「そうだ、賢人。私さっき、廊下であなたのご両親に会ったわよ。」

「えっ!」

必要以上に驚く態度が、私をまた不安にさせた。

「……どうして、そんなに驚くの?私が、賢人のご両親に会ったって、何もおかしい事はないじゃない。」

「あっ、うん。」

何かを隠しているかのように、賢人は狼狽えながら、無意味にベッドの回りを、ウロウロしていた。

「何か、言ってた?」

「何かって?」

逆に質問して、賢人の出方を伺った。

「……入院費の事とか。」

「入院費?」

どこかで、拍子抜けした。

「あっ、ううん。何も言ってなかったけれど。」

「そっか。親父もお袋も、珠姫の入院費の事、気にしてたから。」
不安が消えて、また新たな不安がやってきた。

「ごめんなさい。保険会社に連絡しないと。」

「逆にごめん。珠姫のそう言う書類、どこにあるのか分からなくて。とりあえず、僕が払っておいたから。退院したら、ちょうだい。」

「ええ、そうね。」


私は、そんな当たり前の事も気づかずに、そこまでやってくれていた賢人を、どうしてこんなに疑うのか。


「親父やお袋に、口止めしておいてよかったあ。まだ結婚もしてないのに、そんな事相手方の両親に言われたら、治る病気も治らなくなる。」

「はははっ!」


私は自分のバッグの中から、スマートフォンを取り出した。

「そんな怖い方には、見えなかったわよ。私が無事だって知って、涙ぐんでたもの。」
「珠姫に死なれたら、俺は一生独身になる。そうならずに済んでよかった~!って言う涙だよ。」

「ひどい。私の事を心配してくれてたのに。」

「はい、そうでした。」

賢人のユーモアを聞きながら、私は電話帳から、保険会社の名前を探した。

「あっ、あった。これじゃないかな、保険会社。」

「どれどれ?」

電話帳を見せたら、賢人はスマートフォン事、持って行った。

「これ、ちょっとの間、借りれる?違ったら、また電話帳で探してみる。」

「ああ、うん。分かった。」

賢人にスマホを預けて、私はベッドに横になった。


「ねえ、賢人。」

「なに?」

賢人は、布団を被せてくれた。

「私、まだ賢人の事、全部思い出したわけじゃないんだけど……」
「うん。」

「私の婚約者が、賢人でよかった。」


すると賢人は、私の額にキスしてくれた。

「有り難う。僕の方こそ、珠姫が婚約者でよかった。」

嬉しくて、私は賢人の手を握った。

「有り難う。」

賢人の手から、温かい気持ちが、伝わってくる。


「珠姫。」

「なあに?」

私は椅子に座りながら、顔を近づける賢人を、見つめた。

「珠姫は……僕の光りだ。結婚相手に、僕を選んでくれて本当に幸せだ。」


なんて、幸せな瞬間なんだと思った。


「私もよ。」

心から、そう言えた。
入院してから1ヵ月。

松葉杖を付きながらも、日常生活を送れるようになった私は、主治医の先生から、退院を告げられた。


「怪我の方は、回復しておりますので、通院でのリハビリに切り替えてもいいと思います。」

「通院……ですか?」

それは本来であれば、嬉しい事なのだろうが、今の私には、不安しかなかった。

記憶の方はまだ何も、戻ってはいなかったからだ。

「先生、私……まだ記憶が戻っていないんです。」


診察室の中、先生がカルテを書きながら、何気なく聞いてきた。

「なにか、思い出しましたか?」

「いえ……何も……」

「事故の事は?」

「……思い出せません。」

「事故に遭う以前の生活は?」

「思い出せません。周囲からはいろいろ聞いて、自分の事はどんどん知っていきますが、ああ、そうだったと一致する記憶がないんです。」
その事を書いているのか、しばらくカリカリと言う音が、響き渡った。

「記憶が戻らなくても、普通に生活している方は、たくさんいらっしゃいますよ。」


先生が浮かべた笑み。

医者でも、営業スマイルをするのだと、この時知った。

「それとも、もう少しだけ退院を伸ばしますか?」

先生が何気ないその一言が、私にチャンスをくれたのだと思った。

「できるんですか?」

思ってもみない先生からの提案に、私は身を乗り出した。

「そうですね。今のところ病室も、まだ空いていますし。何より身寄りがない方は、申し出が通りやすいんですよ。」

「身寄りが……ない……私が?」

私は先生の言葉に、顔を歪めた。

「……ええ。ご両親は亡くなっていると、伺っています。ご兄弟もいらっしゃらなく、親戚ともあまり交流がないと……」
「それは、誰が言ったんですか?」

先生は、カルテの数ページ捲った。

「家族状況を伺ったのは、津山賢人さんとなっていますね。」

「賢人が……」

「聞いてなかったんですか?」

私は両手を握りしめた。

「まだ、そこまで余裕がなかったものですから。」


私には、両親や兄弟がいない。

思ってもみなかった。


「それは市田さんも、驚いたでしょう。」

「はい……」

それからしばらく、私も先生も、無言だった。

先生のカルテを書く音だけが、診察室に響いていた。

「では退院の事は、ゆっくり考えて下さい。必ず退院してくださいとか、もっと長く入院しろとか、そう言う事ではないのでね。」

「はい。有り難うございます。」

私は先生に頭を下げ、診察室を出た。


私には、家族がいない。

天涯孤独の身なのだと、聞かされたのに、なんだか腑に落ちない感じ。
途端に自分の足元が、透明なガラスになって、その上を危なっかしく歩いているような、そんな感覚を覚えた。

これも、自分の記憶がないからだと、全てを記憶喪失のせいにしたかった。

自分が何者なのか、全く分からない。

これから、どこへ向かうのかも、分からない。

雲の上をふらふら、ふらふらとさ迷うかのように、病室の廊下を歩いた。


「珠姫。具合でも悪くなった?」

賢人に声を掛けられ、我に返った。

「あっ、いつの間に……」

考え事をしていたら、知らぬ内に、診察室から自分の病室まで、歩いて戻っていた。

「だから、僕も付いて行くって言ったのに。」

賢人は私の脇に腕を入れ、ベッドまで連れて行ってくれた。

「どうだった?診察。」

私の顔を覗き込んだ賢人に、今はほっとするようになった。
「日常生活を送れるようになったから、退院しましょうって言われた。リハビリは通院でもできるしって。」

「それはよかった。珠姫が退院したら、僕も仕事に戻れるからね。」

生き生きと話す賢人に、また靄がかかる。


「それとね……もう少し、入院を延ばす事もできますよって……言われた。」

賢人は、動きを止めて、私を見る。

「そうなの?」

私は思いきって、先生に言われた通り、言葉にした。

「私は……身よりがないから、退院を延ばす事もできるんだって。ねえ、本当なの?」

私が賢人を見つめるのと同時に、賢人は私を見る事を止めた。


「……本当なんだね。」

私は、白い掛布団に、目線を落とした。

少し前に、賢人のご両親に会った時。

私にも当たり前に、両親がいるんだと思っていた。