「今のは一体……」
 訳が分からず、放心状態のユキは暫くその場で佇んでいた。
 静かな場所で場違いな音が流れてくる。だが聞きなれたメロディ。
 ユキが自分の携帯の着信音だと気がついたとき、我に返って携帯を手にした。
 それは仁からだった。 
 通話ボタンを押せば、ユキの返事も待たずに「ユキ!」と慌てて叫んだ声が聞こえてきた。
「どうしたの、仁」
 鼻声を帯びて洟がずるっと音を立てる。
「ユキ、なんか声が変だけど、もしかして泣いてるのか?」
「そんなことあるわけないでしょ。そ、そっちこそ慌てて様子が変だけど何かあったの?」
 見られているわけではないが、ユキは涙を指で必死に拭う。
「あのさ、矢鍋さんとさっき会ってさ、それが、カラスがユキの机の上に緑の葉っぱを運んできて」
「えっ? 一体何の話?」
「だから、今どこにいるんだよ。とにかくすぐ会おう」
 待ち合わせの場所だけ決め、電話を切るとユキは仁に会うために走った。
 何かが動き出している。
 そんな胸騒ぎがしていた。
 
 ユキが瞳と話し合ってる頃、廊下を歩いていた仁は後ろから追いかけてきたマリに声を掛けられていた。
 何事かと思えば、カラスが教室に入って来たことを聞かされた。
 仁はその話にハッとして、心乱された。カラスといえば、何かとあの事件でも関わった動物だった。
 何も知らないマリは面白そうにカラスが運んできた葉っぱを仁に見せた。
「この葉っぱなのよ。折角だから新田君からユキに渡しておいて」
 マリにしてみれば、話のネタとしてユキをからかうつもりでいたが、仁はそれが偶然の出来事に思えない。
 葉っぱを手に取り、真剣な目でそれを見つめた。
「どうしたの、新田君。その葉っぱなんかあるの?」
「えっ、別になんでもない。だけど不思議なことがあるもんだね」
 仁はごまかす。
「そうなのよ。でもね、よく考えたらユキって動物に好かれるって言うのか、なんか猫や犬がいつも近くに寄って来ていたわ。新田君は気が付かなかった?」
「えっ、そ、そうだったかな? でも犬猫だったらいつでもどこでも見かけるし偶然なんじゃないの」
「そうかもしれないけど、ユキの場合いつもじーっとその動物から見られてる気がしたのよ」
 マリの言葉には大げさに冗談も混じっているのだろうが、仁の思いは複雑だった。
「だけどユキは猫が特に好きだから、見かければ自分の方から寄って行くからじゃないの」
 何でもないことのように仁はやり過ごしたかった。
「でもね、ユキと一緒にいるとスズメですら足元に下りてきたりするから不思議だったの。そのカラスもなぜそんなものをユキの机の上に置いて行ったんだろう。なんか不思議でさ。動物に好かれる特別な力でも持ってるんじゃないかって思えちゃう」
 無邪気に笑うマリに仁もお愛想で無理に微笑む。しかし思い当たる原因を知っているだけに内心悠長に笑っていられなかった。
 暫くマリと世間話をしつつ、マリと離れると落ち着ける場所を探してすぐにユキに電話を掛けたのだった。

 校庭の隅にある木の下で仁が待っていると、ユキが運動場を横切って走ってきた。
「仁、一体何があったの?」
 ユキは少し息を切らしながらハンカチで汗ばむ額を拭くが、先ほどのこともあり、少し動揺して落ち着きがない。そんなユキの様子に仁は気がかりになっていた。
「ユキ、本当に大丈夫か? 今までどこにいたんだよ? それになんか目が赤いけどもしかして何かあったのか」
 嘘をついても仕方がないと、八十鳩瞳と会って仁のことを聞かれたことは隠しつつも、林の中で見えないものに声を掛けられたことは説明する。
「だけどなんでそんなところに一人で出向いたんだよ。もしかして誰かに呼ばれたのか?」
「えっ、その、それは」
 するどい仁の突っ込みにユキはたじろぐが、仁がすぐに葉っぱを見せたことで瞳と会ったことは話さなくて済んだ。
 仁はカラスが持ってきたという出来事に関連しているのではと、過去にコウモリのジークに散々罠を仕掛けられたことを持ち出しながら不安を隠しきれないでいた。
「また、ユキを狙ってあの時の悪夢が始まるんじゃないかって心配でさ」
「でも、私はもう月の玉は持ってないし、狙われることなんて何もないけど。それにジークだって最後は森の守り主の忠実な家来となったんじゃなかったの? 今更私を狙っても意味がないと思うんだけど」
「別にジークがまた襲って来るとか言うんじゃなくて、何かそれに関係したものが絡んでいるんじゃないかって思わずにはいられないんだ。この葉っぱはその前兆じゃないかと思えて」
 ユキは恐る恐るその葉っぱを手に取った。それと同時に微かにびりっと電流が指から流れ、ユキの目の前が突然真っ白になる。
 光が溢れたその先に、人をかたちどったシルエットが浮かび上がった。
 眩しく目を細め必死にユキが前を向けば、次第にそのシルエットがはっきりと見え出した。
 そこにはトイラが立っていた。
「トイラ!」
 ユキは悲痛に叫んでいた。
「おい、ユキ、しっかりしろ。どうしたんだよ。ユキ!」
 気が付けば、ユキは仁の腕に抱えられて倒れ込んでいた。
「わ、私、一体、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもあるか、急に気を失って倒れたんだよ。大丈夫か?」
 ユキは自分の手元を見て葉っぱを持ってないことに気が付き、慌ててその葉っぱを探し出した。
「あの葉っぱはどこ?」
 葉っぱはユキの足元に落ちていたが、鮮やかだった緑の色が枯葉のように茶色くカラカラになっている。
 ユキがそれを拾うと、崩れるように灰となり、風に吹かれて宙に舞った。
「どうして?」
 ユキはもう一度その葉っぱが欲しいと玩具を取り上げられた子供のように発狂してしまう。
「あの葉っぱはどうすればもっと手に入るの? お願い仁、一緒に探して、お願い」
「おい、ユキ、落ち着くんだ。一体何があったのか説明してくれ」
「あの葉っぱに触れたらトイラがはっきりと見えたの。あの葉っぱがあれば、またトイラに会える」
 尋常じゃないユキの取り乱しは仁を不安にさせた。
「ちょっと待てよ。それはおかしいじゃないか。カラスがそんな葉っぱを運んできたということはやっぱり何かの罠なんだ」
「罠でもいい、トイラにまた会えるのなら、私なんだってする」
「ユキ……」
 暫く言葉に詰まったが、仁は必死に笑顔をユキに向けた。
「分かった、一緒に探そう」
 仁のやるせない笑顔が却って取り乱していたユキを冷静にさせる。
「仁…… ごめん。私……」
 ユキはいたたまれなくなって仁から視線を逸らした。
「あ、あのさ、なんだか喉が渇いちゃった。それにお腹もすいたし、どこか行こうか」
 少し遠慮がちにユキは仁を誘ってみる。
「そうだね。こう暑いと涼しいところに行きたいね」
 仁もまた何事もなかったように精一杯にそれに応える。
 暑い日差しの中、二人は熱されたアスファルトの地面から浮かび上がる逃げ水を見つめ無言になって歩く。
 陽炎の虚しさが心にも映りこんでくるようだった。