「そうそう。でも、高学歴だし、仕事できるし、そこそこハンサムだし、挙げ句の果てに御曹司でしょ? 妬む連中っているのよ。結構酷いこと言われてたよ。でも、コネが何もないとか、上司が贔屓していないなんて、結局のところ、証明のしようがないじゃない? もしかしたら、少しぐらいそういうことがあったかもしれない」
私はぐっと押し黙った。上司だって人間だ。確かに、部下に経営者一族の若手がいたら、ある程度の贔屓は起こり得る。なぜなら、相手は将来的に自分の会社の経営幹部に成り得る立場の人間なのだ。
「でね、アイツどうしたと思う?」
綾乃さんは私を意味ありげな目で見つめた。私は無言で首を傾げると、綾乃さんは言葉を続けた。
「ある日、突然辞表出して辞めたの。自分にはコネなんてないってことを証明してやるってこれまで陰口叩いてた連中に啖呵切って。あれはびっくりしたわ。前の会社の同期内じゃ、『逆ギレ退職』って未だに伝説になってる」
「えぇ!?」
綾乃さんはその時のことを思い出したのか、クスクスと笑った。一方、私は唖然としてしまった。
桜木さんが逆ギレして辞表を出すなんて、私にはとても信じられなかった。私にとって、桜木さんはいつも穏やかな雰囲気の大人の男性だ。でも、今の話を聞く限り、芯の部分はとても負けず嫌いな激情家なのかもしれない。
桜木さんは、私が振られた腹いせに辞表を出したと言ったとき、馬鹿にせずに聞いてくれた。もしかしたら、その時の自分と私が重なったのかもしれない。
「で、桜木がイマディールリアルエステート株式会社に転職を決めた時、私もたまたま夫の東京転勤が決まってSAKURAGIを退社することになったから、なんなら同じ会社に入ってアイツの行く末を見てやろうと思ったわけ。駆け出しの会社で不動産会社の営業経験者を欲しがってたから、すんなりと採用が決まって今に至るわ。もう、4年位前の事よ」
「そのことって、綾乃さんの旦那様は知ってるんですか?」
「もちろん。だって、うちの夫、SAKURAGI時代の同期だもん。桜木の事もよく知ってるよ」
綾乃さんは屈託なく笑う。
始めてここで働き始めた日に、綾乃さんは桜木さんの事を『色々と凄い』と評した。私はこれまで、桜木さんの仕事ぶりのことを指してそう言っているのだと思っていたけれど、きっとそれだけじゃないんだ。生まれ育った環境とか、御曹司であることとか、仕事ぶりとか、熱いところとか、全部引っくるめて『色々と凄い』と言ったんだ。
「綾乃さんから見て、イマディール不動産に入社後の桜木さんってどうですか?」
「んー、そうねぇ」
綾乃さんは考えるように天井を仰ぐ。そして、ゆっくりとこちらに視線を移動させた。
「相変わらずずば抜けた仕事ぶりは変わらないけど……なんだか楽しそうに見えるわ。前は会社が大きい分、仕事も縦割りだったから。色んな事を任されて、凄く勉強になってると思う。きっと、SAKURAGIに戻ってからも今の経験って役立つと思うの」
「……え? 桜木さんってSAKURAGIに戻るんですか?」
「はっきりと聞いたことは無いけど、いつかは戻るんじゃないかな? 御曹司だし」
このまま、桜木さんが会社を去ったら?
──きっと、2度と会えなくなる。
毎朝出社したら、目の前に尾根川さんがいて、隣に綾乃さんがいて、斜め前に桜木さんがいる。でも、それが当然じゃ無いってことを、私はすっかりと忘れていた。
頬に手をあてる綾乃さんを眺めながら、私は自分でも考えられないくらいショックを受けていた。