「あっ、気がつかれたわい」
 座布団を枕にして寝ている仁にパタパタと団扇を振りながら、瞳の祖父は安堵した。
「先輩、大丈夫ですか?」
 瞳が濡れタオルで仁の顔を拭いていた。
 仁はむっくりと起き上がり、暫くぼーっとしていた。
「急に、倒れられてもうびっくりしましたよ」
 祖母もとりあえずは一安心という表情で言った。
「あっ、すみません」
 仁は体制を整えて正座して迷惑かけた詫びを入れた。
 しかし、頭の靄が晴れてくると、恋人と間違われていることを思い出して再び慌ててしまう。
「あの、僕はその、瞳ちゃんとは、あの、その、交際しているとかそういうのじゃないんです。誤解させてしまったのなら謝ります。申し訳ございません」
 機敏に体を動かし体制を整え、三人の前で土下座までしてこの事態の収拾をつけようとした。
「せ、先輩、ちょっとよして下さいってば」
 瞳が狼狽しながら自分の手をばたつかせる。
「新田さん、顔を上げて下さい。何もそこまでされることはないですから。全然かまいませんから」
 祖父が笑いながら言った。
「そうですよ、何も土下座する必要なんてないですから」
 祖母も穏やかに言った。
 これで誤解は解けたと、仁もやっと肩の荷が下りて顔を上げた。
「こちらも恐縮です。こんな真面目な方で清い気持ちで瞳のことを大切に思って下さって。なあ婆さん」
「はい。それにまだ高校生ですし、世間の目もありますからね。ようは清きということですよね」
 笑顔になっていた仁の顔が崩れていく。なんだか話が微妙にずれている。
「わしらはこれでも今の若者に理解を示しております。愛があったら年は関係なく、自然にってことにも」
 祖父は言い難いようなはにかんだ顔をしてニヤニヤしていた。
「嫌ですよ、お爺さんたら」
 二人で軽く叩き合っている。
 仁の顔から血の気が消えていく。
「あの、だから僕はその、瞳さんとは交際してません」
「はいはい、まだ交際してないから清い関係だってこといいたいくらい分かってますから」
 また祖父が言った。
「だから、そもそもふたりの間には何も始まってなくて、その」
 仁は必死に説明しようとする。
「いいんですって、そのことはなんとも思ってませんから」
 祖母も一向に話の方向を変えない。
 このふたりにはなぜか誤解が解けず、馬耳東風になっている。
 なぜここまで自分と瞳をくっつけようとしているのか、仁には到底理解できない。
「ただいま、あら、お客様?」
 その時誰かが入って来た。瞳の母親、八十鳩花梨(やそばとかりん)だった。
 高校生の娘を持つ母親ながら、若々しく見え、瞳の姉と言われても充分通じるような風貌だった。
 ショートヘアーが元気はつらつとしてきびきびした印象だった。
「花梨さん、ちょうど良いところに帰ってきたわい。この方は瞳の彼氏……」
 祖父がいいかけたとき、仁は畳み込むように大きな声で自己紹介した。
「と、『友達』の新田仁と申します。はじめまして」
「あっ、はじめまして。瞳の母親の花梨(かりん)です。いつも瞳がお世話になってます」
「いえ、僕は何もしておりません。あの彼氏でもありませんし、付き合ってもいません」
「はっ?」
 仁の慌てぶりに花梨は祖父母に目を移した。
 二人がニコニコしているのをみて状況を寸時に飲み込んだ。
「新田さんって、もしかしてあの繁華街のはずれにある動物病院の良子先生の甥ごさん?」
「はっ、はい」
「そうですか。ようこそ来てくれましたね。確か今は高校三年生ですよね。受験勉強で”忙しい”ときですよね」
 花梨は何やら噛み締めて忙しいを強調した。
「まあ、そ、そうなんですけど」
「そしたら家まで車でお送りしますわ」
 花梨は仁を逃がそうと誘導するように手招きする。
 仁も遠慮するどころか、それにすがるようについていった。
「ママ、私も一緒に行っていい?」
 瞳が懇願するが、花梨は首を縦に振らなかった。
「あなたも宿題があるでしょ。中学の時はいつもギリギリまでやらなくて大変だったじゃない。高校生になったら早く済ますって約束忘れたの? それとも欲しかった服いらないの?」
 瞳は宿題を早く済ませると約束して、自分の欲しいものを買って貰う約束をしていたみたいだった。
 それを言われると瞳は大人しくなって言い返せなかった。
 自分の母親にはどこか逆らえないところがあるらしい。
 仁は玄関先で見送る三人を前にして、丁寧に頭を下げて、お昼をご馳走になったお礼を何度も言った。
「また来て下さいね、先輩」
 社交辞令だったとしても仁は返事をせずにその場をそそくさと去っていく。
 玄関を出ると、楓太がそこに居た。
 何か言いたげに仁を見つめて見送る。
「また後でな」
 楓太にしっかりと挨拶をすると、楓太はふらりと普通の犬らしくどこかへ歩いて行った。
 その後姿を見ていたとき、表庭に置かれていた祠が目に入った。
 日差しが強かったせいもあるが、目が眩しい。
 その光でまた眩暈を起こしそうな頭痛がしてくる。
 気のせいだと仁が軽く頭を振ったときだった。
 祠の小さな扉の隙間からキラリと何かが赤く光ったように見えた。
 一瞬のことなので見間違えたかと思ったが、花梨はその祠に近づいていく。
 その前に立ち止まり手を合わせてお祈りしだした。
 それが終わると、門の前に停めてあった軽自動車に案内され、仁は素直に乗り込んだ。
 車が動くと体の力が抜けていった。