エンケンの姿が見えなくなると、僕たちは突然の不安に襲われた。これからどうしよう・・・・ 三人が同時にため息交じりの声を出す。
まぁ、いっか? そう言ったのは昭夫だった。僕たち自身にはとても長く感じた間を破る。そういった空気感を読めないのが、というかもしかしたら一番読めているからこその発言をするのが昭夫らしい。
とにかく、歩こうか? 僕がそう言った。それしかないな、と雄太が続く。
すると少し歩いた先の十字路を超えたところに空色の車が止まっていた。カナブンのような形はどこかで見たことがあるようでどこにもない形をしている。きっと僕たちの世界で流行っていたその車は、この世界の模倣なんだと思う。そう感じずにはいられないほど洗練された格好良さを身に纏っている車だったんだ。
なんとなく僕は、その車の中を運転席側から覗き込んだ。誰もいない? ように見えたけれど、なにかの気配を感じもした。
すると、助手席側の窓の向こうにすっと人影が浮かんできた。なんだ! って思った瞬間に、驚いた。その顔には見覚えがあったんだ。実際には会ったことがないけれど、写真や映像では何度も見ていた。エイミー! 本当に君なのかい?
面識がないにも関わらず、僕は馴れ馴れしい言葉で叫んだ。物心つく前から大好きだったんだ。子供受けするような音楽ではなく、酒場の似合うその音に、何故か僕の心は動いた。父親の影響もあるんだろうけれど、車でも家でもほぼ毎日聞いていた。エイミーが死んでからだって、聴き続けている。
おやまぁ、私を知っているの? そいつは嬉しいねぇ。けれどまぁ、こっちはあなたたちを知らないんだ。
エイミーは普通に日本語で話しをしていた? ように聞こえていたけれど、本当は英語だったのかも知れない。僕たちが日本語のつもりで話しているこの言葉も、英語が混じっている歌も、誰の耳にも伝わっている。エイミーが日本語を話しているとは思えない。僕たちの耳には、英語も普通に聞き取ること出来ている。この世界では、それが普通のようだ。英語も日本語も、ベトナム語だって関係がない。普通に言葉が通じ合う世界は、とても楽しい。
けれどねぇ、頼まれちまったんだから仕方がないよ。この車、あなたたちに譲ってやれってさ。エンケンちゃんに頼まれちゃあ、断れないのよねぇ。
エイミーはそう言いながら助手席側のカナブンのドアを開けて中に入り、運転席側の窓を開けて僕の目の前にグイッと顔を突き出した出した。
この車はあなたたちにあげるけれどね、その代わりに私を楽しませてちょうだいよ。あのエンケンちゃんが認めているんだったら間違い無いわよね? ニコっと笑いながらそう言うと、運転席側のドアを開け、外には出ずに後部座席に移動した。
早く中に入りなよ。取り敢えず今晩は大いに楽しむわよ。なんていうエイミーの言葉に僕たちは顔を見合わせて苦笑いを浮かべるのがやっとだった。
車を運転するのは昭夫だった。僕たちの中で唯一の免許持ちだ。まぁ、この世界には必要にない免許ではあるんだけれど。
あなたたちの家は決まってるのよね? というか余所者のロックミュージシャンはあそこって決まってるんだけどね。それより今日は、もっと楽しいとこに連れて行くわよ!
カナブンを走らせること十分、果てしなく続いているかのような都会を抜け出すことは出来なかった。
僕は後部座席でずっと、左側の外を眺めていた。本来なら物思いにふけって窓にもたれて景色を眺めていたかったけれど、そうは出来ない事情があった。何故だか誰も助手席には座らず、決して広いとは言えない後部座席に中身はガキンチョでも体格は立派な大人が三人の並んでいた。真ん中にはエイミーがいて、僕はエイミーにそっぽを向くなんて真似は出来なかった。
エイミー越しの外の世界は、なんとも汚かった。エイミーの存在がそうさせるわけではなく、建物やそこを歩く人の雰囲気が汚いんだ。僕の故郷だって、都市部は汚らしい。テレビなんかでは綺麗な部分しか映さないけれど、現実の目にはその他の方が多く映るんだ。この世界は、案外普通なのかもと感じた。
街を歩く人々は、みんなが疲れた顔をしている。そして何故だか、年寄りが多い。街を見た感じでは、エイミーは飛び切りの若者だ。
この世界の建物には特徴がない。まるでレゴブロックのようでもあるし、フランスやソーホーの匂いもするし新宿や明洞の雰囲気も感じる。中国系も混じっているってことは、古き良き日本っぽくもあるってことだ。つまりはベトナムっぽいって言うのが僕の率直な感想だった。
この世界もね、昔は良かったんだよね。エンケンちゃんのような楽しい大人が多くてね。それがいつの間にか、つまらなくなっちゃったのよ。街の雰囲気もだいぶんと違ってたのよ。なんて言うかさ、私もだけど、感化されちゃうのよね。ロックスターで居続けるのは、難しいのよ。
エイミーの言葉に、僕は落ち込んだ。エイミーもそうなの? あの頃とは違うの? そんな言葉を飲み込んだ。
そこに車を停めてちょうだい。お楽しみの場所に到着よ。
エイミーの言葉に従って、昭夫は車を停めた。なんだか大きな門型の建物がそこにはあり、車を止めるとすぐに防寒着を着た年寄りが近付いてくる。
この世界は基本的にほんのりと肌寒い。それでもエイミーのようにノースリーブ姿の女性は多く、その上に革ジャンやコートを羽織ってはいるが、短いズボンやスカート姿がよく目立つ。男性に関しても似たようなもので、基本は薄手にジャケット、ズボンは穴が空いていることが多い。
防寒着姿の年寄りは、僕たちにチップを求めた。手持ちのお金はあったけれど、この世界でも通用するのかと困り顔を見せていたら、横からエイミーがどこの国のだか分からないお札を年寄りに差し出した。すると、代わりにナンバーの入った名刺のような顔写真入りのカードを手渡された。
どういうこと? そんな思いを込めた表情を浮かべてエイミーに視線を向けた。
彼はここの駐車係なのよ。お金を払えば車を守ってくれる。それだけよ。あなたたちの国にもいるでしょ? 交通警察? それと同じよ。
なるほど、と感じた。だから防寒着を着ているんだと納得をする。基本的にこの世界の人たちが薄着な理由は直ぐに理解出来ていた。ハートが熱いんだよ。常に燃えている。ただそこにいるだけで体温が上昇していく。このほんのりとした肌寒さは、火照った身体にはちょうどいい。
どこの世界でも同じだけれど、冷たい人間は存在する。そんな人間は、その冷え切った身体を温めるために防寒着を着るんだ。彼らのようにね。
車から降りた僕たちは、荷物置きの空間に無理矢理積み込んでいた楽器を取り出そうとしていた。するとエイミーが、今はそれ、必要ないわよ。なにもロックミュージシャンの楽しみはそれだけじゃないでしょ? そう言った。
僕たちはその言葉に従って荷物ごとの車を防寒着の彼に預けて歩き出した。その建物に入るのかと思っていたら、違っていた。
ここは単なる駐車場よ。目的地はその隣。
そう言ってエイミーが顎で指し示した場所は、まるで交番のような地味な色の箱型の小さな建物だった。入り口はあるけれど、窓がない。なんだかとても無機質だと感じる。その点も交番とよく似ている。まさかここに
好きなだけ楽しんでいいわよ。
入り口に足を踏み入れながらエイミーがそう言う。なにをどう楽しむのか、すぐには分からなかった。
エイミーは私は向こうだからと、右側の奥へと向かって行く。後で合流しましょうね。中に入れば一緒だから。背中越しにそんな言葉聞こえた。
僕たちは訳が分かっていないにも関わらず、取り敢えずはエイミーとは反対側の、左側の奥へと向かった。なんだか暗い空間ではあったけれど平坦な道で、あっという間に明るい光が見えてきた。外から見た建物の外観と、中に広がる空間の大きさが矛盾していることは無視することに決めている。この世界では、そういった常識は通じないと既に学んでいた。
辿り着いた先が脱衣所だとは思いもしなかった。いつそこにやって来たのかは知らないけれど、つい先程来たばかりっていう先客が二人いて、着ていた服を脱ぎ、棚から取り出した水着のような身体にぴったりサイズのズボンとシャツを身につけていた。
僕たちも取り敢えずそれを真似して服を脱いだ。そして目の前の棚を開けてみる。そこにはなにも入っていなかった。仕方がなく脱いだ服を入れて、棚を閉じた。
先客の二人は、その格好で更に奥にある別の空間へと繋がっている入り口向かって行った。僕たちもその後を追おうとしたら、その二人がゲラゲラ笑い出す。
おいおい! その格好で行くのか? 流石にそれはないよ! なんて腹を抱えてその場に膝をつき、床をバンバン叩いた。
ここは銭湯だろ? 裸でもいいじゃんか! 雄太が勝手な想像を元に口にした言葉だったけれど、当然のように僕もそうだと思っていた。
ここが銭湯? まぁ、似たようなものだけど、裸じゃちょっとなぁ? 服をしたっまた棚があるだろ? もう一度開けてみな。それに着替えてからこっちに来るんだな。まぁ、とても楽しいから期待することだよ。
二人は立ち上がり、お互いの顔を見合わせながら時折僕たちに視線を向けてそんな会話をしながらその入り口を超えて行った。
僕たちは自分たちがそれぞれ閉まった棚を開けてみた。するとそこには先客の二人が着ていたのと同じデザインのズボンとシャツが置いてあった。手にしてよく見ると、デザインは同じでも、サイズが人によって違うことが分かる。その色もまた、違っていた。
先客の二人は、明らかに僕たちより背が高く、身体つきも大きかった。自然に会話が出来ていたけれど、きっとエイミーとも違う国の出身なんだと思われる。
先客の二人のシャツとズボンは黒を基調としていた。模様のような箇所がいくつかあり、そこの色が違っていた。一人は濃い灰色で、一人は薄い茶色だった。
僕たちのは三つともがネイビー基調だった。サイズはどれも似ていたけれど、ほんの少し大きさが違う。三人それぞれにピッタリ合うようになっているようだった。色の違いは、僕がエンジで、雄太と昭夫はほんの少しの色味が違う薄い黄色だった。
シャツとズボンを身に纏った僕たちは、ようやく入り口に入ることが出来た。
足を踏み入れた途端に、目の前の景色が広がった。足を踏み入れる前には薄ぼやけてしか見えていなかったその景色に色がつくようにパァッとその世界が浮かび上がったかのように感じられる。
僕は思わず踏み出したその一歩を引いてしまった。
三人が横並びに足を踏み入れていた。雄太と昭夫がどんな行動を取っているかは分からなかったけれど、きっとそうだとの予感はあった。そうなんだ。三人は同じ反応を見せていた。同時に踏み入れた足を、同時に引き戻していた。
真ん中にいた僕は、左右を忙しく見回した。雄太も昭夫も、僕と同じように足を引っ込めていた。そして雄太は左を、昭夫は右を向いていた。
どうする? なんかすっごく楽しそうな場所だったぞ! 三人が同じ内容の言葉を同時に吐き出した。
その一歩を引いた瞬間にその景色が消えてしまったことに、僕たちはどういうわけか驚かなかった。そういうものだと思っていたんだ。この世界に少しずつだけど馴染んでいたということだよ。
再び三人揃って足を踏み入れた。広がるその世界は、大浴場のようでもあり、リゾートビーチのようでもあり、図書館のようにも映画館のようにも感じられた。つまりは最高の癒しの空間だったんだ。しかも、巨大なバーの雰囲気も兼ねていた。
僕は迷わず、本で埋め尽くされている棚が立ち並ぶ一角に近寄ろうとした。
あなたの趣味はそっちかい? 私はあまり得意じゃないんだよね。文字を見ていると、目がチカチカしちまうんだよ。そう言いながらエイミーが近づいて来た。
エイミーの服装も僕たちと同じだった。そのサイズが女性用に変わっているだけで、基本的には同デザインだ。エイミーの色は艶無しの黒だった。
ピチピチの服装は、何故だかいやらしさを少しも感じなかった。身体のラインがくっきりと感じられるけれど、大事な部分は保護されている。赤ん坊の裸以上に自然な姿に感じられた。
好きな本を選んでからでいいから、こっちに来なよ。こっちでゆっくり話でもしよう。
エイミーにそんなことを言われ日が来るとは想像もしていなかった。僕はもっとゆっくり本を選びたかったけれど、適当な一冊を手に取り、エイミーが待つ場所に向かった。
心は急いでいたけれど、足はゆっくりと動かした。時折手に取っていた本に視線を落としながら。
僕は本が好きだ。その体裁がどうであれ、そこに物語があればそれでよかった。その日手にしていたのは、アメリカの酔っ払い郵便配達員が書いた短編集のような詩集のような日記のようなちょっと意味不明な私的な物語だった。しかもそれは、英語の原文だった。けれど僕には難なくその意味が読み取れた。しかも、日本語としてね。
不思議な感覚だけれど、英語は英語にしか見えない。だから僕はその文字を目で追いかける。すると僕の頭には日本語が浮かび上がる。文字としてではなく、音としてでもなく、単なる言葉として。
いい趣味しているじゃない! 僕が手に持っていた本に視線を向けて、エイミーがそう言った。
やっぱりお酒を飲みながらっていうのが楽しいのよね。バーカウンターのような場所に腰を下ろしていたエイミーが、僕に向かってそう言った。
気がついた時には、エイミーの顔がこっちに向いていた。いつから見られていたのか? 妙な気恥かしさを感じながら、エイミーの隣の席に腰を下ろした。カウンター席でエイミーと並ぶ日が来るとは想像もしていなかった。しかも、二人きりで。
そうなんだ。僕は腰を下ろしてようやく気がついた。雄太と昭夫がいなくなっていることに。いつからだろうかと、落ち着きなく辺りを見回していると、ここに入って来た時からよ。とエイミーが言った。あいつらは別の場所に向かって行ったみたいだね。あっちのプールで泳いでるのかもね。
確かに雄太と昭夫ならそうしているかも知れない。あの二人は本になんて興味もないし、可愛い子がいそうな方に足を運ばせるのがらしいっていえばらしい。けれど、未知の場所で僕を一人置いていくなんて薄情だと思ったよ。
ウィスキーでも飲むかい? エイミーにそう言われ、キョロキョロするのをやめた。あの二人なら、探さなくても大丈夫だと思った。すぐに僕を探してこっちに来るだろうって勝手に安心していた。
お酒は好きなようだね。まぁ、そんな酔っ払いの本を読むくらいだから、当然なんだろうけれどね。
好きは好きだけど、死ぬほどには飲まないよ。僕がそう言うと、エイミーは歯をむき出して笑った。
そいつはいい心がけだよ! そう言いながら僕の肩に手を乗せた。それでもどうしようもなくなることがあるんだよ。あなたにもきっと、分かる日が来るわよ。きっとね。
エイミーの言いたいことは分かるけれど、僕は同意も否定もしなかった。ただ運ばれてきたスコッチをストレートで口に運んだ。そして一口で飲み干す。
ここが楽しいのはね、お酒が飲めるからってわけじゃないのよ。色んなものが揃っているってこともあるけれど、それだけでもないのよね。あなたをここに連れてきたのはね、理由があるってことよ。
エイミーはそう言いながらグラスにウィスキー注いだ。あなたはそっちが好みなの? 僕の前にはまた、スコッチがワンショット置かれていた。
私はアメリカ産のウィスキーが好きなのよね。水で割ったこの香りに恋をしているの。何故だろうかね? スコッチは肌に合わないのよね。私には、故郷の味とは呼べないのよね。
エイミーは、グラスを僕の視線に差し出し、あなたがこの世界に来たことに! そう言いながらグラスをゆらゆらと回した。さぁ、あなたも飲みなよ。
どうやらエイミーにとっての乾杯のようなものだったらしい。僕も真似をして、憧れのあなたに出会えたこの日に! なんて言ってグラスをゆらゆらと回した。
静けさの中の騒音は、耳に纏わりつく。聞きたくもない言葉が聞こえてきたり、物音に会話や妄想を邪魔されたり、なんだか少し落ち着かない。
あなたにはまだ分からないようね。落ち着かない理由はなにかしら?
エイミーは僕には視線を向けずに、グラスを持ち上げて琥珀色のウィスキーを見つめている。
ここはね、こういう場所なのよ。洒落た空間ではあるけれど、余計な演出は一切ない。慣れると妙に心地がいいのよね。田舎の夜道を散歩している感覚よ。
そうか? 僕の知っている田舎はこんなに騒々しくはないけれどな。
それって、人が少ないからよね?
人が少ないから田舎なんじゃないの?
そうかしら? 人は少なくても、虫や動物なんかは一杯いるわよ。時期にもよるけれど、結構騒々しいのよね。それもまた、いい心地なのよ。
それと人間のとは違うんじゃないの? 僕はそう言うとスコッチに口をつける。そこはとても不思議なバーカウンターだった。僕が次の一杯を欲するタイミングで、自然と新しいグラスがやってくる。しかも、その時にあった好みのスコッチが注がれている。スコッチといっても、種類は様々で、その味には違いがある。その他のウィスキーも同然なんだけれど、やっぱりスコッチに偏ってしまう自分がいる。
あなたのそういう考えは好きになれないわね。人間ってそんなに特別なの? 虫ケラとの違いってなぁに? あなたが感じる騒音なんて、所詮は虫ケラの囀りなのよ。
エイミーは至極当然なことだとでもいうようにそんなことを言った。今の僕はそれを至極当然だと思っているけれど、この時は違っていた。
とにかく今を楽しんでみたら? ここになにが足りないのかは分かってるんでしょ?
エイミーのそんな言葉を聞いて、僕は改めて考えた。この静けさの原因を。
僕は鼻歌を奏でた。そして気がついた。
音楽がない!
僕たちの世界では、常に音楽が流れている。街を歩いていても、駅のホームでも、どこからともなく微かに聞こえてくる音楽がある。ショッピングモールではそれぞれの店から別々の音楽が聞こえてくる。
それはとても自然なことで、風や虫の音色を感じるのと同じように聞こえてくる音だった。車や工場などからの騒音だって自然な音楽としてこの耳は捉えていた。僕たちにとっては、それが自然だった。
エイミーの言葉を聞くまでは、そうだった。けれど、生まれて初めての音楽のない空間は、初めはとても耳に痛かったけれど、次第にそれが本来の自然な環境なのかも知れないと感じるようになった。
人間だって、自然の一部なのよ。エイミーはそう言う。この騒音も、鳥の囀りみたいなものよ。
だったら音楽だって、自然なんじゃないかって、僕は感じた。僕たちの世界は音楽に溢れていたけれど、それを止めることは可能だった。公園では静かな音楽がそれと知らずに流れていることもあるけれど、住宅街では知らずに漏れてくる音楽が溢れているけれど、人気の少ない夜道や個人の部屋では、音楽を消すことが出来るし、実際にもそんな環境は多く存在している。
音楽って、物凄く自然なものなんだけど、物凄く不自然でもあるのよね。なんていうか、自然の模倣なんじゃないかな? 情景や感情を表現しているんだから、そう考えると当然なんだけどね。いざこうやって音楽を無くした空間にいると、なんだかとても落ち着くのよ。
少しずつだけど、僕は音楽がないことを受け入れ、周りの騒音が鳥の囀りの如く心地よく感じ始めていた。
私たちはね、どんなに偉そうにしていても、所詮はこの世界の一部ってことよ。ここだって、異世界ではあるけれど、人間のための異世界ってわけじゃないのよね。
エイミーの微笑みの理由は分からなかったけれど、僕は頷き、そうだよね、なんて言ったんだ。
なんだかいい雰囲気じゃんかよ!
背後からそう声をかけられた。誰だよ! なんてことを言ったけれど、それが誰かなんてことは明らかだった。その声、その空気、雄太と昭夫しかいなかった。というか、この世界で僕を知っている人間なんて限られている。その時点では。
なんかさ、やっとこの場所のよさに気がついたんだ。僕はエイミーに顔を向けたままそう言った。
これがね、私たちにとっての自然なのよ。はっきり言うけれど、作られた音楽は雑音でしかないの。私の音楽だって、ここでは耳障りよね。ジョンが作る曲だって、自然にはなれないのよ。
ジョン? それって、プールで泳いでいたあのジョン? 雄太が身を乗り出してそう言った。エイミーに向けて顔を近づけながら。
あら、ジョンに会えたの? 初日から会えるなんて、とてもラッキーなのよ。ここには多くのロックスターが顔を出すんだけど、ジョンは滅多に来ないのよね。来ても大抵はプールで泳いでいるから、なかなか誰にも気がつかれないのよ。よく分かったじゃない? ジョンのあんな姿、普通はちょっと想像がつかないんじゃない? エイミーの言葉に、雄太が頷く。
後にだけど、プールで泳ぐジョンの姿を見たときは驚いたよ。ジョンにそんなイメージはないからね。ジョンが水泳が得意だってことは噂では聞いたことがあるけれど、誰も信じていなかった。まさかジョンがバタフライをするとは驚きを超える衝撃だった。
あなたもちょっとばかりお散歩してみる? ここではね、ふらふら散歩するのも楽しいものよ。音楽が邪魔をしない分色んな音が耳に入ってくるし、色んなものが目につくのよ。あなたがお望みの出会いだって多いはずよ。
エイミーにそう言われ、僕は席を立った。代わりに雄太が空いたその席に座った。するとエイミーが立ち上がる。両手にビール瓶を持ちながら。
あれ? 行っちゃうんですか? なんて雄介が間抜けな声を出す。そりゃあそうでしょ! 兄貴と飲んでも楽しくないからね。なんて言いながら昭夫はエイミーが空けた席に腰を下ろした。
ちょっと散歩してくるから、そこで待っててよ。エイミーはそんなことを言いながら笑みを浮かべ、雄太と昭夫に手を振った。