「ふう。やっとできたー」

 最後の段ボール箱を崩してぺちゃんこにすると、私はふうっと息を吐いた。
 単身の引っ越しだからそこまで荷物はないはずたけれど、新居では真理子の手伝いがなかったこともあり、荷解きは結構大変だった。段ボールから剥がしたガムテープの屑や、包んでいた緩衝材をゴミ袋に全部まとめると、パンパンと手をはたいた。

 まだゴールデンウィーク中なので役所はやっていないし、引っ越しの荷解き作業は終わった。今日の夕方に新しいベッドが届くことになっているけれど、指定の時間まではあと3時間以上ある。
 ローテーブルの上を片付けようとして、そこに置いておいた、入居案内と一緒にオフィスで渡された街散策マップが目に入った。広尾周辺の地図に、スーパーや公共施設、公園、ちょっとしたレストラン情報なとが書かれている。初めて出社した日に連れて行ってもらったイタリア料理店も載っていて、『本格的なナポリピザが楽しめる』と紹介文が付いていた。

「オフィス側しか殆ど知らないんだよなー」

 私は街散策マップを眺めながら独りごちる。
 街散策マップは広尾駅を中心にしており、周囲3キロ四方の情報が載っている。オフィスは広尾駅の東側の商店街の中にあるのでそちらはちょっと詳しくなってきた。美味しいお店が沢山で、毎日ランチタイムが楽しくて堪らないくらいだ。
 けれど、外苑西通りを挟んだ反対側には殆ど行ったことがなかった。地図を見ると、駅のすぐ近くに大きな公園があるようだ。公園の中には図書館もあると書かれていた。

「行ってみようかな……」

 私はもう1度時計を確認した。時間はまだ大丈夫そうだ。マップを見ると、公園の前には外国人向けのスーパーマーケットもあると書かれていた。料理が好きな私にとって、海外の調味料が揃っているというのはかなり興味が惹かれた。

 よし、行ってみよう! 

 そう決めると、私はすぐに出掛ける準備を始めた。

 広尾駅まではいつもの通り、外苑西通りを北上する。手に持った街散策マップを見ると、その途中にも幾つかコメントが入っていた。マンションから広尾駅に向かう途中にある交差点近くには人気のスイーツショップがあるだとか、どこそこの国の大使館があるとか。
 真理子がカップケーキを買ってきてくれたときにも感じたけれど、近くに住んでいても知らない地元の情報というのは結構多い。マップを見ながら歩いていると、知らない街に来ているような気がして、なんだか得した気分になった。

 目的の公園──有栖川宮記念公園は広尾駅から歩いて数分のところに位置していた。広尾駅からちょうど商店街とは反対側に進むのだ。入り口から木々が茂っているのが見え、傾斜のある地形を利用した広い公園の上の方は、ここからでは確認出来ない。
 通りを挟んで向かい側にはスーパーマーケットがあり、ここがマップに書いてあった外国人向けスーパーであることは見てすぐに分かった。なぜなら、店名がアルファベットだし、店の入り口に置かれた日用品のラベルも横文字だったから。

 私は少し迷って、先にスーパーに寄って飲み物でも買ってから公園を散歩することにした。
 店内に入って圧倒されるのは、外国人の多さ。あれ、私、海外旅行中だっけ? と思うほどだ。
 店内に並べられた商品も日本の一般的なスーパーとはちょっと違う。例えば、お肉売り場にはこんなでかい牛肉ブロック誰が食べるの!? とツッコミたくなるような商品から、クリスマスシーズンでもないのに大きな鳥の丸ごと肉が置いてあったりした。そして、プレートが日本語と英語で併記されている。
 私はお菓子売り場に行くと、おやつにグミをかごに入れた。もちろん、横文字ラベルの初めて見る商品にしてみた。グミってこんなに沢山の種類があったんだなぁと感心してしまう。ちょっとした観光地に来たようで、見ているだけで楽しい。

 調味料売り場では見たことのない珍しい調味料が沢山あったのでものすごく心惹かれた。けれど、手を伸ばしかけた私は、やっぱり手を引っ込める。
 今までは英二がいたから、沢山作っても大丈夫だった。けど、今は1人きり。この調味料を買って、1人で使い切れる? それに、やっぱり料理を作ったら、誰かに美味しいって言って欲しい。でも、英二が最後に『美味しい』って言ってくれたのはいつだったっけ? 
 楽しいお散歩中にまた嫌なことを思い出して、私ははぁっとため息をつく。気分転換のつもりが、本当に駄目だなあとちょっと落ち込む。結局、そこでは何もかごに入れることなく調味料売り場を後にした。