玄関の引き戸が開けられると、黒い人影が現れた。
 逆光で顔は見えなかったが、そのシルエットから瞳の母親、花梨だと仁は思った。
 門の前で騒がしくしてたのを気づかれてしまったのか。
 花梨が一歩外へ出たとき、仁とユキの体は強張った。
 近づいてくると思ったその時、かりんは隅に祀られた小さな祠へと足を進めた。
 仁はユキと顔を見合わせほっと一息ついた。
 その時、拍手を打つ音が聞こえ、ふたりはまた花梨に視線を向けた。
 花梨は熱心に祈りを捧げ、ぶつぶつと何かを言っている様子だった。
 それが終わって顔を上げたとき、思いつめるようにじっと前を見据えている。
 薄闇の中、花梨が暫く突っ立っている様子は、仁とユキにも異常に見えた。
 息を潜めて花梨が何をしているのかふたりは様子を探るが、花梨は一向に動こうとしない。
 小さな祠と対峙して、何かを迷っているように思える。
 いつまでそうしているつもりなのか、花梨自身もため息を吐いて決めかねているようだった。
 そして、やっと覚悟を決めたのか、ゆっくりと距離をつめ、祠の扉に震える手をかけようとした。
 仁もユキも盗み見をしているだけに、心臓がドキドキとしてとても落ち着かない。
 花梨は何をしようとしているのだろう。
 祠の扉を花梨が開こうとした瞬間、楓太が「ワン」と吼えて花梨の足元に駆け寄った。
 花梨ははっとして、身を縮ませる。
「もう、楓太たら、突然脅かさないでよ。ほら、あっちにお行き」
 しかし楓太は何度と吼え続けていた。
「楓太、しーっ。誰か来ちゃったら困るじゃない」
 花梨はそわそわしだして、辺りを何度も確認している。
 楓太はまるで遊んでほしいかのように、何度も吼えては、花梨の足元で飛んだり跳ねたりとじゃれ付きまわっていた。
「どうしたの、楓太? お願いだから静かにして」
 息を潜めて覗いている仁とユキは、楓太の突然の行動に首を傾げていた。
 楓太があまりにも吼えるので、家からまた誰かがやってきた。
「楓太が鳴いてるけど、誰かそこにいるのか?」
 太い男の声だった。シルエットからして浴衣のような服を身に付けていた。
 咄嗟に花梨は祠から離れてその男のところへ駆け寄った。
「なんだ、花梨、こんな夜に外で何やってるんだ」
「別に何も。そんなことよりほら玄関を開けっぱなしにしてたら蚊が入るじゃないですか」
 花梨は男を押し戻すようにして一緒に家の中へと入っていった。
 その後は玄関の明かりが消されて誰も外に出てくる気配は一切しなかった。
 仁とユキは暫く黙り込んでいたが、また足元に楓太が現れる我に返った。
 小声で仁は楓太に話しかける。
「楓太、花梨さんは何をしようとしてたんだい? それを知ってたから楓太はわざと吼えたんだろう」
「さあな。拙者は気まぐれだから、気分次第で吼えることがある」
「でもあの様子だと、わざと騒がしくして人を呼ぼうとしてたみたいだったわよ」
 ユキも訳が知りたいと訊いた。
「偶然だろう」
 楓太はしれっと返す。
「さっき出てきた人は、花梨さんの旦那さんみたいだったけど、楓太は旦那さんに何かを知らせたかったのかい?」
 仁が訊いても楓太は一度大きな欠伸をしただけでその質問には答えなかった。
「おい、楓太。教えてくれよ」
「言っただろう。拙者の立場では話せないことがあるって。後は自分で考えな。これでもお前さん達に沢山のヒントを与えたつもりだ」
 楓太は前庭を通って家の裏へと去っていった。
 人の家なので奥まで追いかけることもできず、もどかしい気持ちを抱えながらふたりは楓太が闇に飲まれていくのをただ指をくわえてみているだけしかなかった。
「仁、ここでこんなことしてたら、怪しいものと間違えられる。どうする? 花梨さんに会いに行く?」
 ユキが決断を迫った。
 仁は楓太の行動を思い出しながら祠を見つめてじっと何かを考えていた。
「ねぇ、仁、聞いてるの?」
「えっ、ああ、そうだな」
 仁は困惑していた。
「ちょっと仁、ちゃんと考えてる?」
「ちゃんと考えてるよ。考えてもわからないんだよ。もうこうなったら直接聞くしかない。これから僕、これを届けてくる。きっと家に上がれっていわれると思うから、僕はその時、八十鳩家に纏わる山神様の話をそれとなく聞いてくる。その間、ユキはあの祠を調べてくれないか」
「えっ? あれを私が調べるの?」
 ユキは躊躇う。
「ああ、楓太は沢山のヒントを与えたって言ったよね。そして自ら赤石のことを持ち出して見つかったのかって聞いてきた。それもわざと僕たちに教えたヒントだったのかもしれない」
「どういうこと?」
「実は昼間、あの祠から赤い光がちらっと見えたんだ。もしかしたらあの祠は赤石と何か関係があるのかもってふと思ったんだ。さっきの不自然に吼えた行動といい、楓太はそれとなく、あの祠を調べろと僕達に教えようとしてたのかもしれない」
 仁は祠をじっと見ていた。
「でも人の庭先に忍び込んで勝手に調べたりしたら、犯罪者じゃないの」
「大丈夫だよ。盗むわけじゃないんだから。それにいざとなったらトイラが代わりに出てきて助けてくれるさ。人に見つかりそうになったら逃げろ」
「ちょっと、仁」
 怖気づいているユキを残し、仁はすくっと背筋を伸ばして玄関の方に進んでいった。
 ユキは突然暗闇に一人取り残されて心細くなってくる。
 引き止めようにも、仁はすでに呼び鈴のブザーを押していた。
 玄関先はすぐにまた明かりがついて、人影が現れた。
 それは瞳だったために、急に歓喜の声がして、次にその声に驚いて家の中の者が次々現れると、仁は飲み込まれるように家の中へと入って行った。