ダイニングテーブルを挟んで、ベアトリスはパトリックと向かい合わせに座って昼食を食べていた。
パトリックが腕によりをかけて作ったものだったが、ベアトリスはロボットのようにただフォークを上下に動かして口に入れていた。
先ほどみた人影はヴィンセントに思えてならず、彼が近くにいたかもしれないと考えると心ここにあらずだった。
だがこれも、そうであって欲しい思い込みにしか過ぎず、ヴィンセントがここに来るはずがないと強く否定した。
希望をかすかに抱くことは、自分の心を故意につねって弄くってるようなものだった。
学校の物置部屋でヴィンセントと一緒に過ごしたことをふと思い出す。
あやふやな記憶。自分が自分でなかった感覚。
しかしそれもまた、昼寝をしてしまったことでやはり夢の中の出来事なのかと、いつものごとく確証に自信がなかった。
昼寝──。ヴィンセントにずっと抱かれていたことも思い出した。彼と体を密着していたことが、ぽわっと心が浮くように思い出される。
そして車で送ってもらった後の別れ際の抱擁。あれが全て遊びで、からかいだったとはベアトリスにはなぜか思えなかった。
その次の日なぜヴィンセントが急に変わってしまったのか──。
フォークを持っていた手が止まる。
不思議な数々の出来事、そしてそれぞれの謎を帯びた言葉。頭の中でぐるぐる回りだした。
──もしみんな嘘をついてるとしたら…… または何かを隠してるとしたら
発想の転換だった。
突然、持っていたフォークが手から落ち、カチャーンとお皿に当たった。
「ベアトリス、そんなに僕が作ったもの不味かった? さっきから無表情で食べてるし、動きが止まったと思ったら、フォーク落としてショッキングな顔してる し。どうしたんだい」
パトリックが怪訝にベアトリスを見ていたが、ベアトリスは動かないまま、自分の世界に入り込んだようにまだ考えていた。
パトリックの存在など完全に眼中になかった。
その時、ベアトリスはヴィンセントの言葉を思い出していた。
『ベアトリス、これだけは言っておく。今僕はこうやって君の近くにいる。そして、今日は二人っきりになることも、君に触れることもできた。僕がそうしたい とずっと願ってきたことなんだ。それがなぜ今まで出来なかったかいつか考えて欲しいんだ。僕の言ってる意味が理解できたとき、ジェニファーがなぜ君の側に 居るかもわかるよ。もうすぐまたいつもの君のイメージ通りの僕に戻ってしまう。口数の少ない僕にね。今日こうやって君と過ごせた午後は僕にはかけがえのな いチャンスだっ たんだ』
ヴィンセントは何かを考えてほしいと言った。
ヴィンセントがあんな態度を取ったのには理由があるってこと?
ベアトリスは雷に打たれたように突然はっとした。その瞬間我に返ってびっくりした。焦点が合わずピントがぼけたパトリックの顔が数センチも離れてない目の前にある。
「キャー」
ベアトリスはのけぞってしまい、その表紙に椅子が倒れてひっくり返りそうになると、側にいたパトリックがしっかりと受け止めた。
「ちょっとどうしてそんな近くに顔を寄せてるのよ」
心臓をバクバクさせ、体制を整えながらベアトリスは叫ぶ。
「だって、何回呼んでも答えないし、側に寄っても気がつかないし、全く動かないもんだから、今のうちにキスでもしておこうかななんて」
「何を考えてるのよ。バカ!」
「だけど、そんなに思いつめてどうしたんだい。さあ、僕になんでも言ってごらん」
パトリックは両手を広げ、大げさな態度を取る。
「ねぇ、パトリック。あなた私に何か隠してることない?」
パトリックの片方の眉がぴくっと動いた。
「例えば、どんなこと?」
笑顔を忘れず、様子を探るように聞く。
「そうね、私の知らない私の真実を知ってるとか」
ベアトリスは疑いをもつ目ではったりをかけてみた。
「ベアトリスの知らない真実…… ああ、もちろん知ってるよ」
パトリックは堂々と言い切った。ベアトリスが聞きたいとばかり身を乗り出す。
「それは何なの?」
「それは、ベアトリスの背中にほくろがあること」
「ちょっと、そういうことじゃなくて…… ん? でもどうしてそんなこと知ってるのよ。いつ見たのよ」
「子供の頃、一緒にプール入っただろ。その時にみたよ」
ベアトリスは話にならないと呆れてしまった。
その時、後ろで物音がした。振り返るとアメリアがトレイを持って震えるように立っていた。
「アメリア、寝てなくっちゃダメじゃない。そんなの持ってこなくてもいいのに」
ベアトリスはトレイを受け取ると、アメリアは不安な顔でベアトリスを見つめていた。何かを言いたげにしてるが、それを声に出すのを躊躇っていた。パトリックが助け舟を出すようにアメリアの体を支えた。
「アメリア、ここは僕に任して。さあ、ベッドに戻ろう。ベアトリス、悪いけど食器洗っててね。今度はベアトリスが働く番」
パトリックはアメリアの肩を両手で優しく支えて部屋まで連れて行った。
「何が、僕に任せてだ。食器洗えって私に命令してるだけじゃない」
ベアトリスはパトリックが言った言葉を履き違えていた。
アメリアをベッドに横たわらせ、パトリックはブランケットを被せて整える。
「アメリア、心配は要らない。ベアトリスはまだ何も気がついてない。あれはただの思いつきに過ぎない」
「でも、あの子、今まであんな風に聞いたことなんてなかった。嘘が剥がれ始めてきたに違いないわ」
「落ち着いて。あんな一言であなたが取り乱してどうするんですか。全くアメリアらしくない。あなたはもっと芯の強い人でしょ、ディムライト全員が恐れるくらいの」
パトリックが笑顔で茶化すように言った。
アメリアの強張った体の力がすっとほぐれていく。
パトリックの目をじっと見つめると、深みのある青さが海と重なる。 そしてそれは海と同じように茫洋としていてつかみ所がなく、パトリックの心の中を表しているようでもあった。
「パトリック、あなたは一体何をしにここに来たの」
「もちろん、ベアトリスに会いにです。ベアトリスと離れてしまった時間を取り戻しにきました。僕は本気でベアトリスを守りたいんです。あなたが無理やりベ アトリスを連れて行ったあの日、僕の時間が止まってしまった。子供ながら僕は本気でベアトリスが好きだったんです。彼女がホワイトライトと判る以前から ずっと。リチャード達があの時、現れなければこんなことにならなかった。彼女は何も知らずに暮らせるはずだった。そしてあなたも辛い思いをしなくてもすん だ」
「あなたは本当に何もかも知っているのね」
パトリックは悲しい目をしながら笑って肯定した。
「僕を信じてくれませんか。僕は彼女を必ず守ってみせます。でも願わくは、彼女と結婚したいですけど、それはまた次の問題ということで」
パトリックは、はにかんだ笑いを見せた。
アメリアはパトリックの憎めないストレートな言葉に呆れながらも反対する気持ちが起こらなかった。ただ真実だけは告げようと隠さず話す。
「あなたって人は…… だけどヴィンセントもあなたと全く同じ気持ちでいるの。それにベアトリスは彼のことが……」
「その先は言わないで下さい。それは僕が確かめます。それに僕はそんな話信じたくないですから」
慌てることもなく落ち着いてどーんと構えるその態度は潔かったが、和やかな顔つきが一瞬強張ったのをアメリアは見逃さなかった。そのことに触れずに話題を変えた。
「お昼ご飯ありがとうね。美味しかったわ。それから一部屋空いてるから、そこを使ってもいいわよ」
「アメリア、それじゃ僕を信用してくれるんですね」
「正直まだわからない。ディムライトと私は相性が悪いのは知ってるでしょ。でも今はあなたの助けが必要なのも事実なの。リチャードの話によると、とんでも ないダークライトがこの辺をうろついている。私を襲った奴もホワイトライトを確実に狙っていた。急激にダークライトの活動が活発になってしまった。ベアト リスの存在がバレてしまったらあの子が危険に晒されてしまうわ。それだけはどんなことがあっても阻止したいの」
「わかってます。あなたが僕のことをどう思おうと、僕は自分のやるべきことをやるだけですから。でもここに住んでもいいというご好意、有難く受けさせて頂きます」
パトリックは素直に嬉しいと笑っていた。そしてアメリアの部屋を後にすると、『イエスっ!』とガッツポーズを取るように上機嫌になっていた。
嬉しさの勢いで、シンクの前で洗物をしているベアトリスの後ろに立つといきなりぎゅっと抱きしめた。
「キャー」
ベアトリスがびっくりしてお皿を落としてシンクの中で割ってしまった。
「ちょっと、何するのよ。離しなさいよ。お皿割っちゃったじゃない、もう!」
「それくらいいいじゃない。後で新しいのプレゼントするよ。これから一緒に住むんだから。それで嬉しくてたまらないんだ」
「えー、いつの間にそんな話に。アメリアが言ったの?」
「うん、そうだよ。一部屋空いてるから使っていいって」
「嘘でしょ……」
水道の水が流れっぱなしになって止めるということも忘れ、ベアトリスはパトリックに後ろから抱きつかれながら呆然となっていた。
パトリックはそれをいいことに、長い間愛おしくベアトリスを抱いていた。
「うっ、苦しい。しかもいつまでも邪魔」
ベアトリスが気を取り直すと、ぬれた右手の甲をあげ、パトリックめがけて後ろに振り上げた。それはパトリックの鼻に命中する。
「いてー、何すんだよ。折角いい雰囲気なのに」
パトリックは鼻を押さえる。
「いつまでも調子乗って抱きついてるからよ。また言うんでしょ。弾力があって気持ちいいとか。私はクッションじゃないの」
ベアトリスは後ろを振り返り、パトリックに顔を向き合わせ怒った。
「違うよ、僕は男だからいつも君に触れていたいんだ。ただのスケベってとこかな。男はみんなそういうものだと思うけど」
恥ずかしくもなくあっけらかんと本音をいうパトリックに、ベアトリスはただ面食らった。また彼のペースに乗せられると思うと、慌てて釘をさした。
「これからは指一本私に触れないで。一緒に住むなら尚更。判った?」
「うーん、約束できるかな…… ごめん、やっぱりできないや」
パトリックはまたしつこくベアトリスに抱きつく。バタバタと抵抗するベアトリスの耳元で囁いた。
「どんなことがあっても僕は君を守ることを誓う。全ては君のために、僕の魂を捧げるよ。これだけは約束できるよ」
ベアトリスの体全身に力が入った。どこかでよく似た台詞を聞いた。
──ヴィンセントも同じようなことを言った。あの物置部屋で、騎士に扮しながら。
ベアトリスが急に動かなくなったので、不思議に思いパトリックはベアトリスを離した。ベアトリスは神妙な面持ちでパトリックの顔を見る。
「だったらその誓いの証を私に見せて」
ベアトリスはパトリックがどう行動するのか固唾を呑んで見ていた。
「そっか、証か。うーん。君にキスをして証明ってことでいい? それなら僕も喜んで」
パトリックは唇を突き出すと、ベアトリスは彼の鼻をつまんだ。
──なんだただの偶然か。
ベアトリスは考えすぎたと体の力を抜いた。
「あーあ、水道が出しっぱなしじゃないか。もったいない。お皿も片付けないと」
パトリックはシンクの前に立ち、水道が出るレバーを下に下げた。そして割れた皿を片付ける。その時だった。
「痛っ」
パトリックの指先に赤いラインが現れた。それをベアトリスに見せてドジな奴だと自分で笑っていた。
ベアトリスははっとする。
──偶然なの、それとも故意に血を見せてるの?
「だっ、大丈夫…… 」
ベアトリスは声をかけるものの、頭の中では血をもってそれを証とするヴィンセントが見せた行為と重ね合わせていた。
「ああ、大丈夫さ、ほんのちょっとかすっただけ。すぐ止まるさ」
パトリックはかなり深く切っていたのか、左の人差し指から鮮明な赤い玉が現れる。指先でどんどん膨れ上がり、最後にはつーっと指を伝って流れていった。
ベアトリスは無言でパトリックをバスルームまで引っ張っていった。
トイレの蓋の上に座らせ、シンクの隣の引き出しから消毒薬を出して手当てをしてやる。 最後に絆創膏を貼ると、パトリックは満足げに笑顔を見せていた。
「ありがとう」
パトリックが素直に礼を言っても、ベアトリスは上の空だった。まだ血を見せたことについて疑念を抱いている。パトリックはベアトリスの態度などお構いな しにバスルームを見回していた。
──ライトソルーションの影響をかなり受けてるバスルームだ。なるほど、ライトソルーションの混じった湿気が溜まりこんでこのバスルームの全てのものに浸透しているのか。この中にいれば体の表面まで付着するってことか。
「ねぇ、このバスルーム、僕も使っていいのかな」
「えっ、うん、そうなるわね。何か不服でも?」
「いや、別に」
「あっ、また変なこと想像してるんでしょ」
「いや、今回はそんなこと滅相も…… 」
ベアトリスは軽くパトリックの頭を叩こうとするとパトリックは防御しようと両手で頭を庇う。その時ベアトリスは彼の指先の絆創膏に再び視線が行った。うっすらと血が滲んでいるのを見るとまたはっとした。
──まさかヴィンセントもパトリックのようにあの時本当に自分の手を切って血を見せたのでは……
同時に物置部屋の床に滴った血の跡を思い出す。
そしてベアトリスが触れたことで焦げ付くように煙を出した怪奇現象。
その部屋のドアの向こうで、ベアトリ スに近づくなと命令をして、なぜか苦しんでいたヴィンセント。
ベアトリスはこれらのことを繋ぎ合わせようとした。
──もしかしたら、ヴィンセントは私に近づけなかった。でもそれはどうして? 近づくと彼が困ることになるから? じゃあそれはなぜ? 私に知られたくない秘密があるから? そしたらその理由は?
ベアトリスは素直に思いつくまま考えてみた。そして頭に浮かんだものは非現実的だが、これしか考えられなかった。
──彼は人間じゃない……
顔から血の気が引いて真っ青になっていく。だがそれはどんどん確信を帯びてくる。
──こう考えれば夢だと思っていた出来事が全て現実味を帯びる。そして赤く染まった不快な空間で、怪物に襲われた時、自分を助けてくれた野獣は……
「まさか!?」
ベアトリスは思い立ってバスルームを飛び出し、玄関のドアを突き破るように突進した。
「ベアトリス、急にどうしたんだい」
パトリックはただ事じゃないと後を追いかけた。
パトリックが腕によりをかけて作ったものだったが、ベアトリスはロボットのようにただフォークを上下に動かして口に入れていた。
先ほどみた人影はヴィンセントに思えてならず、彼が近くにいたかもしれないと考えると心ここにあらずだった。
だがこれも、そうであって欲しい思い込みにしか過ぎず、ヴィンセントがここに来るはずがないと強く否定した。
希望をかすかに抱くことは、自分の心を故意につねって弄くってるようなものだった。
学校の物置部屋でヴィンセントと一緒に過ごしたことをふと思い出す。
あやふやな記憶。自分が自分でなかった感覚。
しかしそれもまた、昼寝をしてしまったことでやはり夢の中の出来事なのかと、いつものごとく確証に自信がなかった。
昼寝──。ヴィンセントにずっと抱かれていたことも思い出した。彼と体を密着していたことが、ぽわっと心が浮くように思い出される。
そして車で送ってもらった後の別れ際の抱擁。あれが全て遊びで、からかいだったとはベアトリスにはなぜか思えなかった。
その次の日なぜヴィンセントが急に変わってしまったのか──。
フォークを持っていた手が止まる。
不思議な数々の出来事、そしてそれぞれの謎を帯びた言葉。頭の中でぐるぐる回りだした。
──もしみんな嘘をついてるとしたら…… または何かを隠してるとしたら
発想の転換だった。
突然、持っていたフォークが手から落ち、カチャーンとお皿に当たった。
「ベアトリス、そんなに僕が作ったもの不味かった? さっきから無表情で食べてるし、動きが止まったと思ったら、フォーク落としてショッキングな顔してる し。どうしたんだい」
パトリックが怪訝にベアトリスを見ていたが、ベアトリスは動かないまま、自分の世界に入り込んだようにまだ考えていた。
パトリックの存在など完全に眼中になかった。
その時、ベアトリスはヴィンセントの言葉を思い出していた。
『ベアトリス、これだけは言っておく。今僕はこうやって君の近くにいる。そして、今日は二人っきりになることも、君に触れることもできた。僕がそうしたい とずっと願ってきたことなんだ。それがなぜ今まで出来なかったかいつか考えて欲しいんだ。僕の言ってる意味が理解できたとき、ジェニファーがなぜ君の側に 居るかもわかるよ。もうすぐまたいつもの君のイメージ通りの僕に戻ってしまう。口数の少ない僕にね。今日こうやって君と過ごせた午後は僕にはかけがえのな いチャンスだっ たんだ』
ヴィンセントは何かを考えてほしいと言った。
ヴィンセントがあんな態度を取ったのには理由があるってこと?
ベアトリスは雷に打たれたように突然はっとした。その瞬間我に返ってびっくりした。焦点が合わずピントがぼけたパトリックの顔が数センチも離れてない目の前にある。
「キャー」
ベアトリスはのけぞってしまい、その表紙に椅子が倒れてひっくり返りそうになると、側にいたパトリックがしっかりと受け止めた。
「ちょっとどうしてそんな近くに顔を寄せてるのよ」
心臓をバクバクさせ、体制を整えながらベアトリスは叫ぶ。
「だって、何回呼んでも答えないし、側に寄っても気がつかないし、全く動かないもんだから、今のうちにキスでもしておこうかななんて」
「何を考えてるのよ。バカ!」
「だけど、そんなに思いつめてどうしたんだい。さあ、僕になんでも言ってごらん」
パトリックは両手を広げ、大げさな態度を取る。
「ねぇ、パトリック。あなた私に何か隠してることない?」
パトリックの片方の眉がぴくっと動いた。
「例えば、どんなこと?」
笑顔を忘れず、様子を探るように聞く。
「そうね、私の知らない私の真実を知ってるとか」
ベアトリスは疑いをもつ目ではったりをかけてみた。
「ベアトリスの知らない真実…… ああ、もちろん知ってるよ」
パトリックは堂々と言い切った。ベアトリスが聞きたいとばかり身を乗り出す。
「それは何なの?」
「それは、ベアトリスの背中にほくろがあること」
「ちょっと、そういうことじゃなくて…… ん? でもどうしてそんなこと知ってるのよ。いつ見たのよ」
「子供の頃、一緒にプール入っただろ。その時にみたよ」
ベアトリスは話にならないと呆れてしまった。
その時、後ろで物音がした。振り返るとアメリアがトレイを持って震えるように立っていた。
「アメリア、寝てなくっちゃダメじゃない。そんなの持ってこなくてもいいのに」
ベアトリスはトレイを受け取ると、アメリアは不安な顔でベアトリスを見つめていた。何かを言いたげにしてるが、それを声に出すのを躊躇っていた。パトリックが助け舟を出すようにアメリアの体を支えた。
「アメリア、ここは僕に任して。さあ、ベッドに戻ろう。ベアトリス、悪いけど食器洗っててね。今度はベアトリスが働く番」
パトリックはアメリアの肩を両手で優しく支えて部屋まで連れて行った。
「何が、僕に任せてだ。食器洗えって私に命令してるだけじゃない」
ベアトリスはパトリックが言った言葉を履き違えていた。
アメリアをベッドに横たわらせ、パトリックはブランケットを被せて整える。
「アメリア、心配は要らない。ベアトリスはまだ何も気がついてない。あれはただの思いつきに過ぎない」
「でも、あの子、今まであんな風に聞いたことなんてなかった。嘘が剥がれ始めてきたに違いないわ」
「落ち着いて。あんな一言であなたが取り乱してどうするんですか。全くアメリアらしくない。あなたはもっと芯の強い人でしょ、ディムライト全員が恐れるくらいの」
パトリックが笑顔で茶化すように言った。
アメリアの強張った体の力がすっとほぐれていく。
パトリックの目をじっと見つめると、深みのある青さが海と重なる。 そしてそれは海と同じように茫洋としていてつかみ所がなく、パトリックの心の中を表しているようでもあった。
「パトリック、あなたは一体何をしにここに来たの」
「もちろん、ベアトリスに会いにです。ベアトリスと離れてしまった時間を取り戻しにきました。僕は本気でベアトリスを守りたいんです。あなたが無理やりベ アトリスを連れて行ったあの日、僕の時間が止まってしまった。子供ながら僕は本気でベアトリスが好きだったんです。彼女がホワイトライトと判る以前から ずっと。リチャード達があの時、現れなければこんなことにならなかった。彼女は何も知らずに暮らせるはずだった。そしてあなたも辛い思いをしなくてもすん だ」
「あなたは本当に何もかも知っているのね」
パトリックは悲しい目をしながら笑って肯定した。
「僕を信じてくれませんか。僕は彼女を必ず守ってみせます。でも願わくは、彼女と結婚したいですけど、それはまた次の問題ということで」
パトリックは、はにかんだ笑いを見せた。
アメリアはパトリックの憎めないストレートな言葉に呆れながらも反対する気持ちが起こらなかった。ただ真実だけは告げようと隠さず話す。
「あなたって人は…… だけどヴィンセントもあなたと全く同じ気持ちでいるの。それにベアトリスは彼のことが……」
「その先は言わないで下さい。それは僕が確かめます。それに僕はそんな話信じたくないですから」
慌てることもなく落ち着いてどーんと構えるその態度は潔かったが、和やかな顔つきが一瞬強張ったのをアメリアは見逃さなかった。そのことに触れずに話題を変えた。
「お昼ご飯ありがとうね。美味しかったわ。それから一部屋空いてるから、そこを使ってもいいわよ」
「アメリア、それじゃ僕を信用してくれるんですね」
「正直まだわからない。ディムライトと私は相性が悪いのは知ってるでしょ。でも今はあなたの助けが必要なのも事実なの。リチャードの話によると、とんでも ないダークライトがこの辺をうろついている。私を襲った奴もホワイトライトを確実に狙っていた。急激にダークライトの活動が活発になってしまった。ベアト リスの存在がバレてしまったらあの子が危険に晒されてしまうわ。それだけはどんなことがあっても阻止したいの」
「わかってます。あなたが僕のことをどう思おうと、僕は自分のやるべきことをやるだけですから。でもここに住んでもいいというご好意、有難く受けさせて頂きます」
パトリックは素直に嬉しいと笑っていた。そしてアメリアの部屋を後にすると、『イエスっ!』とガッツポーズを取るように上機嫌になっていた。
嬉しさの勢いで、シンクの前で洗物をしているベアトリスの後ろに立つといきなりぎゅっと抱きしめた。
「キャー」
ベアトリスがびっくりしてお皿を落としてシンクの中で割ってしまった。
「ちょっと、何するのよ。離しなさいよ。お皿割っちゃったじゃない、もう!」
「それくらいいいじゃない。後で新しいのプレゼントするよ。これから一緒に住むんだから。それで嬉しくてたまらないんだ」
「えー、いつの間にそんな話に。アメリアが言ったの?」
「うん、そうだよ。一部屋空いてるから使っていいって」
「嘘でしょ……」
水道の水が流れっぱなしになって止めるということも忘れ、ベアトリスはパトリックに後ろから抱きつかれながら呆然となっていた。
パトリックはそれをいいことに、長い間愛おしくベアトリスを抱いていた。
「うっ、苦しい。しかもいつまでも邪魔」
ベアトリスが気を取り直すと、ぬれた右手の甲をあげ、パトリックめがけて後ろに振り上げた。それはパトリックの鼻に命中する。
「いてー、何すんだよ。折角いい雰囲気なのに」
パトリックは鼻を押さえる。
「いつまでも調子乗って抱きついてるからよ。また言うんでしょ。弾力があって気持ちいいとか。私はクッションじゃないの」
ベアトリスは後ろを振り返り、パトリックに顔を向き合わせ怒った。
「違うよ、僕は男だからいつも君に触れていたいんだ。ただのスケベってとこかな。男はみんなそういうものだと思うけど」
恥ずかしくもなくあっけらかんと本音をいうパトリックに、ベアトリスはただ面食らった。また彼のペースに乗せられると思うと、慌てて釘をさした。
「これからは指一本私に触れないで。一緒に住むなら尚更。判った?」
「うーん、約束できるかな…… ごめん、やっぱりできないや」
パトリックはまたしつこくベアトリスに抱きつく。バタバタと抵抗するベアトリスの耳元で囁いた。
「どんなことがあっても僕は君を守ることを誓う。全ては君のために、僕の魂を捧げるよ。これだけは約束できるよ」
ベアトリスの体全身に力が入った。どこかでよく似た台詞を聞いた。
──ヴィンセントも同じようなことを言った。あの物置部屋で、騎士に扮しながら。
ベアトリスが急に動かなくなったので、不思議に思いパトリックはベアトリスを離した。ベアトリスは神妙な面持ちでパトリックの顔を見る。
「だったらその誓いの証を私に見せて」
ベアトリスはパトリックがどう行動するのか固唾を呑んで見ていた。
「そっか、証か。うーん。君にキスをして証明ってことでいい? それなら僕も喜んで」
パトリックは唇を突き出すと、ベアトリスは彼の鼻をつまんだ。
──なんだただの偶然か。
ベアトリスは考えすぎたと体の力を抜いた。
「あーあ、水道が出しっぱなしじゃないか。もったいない。お皿も片付けないと」
パトリックはシンクの前に立ち、水道が出るレバーを下に下げた。そして割れた皿を片付ける。その時だった。
「痛っ」
パトリックの指先に赤いラインが現れた。それをベアトリスに見せてドジな奴だと自分で笑っていた。
ベアトリスははっとする。
──偶然なの、それとも故意に血を見せてるの?
「だっ、大丈夫…… 」
ベアトリスは声をかけるものの、頭の中では血をもってそれを証とするヴィンセントが見せた行為と重ね合わせていた。
「ああ、大丈夫さ、ほんのちょっとかすっただけ。すぐ止まるさ」
パトリックはかなり深く切っていたのか、左の人差し指から鮮明な赤い玉が現れる。指先でどんどん膨れ上がり、最後にはつーっと指を伝って流れていった。
ベアトリスは無言でパトリックをバスルームまで引っ張っていった。
トイレの蓋の上に座らせ、シンクの隣の引き出しから消毒薬を出して手当てをしてやる。 最後に絆創膏を貼ると、パトリックは満足げに笑顔を見せていた。
「ありがとう」
パトリックが素直に礼を言っても、ベアトリスは上の空だった。まだ血を見せたことについて疑念を抱いている。パトリックはベアトリスの態度などお構いな しにバスルームを見回していた。
──ライトソルーションの影響をかなり受けてるバスルームだ。なるほど、ライトソルーションの混じった湿気が溜まりこんでこのバスルームの全てのものに浸透しているのか。この中にいれば体の表面まで付着するってことか。
「ねぇ、このバスルーム、僕も使っていいのかな」
「えっ、うん、そうなるわね。何か不服でも?」
「いや、別に」
「あっ、また変なこと想像してるんでしょ」
「いや、今回はそんなこと滅相も…… 」
ベアトリスは軽くパトリックの頭を叩こうとするとパトリックは防御しようと両手で頭を庇う。その時ベアトリスは彼の指先の絆創膏に再び視線が行った。うっすらと血が滲んでいるのを見るとまたはっとした。
──まさかヴィンセントもパトリックのようにあの時本当に自分の手を切って血を見せたのでは……
同時に物置部屋の床に滴った血の跡を思い出す。
そしてベアトリスが触れたことで焦げ付くように煙を出した怪奇現象。
その部屋のドアの向こうで、ベアトリ スに近づくなと命令をして、なぜか苦しんでいたヴィンセント。
ベアトリスはこれらのことを繋ぎ合わせようとした。
──もしかしたら、ヴィンセントは私に近づけなかった。でもそれはどうして? 近づくと彼が困ることになるから? じゃあそれはなぜ? 私に知られたくない秘密があるから? そしたらその理由は?
ベアトリスは素直に思いつくまま考えてみた。そして頭に浮かんだものは非現実的だが、これしか考えられなかった。
──彼は人間じゃない……
顔から血の気が引いて真っ青になっていく。だがそれはどんどん確信を帯びてくる。
──こう考えれば夢だと思っていた出来事が全て現実味を帯びる。そして赤く染まった不快な空間で、怪物に襲われた時、自分を助けてくれた野獣は……
「まさか!?」
ベアトリスは思い立ってバスルームを飛び出し、玄関のドアを突き破るように突進した。
「ベアトリス、急にどうしたんだい」
パトリックはただ事じゃないと後を追いかけた。