家族という存在

私、傅雖柚希(カシイ ユズキ)が働く
生羯(イチョウ)メディカルセンター。



国境なき医師団みたいなことをしていたから、人材不足も相まって小児科医兼産婦人科医を仰せつかっている。




通路を歩きながら垣間見える様子を書類片手に楽しむ。





とある妊婦と看護師は、採血の真っ最中のようで。




「このあいだテレビで動物特集していた時に、『動物は可愛いわよね~。文句は言わないし、癒されるわ~。』なんて言ったら、あの子なんて言ったと思う?」



「なんて言ったんです?」



「『悪かったね可愛くなくて。』だって。あの時の顔ったら!貴女に見せたかったわ~!」



「まぁ、言うこと聞かない時もありますしね。」




「そーなのよ!憎たらしくて、可愛くない時もあるちゃあるじゃない。でも、そんなのどうでもいい事でしょ。動物相手に嫉妬してて、それこそプクッって膨れたその顔の方が可愛かったわ~。」



「見たかったです。反抗期真っ最中だって言ってましたものね。怒っても子供は特別っていつか分かってくれますよ。」





とある中学生ぐらいの女の子と高校生ぐらいの男の子は、待合ロビーで子供らしからぬ会話を繰り広げていて。




「お母さんがね、私のこといたらない子で~って近所の人に言うの。嫌だったから後でお母さんになんで?って聞いたら、『自分が自分の子供を悪く言うのはいいのよ。ただし、それを他人に言われるとイラッとするのよね~。』って言っててさ。歪んだ愛情じゃない?なんで普通に愛せないのかな?お兄ちゃんだって褒められたいでしょ?」



「諦めろ。親とはそういうものだ。大体日本の文化は自分を下げるからな。」






とある赤子を連れた女性と助産師は、健診を終えたところのよう。





「言葉が通じないって大変でしょ。」



「はい・・・。でも、少しずつ伝えてきてくれることが分かってきました。主人も『ママには分かるんだな』って言ってくれて。」



「そっか、そっか。悪戦苦闘しながらだけど頑張ってるね!新米ママ、えらいよ!」




「ありがとうございます・・・!ママって呼んでくれる日が楽しみです。」





あたたかくも重く尊い場所。




・・・なんだけど。

「もぉ~。いい加減にしないと、温厚なこのあたしでも怒っちゃうよ~!」







ナースステーションの光景は、病院としてだけではなく産婦人科としても相応しくないんだけど、ね。





「そんな大きな声でどうしました?駒枝(コマエ)さん。」






腰に両手をあて、呆れたような諦めているような。


《困った時のコマエさん》なんて自ら言ってしまうような世話好きのベテラン助産師、駒枝さん。





いたずらっ子を叱っているようなニュアンスに、思わず声をかける。


苦笑いのおまけ付きで。





「あ、傅雖先生!またこの子が」




「傅雖先生!聞いてくださいよ!今朝、珍しく早起きできて、今日は良い日だ~なんてルンルン気分でモーニングして出ようとしたらドアが開かなくて!必死に、そりゃもう必死に押してたんですね!そしたら、なんと!!引き戸だったんです!」





店員さんに開けてもらって助かったんですよ!なんて、



入った時はどうだったんだろう、という疑問を問いかけることが出来ないぐらいの勢いで喋る、駒枝さんがこの子と呼んだ麦傍(ムギハタ)先生。



研修医を卒業しこの春から正式に産婦人科医として加わってやる気満々なのは素晴らしいことなんだけど、なんせ遅刻が絶えない・・・。





女医が少ない上に、オンコールじゃない日も所属上、兼任の私より先に呼び出しされてしまうから、勤務時間が長くなってしまって仕方ないと言えば仕方ないんだけど。

「でも、それは遅刻の理由として許容できないなぁ。」






醸し出すほんわかさに定評のある絢前遥(アヤサキ ハルカ)先生も、上長としての立場上厳しくなっちゃうのは当然よね。



あからさまな嘘をつくよりは良いんだけど、問題点はそこじゃないんだよ、麦傍先生。






「そんなぁ~」






「単なる言い訳だろ。許容できるできないが論点じゃない。」




「言い訳じゃありませんー!事実ですぅー!」







泣きべそをかいたり、むくれたり、麦傍先生は忙しい。




けど麦傍先生、樫岡巧(カシオカ タクミ)先生の言っていることは間違っていないからね。







「事実なのは遅刻の方だろ。」




「まあまあ巧、麦傍先生をいじめるのはそれくらいにしてあげて。」






2人は大学時代からの付き合いだけど、麦傍先生に対する態度は正反対すぎる。








「あまり甘やかすとろくなことにならないぞ、遥。」






巧は菓子パン片手に休憩室へと引っ込んでいった。


この誰に対しても仏頂面でつっけんどんな態度の理由を知る身としては複雑な心境なんだけど、不器用にすら笑えないなら別に笑顔を振りまく必要はないかなと思う。




産婦人科医としての技術は申し分ないし。



それに。






「(本当は優しいの分かっているし。)」







分かっているからこそ、こうやって楽しく聞き役に徹せれるんだし、ね。






「そういえば、傅雖先生。その手のもの、私でよければ貰いますよ。」




「あ・・・!ありがとうございます。お願いします。」





忘れかけ・・・いや、完全に忘れていた目的を、お言葉に甘えて駒枝さんへと渡し完了した。

【巧side】






「めでたしめでたし。」







絵本を閉じて、見やる縹杏梨(ハナダ アンリ)ちゃんを、大きくなったと感慨深く思うのは、なんておこがましいんだろう。







医者なんかやっていると、だんだん勘違いしてくる。




本人に、家族に、


助けてくれてありがとう
一生懸命でいてくれてありがとう
最後まで諦めないでいてくれてありがとう


別れ際、
そう言ってもらえるから。




自分だって、周りだって、


こちらこそ助けさせてくれてありがとう
出会わせてくれてありがとう
命の大切さを教えてくれてありがとう


なんて、
謙遜を口にするけど。








自分が助けてやった、だなんて。





医者だからといって、

神様なんかになれやしないのに。








「それでもまだ俺は、しがみついているんだよな。」







思い上がって、過信して、


止められなかったから。




ただ後悔を、懺悔を、償いを、



俺が勝手に科した罰を、




柚希はどんな思いで俺のそばにいるのか。








「また懐かしいの読んだんだね。」




「ん、ああ・・・、なんか読みたくなったから。」







覚めないのが現実なら、何があっても『めでたしめでたし。』で終わってくれる夢物語に託したい。







「なに?巧の気分だったの。付き合ってくれてありがとねー、杏梨。」







杏梨ちゃんの頭を撫でながら、笑う柚希に感じるこの気持ちを伝えることだってないだろう。







「ランドセルどうする?今は色んな色が」



「赤。」



「一択?」



「杏梨ちゃんに似合うのは赤だ。」






ランドセルといえば赤だろう。






「杏梨にっていうより、ザ・ランドセルって感じしかしないけど。まあ、行くんだから見てからの都合でいいよね。色だけじゃなくて、機能も充実しているみたいだし。」




「そうなのか?」




「うん。可愛さだけじゃなくって、大きさとか軽さとか、色々。その分出費がかさむって嘆いていたけど。」







小児科外来はその手の話に事欠かないから、俺より情報通だ。

ランドセルから現在の小学生事情に話が飛んだ頃、柚希の携帯が鳴った。







「はい、傅雖。分かりました、すぐ行きます。」


「急患?」


「うん。行ってくる。」



「行ってらっしゃい。」







夜勤でも当直でもないけれど、求められたら応えずにはいられないのが柚希。


遥から紹介されたのは、大学に入って少し経った頃だったか。






同じ児童養護施設で育った家族らしく、兄妹みたいなもんだとお互い言っていたが、他人の俺から見れば恋人そのもので、何故かイラついたのを覚えている。




多分一目惚れしたんだ。


大学は違えど同い年にも関わらず、たくさんのボランティアに参加し、研修医になる頃には世界にだって目を向けて、生き生きとしている柚希の話を聞いているだけで楽しかった。



なんとなく進んだ医者の道だったけど、柚希に出会えたから良かったなんて。





俺は柚希のことを、ちゃんと知らなかったんだ。



知ろうとさえしなかったことを、6年前に思い知ったんだ。

「6年か・・・。今度小学生になるんだから当たり前だよな。」





遡って、杏梨ちゃんがまだお腹にいた頃。



杏梨ちゃんの母親である縹紫(ハナダ ユカリ)さんは、ヘビースモーカーだった。







何度注意しても止めなくて、


朝一でも吸うなんて、寝ている間に脳内のニコチンが低下している証拠でニコチン依存症の典型なのに、



『第一子である長男の時も吸ってたけどなんの問題もないし、ストレス発散になるんだからこれくらい見逃してよ。』と言われて。





ストレスが溜まるくらいなら、と俺は・・・。








だけど、



予定日より早くて、




出血が止まらなくて、



母子ともに危険で、





それでも、



紫さんが最期に望んだ杏梨ちゃんの命だけは、





遥と一緒に繋ぐことは出来た。




動悸が治まらないまま、紫さんの夫である縹稔(ハナダ ミノリ)さんを呼んで、紫さんの死亡原因と杏梨ちゃんの容体を説明した。



罵倒や殴られることさえ覚悟したがそんなものは一切なく、『後は姪に任せます。』と紫さんだけ連れて帰っていった。



姪御さんは仕事で海外の僻地にいるらしく、一週間後にようやく連絡が取れて来てもらったのだが。




「柚希・・・・・!」





この時ほど、運命を呪ったことはない。

「久しぶりね、巧。」




「姪って、柚希、だったのか・・?」




「うん、母親の弟。叔父さんから病院の名前聞いた時は驚いた。叔母さんからは聞いてなかったし。しかも、空港で遥に電話したら、主治医は巧だっていうし。驚きの連続だったわ。」






驚いたというわりに柚希は軽い口調で、事の重大さが嘘なんじゃないかと思えてくる。







「柚希・・・・っ、あの子のことなんだけど・・・・」




「分かってる。叔父さんにはお兄ちゃんのことを優先してもらってる。叔父さん自身もショックが強いみたいだし。だから、私が、ね・・・。ただ、私まだ任期途中で、数年抜けられないの。お金の問題は無いんだけど」



「俺が看る。」



「え?いや、でも、巧にだって仕事あるし。それに、一人の患者に入れ込むのは・・・」



「俺が看たいんだ。看させて欲しい。頼む・・・!!」






頭を下げた。


柚希の顔を見れなかったのもある。


医者としての対応じゃないのも分かってる。





だけど、俺は、


稔さんが受け入れられないなら、

柚希がいられない期間だけでも、



せめて、許されるのなら。






「分かった。ただし、言っておくことがある。」



「なに?なんでも言って。」





「杏梨。杏に梨って書いてあんり。叔母さんが付けた名前なんだから、ちゃんと呼んであげてよ。」

柚希が何を思って杏梨ちゃんを看るのを許してくれたのかは分からない。


ただ、同情の類でないことを願う。





それから、6年。


柚希の生い立ちも知った。






「父親も母親も叔父さんも、泣き叫んだって手を伸ばしたってこちらを見ようとしなかったのに、叔母さんだけは私を見てくれた。血の繋がりなんて全く無いのにね。」






両親が病死した遥と違って、育児放棄されていたのを紫さんが気付いて救いだしてくれたらしい。


ただ、稔さんは失業中で紫さんもパートの身、児童養護施設に預けるしかなかった。







「だから、今度は私が叔母さんの力になりたい。」






合間を見付けては病院へ連絡をくれて、


その度に話す内容は杏梨ちゃんのことだけじゃなくなって。



俺は杏梨ちゃんを看れて、


柚希と家族の真似事をしている内に自分のことを棚に上げて、



欲が出てしまった。





稔さんに来て欲しいと、杏梨ちゃんに一目でいいから会って欲しいと。




娘なんだからと。






けど、それはいまだに実現していない。





しかも、任期満了した柚希が1年前に転任してきてからも俺は杏梨ちゃんを看続けている。



柚希はなにも言わなかったし、俺も切り出せなかった。



良いか悪いか分からない。



けど。





「君が意識を取り戻した時、俺がいなきゃ気持ちの行き場ないもんな。」

稔さんは数年前に再婚している。


長男の為というのが大きいと柚希は言っていたな。





上手くやっているようで、ピンチヒッター先の産婦人科医院で奥さんに会ったと柚希経由で聞いた。


ただ、稔さんが俺のいるここを拒否したそうだ。





柚希に任せているという稔さんの言葉もあって、杏梨ちゃんについては見守ることに決めたものの、病院については複雑だったそうで謝られたと言っていた。





『貴女は義理とはいえ私の姪に当たる人で、私の家族なのに、あの人が病院には行きたくない、主治医だって・・・。って。私は貴女の病院でも、主治医が誰でも代わる必要なんてまったく無いのに。』と。






柚希は、『気持ちは嬉しいです。でも色々悩んでしまってストレスを溜めてしまうのは大敵だから、気にせず赤ちゃんを第一に考えて大丈夫。と言って帰ってきた。』とあの時みたいな軽い口調で話してくれた。





落ち込んでいると分かるようになったけど、伸ばしかけた手を下ろし、握り締めた。




頭を撫でた遥と、愛おしそうに頬笑む柚希を見てしまったから。






産婦人科医として切磋琢磨してきた仲だけどやっぱり、遥と俺は似て非なるものだったんだと、突き付けられた。







同じことは俺には出来ない。



触れることも、励ますことも出来やしない。








「柚希と遥の間に、割って入るだけの隙間も、無理矢理奪う勇気も、俺には無いんだ。」







たとえ、2人にその気が無くても。










「柚希の隣には、遥がいればいいよな。」









な、杏梨ちゃん。






【巧side end】

「いいランドセルですね。」



「分かります?一目惚れしたんです、これ。」







杏梨のそばに置いあるランドセル。




巧と色々見て回ったんだけど、2人とも直感的に選んでしまった。




色は巧の希望通り、ベーシックな赤。


機能性より軽さ重視、それでいて少し可愛らしいデザインのもの。






「今の小学生の荷物事情は大変らしくて。これなら、小柄な杏梨が背負ってもなんとかなるかなって思いましてね。」




「杏梨ちゃんもきっと喜んでいますよ。あ、傅雖先生、そろそろ時間じゃないですか?」






「そうですね。」







もっと看護師との会話を楽しんでいたいけれど、そうもいかない。


今日は手術の予定が詰まっている。







「杏梨、行ってくるね。」









撫でた頬は、少しあたたかみが増している気がした。














それから数時間、何件かあった内の短時間の手術は無事終了した。








「う~んっっ・・・!」








凝り固まってしまった体を、大きく背伸びをしてほぐしていく。







「お疲れ様です。こう手術が立て続けだと、傅雖先生の方が参らないか心配になります。」





「ありがとう。でも頑張っているのは患者さんの方だからね。私はその手伝いをちょこーっと、しているだけ。医者なんてそんなもんよ。」






「医者の鏡ですね!」




「えぇー?お世辞でも嬉しい!」








「お世辞じゃありませんよ。傅雖先生、最後の子のカルテです。」





「ありがとう、看護師の鏡様。」





「ふふっ、どういたしまして。」







看護師とのおふざけ会話も息抜きの一つ。



この子の手術が終われば、小児科は落ち着くから産婦人科に直行かな。




向こうも手術予定があったし、予定外が起こるのは産婦人科の方が高いし──────







「傅雖先生っ!!」








確率の問題だけで、こっちにだって、どんなことにだって、予定外が存在するってことを。








「杏梨ちゃんが・・・っ!!!」








私は忘れてしまっていたみたいね。

【巧side】







帝王切開と急患と急変と、予定が予定通りに終わった試しがほとんどない。






「まあそれも、産婦人科の特徴の一つか。」






手術室の脇にある長いすに腰掛けて、息を吐く。




ふと目をやった先に、手をあげこちらに歩いてくる遥が見えた。






「巧!どうだった?」




「どうもない。なんとかなっただけだ。そっちは?」





「こっちもなんとか。耐えてくれてよかったよ~お母さんも赤ちゃんも。」






手にのしかかるのは、一人の女性だけでも、その家族だけでもない。


赤ちゃんという名の希望もだ。



この男は、そんな重圧をヘラッと笑って受け止められるからイラつく。



・・・まあ、正直いうと羨ましいだけだ。





ヘラヘラしていたって人望があって、慕われて、そんでもって柚希をよく知っていて。




そういや、柚希が言っていたな。



『巧は遥と似ているようで似ていないよね。目指すところは同じなのに、やり方がまるで違う。だけど、それでいいんじゃないかって私は思う。同じ部分と足りない部分があって、同じだから高め合えて、足りないから補い合えて。私もそういうシンメトリー欲しいなー。誰かと対になりたいよー。』







同じだから嫉妬して、足りないから羨む。







「(分かってはいるけど、この男は・・・)」






手術後で興奮が冷めないのか、ヘラヘラ顔のままいかに母子が頑張ったかを語っている。




この、無自覚ヘラ顔め・・・・!








「ひ、ひゃふみ?」








ヘラ顔を崩したくて頬をつねったのに、ヘラはヘラのままなのか・・・!








「よかったな。」




「うん、よかった!すごくよかった!」








意味不明に頬をつねられたくせに、追及せずまた感動に浸っているのも遥のヘラ顔のなせる技か。





これまた悔しいことに、6年前このヘラ顔に助けられたのも事実なんだよな。

6年前を思い出したら『杏梨ちゃんに会いに来て欲しいと稔さんに言っても良いだろうか?』と、このヘラ顔に俺の願望を尋ねてみるのもいいんじゃないかと思って。









「・・・なあ、はる」




「樫岡先生っ!!」






問いかけたかったのに。




遮って俺を呼んだ看護師の担当の科は、産婦人科ではなく小児科だ。












「どうしました?」





「杏梨ちゃんが、急変して・・・!」







『杏梨ちゃん』『急変』の言葉に、遥と顔を見合わせる。







言葉が続いてくれなかったおかげで、直感的に結論が分かってしまった。



黙った方が、伝わることだってある。








「それで?」






分かりきっていても、先を遥が促す。









「・・・傅雖先生が駆け付けた時にはもう・・・。それと傅雖先生は今、手術中で・・・。ただ、書類は全て預かっています。ご家族へも連絡して、もうすぐ着く頃かと。」






「分かりました。・・書類、もらえますか?ご家族への説明は、俺がします。」




「・・はい、お願いします。」








言葉につまりながらも報告してくれる看護師は、杏梨ちゃんを担当していた一人だから無理もない。







「遥」



「後は任せて。そっちは頼むよ。」




「・・ああ。」






こういう時、付き合いが長いと助かる。





おそらく罵倒も殴られることもないだろう。



けれど、あの絶望にも虚無にも似た表情で語られる言葉を、受け止めなければならないのは他でもない俺だから。



俺でなければならない。

「縹さん。」







俺より先に到着した稔さんは、杏梨ちゃんの前で佇んでいた。




その背中はあの時と変わらず、父親を感じ取れない。









「手続きは紫と同じですか?仕事、抜けてきたんで、戻らないといけないんですが。」






「・・分かりました。ご説明いたしますので、こちらへお願いします。」









内開きのドアを開ける。






書類は柚希が用意してくれたから、ここから先は俺が向き合わなければ。





抑揚の無い声色でも、事務手続きの為であっても、ここまで足を運んでくれたのだから。










「ランドセル・・・」









ドアから一歩踏み出した右足を、稔さんは止めて振り返る。









「ランドセル、買ってくれたんですね。」









杏梨ちゃんのそばには、この間買ってきたランドセルが置いてある。











「はい、傅雖先生が。」










俺も選んだことは伏せた。



聞きたくないだろうから。










「そう・・・、ですか。」










何度も何度も、呪詛のように願うだけ願ったこと。




俺の希望的観測だったのかもしれない。





でも、歯切れの悪いその物言いが逆に、感情を少し見せてくれた気がした。

・・・・・数時間経って勤務終了。






一人になりたくて、人の寄り付かない裏手の非常階段にわざわざ来たのに。









「はい、おつかれさま。」



「・・お疲れ。」








ヘラ顔に少しの疲れを滲ませたいつもの調子で渡してくるもんだから、つい受け取ってしまった。






でも好物である温かなそれを飲む気にはなれず、持ったまま手すりにもたれ掛かる。







「夕焼け、綺麗だねー。」







確かに、綺麗な夕空だと思う。



ペンキで幾重にも塗った様な、そんな作り物のようだとも思うが。








「こっちは無事に産まれてきてくれたよ。お母さん達の経過も順調。」






そっちは?と聞かないあたりが、空気読みすぎてて悔しい。



ヘラ顔のくせに。







「麦傍先生も頑張ってくれてさ。駒枝さんなんか『こういう時のコマエさんだからね!』なんて張り切っちゃって。発破かけられたこっちが大変だったよ。」








背中越しの遥は、いつになくおしゃべりだ。




ヘラ顔のくせに。







「今日もたくさんのおめでとうを言って、たくさんのありがとうを貰ったよ。」







俺だって、おめでとうとありがとう以外の会話をなるべくだってしたくはないんだよ。







ヘラ顔のくせに。








「僕に巧はいつも、『麦傍先生を甘やかすな』って言うけどさ。」






当たり前だ、何回言わせる気だ。





ヘラ顔のくせに。








「たまには甘やかすことも大切だよ。」








違う、甘やかし過ぎ、なんだよ。




ヘラ顔のくせに。








「我慢だって良くないよ。」






麦傍は我慢したことがないって気付けよ。





ヘラ顔のくせに。









「僕は、ずっとここにいるからさ。」









ヘラ顔のくせに。








「泣きたかったら、泣けばいいよ。」









ヘラ顔のくせに。










「泣き止むことが出来るまでさ。」










ヘラ顔のくせに。








「な?巧。」








ヘラ顔のくせに、ヘラ顔のくせに・・・・・








「俺、は、幼稚園児じゃ、ないんだよ。」

「分かってるよ。」




「分か、ってないだろ。諭すよ、なしゃべり、方しやがって。」







「元々だよ。」






「お、れはっ・・・!我慢なん、かしてない。泣きたくもないし、泣い、てもいない。・・家族、だって色んな、形があることも、分かって、んだよ・・・!」





「うん。」







十月十日、自らの身体の一部となっても、



命懸けで産んだとしても、



健康児であっても、



愛情が湧かないことはあるにはある。







管が繋がれた状態でも、



生きていなくても、



障害が残ってしまっても、



愛情溢れることだってたくさん見てきた。









「だから、稔さ、んが、『父親』に、なれなくても、俺はいい、と思う。」







「うん。」







それでも・・・・







「それでもっ・・・!きて、欲しかったなぁ・・・・!一目でいいから・・!」









生きているうちに。





俺の自己満足かもしれないけど。




杏梨ちゃんも稔さんも、望んでいないかもしれなかったけど。







「会わせて、やりたかったっ・・・!!」








手遅れに消えた願望。




幾年分の涙が流れたのは、決して遥に言われたからじゃない。





無影灯の様な夜景が綺麗だったから、という理由にしたい。





だけど。





冷めきったミルクココアを飲む気になったのだけは、遥のおかげかもしれない。













【巧side end】

「会わせて、やりたかったっ・・・!!」






その言葉を聞いた時、正直私にとっては大したことない事だと気付いた。















・・・・・・遡ること数時間前。


最後の子の手術を終えて、産婦人科に顔を出そうと向かっている途中。




非常階段へ向かう巧と、それを追いかける遥が見えた。






稔さんとの事の顛末は看護師から聞いたけれど、杏梨のことは話したいと思っていたから丁度いいかなって私も後を追った。







そしたら、まさかの展開。




出入口の死角まで来て聞こえてきた会話に立ち止まってしまい、盗み聞き状態になってしまった。





確かに、巧が叔母さんや杏梨のことに罪悪感を持ってしまっていたのは分かっている。




けど、それを忘れろとか巧のせいじゃないとか言っても、そんなもので罪悪感が無くなるなんて到底無理な話。




それに、叔母さんのヘビースモーカーぶりを電話口とはいえ、 完全に止めきれなかったのは私にも責任があるし。







だから、巧自身が表に出さず隠しておくなら、それこそが巧の優しさと罪悪感に対する責任の取り方であるならば、と私は杏梨を任せたいと思った。








・・・違うなー。


巧だったらいいなって思っちゃったんだよね。


優しさにつけこんだ形になっちゃったから、
巧が笑えなくなってしまっているなら、
私が笑いたいなって。




叔母さんが好きだと言ってくれた笑顔で道化師(ピエロ)になった。




笑い続けていれば、心の中で泣いているであろう巧だって、いつかきっと再び笑ってくれると信じたかったから。





って、結局自己満足でしかないんだろうけどね。

稔さんの再婚した奥さんの出産の手伝いを出来なかったのはとっても残念だったけど、


巧の願いも叶えられることは無いけれど、




私は、叔父さんが杏梨の父親で良かったと思っている。






叔母さんが命懸けで産んだ杏梨に会いに来なかったから、



完全放置だったから、




そのお陰で、私は杏梨の傍にいられた、



巧と水入らずでいられた、


最期まで一緒にいられた。











親子の絆なんて脆いもんなんだよね。




両親みたいにすぐ壊してしまうか、叔母さんとみたいに強く紡いでいくかなんて、ほんとそれぞれなんだから。






だから、だからね、巧。


私は叔父さんを許すことにしたんだよ。








って、そんなことを考えながら準備していたから無意識に微笑んでいたみたいで、オペ看に不思議がられてしまった。





それが感謝だったのか、それとも軽蔑だったのか、私にだって意味は分からなかったけど。





でも、巧は納得は出来ないよね。





許す許さないじゃないし、そんな議論を望んでもいないだろうし。







というか、会わせてやりたいなんて、私は思わなかったんだよね。




杏梨は意識が戻らなかったから本当の気持ちなんて誰にも分からなくなってしまったけど、



私は私の両親と会いたいなんて思わないから。


・・・・身も蓋もないけど。









巧はやっぱり優しい・・・・優しすぎるんだよ。









だから、全てを見届けるだけで、鉢合わせしないように戻るね。









巧と遥の親友独特の間に、無理矢理入る気はないから。





巧の隣には、遥がいればいいよね。