「私達、そろそろ帰るわね」

 綾が佐奈を抱き上げて、そう口にした。私は茜に促されるような形で、佐奈の頭を撫でる。

「佐奈ちゃん、ありがとう」
「鈴葉ちゃんもありがと! また遊んでね!」
「……うん」

 あの日、佐奈が声をかけてくれなかったら、綾と話すこともなかったし、彼女の苦しみにも優しさにも触れることはなかった。私の止まっていた感情が再び流れ出すこともなかっただろう。

「よかった。あなたの近くにあなたを大切にしてくれる人がいて」
「……ありがとうございます」
「また会いましょうね」
「はい」

 帰って行く二人の背中が見えなくなった頃に、私は茜の顔を見上げて尋ねた。

「ねえ、茜さん。何で私が家出しようとしてるってわかったの?」
「え……? だって、今朝、明らかに荷物多かったし……」
「み、見てたのっ?」
「うん。もしかしてとは思ってたけど、まさか本当にやるとはなぁ……ハハッ! 凄いよ、鈴葉! 行動力があるな!」

 茜は呆れたように笑って、私の頭を一度だけ大きく撫でた。

「じゃあ、朝から気づいていたのに、何で今頃……」

 今朝の時点で私が行動を起こすとわかっていたのなら、簡単に阻止出来たはずだ。試験勉強を投げ打って、この時間になるまで動かなかったのは、一体何故――――。

 混乱する私を見て、茜は自分の首筋に手を当てた。そして、私から視線を逸らす。

「迷ってたんだ。このまま行かせてやるべきなのか、それとも引き止めるべきなのかって」
「茜さん……」
「お前がいなくなったら、父さん達はきっと悲しむ。俺だって、辛い。だけど、鈴葉本人が俺達と離れることを望んでいるのなら……そうさせて、あげないと……って」

 消え入る声と共にガリッ、と彼の爪が首の皮膚を裂いた。血が滲む彼のうなじを見て、私は思わずその手を掴む。それでも、彼は、私に目を向けない。

「鈴葉を傷つけたくなくて、今の今までずっと動けなかった」
「わ、わかったから、手を……」
「もう遠くに行ってしまったかもしれないって考えたら怖かったよ」
「茜さんッ」
「俺、まだ迷ってるんだ。どうしたら、鈴葉の為になる……?」
「……茜さん……」

 私が彼の首元に顔を埋めると、ようやく彼の手の動きが止まった。傷ついたうなじを間近で見つめて、唇を噛む。

「血が出てるよ。もうやめて」
「……あ」
「せっかくその癖直ったんだから。ね?」

 私が笑ってそう言うと、彼の手はゆっくりと首から離れた。その様子を見て、私はほっと息を吐く。
 彼は昔から不安になると、首を掻く癖があった。両親が心配になって注意したことをきっかけに気をつけてはいたようなのだけれど、今回、また再発してしまったらしい。
 ――――いや、本当はもっと前から、私のことで悩む度にこうしていたのかもしれない。
 薄く残っている幾つもの傷跡を見つけて、私はそう思った。

「茜さん」

 私は気がつかなかった。

「痛かったよね」

 痛くないわけがない。
 だらんと力が抜けた彼の手首を掴み、私は自分の頬まで持ってくると、彼の爪をぴたりと肌に当てた。そこで、ようやく茜の視線が私に向く。

「鈴葉……?」
「爪を立てるなら、自分じゃなく、私にして」
「な、何言って……そんなこと出来るわけないだろ。したくもないっ」
「茜さんが私と逆の立場なら、きっと迷いなくこうするくせに」
「そ、れは」
「……意地悪言って、ごめんね」

 私は、馬鹿な妹だ。今まで彼の苦しみに気づきもせず、自分の傷に精一杯で、逃げてばかりでいた。彼は、私の為に何度も何度も歩み寄ってくれたというのに。

「今までごめんなさい、茜さん……」
「謝るのは俺の方だ。結局、俺の我が儘でお前を引き止めた……」

 私は彼の言葉を否定するように首を横に振った。

「我が儘なのは、私だよ」

 彼が傷ついていると、私は泣きそうなほど辛い。
 言葉に表せない感情が、ゆっくりと溢れ出して、脳をぐるぐると回っていく。
 この気持ちは、何なのだろう。

「――――いいのか? お前を連れて帰っても」

 彼の縋るような眼差しを見て、私はぐっと拳を握り締めた。

「連れ戻しに来たんじゃなかったの?」
「鈴葉が嫌なら我慢する。もう迷わない。だから、安心してお前のしたいようにしていいよ」

 茜は優しく笑って、私から手を離した。堪えるような彼の笑顔を見て、私は奥歯を噛み締める。そして、躊躇うことなく彼の手を掴んだ。

 私がしたいことをしていいのなら、やるべきことはもう決まっている。

「……馬鹿」
「えっ?」
「馬鹿ッ」

 握った手に力を込めて、私は茜を睨みつけた。そんな私に彼は戸惑いの笑みを向ける。

「す、鈴葉? ちょっと痛いぞ?」
「結局、勉強はどうしたんですか! 明日テストでしょ!」
「おい……どうしたんだ、急に……」
「私のしたいようにしていいって言った!」
「だからって怒るなよ!」
「怒るよ! だって……だって、茜さん、いつも私のことばかりじゃないか!」

 言葉の勢いのままに、彼の胸倉に頭突きを食らわせると、さすがの茜も笑みを崩して、低く呻いた。

「ッたぁ……お前なぁ……」
「私の為に自分を犠牲にしないでッ!」

 私はそのまま彼の背中に手を回して、強く抱き締めた。私の行動に驚いたのか、茜の体が跳ね上がる。それでも私は彼の体から離れなかった。

「そういうの嫌だよ、私」
「すみま、せん」

 ぎこちない彼の謝罪を聞いて、私はゆっくりと微笑んだ。そして、覚悟を決める。

「茜さん、お願い」
「え?」
「もうここから先は、私の為に悩まないで……私のことは構わず、茜さんは茜さんの毎日を過ごしてくれないかな?」

 私のように過去に囚われて、過去を過去とも認められないような毎日を過ごしてほしくない。

「あなたは、桑原茜としての今をしっかりと生きてる。でも、私はまだその勇気がないんだ」

 彼は長い時間をかけて、実の両親の死を乗り越え、桑原家の一員になろうと努力を積み重ねて来た。勉強も運動も一切手を抜かず、周囲に馴染もうと全力で日々を過ごしている。今でもきっとそうなのだろう。その姿は、私から見ても立派で、かっこいい。

「だから、置いて行って」

 彼は、私の言葉を拒絶と捉えたのか、私から一歩身を引くと、眉根を寄せた。

「放って置けってことか?」
「うん。でも、これは拒絶じゃないよ。傍にいてくれる人がいるって、今はちゃんとわかっているから」

 私は、もう目を背けたりしない。茜からも、真実からも。

「だから、帰らない」
「鈴葉……」
「数日だけでいい。私に時間をちょうだい」

 彼を傷つけたくない気持ちは本当だ。私が彼から距離を取る度に不安にさせているのもわかっている。だが、それでも私は、彼女の死の真相を知るまでは、一歩も前へ進めないのだ。

「私はどうしても知りたいの」

 そう告げると、茜の表情が強張った。私が何を言おうとしているのかわかったのか、彼は唇を固く閉じ、私の言葉を待った。

 ――――大切な人を失って、毎日が地獄のように感じ、それでも尚、私が今でも生き続けている理由は一つだけだ。

「何をしてでも、真実が知りたい。私の親友が――――穂波が殺された理由を」

 茜の瞳を真っ直ぐに見据えて、私は失った親友の名を口にした。