カツカツとボールペンを走らせる音がして、暫くの沈黙の後にトンっと捺印する音が響く。まだやっと片手を超えた位しか体験していないけれど、いつもこの音を聞くと「ああ、やったな」と達成感を感じる。
 
 ゆっくりと印鑑を書類から持ち上げた目の前のお客様──佐伯様は、私の顔を見ると満足げに微笑んだ。

「いやあ、よかったですよ。決まらなかったらどうしようかと思ってましたからね」
「はい。本当に」

 私は神妙な表情のまま、少しだけ頭を垂れる。今日は、佐伯様の物件を売却するための手続き書類の作成のため、佐伯様にイマディール不動産のオフィスにお越しいただいている。この書類をもって正式に物件を新たな購入者のものへと所有権を移行させるための手続きが開始される。
 私がこの書類を無くさないようにファイルに挟んでいると、佐伯様は世間話を始めた。

「年末に新居に入居予定でしてね。年内に心配毎が片付いてホッとしましたよ」

 佐伯様はいつになく饒舌だ。佐伯様の所有する物件は、結局当初の設定価格から280万円ダウンの4300万円で取り引きが成立した。今年中に売れなかったらイマディール不動産の提示した下取り価格の3800万円までダウンすることになっていので、多少の値下がりがあったとは言えそれが未然に阻止できて、佐伯様はホクホク笑顔だ。

「新居はどちらなんですか?」
「静岡県ですよ。私の実家で、もう古いから今リフォームしてます。母も高齢だし、私もリタイアしたから故郷に帰りたくてねぇ。ここは便利だけど、空が狭いでしょう?」

 そう言いながら、佐伯様は天井を指さした。
 こんなにもにこにこした顔でよく喋る佐伯様と向かい合うのは、初めてだ。いつも少しだけ眉間を寄せた、頑固親父みたいな顔をしていたから。
 佐伯様はその後も、故郷の静岡の思い出話を沢山してくれた。佐伯様の故郷の静岡県島田市は東西に長い静岡県のなかでも中央部に位置しているようで、山の方に行くと温泉があるとか、海岸沿いの道路は晴れていると絶景だとか、観光客向けの機関車に乗れるスポットがあり、それで向かう山間部にはとても大きな吊り橋があるとか。気温も東京よりも暖かくて過ごしやすいと言っていた。
 佐伯様は新築で今回の物件を購入しこれまでの34年間を過ごしたわけだけれども、それでも少年時代を過ごした故郷は格別なのだろう。

「私が買った時はこの辺は鄙びた田舎でね、特に恵比寿なんて何も無かったよ。ビール工場と、広尾と恵比寿のちょうど中間地点に製菓の工場があった。渋谷川の辺りにいつも甘ーい香りが漂っていてねぇ」
「製菓工場ですか?」
「ええ。缶に入った飴で有名なところだよ。ほら、四角い……サクマさんだ」

 佐伯様は製菓工場の名前を思い出し、ポンと手を叩く。
 機嫌のよい佐伯様は、広尾と歩んだ思い出話も聞かせて下さった。ビール工場は知っていたけれど、製菓工場は初耳だ。その後も一通り話しを続けると満足したのか、暫くするとよいしょっと腰を上げた。

「ありがとうね。藤堂さん」
「いえ。お役に立てて嬉しく思います」

 去り際に頭を垂れる私に、佐伯様は笑顔で「大変だと思うけど、頑張ってね」と声を掛けて下さった。
 なぜだろう? 毎回胃に棘が刺さるくらい苦手な方だったはずなのに、これまで聞いたどの『頑張ってね』より嬉しく感じるのは。
 私は口の端を持ち上げて、「ありがとうございました」と佐伯様の背中に呼びかける。佐伯様は振り返えらずに、右手だけあげて見せた。