5
「ごめんなさいね」
ハンドルを握りながら、花梨が優しい声で謝った。
「いえ、そんな、こっちはご馳走になった上に送って頂いて有難いくらいです」
仁はなぜ謝られてるかわからない。
「ううん、うちの爺婆攻撃のことよ」
「ジジババ攻撃?」
「あの人たちのことだから、どんなに否定しても、まるで新田さんを婿入りさせるつもりでうちの瞳とくっつけようとしたでしょ」
「えっ、どうしてわかるんですか」
その通りだったから仁が驚いて花梨をみれば、花梨は悲しげに笑みを浮かべた。
「嘘をついても仕方がないから、はっきりいうけど、うちは本気でお婿さんを探しているの。瞳も昔から新田さんに憧れてたし、楓太でお世話になる良子先生の甥ごさんと知ってるだけに、うちの爺婆にとったら理想の婿候補なのよ」
「ええ!」
「驚いたでしょ。悪い人たちじゃないんだけど、うちは家の都合上どうしても跡継ぎがいるの。だから二人は早くから婿探しに必死なわけなの。私が男の子を産めなかったばっかりに……」
花梨が寂しそうな目で前方を見つめている姿を見ると仁はいたたまれなくなった。跡継ぎが産めないと困る──歌舞伎の世界の梨園みたいだ。
「でも花梨さん、まだお若いですし、産めなかったと過去形にするのはまだ早いかも」
「別に気を遣うことはないのよ。でもこんな話をした私が悪かったわね。本当にごめんなさいね」
「いえ、その」
仁は子供が言うような言葉じゃなかったと少し気まずくなったが、そこで話を変えようと表庭にあった小さな祠のことを訊いた。
「あの、ところで、さっき家から出てくるとき祠に手を合わせてましたよね」
「ああ、あれね。うちの家ではあの家の嫁が出入りするときは、あの祠に必ずお参りをするしきたりなの。一種の挨拶みたいなものなのよ」
「なんか面倒臭いですね」
仁は花梨が苦労してそうな気になって同情してしまった。
「仕方がない決まりなのよ。嫁の立場だから、あの家にとったら部外者でしょ。そこでこの山の神様に向かってしっかりと自分の立場を知らせるの。この家の者と同じように山神様を信仰しますってね。あの家の家系は山神様の祠に一番近づける選ばれた人たちなの」
「そういえば、お世話をするとか聞きました」
「この辺りは特に古い仕来たりを気にするでしょ。山には山神様がいらっしゃって、それに仕える選ばれた小神様たちも居て、そこに八十鳩家も人間界を代表し てお世話係として加えられたと信じられてるの。お世話といっても、供え物をしたり、掃除をしたりってそれくらいなんだけどね。だけどこんな話、新田さんに したら信じられないどころか、怪しげな宗教みたいよね」
「いえ、そんなことはありません。すごく大切なことだと思います!」
事情を知ってるだけに仁は自信を持って言った。
「新田さんって素直な方なのね。瞳も爺婆も気に入るはずだわ」
花梨はくすっと笑っていた。
この件に関しては事情を知ってるだけに自分の方が詳しく語れるだろうと思うと、おかしくなって仁も釣られて笑ってしまった。
家まで送ると言われたが、結局は良子の動物病院まで送ってもらう事にした。
そこで降ろされると、仁は丁寧にお礼を言う。
「新田さん、これに懲りず、瞳のこと嫌いにならないで下さいね。母親としての贔屓目なんですけど、あの子とっても自分に正直で素直なところもあるんです」
「それはわかってます」
仁の言葉を聞くと花梨は安心して、クラクションを一つ鳴らしてその場を去っていった。
仁は暫くその車を見送り、そして動物病院の中に入って行った。
「仁、どこに行ってたの? 自転車は置いたままだし、家にも帰ってないし、さっき姉さんから電話あったわよ。ユキちゃんから連絡があったみたい。時間があるときに寄ってほしいとか言ってたって。あんた携帯くらい持ちなさいよ」
「朝、早起きしてぼーっとしてたから携帯忘れたんだよ」
仁はユキから連絡があったと聞いて、早速体は出口に向かっていた。
「仁、ちょっと待って、あのさ頼みたい事があるんだけど。これをどこか山の奥に捨ててきて欲しいの。できたら水があるところ」
仁が振り向くと、良子は奥から大きな石を持ってきた。
「石ぐらいその辺に捨てとけばいいじゃないか」
「普通の石ならね」
良く見ればそれは頭と手足を引っ込めた亀だった。
「良子さん、それどうしたの?」
「昨日亀を診て欲しいって予約があったんだけど、その人こっそりと亀だけカウンターに置いて逃げちゃった」
「持ってきた奴の姿とか見てないの?」
「受付に置いてたベルが鳴って奥から出てきたら、もう誰もいなかったの」
「それでこの亀、病気なの?」
仁はじろじろと亀を見る。
「ちょっと元気がなかったんだけど、餌をやって一晩経ったら問題なかった。どうみてもその辺にいるような草ガメだし、沼地に帰してあげたら大丈夫だと思うんだけど。拾った人は動かない亀を見て死にかけてると思って助けたかったんだろうね」
「それでも無責任じゃないか。勝手に自分で拾った動物を置いて逃げるなんて」
「でもね、前にも一回あったのよ。その時は子猫だったけど。運良く欲しい人がいたからよかったけど、亀は自然に帰しても大丈夫でしょ。一応診察しといたし」
「わかった。捨ててくればいいんだね。持ち運べるように袋かなんかない?」
良子はスーパーのビニール袋に湿らすように水を少し入れ、その中に亀もいれた。
仁はその袋を受け取った。
「こんなんで大丈夫かな」
「大丈夫大丈夫。ほんの少し我慢してもらうだけだから。それじゃ頼んだからね」
良子にあっさりと言われ、仁は仕方なく袋を手にして自転車に乗り、沼地のある場所を求めて山の方へと向かった。
山付近は畑が広がり、風が吹くと葉っぱがなびいて緑の海のようだ。
適当に自転車を置いて、畦道のような場所を歩いて木が生い茂る山に入っていく。
「この辺りは、昔カブトムシとか取りに来たな」
子供の頃の記憶を頼りに、亀を捨てられそうな沼地を探した。
「あった、あった。でもこの沼こんなに小さかったかな。昔はもっと大きく思えたけど」
子供の頃に見た風景と比べてどこか変わったようでありながら、見覚えのある景色に仁は微笑んだ。
袋から亀を丁寧に取り出し、じっくりとその姿を見つめた。
亀も辺りを確かめるように顔をひょっこりとだし、仁と目があった。
「ここなら快適に過ごせるだろう。達者でね」
仁はそっと亀を地面に置いた。
亀は暫く手足を引っ込めていたが、また徐々に顔を出して辺りを確認するとゆっくりと歩き出した。
一度立ち止まり首を少し斜めに向ける。振り返ったように見えたが、仁はそれをお礼と勝手に解釈してみた。
「お礼なんていいからね」
浦島太郎の助けた亀に竜宮上へ連れて行かれる話を想像し、一人おかしくなった。
帰ろうと振り返ったとき、木漏れ日の間から人影が揺れる。
ほんの数メートル先で、長靴を履き、首にタオルをひっかけた男が立ってじっと仁を見つめていた。
誰も居ない森の中で人が立ってるだけで驚くに値するのに、その男はさらに鍬を振り上げて仁を威嚇してきた。
「ごめんなさいね」
ハンドルを握りながら、花梨が優しい声で謝った。
「いえ、そんな、こっちはご馳走になった上に送って頂いて有難いくらいです」
仁はなぜ謝られてるかわからない。
「ううん、うちの爺婆攻撃のことよ」
「ジジババ攻撃?」
「あの人たちのことだから、どんなに否定しても、まるで新田さんを婿入りさせるつもりでうちの瞳とくっつけようとしたでしょ」
「えっ、どうしてわかるんですか」
その通りだったから仁が驚いて花梨をみれば、花梨は悲しげに笑みを浮かべた。
「嘘をついても仕方がないから、はっきりいうけど、うちは本気でお婿さんを探しているの。瞳も昔から新田さんに憧れてたし、楓太でお世話になる良子先生の甥ごさんと知ってるだけに、うちの爺婆にとったら理想の婿候補なのよ」
「ええ!」
「驚いたでしょ。悪い人たちじゃないんだけど、うちは家の都合上どうしても跡継ぎがいるの。だから二人は早くから婿探しに必死なわけなの。私が男の子を産めなかったばっかりに……」
花梨が寂しそうな目で前方を見つめている姿を見ると仁はいたたまれなくなった。跡継ぎが産めないと困る──歌舞伎の世界の梨園みたいだ。
「でも花梨さん、まだお若いですし、産めなかったと過去形にするのはまだ早いかも」
「別に気を遣うことはないのよ。でもこんな話をした私が悪かったわね。本当にごめんなさいね」
「いえ、その」
仁は子供が言うような言葉じゃなかったと少し気まずくなったが、そこで話を変えようと表庭にあった小さな祠のことを訊いた。
「あの、ところで、さっき家から出てくるとき祠に手を合わせてましたよね」
「ああ、あれね。うちの家ではあの家の嫁が出入りするときは、あの祠に必ずお参りをするしきたりなの。一種の挨拶みたいなものなのよ」
「なんか面倒臭いですね」
仁は花梨が苦労してそうな気になって同情してしまった。
「仕方がない決まりなのよ。嫁の立場だから、あの家にとったら部外者でしょ。そこでこの山の神様に向かってしっかりと自分の立場を知らせるの。この家の者と同じように山神様を信仰しますってね。あの家の家系は山神様の祠に一番近づける選ばれた人たちなの」
「そういえば、お世話をするとか聞きました」
「この辺りは特に古い仕来たりを気にするでしょ。山には山神様がいらっしゃって、それに仕える選ばれた小神様たちも居て、そこに八十鳩家も人間界を代表し てお世話係として加えられたと信じられてるの。お世話といっても、供え物をしたり、掃除をしたりってそれくらいなんだけどね。だけどこんな話、新田さんに したら信じられないどころか、怪しげな宗教みたいよね」
「いえ、そんなことはありません。すごく大切なことだと思います!」
事情を知ってるだけに仁は自信を持って言った。
「新田さんって素直な方なのね。瞳も爺婆も気に入るはずだわ」
花梨はくすっと笑っていた。
この件に関しては事情を知ってるだけに自分の方が詳しく語れるだろうと思うと、おかしくなって仁も釣られて笑ってしまった。
家まで送ると言われたが、結局は良子の動物病院まで送ってもらう事にした。
そこで降ろされると、仁は丁寧にお礼を言う。
「新田さん、これに懲りず、瞳のこと嫌いにならないで下さいね。母親としての贔屓目なんですけど、あの子とっても自分に正直で素直なところもあるんです」
「それはわかってます」
仁の言葉を聞くと花梨は安心して、クラクションを一つ鳴らしてその場を去っていった。
仁は暫くその車を見送り、そして動物病院の中に入って行った。
「仁、どこに行ってたの? 自転車は置いたままだし、家にも帰ってないし、さっき姉さんから電話あったわよ。ユキちゃんから連絡があったみたい。時間があるときに寄ってほしいとか言ってたって。あんた携帯くらい持ちなさいよ」
「朝、早起きしてぼーっとしてたから携帯忘れたんだよ」
仁はユキから連絡があったと聞いて、早速体は出口に向かっていた。
「仁、ちょっと待って、あのさ頼みたい事があるんだけど。これをどこか山の奥に捨ててきて欲しいの。できたら水があるところ」
仁が振り向くと、良子は奥から大きな石を持ってきた。
「石ぐらいその辺に捨てとけばいいじゃないか」
「普通の石ならね」
良く見ればそれは頭と手足を引っ込めた亀だった。
「良子さん、それどうしたの?」
「昨日亀を診て欲しいって予約があったんだけど、その人こっそりと亀だけカウンターに置いて逃げちゃった」
「持ってきた奴の姿とか見てないの?」
「受付に置いてたベルが鳴って奥から出てきたら、もう誰もいなかったの」
「それでこの亀、病気なの?」
仁はじろじろと亀を見る。
「ちょっと元気がなかったんだけど、餌をやって一晩経ったら問題なかった。どうみてもその辺にいるような草ガメだし、沼地に帰してあげたら大丈夫だと思うんだけど。拾った人は動かない亀を見て死にかけてると思って助けたかったんだろうね」
「それでも無責任じゃないか。勝手に自分で拾った動物を置いて逃げるなんて」
「でもね、前にも一回あったのよ。その時は子猫だったけど。運良く欲しい人がいたからよかったけど、亀は自然に帰しても大丈夫でしょ。一応診察しといたし」
「わかった。捨ててくればいいんだね。持ち運べるように袋かなんかない?」
良子はスーパーのビニール袋に湿らすように水を少し入れ、その中に亀もいれた。
仁はその袋を受け取った。
「こんなんで大丈夫かな」
「大丈夫大丈夫。ほんの少し我慢してもらうだけだから。それじゃ頼んだからね」
良子にあっさりと言われ、仁は仕方なく袋を手にして自転車に乗り、沼地のある場所を求めて山の方へと向かった。
山付近は畑が広がり、風が吹くと葉っぱがなびいて緑の海のようだ。
適当に自転車を置いて、畦道のような場所を歩いて木が生い茂る山に入っていく。
「この辺りは、昔カブトムシとか取りに来たな」
子供の頃の記憶を頼りに、亀を捨てられそうな沼地を探した。
「あった、あった。でもこの沼こんなに小さかったかな。昔はもっと大きく思えたけど」
子供の頃に見た風景と比べてどこか変わったようでありながら、見覚えのある景色に仁は微笑んだ。
袋から亀を丁寧に取り出し、じっくりとその姿を見つめた。
亀も辺りを確かめるように顔をひょっこりとだし、仁と目があった。
「ここなら快適に過ごせるだろう。達者でね」
仁はそっと亀を地面に置いた。
亀は暫く手足を引っ込めていたが、また徐々に顔を出して辺りを確認するとゆっくりと歩き出した。
一度立ち止まり首を少し斜めに向ける。振り返ったように見えたが、仁はそれをお礼と勝手に解釈してみた。
「お礼なんていいからね」
浦島太郎の助けた亀に竜宮上へ連れて行かれる話を想像し、一人おかしくなった。
帰ろうと振り返ったとき、木漏れ日の間から人影が揺れる。
ほんの数メートル先で、長靴を履き、首にタオルをひっかけた男が立ってじっと仁を見つめていた。
誰も居ない森の中で人が立ってるだけで驚くに値するのに、その男はさらに鍬を振り上げて仁を威嚇してきた。