脳科学者であるスレイユ・ミシェーレ。
彼女が公開した論文はこの世界に震撼を与えた。

人の脳に残る記憶というものは、脳が創りあげたイメージである。

人はこのイメージを幾重にもかさねあわせ、物事を思い出したかのように錯覚をさせ、記憶という言葉。いや症状に置き換えているのだというのだ。

実際、脳に多大なダメージを受けたにせよ、その伝達がうまくつながらなければ、記憶というものは表《おもて》ざた甦《よみがえ》らない。
だが、実際にそのデータは脳内にとどまっている。壊されることがない限り、その中に大切にしまい込まれたままなのだ。
不運にも彼女はこの学会の帰りの飛行機事故で、命はかろうじて助かったものの、すべての記憶と身体の自由を奪われた。

スレイユ・ミシェーレが目を覚ました時、僕は愕然とした。
彼女はすべての記憶を失っていたのだ。
今までの僕とのこの生活すべてを……。
僕らのかけがえのない、共に過ごした時間はもろくも消え去ってしまった。
彼女が目を覚ました時、何も言葉はなかった。それどころか、この僕をじっと見つめ、今にでもおこられ、折檻《せっかん》されてしまうのではないかという、恐怖心が彼女を包み込んでいるように見えた。

まるで、幼い少女の様だった。

「僕だよ。和希《かずき》だよ。わかるかい? スレイユ……。」

その問いに彼女は反応しなかった。今でも覚えている、あの恐怖におののいた彼女の瞳を。
あれから、もう12年の月日が経とうとしていた。
僕は同じ脳科学者として、何とかスレイユの記憶をもとに戻そうと研究に打ち込んだ。
その傍ら、僕は記憶のないスレイユと共に、新たな生活を営もうと決意する。
でもそれは、簡単なことではなかった。
僕はスレイユの事を、今までのスレイユの事を知っている。いや記憶している。だが今ここに居るスレイユは、僕の記憶の中にあるスレイユとは全く違うスレイユなのだから。
目に映るスレイユの姿は何も変わらない。美しく、可憐で彼女の周りには咲き誇る桜の花の中にたたずむような、その姿がいつも僕の脳裏を追いかけている。
だが、一度《ひとたび》スレイユの心に触れようとすれば、僕の心はガラスが砕け散るようにもろくも崩れ去る。
それを幾度も、この12年間僕は受け入れなければならなかった。
下半身不随。記憶障害。
周期的に彼女を襲う、発作的な全身の震えと感情の起伏の落差。
あの飛行機事故の恐怖は、彼女の脳裏にしっかりと焼き付かれている証拠だ。
そんな彼女の姿を目にして、僕は涙する。
彼女にはこの涙を見ませまいと、ひとり自分の書斎で、溢れこぼれ落ちる涙をぬぐう。
そんな日々が僕を常に包み込んでいた。
僕が涙を流した時彼女はなぜかはわからない、そっと僕の顔に手を添えてくれた。
それだけでも、僕は救われた気持ちに満たされていた。

新たな僕らの生活も数年が経った頃には、僕らはお互いにまた新鮮な気持ちで見つめ合うことが出来ているような気がしていた。
今まで、彼女が記憶を失うまでの事は、今も思い出すことは出来ない。
されど、新たな時間の流れの中で培ったこの記憶は、スレイユの中に留まってくれている。
「ねぇ、和希、紅茶と珈琲、どっちがいい?」
「大丈夫かい? スレイユ」
「大丈夫よ、これくらい。あなたにしてあげられるのは、これくらいの事しかないんだもの」
「それじゃ、珈琲をお願いしようかな」
「珈琲ね、わかったわ」
本当は僕は珈琲しか飲まない。それは何度もスレイユに話している。
スレイユの脳は過去の事を消し去るだけではなく、現在の日常の小さなことだが、彼女がそう感じたことについてなのかもしれないが、記憶として残すもの、残さないものとがあるらしい。
車いすでしか移動が出来ない身体。
そのために家の中を大幅にリホームした。段差のない床に、彼女が、車いすでも食事などが出来るように低めのダイニングテーブルを備え付けた。
そのダイニングテーブルで彼女は、珈琲を淹れてくれる。

彼女にはいまだ話してはいないが、僕らは永遠の誓いをしてからもうすでに20年以上の歳月が過ぎていた。
この12年間は僕の一方通、この想いしか届いていないような気がする。
それは彼女が記憶を失っていることだけではないと感じている。あるところ、スレイユは僕を遠ざけているという感情もあるのではないかと思う。
何故そう思うのか。
もう彼女の記憶にはないだろう。
いや、彼女はその記憶さえも失っていた。
僕たち二人の愛の結晶として生まれてきた子の墓石に、スレイユを連れて行った時、彼女はこう言ったのだ。
「この墓石に眠っているのは、あなたの妹さんなの? 香《かおり》さんと言う名だったのね」
小高い丘の上にひっそりとたたずむ白い墓石に刻まれている名を、スレイユは見たのだろう。

『Kaori dort pour toujours 香は永遠に眠る』フランス語で刻まれたこの墓石の言葉を見ても、彼女は自分が生んだ子だと言う事をわからないままだった。

そう僕たちには幼い一人娘がいたのだ。だがその最愛の娘は難病を抱え生まれてきた。
医師から言われたあの言葉は、今でも僕は忘れる事は無い。
「運が良くてもこの子は、5歳の誕生日を迎える事は出来ないだろう」
何とも事務的で冷たい言葉だ。
その時僕は怒りを感じた。その怒りは自分自身に向けた怒り、そして自分では気付かないうちにスレイユにもその怒りを向けていた。
本当は怒りなんかじゃない。悲しみだった。
その悲しみを隠すために怒りと言う想いを抱いてしまったのだ。
スレイユは香を最後まで愛し続けた。そして僕は、その愛を全て受け入れる事が出来なかったのだ。
そんな僕をスレイユはどんな気持ちで見ていたんだろうか。
香がこの世界から別れを告げた時、僕らも別れを告げなければいけない。
僕が勝手に思い描いた結果とその世界だった。
そう、僕は逃げ出したかったんだ。それを彼女は感じていたのかもしれない。
だが、スレイユは僕の手を離す事は無かった。
そして、研究に没頭するようになった。
一番悲しみの中にいる彼女を僕は救ってやることが出来ないまま、彼女のその姿を見ている事しか出来ない自分の情けなさに気づくのが遅かった。
スレイユが事故で記憶を失い、また目覚めた時に見せたあの、幼子の様な目を見た時。

僕は、自分の愚かさを思い知った。

気付くのが遅かった。いや、スレイユがこうなったのもすべては僕のせいでもある。それに気づかせてくれただけでも僕は彼女をまた、僕の心の中に向い入れることが出来たのかもしれない。
そう、亡くなった香と共に………。

スレイユと共に生活を重ね、僕は彼女に一言謝りたかった。
だから今のままのスレイユではいけないんだ。
どんなに今が幸せであろうとも、僕は元のスレイユにもう一度あわなければいけない。
彼女が残した研究データをもとに僕は彼女をもう一度、いや、一時の間でもいい。
あの時のスレイユに戻そうと研究を進めた。
彼女の記憶の残像の道筋を繋ぐ研究を。

そしてたどりついたのが彼女に夢を見させる装置だ
『Rêve レーヴ 夢』僕は彼女の脳に残る残像イメージを彼女自身が夢として見る事が出来る装置を開発した。
そう、スレイユを夢の国にいざなったのだ。
その世界で彼女はどんな夢を見て、何をするのだろうか?
もしかしたら、もうその夢の国の中で留まり、僕のもとに帰る事をスレイユは選ばないかもしれない。だが、それならそれでいい。
その世界で彼女が幸せを感じる事が出来るのなら。

第一被験者となり、装置の中で静かに眠るように横たわるスレイユの姿を、僕は今静かに見守っている。

君は今、どんな『Pays de reve ペイドゥリーヴ 夢の国』にいるのか?