今僕が何をしても、彼女の本当の心の中に入り込む事はもう出来ないだろう。
機器の数値はスレイユの状態を克明に表してる。
すでに装置からの離脱は完了している。だが、スレイユはあれから目を覚ます事は無かった。
実験は失敗に終わったのかもしれない。
スレイユは自分の夢の国にとどまる決意をしたのだろうか?
それを彼女が選んだのなら、僕は真摯にその意志を受け入れる。
もう二度と彼女の意識が戻らなくても……。

私はカオリ・ラヴィナーレへ私の抱く夢を話し始めた。
彼女はその話を一つ一つ、ゆっくりと聞いてきてくれている。
「本当はさぁ、私自分の夢を叶えたかったんだと思う」
「スレイユさんの夢ってどんな夢だったんですか?」
「私の夢かァ。何だったんだろうね。今となってはその夢自体も、もう思い出す事も出来ないみたい」
「そうですか。それは悲しい事ですね」
カオリ・ラヴィナーレは寂しそうに言う。
「では、一つだけもし、願いが叶うのなら。スレイユさん、あなたは何を望みますか?」
「一つだけの願い?」
「そうです一つだけの願いです」
カオリ・ラヴィナーレの膝に頭を乗せ、講堂に差し込む光の帯びを眺めていた。彼女はそんな私の髪を優しくなでてくれていた。
心地いい気持ちに包まれながら、その願いを考えた。
ふと、私の瞼に映る人の影。
次第に蘇るその人の面影。いつも私に優しい笑みを投げかけてくれたあの人の姿。
「そうかァ、和樹《かずき》あなただったのね」
ずっと私をいつも見守ってくれていた人そう私の夫。和樹だった。

「和樹に、もう一度だけ逢いたい」

自然と出た言葉だった。
「そうですか。スレイユさんにとって一番大切な人なんですね」
少しずつ曖昧だった記憶が戻って来るような感覚。それは懐かしさと共に悲しみの想いでもあった。
それでも私にとってかけがえのない人。そう和樹に私はもう一度会わなければいけない。それは私自身を取り戻す事に必要だから。
「そうですかスレイユさん。あなたは自分を一番思ってくれている人をようやく思い出せたんですね。そして、その人の想いの大切さをようやく自分自身に受け入れる事が出来たんだと思います」
「そうかもしれない。私はどこかで、あの人の事を和樹の想いを拒絶していた」
カオリ・ラヴィナーレは微笑みながらこう私に言った。
「それは違うわ」
彼女の手が止まる。
「もうそろそろ、お別れの時間が来たようです」
力なく「そう………」と声に出した。
ステンドグラスの窓から差し込める、色とりどりの光の帯が次第にかすむ。
かすかにカオリ・ラヴィナーレの声が聞こえる。

「スレイユさん。いいえ、お母さん。私を産んでくれてありがとう。短い間だったけど、私を愛してくれてありがとう。そしてお父さんを愛してくれてありがとう」

あたたかい言葉に包まれながら、私はその光を失った。

ここからは僕の今の状態について話をしようと思う。
スレイユはあれ以来僕の所には帰って来てはくれなかった。
彼女は静かに僕の前からその姿を。記憶を消したのだ。
そう、もう彼女は僕の前には二度と表れない。
香が眠る墓石に新たな字が刻まれた。

「スレイユ・ミィシェーレ。愛する娘と共に永久《とわ》に眠る」と。

あれから僕が目覚めたのはおよそ3年の月日が経った頃だと言う。
昏睡状態で、一時はもう植物状態にまで陥った様な状態だったらしい。
そう僕は長い夢をずっと見続けていた。
あの飛行機事故。その飛行機には僕とスレイユが搭乗していた。
今でもその時の光景はこの脳裏に焼き付いている。
機長の不時着を試みる。
そのアナウンスの後、機体は大きな衝撃を受けた。
ほんの一瞬の出来事。
気が付いた時、僕の目に映った光景はまるで地獄絵の様だった。
黒々と黒煙がたちこめ、機体はバラバラにくだけ散ったような状態だった。
僕の隣にいるスレイユの姿を僕のこの目が捉えた時、彼女は頭から血を流しぐったりと座席に押しとどまっていた。
「スレイユ! 大丈夫か」
声に出そうにも僕は、その声さえ出す事が出来なかった。
そして僕の記憶はそこから消し去られた。
何もかもすべての記憶を失った僕は、新たな人生を踏み出そうとした。そう、自分の名前さえも思い出せない、両脚は切断されすでになくなっていた。
車いすでの生活を余儀なくされた僕に、出来る事は何一つなかった。
科学者であった僕の研究についてもすべてを失った。
だがある日、ふと自宅の書庫に入った時、とてつもなく懐かしい気持ちになった。事故以来僕はこの書庫には立ち入る事は無かった。
そしてある一冊のダイアリーを手にした。

スレイユ・ミィシェーレ

始めはこの女性の名は誰だろうと、何故こんなものが自分の書庫にあるのかさえも理解できなかった。
そのダイアリーは、20冊以上に及んでいた。
ある一つを手に取りそっとページをめくる。
信じられなかった。
彼女、スレイユ・ミィシェーレは僕の妻であったのだ。
その日の事を彼女はこのダイアリーに記していた。
僕との出会い、そして香《かおり》と言う名の娘がいたことを。
私をよく知ると言う知人にこの事を尋ねた。
「全て本当の事です」彼女はそう答えた。
そして二人が眠る墓石へ僕を連れてくれた。だが、その墓石の前にいた僕には、何かを思い出すと言うきっかけにもならなかった。
これが本当に真実ならば、僕はとてつもなく不幸な人生を今まで送っていたのだろう。そう感じる自分に無性に失望感を感じた。
すでに僕は記憶を失ってから15年と言う歳月が流れている事を、その時知ったからだ。

すでに髪は白く、体は衰弱しきっていた。
彼女は言う。
「もうじき、あなたにも主の使いが召されるでしょう。もうあなたの躰はこの世界から別れを告げないといけない所まで来ている。でも、最後にあなたは自分の家族の痕跡に触れる事が出来た。それはあなたにとって何よりもの救いになると思います」

遅すぎた。何をするにしてもすでに遅すぎたのだ。
だが、彼女は私にこう言ったのだ。
「最後に夢を見てみませんか? あなたを『Pays de reve ペイドゥリーヴ』夢の国へお連れしたいと思います」
「夢の国?」
「そうです。あなたの脳は何も傷ついてはいない。その記憶はずっとその中にとどまっているだけです。その記憶を夢というかたちであなたが再現できるとしたら? どんな夢の国にするかはあなた次第です。出来れば最後にあなたの愛した人の傍に触れられる事を願って」

僕は夢の国へと旅たつ決意をした。

だがもう二度と、その夢の国から戻る事は出来なくなるかもしれない。
彼女はそう付け加えたが、僕の意志は変わらなかった。
僕の名は、片岡和樹《かたおかかずき》。
僕はその夢の国で成長した娘、香《かおり》に出会えた。
僕が描いた娘の姿はカオリ・ラヴィナーレとしてスレイユの傍に行く事が出来たらしい。
最後に僕は自分の姿を消しさり、スレイユと共に成長した香を見守りながら、永久の眠りについた。

そっと、また新たに文字が刻まれた墓石の前に、一冊のダイアリーが置かれた。
それはスレイユの最後のダイアリーだった。
風がダイアリーのページをめくり始めた。
最後のページには僕が、残した文字が書かれていた。

「また共に君と、時をわかち合えることを願う」


『Pays de reve ペイドゥリーヴ』それは夢の国。
本当にその世界が存在するのかは分からない。でも僕は、とても幸せな時を取り戻せたように思えた。


スレイユ・ミィシェーレ。
またいつかどこかで……。