9月に入り、私がイマディール不動産に入社して既に5ヶ月が過ぎた。これまでは桜木さんにくっついて仕事を覚えていた私も、そろそろ大丈夫だろうということで1人で業務をこなすことが増えてきた。そんな中、私は先日物件のご案内をしたお客様とオフィスで電話のやり取りしていた。

「はい……はい。……そうですか。誠に残念ですが……またのご機会があったら、是非ご利用お願いします。ありがとうございました」
「せっかく案内して貰ったのに、ごめんなさいねぇ」

 もう何回繰り返したかわからない、このやり取り。電話を切ると、私ははぁっとため息をついた。

 イマディール不動産で1人で営業を始めて早1ヶ月。私の成績は『契約件数0件』と言う、散々たるものだった。ご案内自体はそれなりの人数をお連れしているし、物件にも自信を持っている。けれど、なぜか上手く行かない。

「あーあ。駄目でした……」

 自席で項垂れる私を綾乃さんがチラリと見る。

「まあ、不動産の見学者の半分以上は冷やかしだから。そう気に病むことないって」

 元気付けようとしてくれているのか、綾乃さんの口調は底抜けに明るい。そう言ってもらえると、少し救われる。

「でも、桜木さんは何件も成約してます」
「あいつは化け物だから。張り合っちゃ駄目よ。前の会社でも、断トツだったもん」
「前の会社?」

 私は伏していた顔を上げて、綾乃さんを見た。こちらを見ていた綾乃さんは、私の訝しげな顔を見て目をパチクリとしている。

「あれ? 言ってなかったっけ? 私と桜木、イマディールに入社前に勤めてた会社で同期なの」
「そうなんですか? 全然知りませんでした」

 本当に全然知らなかった。
 思い返せば、綾乃さんは桜木さんのことだけ呼び捨てだし、とても親しげだ。前の会社に新卒で入社したと考えれば、既に10年の付き合いになるのだからそれも頷ける。

「ちなみに、どちらの会社に?」
「SAKURAGI(サクラギ)」
「SAKURAGI?」

 私は思わず聞き返した。
 SAKURAGIと言えば、旧財閥系などの大手不動産会社には敵わないが、関西地方を中心に手広く不動産関連を扱う中堅の不動産会社として、業界ではそこそこ有名な企業だ。一般人は知らないかも知れないが、不動産会社に勤める人なら知っている、そんなレベルの会社。最近は関東地方にも進出しており、イマディール不動産とは比べものにならないくらい会社の規模は大きい。従業員だって何百人もいるはずだし、資本金だって全然違う。会社の安定性たるや、言うまでも無い。
 SAKURAGIからイマディール不動産に転職。なんともちぐはぐなこの転職には疑問を持たざるを得ない。

「何でまたSAKURAGIからイマディール不動産に?」
「私は、桜木に惚れたから」
「惚れた!?」

 私は素っ頓狂な声を上げて、慌てて自分の口を塞いだ。まるで『おはよう』と言うが如く、自然に『惚れた』とカミングアウトした綾乃さんに驚きが隠せない。あわあわする私を見て、綾乃さんは目をパチパチとしばたたかせ、その後けらけらと笑い出した。

「藤堂さん、今勘違いしてるでしょ? 『惚れた』って言うのは、異性としてじゃなくて、同僚としてってことよ。桜木ってさ、御曹司だから前の会社の時陰口が酷くてさ」
「桜木さん、御曹司なんですか!?」

 私はまたもや素っ頓狂な声を上げた。
 SAKURAGIの御曹司と言えば、とんでもないボンボンの筈だ。今までそんな素振りは一度も見せなかったのに。

「そうだよ」と綾乃さんは言った。
「だから、契約をとっても『わざと契約を取りやすいお客様を回されてる』って言われたり、なにか成果を出しても『親の七光りで上司に付け入ってる』って言われたり」
「酷いですね。桜木さん、本当に仕事出来るのに」

 私は思わず顔を顰めた。今の桜木さんの働きっぷりからすると、きっと実力で頑張っていたのは想像がつく。それを僻みでそんなふうに言うなんて、酷いと思った。