ベアトリスはゆっくりと住宅街を歩いていた。気がつけばいつものウォーキングコースを歩いているのと変わらなかった。
 ヴィンセントを探しきれなかったが、自分が取った行動は真実と向き合う始まりの一歩だと思えた。
 ヴィンセントもパトリックも行った、儀式のような血を見せる行為。
 偶然では片付けられない。
 自分の知らない何かが必ずそこにあるとベアトリスはそれに気が付いても、この状態では暗闇の中を手探りで見つけようとするようなものだった。
 仮説を立ててみても、落ち着けばそれを証明できる証拠など何一つないことに気がつく。
 あやふやな記憶だけを信じてみてもどうすることもできなかった。
 いつもはここで都合のいい妄想という理由をつけて終わってしまいそうになるが、今回は違う。逃げずに突き止めたいという気持ちで溢れていた。
 もしヴィンセントが人間じゃなかったとしたら──、不快な空間で怪物に襲われたときに見た野獣がヴィンセントだったとしたら──、ベアトリスはそれでも真相を突き止めたかった。
 怖いという感情はそこになく、ヴィンセントを強く思う気持ちが、真実に目を向けるように追求させる。
「これには必ず訳がある」
 そう思うことで、ベアトリスはヴィンセントと離れてしまったことに前向きになった。
 自分が突き止める努力をするという選択をベアトリスは選んだ。
 いや本当はヴィンセントを思い続けたいという理由が欲しかっただけかもしれない。
 そしてパトリックにも何かがひっかかる。
 無邪気で憎めないところがあるが、時にはそれが計算されたようでもあると気づき始めた。
 何かを隠すために真実をうもらせるための演出──。
「今まで疑うことなどなかったけど、疑問があればとことん追求。そこから何かがわかるかもしれない」
 ベアトリスはこの時、自分を変えなければと強くなることを決意した。背筋を伸ばし、シャキシャキと突然リズム良く歩き出す。
 ベアトリスが家に戻った頃、パトリックは空いていた部屋でベッドの上に腰をかけ、荷物を広げてごそごそしていた。
 客間用にしていたその部屋は、アメリアのセ ンスで、すでに色々と揃えられていた。ベッド、タンス、ちょっとした机なども置いてある。すぐにそこで生活できる準備はすでに整えられていた。
 パトリックは長期の旅行のために用意したかと思われるスーツケースの中身を取り出して、しまえるところに収めていく。机にはノートパソコンが置かれ、すぐにイ ン ターネットが出来る状態になっていた。
 ベアトリスは開きっぱなしのドアをノックした。パトリックは一度顔を上げたが、すぐにまた荷物整理に手を動かした。
「やあ、結構長かったね。それで探し物は見つかったのかい?」
 パトリックは少し冷たい言い方をしたが、これもまた計算した戦略だった。怒ったフリをすればベアトリスは落ち着かなくなり、話の主導権がパトリッ ク側に流れるのを期待していた。
「探し物? うん、見つかったよ。一番自分に必要なものを見つけた」
 ベアトリスの落ち着いた返事はパトリックには予想外だった。胸騒ぎがするのか急に手元が止まった。何かが違う。急激なベアトリスの変化に不安にさせられた。
「ふーん、それで何を探してたんだい」
「自分だけの大切なものだから、それは内緒。ところでなんか怒ってる?」
 ベアトリスはパトリックの様子を落ち着いて観察する。何かを知っていたとしても、それを聞いたところで簡単に教える人ではないことをよく理解していた。
 これから一緒に住めば何かを聞き出すチャンスもいつかあると自分の取った行動についてあまり触れないようにした。
「いや、怒ってないよ。そっか、見つかったのならそれでいいけど」
 パトリックは自分の計算した通りの展開にならずに心が乱れていた。
──ベアトリスは何を考えてるんだ。
 二人は心の中で気まずい気持ちを抱き、お互い探りあいながらも、表面は何もなかったように振舞っていた。
「何か、手伝おうっか」
 ベアトリスがパトリックの側に近づき一緒にベッドに腰をかける。ベッドの上にあったスーツケースの中を覗きこんだ。
「大した荷物はないから、大丈夫さ」
「あれ、これ何?」
 ベアトリスがスーツケースの中に手を突っ込みそれを取り出した。
「おい、勝手に人のもの触るな」
 パトリックは取り返そうと手を伸ばすが、ベアトリスはそれを交わし目の前でじっくりと見つめた。
「これは……」
 それは写真立てだった。べそをかいた子供の頃のパトリックが満面の笑顔のベアトリスと手を繋いで一緒に写っていた。
「笑うだろ、その写真。でも僕には一番大切な思い出なんだ」
 華奢な体に、透き通った輝きのある金髪の女の子。ベアトリスが自分で思うのも変だったが、それはとても美少女に見えた。自分の昔の姿に驚き、軽くショッ クを受けていた。そしてこの頃のことを良く思い出せない。
「やっぱりこれはパトリックと私なの?」
「ああ、そうだよ。この時、君から僕の手をぎゅって強く握ってきたんだよ」
「どうしてパトリックは泣いてるの。もしかして私が泣かしたとか?」
「そうだよ」
「えっ、私何かしたの?」
 ベアトリスは驚き、思い出そうと眉間に皺を寄せ考え込んだ。
「僕はあの時、傲慢で何でも一番にならないと気がすまなかった。子供ながら生意気なガキだったと思う。友達も作らずいつも一人で、他の奴らとは違う選ばれたものなんだって、そればかり思ってた。だから他の奴らを見下していたんだ」
「それで私が腹立って殴っちゃったとか?」
「ハハハハ、違うよ。君は僕を心配したんだ。『トゲを一杯つけたままだと誰も近づけないよ』って」
「それでどうしたの?」
「君は僕にキャンディをくれたんだ。それを食べると優しい気持ちになってトゲが落ちるとか言って。僕はそんなのいらないってムキになって投げ捨て ちゃったんだ」
「ひどーい」
「だろ、それなのにその時君は、ニコって笑うんだよ。『楽しかった?』って言って。僕ははっとしたんだ。全然楽しくなかったって。『自分が楽しかったら それでいいけど、でも楽しくなかったらそれは間違ってる』ってまた君は言ったんだ。僕は今まで意地になって突っ張ってたことが楽しくなかったんだってやっ と気がついた。そしたら君の前で泣いちゃったよ。君は僕の手を力いっぱい握って支えてくれた。あのときの君の手は本当に温かかった。暫くそのままで歩いて いたら、強情な僕が女の子に泣かされてると思った人が、その時面白半分でこの写真を撮ったんだ。後で笑いものにでもしようとしたんだろうね。でも僕はこの 時のお陰で目が覚めた。そして思った。君は僕を救ってくれたんだって。それからさ、君に夢中になったのは」
「私、すっかり忘れてた。そういえば、急にパトリックはしつこく私につきまとったよね。カエル持ってきたときは驚いたし、私に恨みでもあるのかと思ってた」
「ええ、酷いな。あれは君を慕っての行為だったのに。あのカエルなかなか手に入らない珍しい種類だったんだぞ。だから君にあげたかったのに」
「カエルでそんな風に思える訳ないじゃない。だけど私、なんでそんなこと言ったんだろう。でも小さい頃、人の心の色が見えたような気がした。心に傷を負っ てたり、悲しんでいる人とか見ると、妙に救ってあげたいとか思ったりしたっけ。今じゃ考えられないかも。私の方が救って欲しい感じだもの」
 パトリックは写真立てをベアトリスから受け取り、すくっと立ち上がると、大事そうに机の上に飾った。
「だから今度は僕がずっと側にいて、君を幸せにするよ」
 さらりと気持ちを伝えるパトリックの言葉。それはいつも自然にベアトリスの心の中に入ってきては、鐘を突然鳴らすようにドキリとさせられる。
 ベアトリスはその言葉に心を縛られてパトリックを見つめてしまった。
 澄みきったブルーの瞳が愛情一杯に潤い、ベアトリスの心まで静かに届けとパトリックは見つめ返す。二人の距離が無意識に縮まっていった。
──なんて優しい目で見つめるの。本当に私しか見ていない目。
 心の奥にまで訴えてくるパトリックのその眼差しはベアトリスの視線を釘付けにする。パトリックの顔がどんどん目の前にせまる。雰囲気が二人を飲み込もうとしていた。
 部屋という密室、そして目の前に想い焦がれていた人。この環境でこの状況はパトリックは我を忘れそうだった。その寸前ではっとして、ベアト リスの頭に軽く手を乗せ、ぐしゃっと髪を掴むように撫ぜ、ニコッと笑顔を作った。
「あっ、キスすると思ったでしょう。それともして欲しかった?」
 ベアトリスは枕を掴み「バカ」と投げつけて立ち上がった。
 パトリックに掻き回されていいように遊ばれているだけなのか、それとも意図があって先の読めない行動をわざとするのか、ベアトリスは持っていきようのない気持ちを握りこぶしを作って、体に力を込めて発散させていた。
 パトリックが背後でクスクスと笑っている。しかし心は寂しげに、触れたら割れそうなくらいの薄いガラスの入れ物にベアトリスを思う気持ちを入れて大切に抱えていた。
 どこかで気持ちを押さえなければ、パトリックもまたヴィンセントのように暴走しそうになる。
──これじゃ人のこと言えないな。
 パトリックは落ち着けとばかり、大きく息を吐き出し、また荷物整理をし始めた。
 ベアトリスは自分の部屋に入ると、ドアを強く閉めた。その音は家中に響き、苛立っているのがこの上なく表現され、パトリックも離れた部屋にいながら肩をもちあげるように身 縮める程だった。
 ジャガイモが入った袋が投げ捨てられるようにベアトリスはどさっとベッドにうつぶせに寝転んだ。
「もう、あの男の行動は本当に読めない。うっかりしてたら、本当に流されてしまう。これじゃ聞きたいことも聞けやしない」
 ベアトリスはこの先が思いやられると思うと、手足をバタバタしてもがいていた。
 ふと、パトリックが持っていた写真のことが頭に浮ぶと、がばっと体を起こして、クローゼットの中をごそごそしだした。奥から箱を引っ張り出し、中身を確認する。
「あった」
 小さいが厚みのあるアルバムをベアトリスは掴んだ。ずっと考えないようにしていた過去のことだったが、パトリックの持ってた写真を見たせいで昔が妙に恋しくなる。
「私が小さかった頃の写真が入ったアルバム。長いこと見てなかった。あの頃、これをみたらパパとママのこと思い出して泣いてしまうからって、自分で封印し たんだった。誰もきっちりとした情報を教えてくれないまま、悲しみだけが残った事故だった。あのときの記憶はないけど、覚えていたらもっと辛かったんだろ うか」
 両親を失った心の傷は癒えたというより、それと向き合うことを許されてはいなかったために、考えることもせず悲しみを深く抱くことはなかった。
 この時は懐かしい人に会う気持ちでアルバムを開いてみた。だがページをめくってもめくっても頭に描いた二人の顔に対面できなかった。
「あれ、パパとママの写真がない。どうして」
 最後までベアトリスはページをめくっていく。そこには自分の小さかった姿が写りこんだ写真はあるが、家族と一緒に写っているものは一枚もなかった。
「まるでパパとママの存在すらなかったみたい。もしかしたら分けてどこかに入れ込んだのかもしれない」
 ベアトリスは箱の中に落ちてないか探した。小さい頃の持ち物や思い出の品は入っているが両親の写真はどこにもなかった。思い違いで最初からもってこなかったのだろうかとも思えてきた。
 おぼろげな記憶だけの両親の姿は写真なしではさらにぼやけていく。
 このまますっかり忘れてしまうのではと思うとベアトリスの目から涙が溢れ出した。ずっと考えないようにしていたことを後悔し、そして写真までもなくしてしまったことは両親がいたという事実までも抹消してしまった気持ちにさせた。
 悲しみに沈んでいたとき、ドアをノックする音が聞こえた。ベアトリスは涙を急いでふき取ると、小さなアルバムを箱に戻して、慌ててそれを部屋の隅に押しやっ た。
 入ってもいいと許可をすると、ドアは開きパトリックが恐る恐る覗き込んだ。
「何よ!」
 泣いていたことを誤魔化そうとすると、ベアトリスはつっけんどんに答えてしまった。
「なんだい。まだ怒ってるのかい。まいったな。これじゃ一緒に買い物行こうって誘ってもついてきそうもないな」
 パトリックは邪魔したと遠慮してドアを閉めようとした。
「待って、一緒に行くわよ」
 きつく言い過ぎたかと少し罪悪感を覚え、ベアトリスはむきになってしまう。
 何よりパトリックは子供の頃の自分のことを知ってると思うと、思い出を取り戻したくて一緒にいたくなった。
 二人はアメリアに一言声をかける。
 アメリアはベアトリスが出歩くことに少し心配そうな表情を見せたが、パトリックは任せて欲しいと胸を張る。
 アメリアはこんな状況でもベアトリスが明るく振舞っているのは、パトリックのお陰でもあると認めていた。
 彼が現れなかったらベアトリスはふさぎこんでいたかもしれないと思うと、ここはパトリックに任せてもいいように思えてきていた。
 アメリアが何も口を挟まないことに、パトリックはそれが信頼の証だと受け取った。それに応えるように白い歯を見せて力強い笑顔を返していた。
 パトリックとベアトリスは車で出かけると、アメリアはベッドから起き出し、窓のカーテンを閉めた。先ほどパトリックから返してもらった壷を目の前にして何やらブツブツ と呪文らしい言葉を発した。
 言葉に反応して真珠のような飾りが光だし、映写機で投影されたように人影が現れた。そしてそれは声を発す。
  アメリアは感情を一切出さず、まるで苦手な気持ち悪い虫を見るような目をしてそれと向き合った。
 それが姿を現す度、避けて通ることができない試練をいつも味わっていた。
 アメリアはそれと暫く語っていた。