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「おはようございまーす」
「おはよー」

 学生達の気だるげな声が幾つも飛び交う校門の前で、私は一人、遅れを取っていた。立ち竦む私の横を何人もの生徒達が通り過ぎ、足早に校舎へ入って行く。私は、焦る気持ちを落ち着かせるように、深く息を吐いた。

 この高校には、穂波と過ごした思い出が詰まっている。

 錆びついた校門を見上げて、私は目を閉じた。
 共に高校に通ったのは一年にも満たない短い間のことだったけれど、幼い頃から傍にいたことを思えば、ここは彼女と過ごした最後の思い出の地になる。

「……穂波……」

 思わず口に出した彼女の名前。けれど、どれだけ呼んでも彼女の声が返って来ることは二度とない。それをわかっているから、胸が苦しくなる。
 鈍い痛みに支配されそうになるのを堪えて、胸の辺りを拳で叩いた。

「我慢しないと……そうしないと、穂波のお母さんに会いに行けない」

 この門を潜って、校舎に行き、授業を受けて帰るだけだ。大丈夫。
 そう心の中で言い聞かせて、私は他の生徒達に続き、校内へ足を踏み入れた。

「おはようございます」
「っ、お、おはよう」

 校門に立っている教師に向かい、挨拶をすると、躊躇うように挨拶を返された。『私の噂』を知っているからこその態度なのだろうが、気分のいいものではない。それに、問題はここからだ。校舎に行くには、校庭の横を通る必要がある。その時、必ず私は――――悪夢と出くわすのだ。

(お願い、お願い……)

 私は祈りながら歩く。
 だが、その願いは届かない。
 心臓が嫌な音を立てながら、物凄い早さで鼓動を打った。

「っ、あ」

 気がついた時には校庭へ目を向けていて、『あの日』の光景が蘇り始めていた。

「……!」

 私は震える唇を両手で覆って、悲鳴を押し殺す。
 炎天下、私の額にはびっしりと汗が浮かんでいた。首筋を生温い滴が伝う。

 ――――私の目には、死んだ穂波の姿が見えていた。裂傷で埋め尽くされた身体には、季節外れの真っ白な雪が降り積もっている。

 今は、六月だ。雪が降るわけがない。
 これは、私の悪夢だ。

 私は、足元まで広がって来た雪から逃れるようにして走り出した。だが、緊張と恐怖のあまり、足が縺れる。そして、勢いよくその場に倒れ込んだ。雪の感触はまるでない。だが、確かにそれはそこに『ある』。

「穂波――――……」

 私が見ているのは、本当の彼女ではない。だが、最後に見た彼女の姿そのものなのだ。
 倒れ込む私の元へ教師達が駆け寄って来た。彼等は、うわ言のように『穂波』と口にする私を見て、怖気づいたように身を引いた。

「く、桑原さんッ」
「大丈夫? 早く保健室に連絡を!」

 荒くなっていく呼吸。噴き出すような冷や汗。
 私は、自分と同じように倒れている穂波を見て、涙を溢れさせながら、意識を手離した。

 ――――これが、悪夢でないのなら、一体何なのだろうか。

***

「……ッ、ここ、は……?」

 目を覚ますと、真っ白な天井が目に映った。どうやら、ベッドに寝かされている状態らしい。白衣を纏った女性がにこりと笑って、私の顔を覗き込む。

「桑原さん、大丈夫?」
「先生……? ここ、保健室ですか?」
「ええ、運ばれたのは覚えてる?」
「……いいえ」

 私は背中を支えられながら、ゆっくりと上半身を起こした。すると、頬に痛みに似た違和感を覚え、眉を寄せた。

「何か、頬が……」
「あ、それね、倒れた時に軽く打ったみたいなの。冷やして消毒はしたんだけれど、まだ痛むかな? 平気?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございました」

 不意に時計に目を向ける。意識を失っていたのは一時間程度だったようだ。
 私は頬に触れながら、目線を落とす。

 ――――学校へ行く度に見る、あの悪夢のような光景は、穂波が亡くなって以来ずっと見続けているものだ。自分でもどうしたらいいのかわからない。私自身が生み出している幻覚なのだとわかっていても、乗り越えられる方法が思いつかなかった。

「まだ気分が悪いでしょう? お兄さんが迎えに来るまで、もう少し休んでいなさい」
「えっ」

 私は目を見開いた。指先がカタカタと震え出す。

 今、何て。まさか、茜に――――。

「あ、兄に連絡したんですかっ? 何でッ!」
「え? その……ご両親と連絡がつかなかったから……緊急連絡先に……」
「そんな……どうしよう」

 私は急いでベッドから下りると、床に置いてあった自分の革靴を履いて、保健室を飛び出した。

「桑原さんッ!」

 先生の制止を振り払って、私はそのまま学校を飛び出した。
 ――――眩暈がする。吐き気もある。頬も痛い。けれど、走った。自分が情けなくて嫌になる。

「どうしよう、だめだったって知られたら、穂波の事件に関われなくなる……!」

 歯を食い縛り、立ち止まった。息が乱れて、まともな思考が出来ない。

「……茜さん、今日テストなのに」

 迎えに来られるわけがない。それでも、彼は『来る』だろう。そういう人だ。

「迷惑をかけた……約束も守れなかった……これからどうしたらいいの……?」

 その場でしゃがみ込んで、私はぐしゃっと髪を掴む。考えても、考えても、何も浮かんで来ない。

「……もう行くしかない。このまま、町を出よう」

 私は靄がかかるような思考の中で、駅を目指して歩き出した。