3
慌てて待ち合わせの場所へ向かっていたユキだったが、昇降口で自分の靴を手にしてふと動きが止まった。
よく考えれば、全然知らない下級生。しかもあの睨んだ目顔から自分に敵意を持っている。
一方的に約束を押し付けられ、何も律儀にその通りに行かなければならないのだろうか。
一体自分に何の用があるというのだろう。
このまま無視することもできるが、そうすればまた絡んでくることだろう。
だったら早く済ませた方がいい。
幾分か冷静になったユキは靴を履き替え、自分も挑む気持ちで再び約束の場所へと向かった。
指定された校舎の裏の雑木林。
いつも通りに田舎に相応しい自然に溢れた場所だ。
今は夏。蝉の声が所々で聞こえていた。
少し裏手を奥に進めばそこは誰も足を滅多に踏み入れない。気温も少しばかり落ち着いて、風が吹けば汗ばんだ肌に涼しく感じた。
まだこの辺りはやや斜面ではあるが、そのまま進めば勾配が急になってハイキングコースとでも言うべき山の頂上へと誘う。
ユキは汗ばんだ額を軽く拭った。
考えまいとしても、目に映る景色に心がざわついてきた。
ここは、ジークに罠を張られて瀕死の思いをした場所だからだ。
その時のことは事件の解決によって、ユキは忘れたつもりでいた。
いや、考えないようにしていたのだ。
ここにはあれ以来足を踏み入れたことはなかったが、記憶は体のどこかに隠れていただけだと思い知らされた。
トイラが必死で助けてくれたことが蘇り、胸がちくりと痛くなる。
あの時に感じた胸の痛みもすごかったけれど、今だって充分苦しい。
「トイラ……」
ユキはつい名前を小さく呟いた。
目の前の木々の葉っぱの緑が、エメラルドの輝きをもったトイラの目を想起させる。
とても美しい輝きを持った瞳。
そこに映っていた自分の姿。
もう一度自分を見つめて欲しい。
トイラの姿を追い求め、ユキは周りが見えないほど空想の中に入り込んでいた。
そこにあの女の子がいたというのに、そのまま通り過ごしていく。
「あの……春日先輩?」
名前を呼ばれて振り向けば後方にあの女の子が首を傾げて立っていた。
「えっ? いつの間にそんなところにいたの?」
「春日先輩、いきなり私を無視して山に登っていったんじゃないですか。こっちがびっくりしました」
その子に呆れられ、ユキは恥ずかしくなった。
それを誤魔化すように、姿勢を正して話しかける。
「とにかく、一体私に何の用? それにあなた誰なの?」
ユキの言葉で女の子に緊張が走った。
「私は一年生の八十鳩瞳(やそばとひとみ)と申します。はっきりいいます。春日先輩は新田先輩とどういうご関係なんですか?」
「えっ? 私と仁のこと?」
ユキはまだ状況がつかめなかった。
「そうです。私、新田先輩が好きなんです。ずっとその気持ちを伝えているのに、新田先輩は全然相手にしてくれてなくて、これでも私、顔は悪くないと思うん です。年下だし甘え上手なところもあって、絶対新田先輩に気に入られるはずなんです。それなのに、新田先輩はいつも春日先輩とばかり一緒に居るし、それで も二人は付き合ってないって噂を聞くし、一体どっちなんですか。はっきりして下さい」
瞳と名乗ったその女の子はその名前に代表されるように、こぼれるような大きな瞳を潤わせていた。
下級生でありながら、堂々と自信に溢れている。
ユキよりもしっかりとして、物事をはっきりしようとしている。
強く睨んでいるが、それは必死で踏ん張ろうとして自分を奮い起こしている姿だった。
ユキはそれに負けそうだ。
マリに言われた事が、この時目の前で起こってしまった。自分がはっきりしない態度なために周りに迷惑かけている。
それでもユキは何をどういう風に言っていいのかわからない。
圧倒されて言葉に詰まっていると、その態度が瞳を逆なでする。
「どこまでもはっきりしない人なんですね。帰国子女だからもっとハキハキした人だと思ったから、はっきり言って話し合いたかったのに」
年下の女の子から痛いことを言われてユキは少しカチッときた。
「あのね、あなたにそんなこと言われる筋合いはないんですけど、仁があなたを相手にしないのは興味がないからじゃないの? それは直接仁に言えばいいじゃない」
「とっくにそんな事言いました。だけど新田先輩は春日先輩の側を離れる訳にはいかないんだって言ってました。だからいいように利用されていてもそんな事が 言えるんですかって聞いたら、例えそうであっても春日先輩が頼る限り側に居てやりたいって言ってました。だから私は知りたいんです。春日先輩は新田先輩の ことどう思っているのか」
「どう思っているのかって、そんなこと聞かれても」
ユキにとって仁も大切な人であり、決して邪険に扱ってるわけではない。
かといって、年下の女の子から急に決断を今すぐしろと言われても言葉が出てこない。
ユキが黙っていると、瞳は歯を食いしばるように怒りを込めて睨んだ。
「春日先輩って最低! はっきり自分の気持ちを言い表せないくせに、新田先輩に甘えるなんて。春日先輩って本気で人を好きになったことなんてないんでしょうね」
その言葉に目覚めるようにユキは突然ボロボロと涙をこぼし始めた。
悲しくて悲しくて、深い池の底に沈みこむように絶望が心を支配する。どうしようもない悲しみが心にいきわたると、突然力が抜けて、崩れるように膝が地面についた。
またあの名前を心で呼んでしまう。
トイラ……
泣くまいとずっと我慢していた気持ちが、この時溢れ返り防御不能になってしまった。
大きな声を上げ、まるで悲しみの雄たけびのような声で叫ぶ。
「ちょ、ちょっと、春日先輩。それは大げさじゃないの? 私だって泣きたいくらいなんですから」
突然のユキの態度に瞳は恐ろしくなり、おどおどしてしまう。
ユキはそれでも泣くのを止めない。もう自分でもわからないくらい、トイラを思う気持ちがここぞとばかりに爆発してしまった。
瞳は強気になろうとしても、ユキの悲鳴と流れる涙の粒の大きさにどうしても敵わなかった。
「泣いたからって解決するわけじゃないんですからね」
矜持を見せるつもりで発言したが、瞳は逃げるように去っていった。
ユキは一人取り残されても、自分の心の思うままに泣き続けていた。
暫くそれが続いてしまい、ユキも悲しみを止める術がわからない。
すでに息が苦しく、体の奥深くに入り込んでひっくひっくと痙攣していた。
「ちょっとあんた、いつまで泣いているつもり? うるさいわね」
ユキの鳴き声に見かねたように少し甲高い声で誰かが注意する。
突然の声に、ユキは泣きながらも顔を上げた。
だが目の前には誰も居ない。それでもまだ声がする。
「あー、あんた、もしかして猫? しかもとても大きな真っ黒い猫?」
突然猫と言われて、ユキは泣きやんだ。
大きい真っ黒い猫。
それはまさにトイラのもう一つの姿のことだ。
ユキの心がかき乱される。声の主は誰なのか。
立ち上がって辺りをキョロキョロするが、どうしても人の姿が見えない。
「あっ、やっと泣き止んだ」
「一体誰? 誰なの? どうして私のこと大きな真っ黒い猫だなんて言ったの?」
その真相が知りたい。ユキは必死になって周りを見回した。
「あれ? どういうこと? あなた私がどこにいるかまだわからないの? なんだ仲間じゃないの? だけどどうして黒い猫の幻影をもってるのよ。ややこしい人ね」
「お願い、姿を見せて。あなたは一体誰なの?」
ユキはどうしてもその声の主が知りたい。
「あなたこそ一体誰なのよ。少しここを離れていたから久し振りに戻ってきて、あんたみたいな人がいてびっくりよ。とにかくニシナ様に報告しなくっちゃ」
突風が突然舞うように黒い影がすばやく過ぎ去っていった。
「ま、待って!」
ユキが引きとめようとしたときにはすでに辺りは静かになっていた。
ユキはその影を追いかけようと木と木の間を走るが、すでに周りには何の気配もしなかった。
「一体何だったの? もしかしてトイラと同じ仲間なの?」
ユキは答えを待つように自分の胸に手を当てていた。
慌てて待ち合わせの場所へ向かっていたユキだったが、昇降口で自分の靴を手にしてふと動きが止まった。
よく考えれば、全然知らない下級生。しかもあの睨んだ目顔から自分に敵意を持っている。
一方的に約束を押し付けられ、何も律儀にその通りに行かなければならないのだろうか。
一体自分に何の用があるというのだろう。
このまま無視することもできるが、そうすればまた絡んでくることだろう。
だったら早く済ませた方がいい。
幾分か冷静になったユキは靴を履き替え、自分も挑む気持ちで再び約束の場所へと向かった。
指定された校舎の裏の雑木林。
いつも通りに田舎に相応しい自然に溢れた場所だ。
今は夏。蝉の声が所々で聞こえていた。
少し裏手を奥に進めばそこは誰も足を滅多に踏み入れない。気温も少しばかり落ち着いて、風が吹けば汗ばんだ肌に涼しく感じた。
まだこの辺りはやや斜面ではあるが、そのまま進めば勾配が急になってハイキングコースとでも言うべき山の頂上へと誘う。
ユキは汗ばんだ額を軽く拭った。
考えまいとしても、目に映る景色に心がざわついてきた。
ここは、ジークに罠を張られて瀕死の思いをした場所だからだ。
その時のことは事件の解決によって、ユキは忘れたつもりでいた。
いや、考えないようにしていたのだ。
ここにはあれ以来足を踏み入れたことはなかったが、記憶は体のどこかに隠れていただけだと思い知らされた。
トイラが必死で助けてくれたことが蘇り、胸がちくりと痛くなる。
あの時に感じた胸の痛みもすごかったけれど、今だって充分苦しい。
「トイラ……」
ユキはつい名前を小さく呟いた。
目の前の木々の葉っぱの緑が、エメラルドの輝きをもったトイラの目を想起させる。
とても美しい輝きを持った瞳。
そこに映っていた自分の姿。
もう一度自分を見つめて欲しい。
トイラの姿を追い求め、ユキは周りが見えないほど空想の中に入り込んでいた。
そこにあの女の子がいたというのに、そのまま通り過ごしていく。
「あの……春日先輩?」
名前を呼ばれて振り向けば後方にあの女の子が首を傾げて立っていた。
「えっ? いつの間にそんなところにいたの?」
「春日先輩、いきなり私を無視して山に登っていったんじゃないですか。こっちがびっくりしました」
その子に呆れられ、ユキは恥ずかしくなった。
それを誤魔化すように、姿勢を正して話しかける。
「とにかく、一体私に何の用? それにあなた誰なの?」
ユキの言葉で女の子に緊張が走った。
「私は一年生の八十鳩瞳(やそばとひとみ)と申します。はっきりいいます。春日先輩は新田先輩とどういうご関係なんですか?」
「えっ? 私と仁のこと?」
ユキはまだ状況がつかめなかった。
「そうです。私、新田先輩が好きなんです。ずっとその気持ちを伝えているのに、新田先輩は全然相手にしてくれてなくて、これでも私、顔は悪くないと思うん です。年下だし甘え上手なところもあって、絶対新田先輩に気に入られるはずなんです。それなのに、新田先輩はいつも春日先輩とばかり一緒に居るし、それで も二人は付き合ってないって噂を聞くし、一体どっちなんですか。はっきりして下さい」
瞳と名乗ったその女の子はその名前に代表されるように、こぼれるような大きな瞳を潤わせていた。
下級生でありながら、堂々と自信に溢れている。
ユキよりもしっかりとして、物事をはっきりしようとしている。
強く睨んでいるが、それは必死で踏ん張ろうとして自分を奮い起こしている姿だった。
ユキはそれに負けそうだ。
マリに言われた事が、この時目の前で起こってしまった。自分がはっきりしない態度なために周りに迷惑かけている。
それでもユキは何をどういう風に言っていいのかわからない。
圧倒されて言葉に詰まっていると、その態度が瞳を逆なでする。
「どこまでもはっきりしない人なんですね。帰国子女だからもっとハキハキした人だと思ったから、はっきり言って話し合いたかったのに」
年下の女の子から痛いことを言われてユキは少しカチッときた。
「あのね、あなたにそんなこと言われる筋合いはないんですけど、仁があなたを相手にしないのは興味がないからじゃないの? それは直接仁に言えばいいじゃない」
「とっくにそんな事言いました。だけど新田先輩は春日先輩の側を離れる訳にはいかないんだって言ってました。だからいいように利用されていてもそんな事が 言えるんですかって聞いたら、例えそうであっても春日先輩が頼る限り側に居てやりたいって言ってました。だから私は知りたいんです。春日先輩は新田先輩の ことどう思っているのか」
「どう思っているのかって、そんなこと聞かれても」
ユキにとって仁も大切な人であり、決して邪険に扱ってるわけではない。
かといって、年下の女の子から急に決断を今すぐしろと言われても言葉が出てこない。
ユキが黙っていると、瞳は歯を食いしばるように怒りを込めて睨んだ。
「春日先輩って最低! はっきり自分の気持ちを言い表せないくせに、新田先輩に甘えるなんて。春日先輩って本気で人を好きになったことなんてないんでしょうね」
その言葉に目覚めるようにユキは突然ボロボロと涙をこぼし始めた。
悲しくて悲しくて、深い池の底に沈みこむように絶望が心を支配する。どうしようもない悲しみが心にいきわたると、突然力が抜けて、崩れるように膝が地面についた。
またあの名前を心で呼んでしまう。
トイラ……
泣くまいとずっと我慢していた気持ちが、この時溢れ返り防御不能になってしまった。
大きな声を上げ、まるで悲しみの雄たけびのような声で叫ぶ。
「ちょ、ちょっと、春日先輩。それは大げさじゃないの? 私だって泣きたいくらいなんですから」
突然のユキの態度に瞳は恐ろしくなり、おどおどしてしまう。
ユキはそれでも泣くのを止めない。もう自分でもわからないくらい、トイラを思う気持ちがここぞとばかりに爆発してしまった。
瞳は強気になろうとしても、ユキの悲鳴と流れる涙の粒の大きさにどうしても敵わなかった。
「泣いたからって解決するわけじゃないんですからね」
矜持を見せるつもりで発言したが、瞳は逃げるように去っていった。
ユキは一人取り残されても、自分の心の思うままに泣き続けていた。
暫くそれが続いてしまい、ユキも悲しみを止める術がわからない。
すでに息が苦しく、体の奥深くに入り込んでひっくひっくと痙攣していた。
「ちょっとあんた、いつまで泣いているつもり? うるさいわね」
ユキの鳴き声に見かねたように少し甲高い声で誰かが注意する。
突然の声に、ユキは泣きながらも顔を上げた。
だが目の前には誰も居ない。それでもまだ声がする。
「あー、あんた、もしかして猫? しかもとても大きな真っ黒い猫?」
突然猫と言われて、ユキは泣きやんだ。
大きい真っ黒い猫。
それはまさにトイラのもう一つの姿のことだ。
ユキの心がかき乱される。声の主は誰なのか。
立ち上がって辺りをキョロキョロするが、どうしても人の姿が見えない。
「あっ、やっと泣き止んだ」
「一体誰? 誰なの? どうして私のこと大きな真っ黒い猫だなんて言ったの?」
その真相が知りたい。ユキは必死になって周りを見回した。
「あれ? どういうこと? あなた私がどこにいるかまだわからないの? なんだ仲間じゃないの? だけどどうして黒い猫の幻影をもってるのよ。ややこしい人ね」
「お願い、姿を見せて。あなたは一体誰なの?」
ユキはどうしてもその声の主が知りたい。
「あなたこそ一体誰なのよ。少しここを離れていたから久し振りに戻ってきて、あんたみたいな人がいてびっくりよ。とにかくニシナ様に報告しなくっちゃ」
突風が突然舞うように黒い影がすばやく過ぎ去っていった。
「ま、待って!」
ユキが引きとめようとしたときにはすでに辺りは静かになっていた。
ユキはその影を追いかけようと木と木の間を走るが、すでに周りには何の気配もしなかった。
「一体何だったの? もしかしてトイラと同じ仲間なの?」
ユキは答えを待つように自分の胸に手を当てていた。