「おーい、ユキ」
「ママーまって! パパとみどりをおいて、さきにいくなんてじゅるい」
 舌足らずに喋る小さな女の子を抱えながら、少し運動不足気味の父親がはあはあと息をつかせて走ってきた。
「おいおい、僕はもう年なんだから、走らせるのはやめてくれ。あー苦しい」
「何を言ってるの仁。私たちまだまだ若いでしょ。年とかそういうの言わないでよ」
「ごめん、ごめん」
 仁はへらへらしながら、抱いていた緑を下ろした。
「パパをいじめちゃダメです」
 眉間に皺をよせ、困った顔つきの緑は手を広げて仁を庇う。
「緑はパパの事が大好きだもんね」
 ユキは柔らかな娘の頬を軽くつついた。
「みどりは、パパもママも大すき。そして黒ねこのトイラも大すき。ちゃんと良子おばちゃまと、なかよくおるすばんしてるかな」
 大げさに手を振って好きと気持ちを表現したあと、すぐに心配そうな表情で首を傾げる我が子がかわいい。
「もちろん大丈夫よ」
 ユキが優しく言えば、緑は笑顔いっぱいに顔を輝かせて上下に飛び跳ねていた。
 あどけない姿。表情豊かな顔。
 緑はユキと仁の愛情をいっぱい受けて育っている。
 にこっと笑ったときに優しく垂れ下がる目が特に仁そっくりだ。
 ユキは優しく抱きしめた。
「ねぇ、ママ、あっちにいってきてもいい?」
「いいわよ」
 緑は喜んで走っていってしまった。
「おいおい、迷子になったらどうすんだよ」
 はしゃぎまわる娘を追いかけるのに一苦労する仁は、あまり賛成できない。
「そんなに心配しなくてもいいわ。ここはトイラの森。きっと誰かが緑を見ているはずよ」
 仁は半信半疑で辺りを見回した。
 森は木漏れ日に揺らぎながら、鮮やかな新緑の光に包まれていた。
 駆け回る緑はユキの言う通り、陽光に照らされる度に森に優しく見つめられているようだった。
 仁もそれに納得したのか、微笑んで娘を目で追いかけていた。
 娘のことは心配ないと、ユキは自分のことに専念する。
 ここへ来た理由――。
 ユキは手に握り締めていたエメラルドの輝きを持つ石を見つめる。
 ――トイラ。
 小さく呟いた。
 胸の奥から湧き出る思いは、まだ少女だったあの時の自分を蘇らせた。
 ユキの目に過去が映る。
 懐かしく、愛おしい大切な若かりし頃の思い出。
 それは今も宝石のようにキラキラ輝く。
 トイラのエメラルド色の石もユキの思いに反応して光っているようだ。
「ずっと待たせてごめんね、トイラ」
 ここに来るまで時間を要してしまったかもしれない。
 でもとうとう帰って来たのだ。
 石を持つユキの手が震える。
 息を整え、体に力をこめた後、ユキはその石をトイラが好きだった大きな木の根元にそっと置いた。
 傍で仁は息を飲んで見守っていた。
 ユキは肩の荷が下りたように、すっきりとした表情でもう一度木を見つめる。
 そして思い残すことはないと、笑顔で仁に振り向いた。
「さあ、帰りましょうか」
「えっ、今来たとこじゃないか。もっとゆっくりしていいんだよ。ここはユキにとって大切な想い出の場所だろ」
「そうね、かつてはそうだったわ。でもここでいつまでも立ち止まってはいられないの」
「ユキ……」
 仁ははっとさせられた。
 高校生の時のあどけなかった少女の面影は残りつつも、そこには大人びた美しい女性が清々しい微笑を仁に向けていたからだった。
 あれからかなりの年月が確かに経ってしまった。
 そしてユキと仁はすっかり大人になってふたりで一緒の道を歩んでいる。
 沢山のあの時に抱いた思いも忘れずに抱えて、それ以上のふたりで育んできた思いと自分たちの娘もさらに加えてここへやってきた。
 ユキと仁は寄り添い、堂々と目の前の大木を見据えた。
 優しいそよ風が心地よく通り過ぎては、それに合わせて木々の枝と葉っぱが泳ぐようにゆったりと揺れていた。
 その時、緑が大きな声で呼んだ。
「ママ、パパ、ねぇ、こっちきて。ふさふさした毛の犬さんと、パタパタとんでる黒い鳥さんがいるの」
 ユキと仁は顔を見合わせた。
 そして緑のところへと駆け寄っていく。
「どこで見たの?」
 ユキは胸がドキドキと高鳴っていた。
「あっち! あれ? いない。ほんとにいたんだよ。じっとみどりのこと見てたんだから」
 嘘と思われたくなくて、緑は泣きそうな顔をしてしまう。
「うん、パパは信じるよ」
 仁は緑の目線までしゃがみ、頭を優しく撫でた。
「ママだって信じるわ!」
 ユキも力強く思いを娘にぶつけた。
 緑はパッと顔を明るくし、はちきれんばかりに笑みをこぼした。どうしてもふたりに見せたくて、再びそれらを探そうと元気よく走っていった。
 仁も無理して、ぜいぜいと息を吐きながら娘の後を追いかける。
「緑、足元には気をつけろよ。こけるんじゃないぞ。あっ!」
 仁の方が躓きそうになっていた。
 側で緑がキャッキャと嬉しそうに走り回る。仁と緑は追いかけっこを楽しんでいた。
 その声を聞きながら、ユキはもう一度、あの木を振り返った。
 するとその木の後ろから一匹の緑色の目をした黒豹が現れ、ユキにその姿を見せつける。
 しなやかで艶のあるボディ。この森のリーダーらしく威厳に溢れ凛々しく大地に立っている。
 エメラルドグリーンの目を向け、黙ってユキを見据えていた。
 そして黒豹の体から金色のまばゆい光が現れ、それが玉となってその頭上に現れた。
 太陽の玉――。
 再び光り輝き、木の根元に置かれたエメラルド色の石を呼び寄せる。
 ふわっと石が浮いたとき、辺りは一瞬白く光り輝く。
 ユキは眩しくて目を細めた。光が収まってよく見れば黒豹の隣に懐かしい姿が現れた。
 ユキは彼らの名前を呼んだ。
「キース、ジーク」
 二人は一言も話さなかったが、ユキを見つめて優しく微笑んでいる。
 黒豹が一歩前に出ると、いつか見た大蛇や知らない他の動物が背後に映し出されるように集まっているのが見えた。
 そこに混じってかつて愛した人の姿もあった。
「トイラ……」
 あの時と変わらない姿。生意気に笑っている。
 今はユキの方がトイラの姿よりもずっと年上になってしまった。
 やがて、そのトイラの幻影はすっと太陽の玉の中へと消えていった。
 歴代の森の守り主たちも同じように消えていく。
 最後に光り輝く太陽の玉は黒豹の体の中へと戻っていった。
 何も言わずに黒豹は踵を返し、また森の中へと行ってしまう。
 キースはウインクし、ジークは手を一振りして黒豹――森の守り主――の後をついていく。
 もう彼らには会うことはないだろう。
 この世界には二度と戻れない。
 そう感じたとき、大きな木もユキの前から姿を消していく。
 さようなら。
 別れを告げたとき、森は別のものへと変わっていた。
 一点を見つめてぼっと立っている母親を心配して緑が近寄ってくる。
「ママ、どうしたの? あれ、泣いてるの?」
 ユキは頭を横にふり、足元で心配する緑に思いっきり笑顔を見せた。 
「ちょっと風が目にあたったんだ。さあ、帰ろうか。あそこでパパが待ってるよ」
「うん!」
 ユキは娘の小さな手を大切に握って、仁の元へと走って行く。
 仁は両手を広げて、ふたりを待ち構えていた。
 
 

<The End>