山の奥深く、夏の暑さが嘘のように、ひんやりとした暗い洞窟に、巫女が一人足を踏み入れた。限られたものだけが入ることのできる空間。その巫女はまさにそういう権限を与えられていた。
 そこは山を司る神が居るべき場所。人も動物も祟りを恐れ滅多にやってこない。
 神秘に満ちた神聖な世界。
 だが、巫女は不穏を感じとる。何かがおかしい。
「ニシナ様? ニシナ様はいらっしゃいますか?」
 甲高い声が静かな洞窟でこだまする。
「ニシナ様!」
 巫女が叫んでも誰も応えない。洞窟の奥にたどり着いたとき、そこで見たものに巫女は目を見張った。
「一体何があったというの?」
 神聖な場所だというのに、ごつごつの岩が土砂崩れを起こしたように散らかっている。
 それは明らかに誰かの手によって荒らされていた。
 祀ってあった祠は岩をぶつけられてぐしゃりと押し潰されていた。
 その後ろから呻き声が微かに聞こえる。
「そこに誰かいるの? ニシナ様なの?」
 ごつごつとした岩の上を軽々と飛び越えて、巫女は祠の後方を除く。
「あっ、セキ爺じゃないの」
 そこには体中傷だらけの体の大きな猪が横たわっていた。
 弱々しい声をしぼりだすようにその猪は巫女の名前を呼んだ。
「……キイト、キイトなのか。いつ戻ってきたんじゃ。もう体の具合はいいのか?」
「はい、すっかり元気になって、今日こっちに着いたところよ」
「そっか、それはよかった。病が治ったらなんだか見違えるようじゃ」
「心配かけてごめんなさい。だけど、一体私が居ない間に何があったというの。ニシナ様は一体どこに?」
 キイトは辺りを見回した。
「ニシナ様は何者かに連れ去られてしまった」
 セキ爺は申し訳ない顔をしていた。
「一体誰が、何の目的でそんなことを。このままじゃ山の秩序が保たれなくなる」
 キイトは考え込み、イライラとしていた。
「そんなに心配するな。ニシナ様が居なくなったことはまだこのわし以外誰も知らんはずじゃ。わしがなんとかする。これもわしの責任じゃ」
 セキ爺が体を起こすが傷口が酷く思うように立ち上がれない。
「セキ爺、なんとか人の姿になれそう? それなら私の肩に寄りかかればここから運び出せるかも」
 セキ爺は軽く頷き、猪から人の姿へと変わる。背はキイトと呼ばれた巫女とさほど変わりなく、老人らしく少し老いぼれた体つきをしていた。
 キイトはセキ爺の片腕を自分の肩に回して洞窟から運び出していた。
「キイト、このことは他のものには暫く黙っていてくれ」
「だけど、ニシナ様がいなければ暴れるものが出てくるし、この山の水も食料もバランスを崩してしまう」
 セキ爺が意外と重く、キイトは運ぶのに苦労しながら、顔を歪まして答えていた。
「まだそこまで心配することはない。山の神が入れ替わるときもそうじゃが、山神が不在でもその力は暫く持続する。万が一のときは次の神を探せばいいことじゃ」
「探すって、一体誰が次の神になるというの。あれは赤石を操れる力を持つものでないと。それに赤石は今一体どこにあるというの」
 キイトの目がきつくなっている。腹立たしくてイライラしている様子だ。
「まずは赤石を見つけなければならん。ニシナ様がどこに隠したかキイトは心当たりないか?」
 セキ爺はちらっとキイトに視線を向けた。
「この山の秘密とでも言うべきことをなんで私が知ってると思うのよ。知ってたら今頃こんなに心乱れてないわ」
「そうじゃのう。全てはわしの責任じゃ。ニシナ様がわしに赤石のことを仄めかしたばかりに、それを側で聞いていた曲者がニシナ様を連れ去っていきおったのかもしれん。 もしその赤石を奪おうと企んでいるのなら脅威だ。あれはよそ者には幻術の石とされ、とてつもない力を与えると思われておる。あれを手にすれば欲望を全て叶えるものだと信じておるのじゃろう」
 セキ爺はため息をついていた。
「赤石には実際そんな力があるものなの? 私はこの山を守るために必要なものだって教えられたけど」
「もし誰かが力のことを知れば奪い合いということにもならないように、我々にはただのお守りと思わされている。それでこの山の秩序が保たれているのだろう。実際、赤石は山神以外は手に負えないものだと聞かされておるからのう」
「この山のものじゃないとすれば、よそ者が来たの?」
「キイトはここを離れていたが、実はな、昨年のことなんじゃが、一度危機を感じた事があってのう、この山とどこか遠い世界の森が重なり合った事がある」
 感慨深くセキ爺は答えた。
「重なり合うってどういうこと?」
「我々が手にしたことない巨大な力を持つ、我々と同じような種族のものが遠い世界に居たということじゃ。そうしてここの山が一時的にその世界に組み込まれてしまい、見知らぬ輩が入り込むことになってしまった」
「その時、みんなはどうしたの?」
「暫く様子を見て息を潜めておった。ニシナ様は危機を感じるほどのことではないと判断されて、暫く眠りにつかれ、その間我々も死んだフリをするように、事 が収まるのを待っていたんじゃ。多少の動物達は心乱されて遠い世界から来た輩に支配されてしまったが、その騒ぎもすぐに終結した。結局はこの山に不利益に なることは起こらずじまいで、遠い世界の森は姿を消した」
 セキ爺の話にキイトははっと閃く。
「待って、それってもしかして大きな黒い猫が来たんじゃないの?」
「さあ、どうだったかのう。我々とはまた違う風貌だったらしいが、ニシナ様はそういえばそんなことを言っていたかもしれない」
「私なんとなく話が見えてきたような気がする。ニシナ様はあいつに誘拐されたんだ」
 急に怒りを露にしたキイトにセキ爺は訳がわからないと顔を覗き込んだ。
「セキ爺、私ニシナ様を助け出してくる」
 キイトは洞窟から出るや、セキ爺を木の幹に座らせ、口笛を一吹きして近くにいる鳥たちを集めた。
「セキ爺に薬草と食料を運んでくるのよ」
 キイトの命令で鳥達は一斉に四方八方へと飛び立っていく。
 そしてキイトもいてもたってもいられないと走り出した。
「キイト、どこへ行くんじゃ」
「セキ爺の傷の手当ては鳥達が世話をしてくれるわ。セキ爺はしばらくここで休むといい。あとは私に任せて」
「キイト!」
 声を張り上げるだけで傷口がうずき、セキ爺は顔を歪ませたが、原因はそれだけでなくキイトが何かをしようとしていることに不安を隠せなかった。
 セキ爺は、山をすばしっこく駆け抜けていく一匹の狐の姿を、見えなくなるまで見つめていた。