに歩いていると、パトリックは走ってベアトリスを片手でさっと抱えた。
 ベアトリスは突然のことにドキリとしてしまう。
 また抗議しようと怒りを露にしようとしたとき、目の前を車がすーっと通っていった。
 車が頻繁に出入りする駐車場では、余所見をしていると危険だった。
「危ないじゃないか。駐車場で轢かれたらどうすんだい」
 パトリックに助けられて、ベアトリスはバツが悪くなる。
 さらにパトリックはベアトリスの手を繋ぎ、幼児のように引っ張っていった。
「ちょっと、子供じゃないんだから離してよ」
「やだ。この手を離したらまた君は危ないことするかもしれない」
 ベアトリスはパトリックの腕を見て、ヴィンセントと手を繋いで廊下を走ったことを思い出すと、それとオーバーラップしてしまう。
 はっとしたとき、パトリックの手を大きく振りはらって、慌ててモールの入り口へ早足で進んでいった。
 パトリックは寂しげな表情で何も言わずに後を静かについて行く。
 モールの中では必要なものを値段も見ずに、パトリックは手当たり次第に買っていく。
 支払いは全てカードを使っていた。
「一応社会人だからね」
 聞いてもないが、ベアトリスが口を開けてみていることに、パトリックは心配ご無用といつもの笑顔を振りまいていた。
 元々金持ちではあったが、仕事を持って自分で稼いでるのならベアトリスも文句もいえない。
 ベアトリスはパトリックのしたいように任せ、暫く従って着いて行っていたが、買い物は中々終わりそうにもなかった。
「ねぇ、まだ服買うの?」
 ショッピングバッグは両手一杯に増えていた。
「うん、着替えあんまりもってこなかったから、それにかっこいい服着ないと、ベアトリスのハートをつかめないだろ」
 はいはいと、ベアトリスは無視して先を歩いた。
 そしてある店で足が止まった。そこはヴィンセントが着る服装の雰囲気がしていたからだった。
 それをじーっとみてふと廊下で拾った服の切れ端を思い出した。
 ご丁寧にしっかりとジーンズのポケットに入れていた。それを取り出して複雑な思いで眺める。
「ベアトリス、どうしたの」
 パトリックに声を掛けられ、咄嗟にまたその服の切れ端をポケットにしまった。
「あっ、ここもいい感じの服があるね。ちょっと見ていこうかな」
「ダメ!」
 ベアトリスの口から咄嗟に出た言葉は、何かを守りたいほどに威嚇するくらいの勢いだった。
「なんだよ、そんなに強く否定しなくても…… 僕に似合わないってかい? そうだな、ちょっと派手だよね。僕は落ち着いたシンプルなものが好きだか らね。さすが僕の好みまですぐにわかるなんて、よく僕のことみてくれてるんだ」
 ベアトリスは心苦しかった。本当の理由など言えない。それなのにパトリックはいつも前向きな答え方を返してくる。
 ヴィンセントのことを考えるとパトリックと一緒にいることが辛くなってくる。
 心の寂しさを補うためにパトリックを利用している気さえしてきた。
 ただの幼なじみで友達と線分けしていても、認めてなくとも形式上は婚約者でもある。
 そして何より、パトリックと一緒に居ることが嫌じゃなかった。強引で必要以上に前向きだが、優しくていつも自分のことを考えてくれて守ってくれる。
 ベアトリスはパトリックに流されていくのが怖くなってしまった。だが、繋ぎとめるためのロープがどこにも引っかからない。
 心の迷い──。
 ベアトリスは衝動にかられ突然早足でその店の前を過ぎ去った。
「ベアトリス、ちょっと待ってよ」
 パトリックは追いかけようとしたが、前から来ていた人とぶつかってしまった。謝っている間にベアトリスは人ごみに紛れてかなり先を歩いていってしまった。
「んもう、参ったな。まっ、いっか。迷子になるってこともないな。方向はこっちだし、僕の姿が見えなくなったらベアトリスも気になって探してくれることだ ろう」
 パトリックは落ち着いてまた自分のショッピングを楽しんだ。そしてチョコレートショップを見つけるとそこに入っていった。
 我に返ってふと後ろを振り返ると、パトリックがいないことに今度はベアトリスが気がついた。その場で突っ立って、辺りをキョロキョロする。
 そして後ろから突然肩を叩かれた。
 パトリックがまた何かを企んでると思い込んだベアトリスは、その手には乗るかと怖い形相で振り返った。
「いい加減にして…… ん?」
 そこにはおどおどとしたグレイスがいた。
「ご、ごめんなさい。驚かすつもりはなかったんです」
「ち、違うのよ。あの、他の人と間違えてその、グレイスだとは全くわからなくって」
 ベアトリスは慌てふためいた。
「そ、そうですか。誰かと待ち合わせですか?」
「待ち合わせというより、そのはぐれちゃって、今探してたの。ごめんね、怖がらせて」
「いえ、私こそ。でもここでベアトリスに会えて嬉しいです。よかったらそのお友達も交えて一緒にお茶でもどうですか。いつものメンバーがあっちに揃ってますけど」
 グレイスははにかんだ笑顔を見せて一生懸命誘ってきた。心を開いて接しているのがベアトリスには伝わった。
 その気持ちは有難く素直に嬉しかったが、パトリックをこの子たちの前で紹介するのは避けたく、守りの姿勢に入った。
 遠慮しようと断る文句を考えているときだった。
「よぉ、やっと追いついた。僕を放っていくなんて酷いじゃないか」
 最悪のタイミングでパトリックが現れた。ベアトリスは失敗でもやってしまったかのように片手で顔を抑えた。
「あっ、あなたは」
 グレイスが目を見開いて驚き、両手で口を押さえている。
 パトリックはグレイスを見ると、同じディムライトであることに警戒心が強まった。
 ホワイトライトを目の前に、親しくないディムライトと顔を合わせると無意識に張り合う体制となってしまうらしい。
「やあ、君とはどこかで会ったことがあるね。そうあのイベントがあったときだったね。ベアトリスと友達だったのかい」
 落ち着いた物腰柔らかい言い方でも目つきは厳しかった。
「えっ? グレイスと知り合いなの? イベントって何?」
 ベアトリスは意外な展開に驚いていた。
「ああ、スペリング大会(単語の綴りをどれだけ知ってるか競う催しの事)みたいなものだよ。能力を競って誰が一番優れているか決める大会のことさ。そこで昔会ったのを覚えてたんだ。この子もかなりいい成績だったからね」
 パトリックは若いディムライト同士が競う大会のことを意味していた。
 誰が一番優れているか、頭脳、力を競う大会。ホワイトライトたちにアピールできると考え、ライトソルーションをより多く手にするための手段の一つとして、ディムライトたちには認識されている。
 優れたディムライトたちはホワイトライトも優遇するため、力の見せ所として定期的に催しが開催されていた。パトリックが護身用の特別な装置を持ってるのも、こういう大会で努力して手に入れた結果であった。
 またディムライト同士の情報交換や交流の場でもあり、パトリックはベアトリスを探し出すために何か情報を得ようと、そういう場所には積極的に参加していた。
 グレイスはすっかり怖がってしまい挙動不審になっていた。
 パトリックに、ベアトリスの存在を隠してたと誤解をされているのが、彼の目の表情からとれた。
 以前会ったときに、子供の頃のベアトリスの写真を見せられ尋ねられたことがあった。その時にベアトリスがホワイトライトだということと、パトリックの婚約者だということを知った。
 もちろん側には残りの三人もいた。
「あの時は、本当に知らなかったんです」
 突然グレイスは大きな声をあげ主張した。逃げ出したくなる気持ちを抑え、体が震えている。
「ちょっと、グレイス、どうしたの。落ち着いて」
 グレイスは人見知りをしている。
 慣れてない人に会うと怖くなって、パニックを起こしてるのかもしれない。
 ベアトリスは真相のことも知らずにグレイスを庇った。
「パトリック、あんまりこの子を脅かさないで。私も最近仲良くなったばかりで、この子人見知りしちゃうんだから。こんなかわいらしい子になんて目で見てるのよ」
 パトリックもやりすぎたかと反省する。
「ごめんごめん、この子、見た目と違ってかなり出来る子だったから、ちょっとライバル心が芽生えて…… すまなかったな」
「ライバルって、パトリックはもうすでに大学卒業してるじゃない。大人気ない」
「まあそうなんだけど、この子だって、二年くらい飛び級してるんだぜ」
 パトリックの言葉にベアトリスは目を丸くした。
「えー、グレイスが飛び級。そしたら私よりもさらに三つ年下ってこと?」
 グレイスは遠慮がちに頷いた。
「そう言えばグレイスは小さいし、他の皆より幼い感じがする。だけどどうして皆そんな簡単に飛び級なんてできるの」
「ベアトリスだって、やろうと思えば出来たと思うよ。だけどアメリアが許さなかったと思う。あの人決まったことはきっちりと順序立てないと気がすまない人だから」
──それにそんな目立つことしたらベアトリスの正体がばれてしまうことを懸念したんだろうけど。
 パトリックは心の中でつけたした。
 グレイスはまだ落ち着かず、パトリックを怖がっていた。
「あの、私、その、お邪魔してすみませんでした。それでは失礼します」
 逃げるように走って去ってしまった。
「んもう、これもパトリックのせいだからね。とにかくここで待ってて、すぐに戻ってくるから」
 ベアトリスは非難の指先をパトリックに向けた。そして放っておけずにグレイスの後を追った。
「待ってグレイス」
 折角心開いて誘ってくれたのにと思うと、ベアトリスは申し訳がなかった。
 グレイスが人見知りなのは、飛び級したせいで、年上の人間といつも接して気を遣うからかもしれない。
 そんな中で自分には心開いてくれるグレイスだからこそ、放っておくわけにはいかなかった。
 グレイスの後を追いかけ、フードコートまで来るとそこにはいつもの三人がいた。グレイスが半泣き状態で戻り、ベアトリスも一緒についてきたので、三人は何事かと驚いていた。
「ちょっと、グレイスどうしたの。それにベアトリスも、どうしてここに?」
 レベッカがそう言うと、不思議そうにグレイスとベアトリスの顔を交互に見ていた。
 ケイトも同じようにしていた。
 だがサラだけ、ベアトリスが現れたことでさらに機嫌が悪くなり、無意識に睨んでしまった。
「ハーイ、みんな。あのね、そこでグレイスに偶然会ったんだけど、私と一緒にいた友達が怖がらせてしまって、それでグレイスが怯えてしまったの。だからちょっと心配でついてきたの。グレイス本当にごめんね。ちゃんとまた注意しておくから」
「ベアトリスの友達って? まさかジェニファー」
 ケイトが小声でレベッカに言うと、二人はあたふたしていた。
「グレイスのことは私達に任せて下さって大丈夫ですから」
 サラが面倒くさそうに言った。その裏には早く帰ってという気持ちが込められていた。
「そうだよね、それじゃ私はこれで…… 」
 ベアトリスはこの言葉ですっと帰れるはずだった。それなのにそれができない。後ろからパトリックが現れてしまった。
「ん、もう! 待ってて言ったのに、なんで来るのよ」
 ベアトリスが困った顔をしたとき、ケイトとレベッカは呆然とし、そしてサラは思わず席を立って直立していた。
「パトリック……」
 小さく呟いたのはサラだった。心の中で必死に感情をコントロールしようと葛藤している。
「やあ、仲間が揃ってたのか。へぇ、みんなベアトリスの友達かい」
 パトリックは一人一人の顔を見る。怪しいディムライトはいないか確認するようだった。
 ケイトとレベッカは椅子の背もたれに仰け反ってしまい、硬直していた。
 グレイスはうつむき加減で恐々と様子を見ている。
 だがサラはパトリックと目が合うと心に電気が流れたようにピクっと震え、その衝撃で突然に鼓動が早くなった。
「ちょっとまた怖がらせてるんじゃないの。この子達も最近友達になったばかりなんだから、あまり変な行動とらないでよ」
「わかってるって。それより皆に僕のこと紹介してくれないの? 婚約者だって」
「ちょっと、それはまた違う話でしょうが!」
 ベアトリスはあたふたと慌てるとサラが冷静に口を挟む。この状況をどうしたらいいのか、咄嗟に計算していた。
「知ってます」
 どこかでみたことあると、パトリックは目を細めてサラを注視した。
 サラはにこっと微笑むとパトリックに近づいた。
「私はサラです。そしてこれが、ケイトとレベッカ。グレイスはさっき会ったからもうご存知ですね。以前ベアトリスにも言ったんですけど、あなたの噂は聞いた事がありました。だから婚約者であることも知ってます。こうやってお会いできて光栄です」
 パトリックはグレイスのことは印象に残っていたが、他の三人は見たことがあるくらいにしか覚えてなかった。
 だが、大会では手当たり次第にベアトリスのことについて質問していたので、彼女達にも質問したことを認識していた。
「そっか、それなら話は早い。こちらこそよろしく」
 パトリックも安心した顔でサラに答えた。
 サラは自分をよく見せようと背筋を伸ばし、品のある笑顔を作る。そしてベアトリスに近づき腕を絡ませた。
「私達、先日知り合ったんですが、今ではすっかり仲良しなんです。ねぇ、ベアトリス」
 機嫌が悪かったさっきまでの態度と全く違い、サラの行動は残りの三人にはわざとらしく見えた。
「うん、そうなの。私の方が仲良くして貰ってるって感じかな。だから、失礼なことしないで」
 パトリックに向かってベアトリスは釘をさした。
「それから、婚約者って話は誰にも言わないで。これは書類上のことであって、私は認めてない話なの」
 ベアトリスが四人に向かってそういうと、今度はパトリックが口を出す。
「おいおい、僕がこんなにも愛しているのにそれはないだろう。これから一緒に住むんだし何も隠すことはない」
 このパトリックの発言はサラには耳をふさぎたくなる言葉だった。唇を無意識に噛んでしまう。
「あんもう、また誤解するようなことを。違うの、ただのゲストで暫く泊まるだけだから」
 ベアトリスがパトリックの足を踏んだ。
「痛っ、何すんだよ」
「とにかく、邪魔をしてごめんね。私達はもう行くから。また学校でね」
 ベアトリスはパトリックの腕を掴んで引っ張った。時々後ろを振り返り、苦笑いしてはバイバイと手を振って去っていった。
 四人は暫く口がきけないほど圧倒されていた。そしてサラはパトリックを見えなくなるまで寂しげに目で追っていた。
「誤解されて怖かった。前回の大会でパトリックにベアトリスのこと聞かれたけど、写真見せられても子供の時の写真で今と全然違うし、シールドが強くてあの時は本当に同じ学校にベアトリスがいたなんて気がつかなかった。ちゃんと誤解とけたかな。それとも連絡先もらってたけどベアトリスに気がついた後、すぐに連絡しなかったこと怒ってるのかな。どうしよう」
 グレイスはまだ怖がっていた。
「だからあのとき、早く連絡しようって言ったのに、サラがダメとかいったからややこしくなっちゃったのよ」
 レベッカが言った。
「済んだこと責めても仕方ないじゃない。とにかく自ら来たんだから私達にはもうこれ以上責任はないわ」
 ケイトはどうにでもなれとため息混じりに言った。
 サラは何も言わず、まだ二人が去っていった方向を焦点も合わさず見ていた。

 サラがパトリックに初めて会ったのは大会よりもずっと前のことだった。
 親戚付き合いで、挨拶に訪れたとき、そこで偶然パトリックを見かけた。
 それはベアトリスが連れ去られて数年たった頃だったが、ディムライトならそこで何が起こったか、必ず耳にし、サラもすぐにベアトリスの話を知ることとなった。
 その話のせいでサラはパトリックを見かければ、興味本位に観察するように眺めていた。
 パトリックと話したことはないが、見つめているうちに、しっかりとした風貌から知らずと憧れの対象となってしまった。
 そしてディムライトが集まる大会に参加したとき、グレイスがいい成績を修めて勝ち残り、それに付き添った。
 その時にパトリックが現れ、すっかり大人びたその姿にサラの心を釘付けにしてしまった。
 サラはその時パトリックに恋をした。どうしようもない恋だった。
 人探しをしているからと、パトリックが見せた子供の頃のベアトリスの写真は、サラが素敵なホワイトライトを想像するにふさわしいものだった。
 自分とは全く違う世界の人だとベアトリスにも憧れを抱き、お似合いのカップルだと思い込むことで自分の感情を抑えていた。
 同姓同名で以前からベアトリスのことは気になっていたがずっと半信半疑だった。
 ホワイトライトの光を感じたことでやっと本人だと気がつき、そして一緒に時を過ごせば、ほんの短時間でイメージとはかけ離れた彼女に酷く失望してしまった。
 今ではすっかり嫌いになっている。
 だからこそ恋焦がれるパトリックには、自分が認められないベアトリスの側に来て欲しくなかった。
 ましてや『愛してる』などという言葉など聞きたくもない。一層のことホワイトライトだから力を手に入れたくて近づいていると言ってくれたら、どんなに救われるかとあれこれ考えていた。

「ちょっと、サラ、いつまでもどこ見てるのよ? ほら帰るわよ」
 ケイトが言った。
「えっ?」
「んもう、映画観てからずっと変だけど、一体どうしたのよ。浮き沈み激しすぎ」
 レベッカが近寄り、サラの頭を人差し指でついた。
「もう、ほっといてよ」
 サラはスタスタと一人で歩いて行ってしまった。
 三人は顔を見合わせた。
「まさか、サラはパトリックに好意をよせてるとかじゃないよね」
 グレイスが恐る恐る聞くと、ケイトとレベッカが同時に答えた。
「まさか」
 三人はとりあえず否定してみたが、実際のところ肯定するほうがよっぽど自然だと思えた。
 それを認めなかったのは、気づかないフリをすることが一番の良策だということを、長年の付き合いからこの三人は学んでいたからだった。
 この話はサラにしないように、また自分達も振り回されたくないことから、三人は受け流した。
 サラはそれを知ってか知らないでか、またドレスがディスプレイされているショーウィンドウの前で立ち止まって思案していた。
「プロムか……」
 サラは鋭い眼差しをドレスに向けて何かを考える。それが一つの策になるかどうか一か八かの賭けに出ようか迷っていた。
 三人が後ろから機嫌を取るように明るくサラに接すると、サラは考えを新たにして素直に微笑んだ。
 ──やってみる価値はありそうだわ。
 サラはその時何かを決心した。
 パトリックと別れたあの後、ヴィンセントはやるせない思いを抱いて、バスに揺られていた。
 重苦しいため息が、汚れた煙のように噴出している。
 大いに不満を感じていた。
 感情の乱れとバスの揺れがムカつかせて、気分も最高に悪かった。
 パトリックがベアトリスの側にいる。
 好きなときに話せて、好きなときに触れることもできる。ヴィンセントがどんなに側にいたところで、シールドのせいで 自由に話すことも、触れることもできなかった。
 たった一度のチャンスも、自分が暴走したために大半を寝てしまったという失態。さらにベアトリスの側にいられるためのジェニファーという道具も失ってしまった。
「そして最後は思いを断つか…… 約束させられたとはいえ、俺がそんなことできる訳がない」
 ヴィンセントはボソッと独り言を呟くが、心の底から情けなく自己嫌悪に陥った。
 歯をキリキリと噛みしめては必死で感情を殺そうと耐える。
 こういうときに限って、頭の中にパトリックがベアトリスの肩を抱き寄せる姿を想像してしまい、泥のように濁る嫉妬に襲われた。
 全てが自分で引き起こしてしまったと自業自得でありながら、悔やみ苦悩する。
 嵐が吹き荒れるような感情が体内で渦巻いたときだった。
 バスが突然止まってしまった。
 バスの運転手が立ち上がり乗客に向かって一言言った。
「オーバーヒート!」
 ヴィンセントはまたはっとした。自分のせいなのか、それとも偶然なのか、無意識に後者を強く願っていた。
 いつ動き出すか判らず、また次のバスが来るのを待つほどでもなく歩いて帰れることから、ヴィンセントは黙って下車した。
 下車した目の前には大型スーパーマーケットがあり、ヴィンセントはそこに足を運んだ。
 適当に食べるものを買い、そしてフリーで発行されている中古車の情報誌を手に入れた。
 買い物を済ませた後も、さっき乗っていたバスがまだ同じ場所に止まっているのが見えた。
 目をそらし、原因がはっきりせぬままでも、後ろめたい気持ちでその場を後にした。
 何度もため息を漏らし、足取り重く歩く。
「何もかも失い、希望も見い出せないほどに落ち込むダークライトか。こういうときは周りも恐怖に陥れるほどの恐ろしい姿で暴れたくなってくる…… 」
 またバカなことを考えているときだった。
 パトリックが言っていた、ベアトリスが何かに気がついて自分を探していると知らされたことが、この時になってふとひっかかる。
「あの時ベアトリスが俺を探してたのはどういうことだ。俺の正体に気がついたってことなのか。まさか。でもだったらなぜ俺を探すんだ。確かめてどうしたい んだ。しかし、事実を知ってしまったら彼女は俺をもっと避けることになるだろう。何を考えたところでどうすることもできない。くそっ!」
 ヴィンセントは片手で胸を押さえ込み、自分の心臓を鷲づかみする勢いで感情をコントロールするのに必死だった。
 歯を食いしばり、胃炎を起こしたようになりながらもがき苦しむ。
 ヴィンセントがここまでベアトリスに惚れる理由。
 それはヴィンセントもまたパトリックのように過去の子供の頃の思い出に刻まれているからだった。
 だがそれは、ベアトリスにとっては最悪の事態を引き起こし、また全て失う結果になってしまった。
 しかしベアトリスはこのときのことを思い出せないでいる。ところどころの記憶を全く何も起こってないかのように黒く塗りつぶされてしまった。
 ヴィンセントは過去に遡ってまでベアトリスとの関係をコントロールされる。
 その抑圧で想いだけは反発するように強くなって行った。ダークライトとしてホワイトライトの力を得たい気持ちと紙一重といわれても仕方ない程、執着するように心を囚われてしまっていた。
 
 大きな家が建ち並ぶ住宅街。ベッドルームが五つ、六つありそうな家。どれも豪邸と呼べるくらいの立派な家が集まっている。
 ヴィンセントはここに来る度、似つかわしくないと歩いているが、そのうちの一つの家に入っていく。そこが自宅だった。
 広い屋敷に父親と二人暮し。母親は疾うの昔に亡くなっていた。
 家に入るなり、居間の大きな画面のテレビをつけ、コーヒーテーブルの上に買って来たチップスの袋を放り投げる。そしてコーラのボトルのキャップをひねり、ソファーに横になるように足を延ばし体を横たわらせてゴクゴクと飲みだした。
 もう一方の片手にはリモコンを持ちチャンネルを変える。
 どこも面白そうなものはないと、BGMを聞くように適当なチャンネルに合わせたあと、リモコンを投げ捨て、中古車の情報誌を手に取った。
「アイツはいい車に乗ってるんだろうが、俺はバスか。そのバスもオーバーヒートしやがって、それも俺のせいなのか……」
 中古車の写真を色々眺めるが、値段を見ればヴィンセントがアルバイトしただけでは買えそうもなかった。
「親父にねだっても、あんなことした後じゃ金なんか出してくれそうもないし、車なんて与えたらどこへ行くか判らないとも思ってることだろう。あーあ、俺ってかなりルーザー」
 ヴィンセントはコーラーを飲みきると、ゲップを一つ吐き、そしてソファーに寝転がる。飲んだくれただらしのない典型的な男のようであった。
 そのまましばらくすると睡魔が襲い瞼が重くなってきた。
 せめて夢の中だけでもと、ベアトリスのことを強く考える。
「ベアトリス、また君を抱きしめたい」
 ヴィンセントは深い眠りについていく。さっきまで握っていた情報誌が手から離れてバサッと床に落ちた。

 ベアトリスを巡っての周りの者達が過ごす金曜日の午後、それぞれの思いが渦を巻き、さらにコールとゴードンはそこに荒波を立てようと仕掛けをしていく。
 コールが運転する車にゴードンは乗り、上機嫌で目をキラキラさせながら罠をどこに仕掛けようかと窓から犬のように顔を出していた。
「おい、ゴードン、あまり変な行動はしないでくれ。どこでリチャードが目を光らせてるかわからねぇ。あまり目立つことなく計画を実行させないと。だけどこんなに拠点地から離れた場所でも感知できるのか」
「この辺は注意しないと見逃しちゃうかもしれないけど、範囲は広い方がいいでしょ。でも瞬間移動は遠くなると一回でできない。回数を分けてテレポートすれば目的地にはなんとかたどり着ける。ただ、その場合若干誤差が生じるけど、そこにすぐに行けないよりはいいでしょ」
「俺もこの車も一緒に瞬間移動で連れて行けるのか」
「うーん、一人くらいならそれも可能なんだけど、車ごとはちょっと無理。それに場所が遠くなると、コールを一緒につれ行った場合、益々着地の誤差が大きくなるかも。でもおいらやってみるよ。賢くなれるんだったら、頑張る」
「おー、その息だ、ゴードン。やっぱりお前は最高のパートナーだぜ」
 コールはわざとらしくゴードンを持ち上げる。それを真に受けてゴードンは益々得意げになっていた。
「あっ、ここここ、ここも人が集まる。買い物に来るかもしれない」
 ゴードンは車の窓からモールの建物を指差していた。ゴードンに言われるままコールはそこを目指した。
「ここのモールは広いや。部分部分に仕掛けないと、おいら力尽きちゃう。まずはあっちの入り口」
 コールはゴードンの部下のように素直に命令に従った。ゴードンもそれが楽しく、またコールを何も疑わず信用していった。

 その頃モールの中では、あの四人と離れた後、ベアトリスは早く帰りたくてパトリックの腕を引っ張って歩いていた。これ以上知り合いにパトリックと一緒に居るところを見られるのを恐れていた。
 両手に一杯荷物を持ったパトリックは、無茶にベアトリスに引っ張られ、歩き難そうに している。
「そんなに慌てなくても、車は逃げないから。まあ、でも君に腕を掴まれるのは悪くないんだけどね」
 ベアトリスはパトリックの言葉に素早く反応して、パッと手を離した。
「そしたら先に行ってるから」
 ベアトリスはスタスタと出口を目指し歩いた。その時パトリックの持っていた護身用のデバイスがポケットの中でアラーム音を発する。
「ダークライトが近くにいる」
 パトリックは慌ててすぐにベアトリスの元へと走った。
 だが人が沢山いる場所では真っ直ぐ走れず、沢山の荷物が仇となり、体はすり抜けても荷物がすれ違う人とぶつかりすぐに追いつけなかった。
 ベアトリスは広い出口の一番右端のドアを目指して近づいていた。
 その時コール達も外から反対側の一番端のドア附近にいた。
 パトリックはその二人をガラスのドア越しから見て、すぐにダークライトと気がついて青ざめた。
 しかしその時、急ごうと慌てたために、まともに人とぶつかってしまった。荷物が手から離れて床に散らばった。
 このまま荷物を放り出してベアトリスに近づけば却って怪しまれると、慌てて荷物を拾うが、ベアトリスのシールドがダークライトにどう伝わるか気が気でなかった。
 本来ホワイトライトの存在をごまかし、隠れミノの役割があるが、近づきすぎたダークライトには身を守る力が働き攻撃体制のシールドとなってしまう。
 普通のダークライトなら近づくと体を焼かれるほどに苦しくなるが、かなりの力を持つダークライトの前では効果が薄れる。
 ヴィンセントの場合がそれで、近づけば攻撃を受けるが、本来の姿をさらけ出せばそれは通用しなくなる。
 攻撃性の弱いダークライトであれば、距離が近づいても感知されないこともあり、それはダークライトの能力によって様々の反応があった。
 ベアトリスと二人のダークライトの距離は近づきせずも遠いというほどでもない。微妙な距離感にパトリックは荷物を拾いながら焦っていた。

「ゴードン、この入り口のガラスのドア全部に細工できるか?」
 コールがそういうと、ゴードンは早速息を思いっきり吸って口をもごもごさせた。
 その時コールはキーンと頭を何かが突いたような痛さを感じた。
 ベアトリスはちょうど反対側の端に位置するドアを開けようとしていた。
「なんだこの感覚は」
 コールが一番端のドアを見れば、ベアトリスのドアを押す腕だけが外に突き出して見えた。
 頭を押さえながら集中しようと、側でせわしなく動くゴードンに手のひらを見せ待ったをかけた。
「ちょっと動かないでくれゴードン」
 滅多に感じたことがない異変だった。
「どうしたんだいコール? 早くホワイトライトの罠を仕掛けようよ。早く早く。おいら早く捕まえたいんだ」
 大人なのに、子供のようにピョンピョンとゴードンは飛び跳ねていると、側を偶然歩いていた二人のカップルはジロジロと見ていた。
「バカ! 目立つじゃないか」
「あっ! おいらのことバカって言った。やっぱり本当はバカって見下してるんだ。それならもう協力しない」
 ゴードンがすねて、コールに背を向け来た道を戻っていく。
「おいっ、ゴードン待て、違うってば、そうじゃなくて」
 コールは集中するどころではなくなり、なだめようと後をつけドアから離れていった。
 その間にベアトリスはドアから外に出ると、コールたちのやり取りを横目に、反対方向を歩いていった。続いてパトリックがやっとドアから出て、 急いでベアトリスの側に駆けつける。後ろを振り返り、コールたちがベアトリスに何も気がついていないと判ると、胸をなでおろした。
 しかし安心はできないと、今後のために二人の特徴を目に焼き付けていた。
「ベアトリス、早く帰ろう。もたもたしてたらアメリアに怒られる」
 パトリックはベアトリスの体を後ろから隠し、荷物を一杯持った両手でなんとか肩を支えながら、早足で車に向かう。
「んもう、今頃なんなのよ」
 ベアトリスは呆れてパトリックの顔を見るが、その横顔は青白く汗が噴出しているのに気がついた。
「パトリック、どうかしたの。なんだか顔色が悪いわよ」
「いや、なんでもない。とにかく早く車に乗って」
 必死になるパトリックの姿にベアトリスは首を傾げた。
 二人は車に乗り込むと、パトリックはダークライトから離れようと急いで駐車場を抜け出そうとする。
 遠くの方でダークライトの二人の様子が見える。入り口のドアに向かって何かをしているようだった。
 ──ここにはもう来ない方がいいな。
「ねぇ、パトリックどうしたのよ。ちゃんと話してよ。なんか隠してるみたい」
 何かがおかしい。
 ベアトリスはここで真相を聞きださねばと決意したばかりの気持ちを試そうとしていた。
 パトリックがおかしな行動をするには絶対理由がある。そう思うことから何かがわかるかもしれないと、意気込んだ。
 パトリックもベアトリスの意図に気がついたのか、機転を利かし、苦しそうな声を発した。
「ネイチャーコールズ……」
「えっ! あっ、そ、そうなの。運転大丈夫?」
 ネイチャーコールズ。遠まわしに『尿意や便意を催した』という表現だが、この場合どうしても後者だと思われたに違いない。
 ベアトリスも聞いてはいけないことを聞いたみたいで、少し戸惑い、その後家に着くまで黙っていた。
 パトリックもこの場は仕方なく、切り抜けるために、最後まで演技をする羽目になった。
 家に入ると、仕方なくバスルームに飛び込んでいった。咄嗟のごまかしとはいえ、好きな人の前ではかっこ悪く、便器の上に座りうなだれる。
「おっと、忘れちゃいけない最後の仕上げだ」
 パトリックはトイレのレバーを引いて水を流した。これで何もかも終わって欲しいと流れる水の音を暫く聞いていたが、ダークライトの二人のことを思い出すと不安までは一緒に流れてくれそうもなかった。
 あのときの焦りを思い出すとまだ冷や汗が出て動悸がする。
 暫くパトリックはバスルームから出られなかった。
 パトリックがバスルームから出たとき、家の中は静まり返っていた。居間、キッチン、ベッドルームを見てもベアトリスの姿が見えない。
 アメリアの部屋をノックして許可を貰い、中に入ってもベアトリスの姿は見えず、部屋には大人しくアメリアがベッドに横たわっているだけだった。
「どうかしたの? なんだか顔色がよくないけど」
 アメリアが聞いた。
「いえ、ちょっと疲れてるだけです。それよりベアトリスがどこにもいないんですが」
 パトリックはダークライトとの遭遇のことはアメリアに報告できないでいた。何事もなく回避できたことには間違いがないので、心配をかけまいと黙っておくことにした。
 しかしそれは表向きで、あれだけ任せてと自信を見せていたが、本当は危険と紙一重だったことを知られるのを恥じていた。
「ベアトリスならウォーキングに出かけたみたい。その辺を歩いたらすぐに戻ってくるわ」
「それじゃ僕も護衛に」
「待って、この辺りはダークライトの心配いらないわ」
「えっ、どういうことですか」
「ここはリチャードの管轄区みたいなものなの。リチャードが認めたダークライトしか入り込めない空間になってるの。早い話が縄張りみたいなものね。ノンライトの世界で言う、ギャングとかヤクザとか自分のテリトリーってあるでしょ。他のものはそこではでしゃばったことができないみたいに、ここもリチャードの力で制限されているわ」
「へぇ、ダークライトも割りと仁義を重んじるんですね。みんな好き勝手に暴れるのかと思っていた」
「ううん、こういうことができるのは他の者に恐れられ、そして力を持ってるダークライトだけ。みんなリチャードが怖いのよ。彼がいる土地では好き勝手できないことをよく知ってるわ。暗黒のボス的存在だから」
「なるほど、だからあなたたちはこの土地を選んだってことなんですね」
「そう、先日までは最も安全な土地だったんだけど」
「だった?」
「油断はできないって事。リチャードにとっても厄介なダークライトがまた戻ってきたために、今は少し危険度が増してしまったから」
「一体、どういう奴なんですか」
「コールっていって、年はまだ30前くらいね。背は高く痩せ型だけど、筋肉質でその動きは恐ろしく機敏。ガラス素材や透明なものなら体は通りぬけ、影を自由に操り、ノンライトや弱いダークライトに忍ばせては自分で悪事を実行しない。そして仲間であっても都合が悪くなれば容赦なく命を奪い取る鬼畜な性格。リチャード と同じくらいダークライトの中では恐れられているわ」
「見かけに特徴とかないんですか?」
「そうね、見るからに不良っぽい悪い雰囲気が漂ってる感じなんだけど、あっ、そうそう確か赤毛だったわ」
「えっ、赤毛?」
 この言葉に反応してパトリックの鼓動が早くなる。モールの入り口附近のドアにいたダークライトの片方は赤毛だったことを思い出した。
「パトリック、どうかしたの?」
「い、いえ、何でもありません。そんなのに遭遇したらどうしようかと思うとつい……」
「でも、ベアトリスのシールドがある限り存在はわからないはず。ただ、ベアトリスのシールドがなくなれば、アイツは必ず嗅ぎ付けてくるわ。それさえ気をつければ、後はリチャードがなんとかしてくれる」
 アメリアは心配をかけまいと笑顔を見せたが、パトリックの動揺は収まらなかった。恐ろしいほどの近くにそんな最強の敵が居たと思うと背筋が凍る。
 回避したとはいえ、一歩間違えば危なかったと、事の重大さがこの時になって何十倍になってのしかかってきた。
「あっ、僕、夕飯の支度でもしてきます。それからこれもベアトリスに飲んでもらわないと。またお借りしますね」
 例の壷を手に取った。
「パトリック、夕食の支度は心配しなくていいのよ。今日はピザでも取りましょう。でもライトソルーションだけはお願いするわ。少し量が少ないので全てをベアトリスに与えて」
 パトリックは了解と引きつり気味の微笑を返して部屋を出た。
 アメリアの前では息苦しく、部屋を出るとその反動で呼吸が速くなり、肩が上下に動いていた。
 台所に向かい、ライトソルーションを頼みの綱のように助けを請いながら見つめる。
 パトリックはベアトリスの居ない間に素早くレモネードを作った。
 凶悪なダークライトの姿を思い出すと、無意識にピッチャーに入れたレモネードを何度も念入りにかき混ぜた。不安定な心に左右され、ため息も後を絶たなかった。

 リチャードが仕事から帰宅し居間に入ると、ヴィンセントがソファーで寝ている姿に目がいった。
 向こう見ずで無茶をし、反抗的だが、リチャードの瞳に映るヴィンセントは愛しい息子に他ならなかった。
 暫く無防備に寝ているヴィンセントの寝顔を父親として眺める。
 赤ん坊の時の寝顔も、大きくなったこのときの寝顔も普遍的なものだった。
 前日に学校を崩壊させたことで、叱り飛ばし殴っても、我が子の寝顔を見るときほど自分の子供として愛情がこみ上げてくるものはなかった。
「なんだよ、親父。気持ち悪いな、ジロジロ見んなよ」
 ヴィンセントは大きな欠伸をしながらむくっとソファーから起き上がり、髪をかきあげた。
「なんだ起きてたのか。今日は学校も休みで何してたんだ。まさかベアトリスのところへはいってないだろうな。約束は覚えてるだろうな」
「判ってるくせに、嫌味言わないでくれ。あんたの縄張りにダークライトの反応があったんだろ。それが俺だっていいたいんだろう。俺しかそこへ入れないからな。はいはい、言い訳はしません。そこへ行ってました。でもベアトリスには会ってないよ。昨日の事件の後のことが気になったからちょっと様子を見に行ってしまっただけだ。それぐらい許されるだろ。あっ、それからパトリックの野郎が来てた。奴とは挨拶を偶然交わしたよ」
「そっか。あの子もやってきたのか。確かベアトリスの婚約者だったな」
 約束を守りきれないヴィンセントの仕返しに、リチャードは意地悪っぽく言った。
 ヴィンセントは、こっそりと様子を見に行ったことで反省する態度を見せようと思ったが、聞きたくない言葉につい反発してしまう。
「親同士の利益のために利用されただけだろ。そんなことするからベアトリスの親たちも……」
「ヴィンセント、それ以上言うな。一番の原因は誰にあると思ってる」
「……」
 ヴィンセントは口を一文字にして目を閉じた。
「今日のことはもういい。あんな事件があったからお前も心配してたし、例外と認めよう。これで気が済んだだろう。さっ、夕飯作るか。腹減っただろ」
 リチャードは背広の上着を脱いで準備をしようとした。
「折角だがいらない。勝手に一人で食ってくれ」
 ヴィンセントはしおらしい声で答えると、物悲しく背中を丸め、自分の部屋に閉じこもってしまった。
 リチャードも息子の落ち込みに気の利いた声もかけてやれず、黙って後姿を憐憫の目で見ていた。
 テレビから笑い声が聞こえる。
 自分に関係ないただの音に過ぎないのに、父親として何もできずに、あざ笑われてる気分になっていった。
 電源を消そうと、床に落ちているリモコンに手を伸ばし、拾おうと前かがみになったとき、中古車の情報誌も一緒に見つけた。
 先にそれを手に取り、パラパラと中をみる。
 無言でそれをテーブルに置き、リモコンを拾ってテレビを消して台所に入っていく。
 そして冷蔵庫を開けて、色々な思いを抱きながら中を覗いた。

 ヴィンセントは自分の部屋に入ると、ベッドの上に横になり、天井を見つめる。
 脱ぎっぱなしのシャツ、片付けられることなく無造作に積み上げられた本や雑誌が床に散らばっている。部屋もヴィンセントの心と同様に整理整頓されていなかった。
『一番の原因は誰にあると思っている』
 先ほどのリチャードの言葉を思いだす。何が言いたいのかヴィンセントにはよく判っていた。
 漠然的に、子供の頃にベアトリスに強い力で体を抱きしめられたことを思い出す。
 その時ヴィンセントは泣きじゃくり、発狂して我を忘れる程に感情が高ぶっていた。側にいたリチャードすら手に負えない程、ヴィンセントの体からは爆発するくらいのエネルギーが溜め込まれていった。
「あのときベアトリスが俺を抱きしめなければ、俺は町を一つ消滅させていたかもしれない。ベアトリスが俺の心に入って全てを吸収するかのように受け止めてくれた。ベアトリスのあのときの力、あれは眠っていたホワイトライトの力。俺のせいで目覚めさせてしまった。それがなければ彼女がホワイトライトだと周りも気づくことはなかったはず。そして彼女は俺を助けるために心の深くまで入り込んできた。あの時、彼女のお陰で落ち着きを取り戻したが、それが助ける方法だったとしてもあまりにも酷過ぎる。そのまま俺は心に刻印を押されたようにもう君しか見えなくなっちまった」
 ヴィンセントがベアトリスに魅了されるきっかけとなった出来事だった。
「ベアトリスはあの時のこと思い出す日が来るだろうか」
 切ないため息がひっそりと洩れた。
 同じ頃、リチャードもまたため息を一つ吐きながら包丁を持って台所に立っていた。
「一番の原因は誰にある…… とは言ってみたものの責任は私にある。ヴィンセントにはなんの罪もない」
 リチャードは包丁を振り上げレタスに向かって振り下ろすと、すぱっと簡単に二つに割れた。問題もこれと同じようにあっさりと処理できればと節に願う。
「シンシア、私はどうすればいい」
 亡き妻にリチャードは救いを求めていた。

 金曜日の夕方はベアトリスを巡り、いくつものため息が同時に重なるものとなった。そんなこととは知らずにベアトリスはウォーキングに精を出していた。
「ベアトリスが中々帰ってこない。いくらこの辺が安全だからといっても、もし安全範囲を超えている地域にいたとしたら、そしてあの赤毛のダークライトが接近していたら」
 パトリックは急に不安に陥り、心配し出すと止まらなくなっていった。いてもいられずベアトリスを探しに向かった。
 その頃、ゴードンが声を上げていた。
「コール! 反応だ。感じるよ。ホワイトライトが来ている」
「本当か、ゴードン。すぐに瞬間移動だ」
「うん。ちょっと遠いから、誤差が生じるけど、少し目的地より離れてもその後はコールがホワイトライトの気配感じてよね」
「ああ、特定された場所での感知なら俺にも正確に出来る」
 ゴードンはコールの側に寄ると一瞬にして二人は消えた。
 そして最初に移動した場所は車が行き交う車道の真ん中だった。二人の目の前に眩しいライトが迫る。
「ひゃーコール。怖いよ。おいらたち轢かれちゃう」
「ゴードン、何やってんだ。早く次の場所に移動しろ」
 しかし車は二人のすぐ側まで近づいていた。コールはゴードンを持ち上げて空高くジャンプする。そして空中で二人はまた消えた。
 二人に迫っていた車の運転手は、突然降って沸いた人間を目の前にして、事故を回避しようとその時急ブレーキをかけて、無意識にハンドルを切っていた。
 それが隣の車線の対向車に向かってしまい、激しくぶつかりあう音が響くと辺りはあっという間に悲惨な事故現場となった。
 そんなことも露知らず、知ったところでなんとも思わないだろうが、ゴードンとコールは次の着地地点に居た。そこは緑が広がる公園で、遠くに住宅街の明かりが見渡せた。
「ゴードン、こんなところに罠をしかけてたのか」
「ううん、ここじゃない。もうちょっとあっちの方の賑やかなところ。あーあ、かなりの誤差がでちゃった。やっぱり遠いところだと二人で移動するには無理があるかも」
 その時、風を感じるとコールはニヤッと笑いゴードンを見つめた。
「いや、俺たちはついてるよ。ホワイトライトが移動してる。こっちに向かって来る」
 コールは気配を感じる方へ飛ぶように走っていった。ゴードンはその動きを見て口を開けてみていた。
「うわぁ、早い。おいらついていけない。ここで待ってるからね」
 ゴードンは芝生の上に腰を下ろし、子供がワクワクするように待っていた。

 その同じ時間、暗くなってきても、急ぎ足になることもなくベアトリスはゆったりと住宅街から少し離れた公園附近を歩いていた。
 家に帰ればパトリックが絡んでくる。
 七年ぶりに会ったとはいえ、一日過ごしただけで違和感なく、すっかりベアトリスの生活に入り込んでしまった。
 これからそれが暫く続くと思うと、すぐには家に帰れる気分ではなかった。それは側に居て居心地が良すぎることに惑わされていたからだった。
 空を見上げてうっすらと出ている星を眺めた。
 ヴィンセントに送って貰ったあの日の夕方もこんな空だったと思いながら、ヴィンセントの笑顔を思い浮かべる。
 そんな気持ちの中でパ トリックに入り込んでこられると、心は無意識に寂しさを補おうとしてしまう。自分のことを思ってくれる優しい人が側にいたら、甘えてしまいそうで、それが自分でも許せなかった。
 すっかり暗くなった公園のはずれ、目の前に人影が見える。
 それは猛スピードで走ってベアトリスに近づいてきた。そして手を大きく広げて、ベアトリスに襲い掛かるように一瞬にして包みこんだ。突然のことに驚きベアトリスは声が出なかった。
 ベアトリスは、締め付けられるその腕に咄嗟に体の力が入ったが、恐怖に怯え震えているのは抱きついている腕の方だとわかると、抵抗せずに自分の体にもたせかけた。
「ちょっとどうしたの、パトリック」
「一人でこんな暗くなるまで外にいるなよ。心配するじゃないか」
「ちょっと大げさに心配しすぎだよ。でも早く帰らなかった私が悪いんだけど……」
 ベアトリスはその理由がパトリックにあると思うと、体を捩じらせてパトリックの腕から離れようとした。
 パトリックはお構いなしにさらにきつく抱きしめた。
「ちょっと、苦しいって。どうしたの? 何かに怯えている子供みたい」
 ベアトリスの言葉にはっとしてパトリックは一瞬にして手を離した。
「ごめん。ちょっと疲れてた。つい君に甘えてしまった」
 表情が暗かったのはこの暗闇のせいだけではなかった。いつものおどけたパトリックの前向きな明るさが言葉から感じられなかった。
「パトリック、その…… さっきもそうだけど体の調子は大丈夫?お腹が痛いとかもうない?」
「あっ、そ、それはもう大丈夫。でも今日は朝から君に会えて興奮しすぎて突っ走りすぎて疲れたよ。とにかく帰ろうか」
 二人は肩を並べて歩く。ベアトリスは時折パトリックの表情を見ては何かを思いつめてる感じを受けた。一人で背負おうとする責任感みたいなものが伝わってくる。
 パトリックが視線を感じ、ベアトリスを優しい眼差しで見つめると、精一杯の微笑みを浮かべた。それがベアトリスには重荷となった。素直に微笑を返せず、つい下を向いてしまった。そのまま家に着くまで二人は一言も話さなかった。

 一方、コールがホワイトライトを感知した場所に来たものの、そこには何も見当たらなかった。
 緩やかな丘が広がり、遠くの地平線にうっすらとした夕日の沈んだ後の消え行きそうな光が線を引いたように残り、すぐその上から闇が押し寄せてきていた。
 まばらに住宅街の光が小石をばらまいたように点々と遠くに見える。ここには周りは何もなく平野が続き、めったに人が歩いて来るような場所ではなかった。
 だがまだ何かを強く感じていた。
「これはどういうことだ。こんなにはっきりと近くで感知できるのに、なぜ見えぬ」
 その時コールは足元からホワイトライトの光を強く感じた。自分の足附近を見ると、そこには白い鳥の羽根がコールをあざ笑うかのように光を発していた。
 それを拾うと、顔を引き攣らせ握りつぶすように掴み、羽根はコールの手の中で焼けて消滅した。手を広げると燃え残った少量の灰が風に吹かれて飛んで行き、ホワイ トライトの気配も同時に消えた。
「くそっ、まるでホワイトライトに遊ばれてるようだ。俺に対する挑戦状か。それならば受けてやろう。お前を必ず捕まえてやるさ」
 コールは怒りで平野を暴走車のごとく駆け抜けると、焼け焦げた跡がついたように後ろに道が出来ていた。
 空気を切り込むように爪を立てて腕をスライドさせれば、地面は切り裂かれ、切られた芝生が宙を舞い踊っている。その威力は地平線の先まで届く勢いだった。見られていることを意識して力を見せつけていた。
 ゴードンの元に戻ると、機嫌の悪さをすぐにぶつけた。
 ゴードンはそれだけでホワイトライトの確保に失敗したと悟り、何も言わずにコールを連れて瞬間移動していた。
 その直後、頭からすっぽりと厚い布のベールを被った男が、霞が一点に集中して形を成すように徐々に姿を現した。顔全体は布が深く覆われてよく見えないが、口元は楽しむかのようにニヤリと笑っていた。
「あいつが、アメリアの言っていたコールか。リチャードもてこずる存在。面白い。それならばまずはお手並み拝見としよう。私が手を加えるのは最後の最後で充分」
 それだけ呟くとこの男もすっと消えてどこかへ行ってしまった。
 それは、ベアトリスとパトリックが買い物に出かけた後、ライトソルーションの入った壷を通してアメリアが話をしていた男だった。
 名前はブラム。
 髪は銀色に近いペールブロンドの長髪を持ち、すらっと背は高く、ハンサムというより芸術の域の美しい顔立ちをしていた。
 アメリアは襲われたことで危機を感じ、さらにコールの存在が驚異的となりベアトリスを守るためにブラムに助けを呼ばざるを得なくなった。
 しかしプライドの高いアメリアがこの男に頭を下げるのは余程の覚悟がいった。毛嫌いしているホワイトライトでもあり、頼れるのがこの男しかいないということが癪に障った。

「麗しのアメリア。怪我してるじゃないか。大丈夫かい。首のギプスが痛々しいよ。それの報告で私を呼び出したのかい? それでも嬉しいよ君の方から連絡をくれるなんて。いつもは私の方から一方通行の愛だったからね」
「余計なことは言わないの、ブラム。単刀直入に言うわ。ダークライトに襲われたの。そしてもっとやっかいな他のダークライトも現れた。名前はコール。この男か らベアトリスを守る手伝いをして欲しいの。お願い力を貸して。それにもし何かあればあなたにも都合が悪くなってしまうことになるし……」
「うーん、君の頼みなら仕方がない。いずれはこうなることも予測していた。いつまでも君とリチャードだけでベアトリスの存在を隠し通すことなどできないと思っていたよ。判った、地上に降りるよ。まずはコールがどんな奴か様子を見てから対策を練ろうとしよう。闇雲に動いても私が狙われるって事にもなりかねな い。私だって命は惜しい」
 アメリアは頼みごとをする立場で黙って聞いていたが、ブラムの軽々しくいう言い方には我慢できないものがあった。結局は自分の事しか考えてないのがよく伝わった。それはこの時に始まったことではなかった。
「ありがと」
 それでもアメリアは本来の感情を抑えて礼を言う。
「私を頼ってくれて嬉しいよ、アメリア。時には私の愛も受け入れて欲しい」
 ブラムは優しい潤った瞳でアメリアを見つめる。アメリアはこれ以上我慢できないと、顔をそらした。
「わかったわかった。ちょっと気持ちをぶつけすぎた。そんな資格がないこと充分承知しているよ。それじゃこれで失礼する。またこの件については連絡する」
「ちょっと、待って。この間も言ったけど最近ライトソルーションの量が少ないの。もう少し増やしてくれない」
「私もできるだけと思っているのだけど、何せ隠れてこそこそ送り込んでるから、自由にすぐには与えられない。なんとかしてみるがこれが現状なのも理解して欲しい」
「判ったわ。私の分をベアトリスにまわせばなんとかなる」
「それはだめだ、君も摂取しないといけない。ライトソルーションが全て体から抜けてしまえば、それに慣れきった君の体はやっかいなことになってしまう。一 度摂取すれば一生摂取しないといけない体だ。君はディムライトでもノンライトでもない、ホワイトライトとのハイブリッドだから、ライトソルーションなしではもう生きていけないはずだ」
「ホワイトライトのハイブリッド…… なりたくてなったんじゃないわ」
「ごめん、そういうつもりじゃなかった。君を心配してのことなんだ。わかって欲しい。私もできるだけ用意する。だから君も自分の体のことを気遣ってくれ。 君が動けなければベアトリスだって心配するはずだ」
「わかったわ」
 アメリアが渋々承諾すると、ブラムはにっこりと笑顔を残してその姿は消えた。アメリアはライトソルーションの壷を冷ややかな瞳で暫く見つめる。そしてベッドに戻り横になり、その日の午後はいろんなことを思いながらずっと寝ていた。
 アメリアはブラムとこうやっていつも連絡を取り合っていた。以前ベアトリスが部屋の外から聞いた声もブラムとの会話の最中だった。
 しかし、アメリアはブラムと会うといつも気が滅入ってしまっていた。
 自分で助けを請うたとはいえ、この時抱える問題にさらに重石が圧し掛かかってしまった。
 だがそれとは反対にブラムは、コールを挑発しゲーム開始の始まりを楽しもうとしている。やっと自分の出番が来たかと思ったように──。

 ベアトリスたちが家に戻ると、居間のソファーにアメリアは座って二人の帰りを待っていた。
 コーヒーテーブルの上には大きなピザの箱、紙皿、そしてナプキンが置かれていた。
 テレビも付けられ、これからカジュアルなパーティでも始まりそうな雰囲気だった。
「アメリア、起きてて大丈夫なの」
 ベアトリスが心配して近寄るとアメリアは腕を一杯に広げて優しくベアトリスを包み込んだ。
「私は大丈夫よ。それよりもあなたのことが心配」
 普段口やかましいアメリアとは違って、気弱さが感じられる。
 ──アメリアってこんなに華奢で、か細かったっけ?
 ケガのせいだけじゃなく、心身から弱ってる感じがベアトリスには伝わる。心配しすぎて神経が磨り減ってるようだった。
 それを誤魔化すようにアメリアは明るく振舞おうとしていた。
「さあ、さっきピザが届いたところなの。温かいうちに早く頂きましょう」
「アメリア、ここで食べるの? しかもテレビ観ながら?」
 行儀作法にはうるさいはずなのにと、ベアトリスは驚いた。
「あら、ピザって言うのはこういう風に食べるのがおいしいのよ、ねぇ、パトリック」
 パトリックは突然話を振られて返事になってない声を発し、その場を慌てて繕う。
「えっ、あっ、それじゃ、僕、飲み物を持ってきます。ベアトリスは座って先食べてて」
 パトリックは台所に入り、今一度まじまじとピッチャーを見詰め、そして一滴でも無駄にできないと震える手でレモネードをグラスに注いだ。
 コールとかなりの接近をしてからライトソルーションに過度の依存をしてしまう。慎重にそれを持ってベアトリ スの前に息を飲んで差し出した。
 ベアトリスは紙皿を抱えてピザに無邪気にぱくついてるところだった。
 そしてパトリックからグラスを差し出されると、ピザをテーブルに置き、グラスを手にとって「ありがとう」と軽く口をつけて飲んだ。
 アメリアもパトリックも、レモネードを飲むベアトリスを思わず凝視してしまった。
「えっ、どうしたの二人とも。私の顔になんかついてる?」
 刺すような二人の視線にベアトリスは怪訝な顔をした。パトリックは誤魔化すように笑い、視線をピザに移し、「おいしそう」と呟いて演技をする。
 それに合わせるようにアメリアも、「なかなかいけるわよここのピザ」と相槌をうっていた。
「テレビ、なんか面白いのやってないかな」
 パトリックがリモコンを手にしてチャンネルを次々変えていった。
 ぎこちない二人の様子にベアトリスは首を傾げ、手に持っていたレモネードを何気なしに見つめた。
「変なの」
 ベアトリスはまたレモネードに口をつける。二人はそれを横目で見ながらピザを頬張っていた。

 テレビの音をバックグラウンドにピザを囲んで三人は何気ない会話をしていたとき、交通事故のニュースが飛び込んできた。
 事故現場を目撃した証言が流れると、アメリアが怪訝な顔をし、パトリックが真剣にテレビの画面に釘付けになった。
 目撃証言に、二人の人影が突然現れ、そしてまた宙を飛ぶように消えたとあり、それが何を意味しているのかアメリアとパトリックには分かっていた。
「突然現れ消えた……」
 ベアトリスが言いかけると、その話題に触れまいとパトリックがすくっと立って話をそらす。
「あっ、そうだ、チョコレート買ってたんだ。デザートに皆で食べよう」
 パトリックは席を外し、チョコレートを取りに行った。
 ベアトリスはテレビから視線を離し、パトリックの姿を目で追った。また再びテレビを見るとすでに他の話題に変わっていた。
 何気なしに口から出た言葉だったが、深く考えることもなく、ベアトリスは再びその話題を話すことはなかった。
 パトリックが目の前にチョコレートの詰め合わせが入った箱を差し出すと、話は自然とそっちに流れた。
「いつの間にこんなの買ってたの。これ高いチョコレートじゃない」
 ベアトリスが珍しいものを見るような目をして言った。
「甘いものを見ると心が優しくなるような気がして、いつもベアトリスのこと思い出すんだ。君に会えなくて寂しいときはよく甘いもの口にしてたな。今日は君と再び会えた記念にとびっきり美味しいのを買ってみたんだ」
 パトリックは自分の気持ちを正直に言ってみたが、側にアメリアがいることに気がつくと、少し恥ずかしさがこみ上げはにかんだ。
 アメリアはここでも罪悪感を感じてしまった。パトリックもまた自分が影響を与えた被害者の一人だと思えてならなかった。
 パトリックそしてヴィンセントがベアトリスに思いを寄せる。アメリアは側で見ていて辛いものがあった。ベアトリスもどう答えを返していいかわからない表情も、三角関係に影響されて複雑な乙女心が垣間見れる。
 ──この危機を乗り越えたら、また心を鬼にしなければならない日が来る。ベアトリスを守るには仕方がない。
 アメリアは二人からベアトリスを遠ざけることを考えていた。それは二人の前から姿を消すことであった。それが自分の仕事と言い聞かせ、何かを新たに思う ときは癖のようにメガネの位置を事務的に整え、すくっとソファーから立ち上がる。
 パトリックには助けを請いながら、その後のことを考えるとさすがに良心の呵責を感じていた。嫌われることには慣れていると強がっていながら、逃げるように疲れたと自分の部屋に戻っていった。
 ベアトリスは心配の眼差しを向けていた。
「アメリア大丈夫かしら」
「ああ、大丈夫さ、あの人は鋼のように強い人だよ」
「私はそうは思わない。アメリアは無理をしている。本当は繊細な人なんだって、一緒に住めば住むほどよくわかってくる。私が重荷になってるんじゃないかって思うほどよ。だから私、高校卒業したら就職して一人で生きて行こうって思ってるんだ」
「それならいい就職先があるじゃないか、僕と……」
「その先は言わないで! 結婚は考えてないから」
「ちぇっ、考えてないって酷いな。婚約者なのに」
 ベアトリスは急に真剣な顔になり、パトリックに体を向けた。
「いい機会だから、正直に言うね、実は好きな人がいるの」
 ベアトリスはまっすぐパトリックを見つめたが、パトリックは慌てず慎重な顔をして聞いていた。
 暫く二人は沈黙してお互いの表情を眺めていた。
 ベアトリスはパトリックの出方を待っていたが、パトリックは一言も発しない。感情を一切出さずに黙ってベアトリスを見つめるだけだった。
 付けっぱなしのテレビから聞こえる音は、沈黙の二人に気を遣うことなく好き勝手に流れていた。
 ベアトリスは、パトリックの反応が得られないことに痺れを切らして、再び話し出した。
「ずっとその人のことが、好きだったの。最初は憧れてるだけだった。好きなのにその気持ちを抑えてて、とやかく言うこともなかったんだけど、やっぱり心は嘘はつけないって、本当に大好きなんだなって、ある日気がついた。そしたら、もう自分の気持ちが抑えられなくなって、叶わない恋だけど、でも彼を、この先も思い続けたいの。それが正直な気持ち」
 ベアトリスが様子を見ながら、途切れ途切れになって話しているのに対し、パトリックは余裕にも微笑んでいる。
「本当は知ってたんだ、君に好きな人がいるってこと。七年も離れていたんだ、この間に僕が知らないことがあっても仕方がない」
「パトリック…… それじゃ」
 ベアトリスの言葉をかき消すように、強くパトリックは主張する。
「僕は決して諦めないよ! だってベアトリスは僕を好きになるっていっただろ。それにそいつ、君に連絡して来たのかい?」
「そ、それは、ちょっと複雑な事情があってその」
「ほうら、相手は君のこと何も考えてないじゃないか」
「違うの! 今は自分でもうまく説明できないけど、彼に何か事情があって、私、その、なんていうか、真実が知りたいの」
「真実?」
 パトリックは少し訝しげになった。
「うん。気がかりなことがあるの。それを確かめて……」
 ベアトリスはその後の言葉に詰まる。
「確かめてどうするんだい」
「わかんない。事実を突き止めて自分がどうしたいか、考えてもみなかった」
「なんだよ、それ。それじゃただの片思いなだけじゃないか。恋に恋して自分にいいように考えてるだけの恋愛ごっこじゃないか」
「でも、好きになるってそういうことじゃないの。あれこれ考えて、自分の中で膨れていく。結局は先の事も考えられず、思いだけが先走ってしまう。それが恋だと思うの」
「僕もベアトリスに恋をしてるよ。その気持ちは痛いほど分かる。だけど僕がいいたいのは、相手が君の事を考えていたら、僕と同じ行動をしてるということだよ。そいつは君の事なんとも思っていないんじゃないかってこと。それにもし真実を知ったとき、君は、その相手を変わらず好きでいられるのかい?」
 パトリックはつくづく自分が意地悪だと自覚していた。ヴィンセントが自分と同じ行動をしているのは知っている。
 自分と同じ思いを抱いてることも知っている。
 そしてその真実が何かも知っている。
 それを全て分かっている上で、ベアトリスを試すように悪役になっていた。
「今はうまく言葉に表せないの。まともに相手とも話せないし、ただその真実を知らなくてはいけないって、自分の使命を感じるの。それがすごく大切なことのように思える。だからいつまでも私の心の中には彼がいるの!」
 ベアトリスは感情が高ぶり自分の想いを噴出した。これで自分の正直な心情が心置きなく吐き出せたと思った。言い切った清々しさを一瞬感じ、胸のつかえが取れた気分だった。
 だがパトリックは首を斜めに少し掲げて冷静に対応する。
「それで?」
「えっ?」
 パトリックの落ち着いた笑顔が予想外だった。まるでこの状況を喜んでいるようにしか見えなかった。
「だから君が何を言いたいかだよ。君の気持ちはわかったと言っておこう。だけど、僕の気持ちは変わらない。君はただ迷ってるだけだろ。想い人がいる、でもそんなときに僕が現れた。僕が側にいることで気持ちに変化が現れて、それを自分で筋道立てようと僕に話をした。心揺れ動くのが自分でも認められなくて罪悪感を感じたってところかな。今の言葉は自分で自分のために言い聞かせたってことだ。僕のために言った言葉じゃない」
「なっ、何をいうの」
「いいっていいって、慌てるところが、図星ってことさ。それが心というものだよ。僕が側にいることが心苦しくなったんだろ。ベアトリスの考えていることくらいわかるさ。君は純粋なんだよ。自分の気持ちの変化ですら罪深いと考えてしまう。でも僕は却って嬉しいよ。だってそれって、僕にもチャンスがあるってことだから。僕は君のこと諦めない」
 パトリックの穏やかで静かに見つめる瞳は、ベアトリスに心の中を見せているようだった。何があっても心はゆるぎなくベアトリスしか見ていないことを瞳に映している。
 ──この瞳。この瞳が私を惑わせるの。悔しいけどパトリックの言う通りかもしれない。私……
「ねえ、一つ聞いていい? どうしてそこまで私のことを想えるの。あんなに年月をおいても、子供のときからの気持ちをずっと持ち続けられるの。私、パトリックのこと忘れてたんだよ。今だって、昔と違って別人のようになってるのに、それなのにどうして」
「人を好きになるってなぜだと思う?」
 ベアトリスは逆に質問され、言葉に詰まり答えられないでいた。
「ほら、それが答えなんだよ。君は何もいえない。すなわち、明確な答えがないってわかってるんだよ。誰にも説明できない。自分でもわからない、なのに心は知ってるんだ。 僕の心に君が入り込んでから、僕は自分では説明できないのに、心は君を想い続ける。理由なんてないんだ」
「でも、私はそのあなたの気持ちに甘えたくないの。他の人を想いながら、パトリックの気持ちを受け入れるなんて私にはできない」
「やっぱり原因はそこか。いいんだよそれで。僕は少なからず君の心に少し入り込んだってことだね。嬉しいよ。そうやって気持ちをぶつけてくれて」
「パトリック、あなたに何を言ってもいつも前向きな答えしか返ってこない。だけど私……」
「じゃあこうしようっか。ちょっと待ってて」
 パトリックはソファーから立ち上がると、自分の部屋に行って何かを持ってきた。それをベアトリスの目の前に差し出した。
「それは、婚約証明書。これをどうするの」
 パトリックは突然それを二つに切り裂いた。ビリッという紙の音が耳の鼓膜に衝撃を与え震わした。突然のパトリックの行動にベアトリスは面食らって息を飲んだ。
「どうだい、すっきりした? 僕もこれで君に恋するただの片思いの男。こんなものがなくったって僕はいつだって本気だよ。さてと、僕も疲れちゃったからこれ片付けてもう寝ちゃっていいかな」
 パトリックは、コーヒーテーブルの上の食べ残しのピザや紙皿を片付け、台所に入った。ベアトリスは言葉をなくし、ただ呆然とソファに座っていた。
 パトリックが再び顔を出し「お休み」と笑顔であいさつする。
「おや……すみ」
 ベアトリスも返事を返したが、パトリックの予期せぬ行動に驚きすぎて放心状態になっていた。婚約証明書が破棄されて嬉しいはずなのに、そんなものに頼らずに自分の思いを真剣にぶつけてくるパトリックの本気に押されていた。
 ──パトリック、やっぱりあなたって人は予測不可能。それって私はこの先も振り回されるってことなの?
「パトリック・マコーミック…… 」
 ベアトリスは小さくその名前を呟いていた。

 パトリックは部屋に入り、ふぅーと息をつく。先ほど破った婚約証明書はまだ手元に残っていた。だがゴミ箱には捨てられず、破られたまま机の引き 出しに突っ込んだ。
 ベッドにごろんと横になり、頭の下で手を組む。
 天井を見つめながら、この日のことを振り返っていた。七年振りのベアトリスとの再会で得たものは喜びだけじゃなかった。ずっとこの日を待ち望みハッピーエンドを想像していただけに、幾つもの試練と苦しさの幕開けにかなり参ってしまった。
「でも僕は負けないよ。負けるわけにはいかないんだ。ダークライトにも、そしてヴィンセントにも」
 パトリックは心を奮い立たせようと机に飾っていた子供の頃の写真に目をやった。
「今度は僕がベアトリスを助けるんだ。そして幸せにするんだ。あの時の事故が意味するもの、それを理解して守ってあげられるのは僕しかいない。だけど今日は疲れた」
 視界がぼやけ瞼はあっさりと閉じて、パトリックはそのままいとも簡単に眠りについてしまった。

 ベアトリスはソファーに一人残され、テレビのリモコンをいじって、観たい番組があるわけでもないのに、チャンネルをため息混じりに次々変えていた。
 チャンネルを変えるのと同じように、心も一定のものを映し出す安定感がなかった。
 ミステリー番組が映し出されると、そのとき手元が止まった。
 説明がつかない超常現象が、人々の体験を通じて再現されている番組だった。ある程度誇張されているが、それが嘘だと決め付けられない。
 本来なら誰にも信じてもらえない話。だけどこの時、ベアトリスはミステリー番組が自分のドキュメンタリーに見えてしまった。
 暗闇の中で人間じゃない何かに追いかけられて襲われるシーン。それがあの時の事と重なる。
「私はあの時、襲われそうになった。それをあの野獣が助けてくれた。あれがもしヴィンセントだとしたら、私はその事実を確かめたときどうしたいのだろう」
 独り言を呟けば、パトリックの質問が頭でこだまする。
『もし真実を知ったとき君はその相手を変わらず好きでいられるのかい?』
 ベアトリスは目を瞑り、ヴィンセントの顔を思い描いていた。
 笑顔、クールな瞳、ドキッとさせられたウィンク、真剣な面持ち。
 色々と彼の表情が浮かぶ。そして突然浮かんだヴィンセントの恐ろしい表情──。
 物置部屋で二人で過ごしたときにヴィンセントが見せたあの獲物を捕らえるような何かにとり憑いた目を思い出すと、ベアトリスの胸は突然スイッチを入れられたようにざわめいた。
「あの時、ヴィンセントが別人に見えたんだ。だけど……」
 はっとすると同時に、ヴィンセントが突然我を忘れてベアトリスに近づいたあの瞬間、慌てることもなく、怖がることもなく、ベアトリスの心はどうすべきかもうすでに答えを知っていたと気がついた。
「私、あの時逃げないって、ヴィンセントはいつだって私の知ってるヴィンセントなんだって、自ら飛び込んだんだ。あのとき心がそうさせた。自分でも不思議なくらい落ち着いた感情が押し寄せて、胸がとても熱くなって、そして私はヴィンセントの全てを受け入れた。なぜだか説明はできない。でも心はどうすべきかすでに判っていた」
 ベアトリスは胸に手を当てる。
 頭で考えなくとも、その時真実が目の前に現れれば、自分の心は答えを出す。
 だからその真実を必ず見つけなければならない。ヴィンセントは正体を隠さなければならない何かを抱えていると思うと共に、救えるのは自分しかいないという感情がどこからか無意識に芽生えていた。
 その気持ちが芽生えると同時に、ベアトリスは難問に答えて正解を得たような表情になっていた。
 テレビのリモコンの電源を切る指に力が入る。テレビの画面が消えたとき心の迷いも一緒に吹き飛んでいた。
「言葉では説明できない。だけど心は知っている。そう、私の心はどうすべきか判っている」
 その思いはどうすべきか導きを示すように、ベアトリスの表情を明るくした。弾むようにソファーから立ち上がり、更なるリフレッシュ を求めてベアトリスはお風呂に入ろうとバスルームに向かった。
 夜は更けて行く。
 静かな闇の中、全てのものが眠りにつこうとしているとき、風が急に吹きだした。この日はまだこれで終わりではないと何者かの登場を待ち構えていた。
 ベアトリスは熱いシャワーを浴びながら、泡たっぷりにまみれて頭を洗っていた。
 その頃、パトリックはすでに軽くいびきを掻き夢の中にいた。
 アメリアもベッドの中で本を読んでいたが、疲れて眼鏡をはずし、目頭を抑えこむ。軽く欠伸がでた後は、そのままベッドの中に潜りこんでいった。
 外はすでに寝静まり、ストリートは各家から洩れる少しの電気の明かりに照らされ、薄暗さの中ぼやっと見える程度だった。
 その暗闇の中、人のシルエットを形どったものがぼやけた光を発しながら現れた。
 ゆっくりと歩き、ベアトリスの家の前で立ち止まると、暫く動かずじっとしていた。

 同じ頃、コールは頭に血が上り、発散するかのように飛びながら素早い動きで色んな場所を走り続けていた。
 ホワイトライトの捕獲に失敗し、ゴードンに連れられ、瞬間移動でなんとか拠点に戻ってきたものの、屈辱で怒りが収まらず、勢いで外に飛び出してしまったのだった。
「コール、あまり変なことしないでよ。リチャードに怪しまれるよ」
 ゴードンの言葉など聞く耳持たず、好き勝手に暴れていた。

 星がところどころ雲に覆われ、姿を消したり出したりしている。その雲は生き物のように形を変え空を滑るように流れていく。強い風がそうさせていた。
 その風に長い髪をなびかせて、まだベアトリスの家の前に人影は静かに立っていた。
 ベアトリスはその時、髪を洗い終わり、ボディーソープをスポンジにたっぷりつけて今度は体を泡まみれにしていた。そしてふと手が止まった。
「ん?」
 何かを感じ、シャワーカーテンをずらしてバスルームを見渡した。
「誰も居るわけないか。なんか人の気配がしたけど気のせいか。まさかパトリックが覗きってことないよね」
 そんなことはありえないと、その時は笑って鼻歌交じりにまた体を洗いだした。
 最後の仕上げに再び熱いシャワーを浴びた。勢いよく出るお湯が体に心地よく、マッサージを受けてる気分だった。暫くそのまま目を閉じて水圧の刺激を楽しんでいた。
 そしてその時コールも、ピタッと動きが止まった。目を閉じて神経を研ぎ澄まし一定方向に集中すると鋭い目つきになり、先ほどよりも数倍の速さで駆け巡った。
 外の風が止んだとき、家の前に立っていた人影は姿をすっと消した。次にその人影が現れたのはシャワーカーテンを挟んだベアトリスの前だった。
 ベアトリスは何も知らず、お湯が激しくほとばしるシャワーを浴びている。その人影は、カーテンの向こう側にいるベアトリスのシルエットを、ただ静かに見ていた。
 ベアトリスがお湯を止めたときだった。急に人の気配を強く感じ、シャワーカーテンの方に目をやると黒っぽい人影が目に飛び込んだ。
 ──うそ、誰か居る。まさかパトリック。
 ベアトリスはカーテンの端を持ち怖い気持ちを抱きながらも、勢いつけて顔だけ出した。
 だがそこには何もいなかった。
「あれっ、やっぱり気のせいか。なんかさっきから変な感覚を感じる。でもバスルームのカギは閉めてるし、誰も入れるわけないか」
 パトリックがいるだけで過敏になりすぎて、変な気の回し過ぎだと済ませた。
 だが人影は次にアメリアの部屋に現れた。アメリアが寝ているのをいいことに、手を伸ばし首元のあたりに掲げると、優しい乳白色の光がぼわっとにじみ出だした。
 アメリアはそれに反応して目を覚ました。
「ん? ブラム! 今何時だと思ってるの、それに勝手に入り込むなんて失礼じゃないの」
 体を慌てて起こす。
「助けを求めたのはそっちだろう。折角地上に降りてきたんだ、もっと歓迎してくれてもよさそうなのに。やっとまたこうやって会えたんだから」
「いつも会ってるじゃない」
「あれはホログラムで、実際の私の姿ではない」
「あっ、それよりブラム。ベールをつけてないじゃない。ダークライトが気づいたらどうするの」
「大丈夫だって。長居はしないから。君の首のことが気になったから寄ってみたんだ。ちょっと手を加えといたよ。そのギプス外しても大丈夫だ。それじゃ目的は果たせたから今日はこれで帰るとしよう。またね、愛しのアメリア」
 ブラムはあっさりと姿を消した。アメリアは呆れたようにため息を一つ吐いた。そしてギプスに手をかけそっと外し、首を左右にゆっくり回してみた。
 ブラムの言ったとおりすっかり治っていた。ブラムの行為に素直になれない思いは、ため息になって現れた。
 ふてくされたようにまたベッドに潜り体を横に向けると、何かを抱きつくように体を丸める。目をぎゅっと瞑りながら肩を震わせていた。まつ毛はその時ぬれて光っていた。

 コールは加速をつけ、風そのものになっていた。だが突然危険を察知して急ブレーキをかけたように町の一角で止まった。
「これは、ダークライトのテリトリー。リチャードか! くそっ! 迂闊に近寄れない。しかし……なるほどそういうことか。リチャードに俺の動きを封じさせるための罠か。一度ならず二度までも俺をバカにしやがって」
 コールの煮えくる怒りはもう少しで正気を失わせるところだった。噴火しそうなほどの怒りを抱きながら、踵を翻す。ここでは暴れることもできない苛立ちが脳天までふっ飛ばしそうに、顔を恐ろしいほどに歪めて元来た道を戻っていった。
「作戦を立てなければならない。必ずこの礼はさせてもらう」
 コールのホワイトライトに対する執着は何倍にも膨れ上がった。

 ベアトリスは髪をタオルで挟みながら、念入りに水分をとっていた。先ほど見た黒い影をまだ気にしていた。
「パトリックを疑う訳ではないけれど、どうも引っかかる」
 ベアトリスはバスルームから出てパトリックの部屋に向かった。
 明かりがドアの隙間から洩れている。そしていびきが聞こえてきた。
「やだ、電気つけたまま寝てるじゃない。やっぱりさっきのはパトリックじゃなかったんだ。自分の見間違いか。疑って悪かったかも」
 ベアトリスはそっとドアを開けた。覗きをしているようで後ろめたかったが、電気を消すために仕方がないと、顔を引き攣らせて中を覗いた。
 パトリックは着替えもせずに、ベッドの上に大の字になっていた。そのベッドの隣のスタンドが赤々と電気がついたままだった。
 音を立てまいとそっと部屋に入り込み、パトリックの寝てる姿を見ないように背を向けて、スタンドのつまみに手を伸ばした。それを回せば電気が消えるはずだった。
 しかし回すときカチャリと音がすると、驚いた声が同時に聞こえた。
「わぁ、ベアトリス、何してんだこんなところで」
 突然パトリックが目を覚ましてベッドからバネのように体を起こした。ベアトリスは毛が逆立つほど驚いて振り返り、手をバタバタとあたふたしていた。言葉が出てこない。
 ベアトリスのパジャマ姿とぬれた髪、本能をそそられるようにパトリックはドギマギしている。
「そ、そんな格好で僕の前に現れたら、僕どうしていいかわからないじゃないか。それともまさか僕の寝込みを襲いに」
 ベアトリスは思いっきり首をブンブンと横に振った。
「ご、誤解しないで、電気がついてて、そのいびきかいてて、だから」
 ベアトリス自身、何言ってるかわからなかった。
 パトリックは笑い出した。
「参ったよ、そんなに僕のことが気になってたなんて」
「だから違うって言ってるでしょ! でも、ずっと寝てたの? 寝たふりとかしてないよね」
 ベアトリスはここまで言われて逆切れしてしまった。その反動でバスルームに来たことを隠すためにわざといびきをかいたフリをしてたのではとまた疑ってしまう。
「なんだよ、そんなに怒らなくてもいいじゃないか。勝手に君から現れておいて。ああ、すっかり寝てたから、物音で目が冷めてびっくりしたんだよ。気づいていたらこんなにびっくりしないよ。ほら僕の心臓ドキドキしてるよ」
 パトリックはベアトリスの手を引っ張って、ベッドに引き寄せた。その力は強く、ベアトリスはパトリックの胸元に倒れるように覆いかぶさった。
「なっ、すごいスピードで動いているだろう」
 パトリックの厚い胸板の上でベアトリスは抱きかかえられていた。
「わかったから、離して」
 今度はベアトリスの心臓がドキドキしだした。
「嫌だ。離したくない。君が悪いんだ。そんな格好でこんなところにくるから。僕抑えられないじゃないか」
「もうやめてよ、また冗談なんだから」
「僕は本気だよ」
 パトリックのその言葉に驚きすぎて、ベアトリスは固まって動けなくなる。
「でも、安心して、何もしないから。暫くこのままでいさせて。とても心安らぐよ」
 パトリックの腕の中は温かだった。
 ベアトリスは判断を失いパトリックに抱かれるままになっていた。