「私と父の連絡先を登録しておきました」
「ありがとう」

 私にとっても、綾にとっても、これが最善だろう。

「こちらこそ、ありがとうございました。じゃあ、その……さような――――」

 別れを言いかけて、やめた。
 私は、今更気づいたのだ。

「佐奈ちゃん……?」

 少女の姿が見えないことに――――。

「佐奈ちゃんッ!」
「! なッ、佐奈! どこなのッ!」

 佐奈の姿がどこにも見当たらない。私の様子を見て、綾も気がついたのか、慌てて辺りを見回し始めた。私は目を見開いて、胸の辺りを押さえる。

「っ、どうしよう」

 いつからいないのかもわからない。私のせいだ。私が、綾と話をしていたから。一体、どこに行ってしまったのだろう。まさか、公園の外に――――。

「私、外を探して来ます! 入れ違いになるかもしれないから、綾さんはここで待ってて!」

 そう叫んで、私は公園の外へ出た。その時だった。横断歩道の向こう側から、こちらへ歩いて来る二人組の姿が目に映った。一人は、佐奈とよく似た背格好をしていて、もう一人は――――。

「――――あ、佐奈ッ!」

 後ろから、綾が叫んだ。そして、私の隣に並ぶと、横断歩道を渡って来る二人組に向かって、手を振った。

「よかった……! でも、佐奈と一緒にいるあの『男の子』は誰かしら……?」

 ほっとした表情を浮かべながら、綾はそう呟いた。私は、佐奈の隣にいる人物を見て、拳を握り締める。一歩ずつこちらへ向かって来るその男を見て、私は呆然と立ち尽くした。

「佐奈ッ!」
「ママー!」

 佐奈は男と繋いでいた手を離して、綾に飛びついた。どうやら、佐奈は、状況を理解出来ていないらしい。綾は、長い溜め息の後に満面の笑みを浮かべる佐奈の額を叩いた。

「勝手に公園から出たら危ないじゃない! 心配したのよ!」
「……ごめんなさい」

 佐奈は涙目で綾の首に顔を埋めた。綾はそんな彼女を抱き上げると、男に顔を向けた。その目は、少し疑いの色を浮かべているようにも見える。男はその視線に気づくと、少し気まずそうに笑みを浮かべた。

「えっと、この子、道路の傍で転んじゃってて……それで、迷子かもと思いまして……」
「お兄ちゃんがジュースくれてね、うさちゃんの絆創膏貼ってくれたの!」

 佐奈の言葉を聞くと、綾は慌てて男に向かって頭を下げた。

「そうとは知らず、ごめんなさいッ! ありがとうございました!」
「いいえ、気にしないで下さい。それにお礼を言うのはこちらの方ですから」

 そう言って、男が綾に微笑んだ。困惑する綾に男は言葉を続ける。

「もう少しで手遅れになるところだった。そのつもりだったんだろ?」

 男の視線が私に向けられた。私も、彼の瞳を真っ直ぐに見返す。すると、綾は私と癖毛の男を交互に見比べてから、口を開いた。

「もしかして……鈴葉ちゃんのお知り合いですか?」
「鈴葉、お前が言うんだ。俺がお前の何なのか、きちんと言葉にしろ」
「…………」
「言えないなら、この場で父さんに電話する」

 彼の言葉は、厳しい。けれど、声は優しいままだった。
 私は、小さく唇を開いて、呟く。

「――――この人は、私の兄です」
「……携帯の電源は切るなよ、頼むから」

 茜は、ほっとしたような声で、そう言った。

 茜が来た以上、私は家に帰ることになるだろう。私の目的は、果たせないまま。

 綾は、私のか細い声を聞くと、すぐさま茜に向き直り、私を庇うように前に立った。そんな彼女の背中を見て、私は目を丸くする。

「綾さん――――?」
「あなた、本当にこの子のお兄さんかしら」
「はい、桑原茜と申します。妹がお世話になったようで……」
「あまり似てないのね」

 綾にそう言われ、茜は私をちらりと見ると、一拍置いてから笑った。

「……そう、ですね」

 今まで聞いたことがないような彼の声に、私は目を見開いた。胸の奥が、ずしん、と重くなるのを感じて、私は綾の腕を掴む。

「あ、兄ですッ! 本当に、私の……!」
「す、鈴葉ちゃん?」
「本当なんです! この人は、茜さんは、私の――――」

 違う。私が言いたいのは、そんな言葉の繰り返しではなくて、本当は。

「私の、『家族』なんです」

 血が繋がっていなくても、彼は、私の――――たった一人の兄だ。
 そう口にした瞬間、私は気づいた。

 彼は、今まで私に家族という言葉を何度も言い聞かせて来た。だが、私は、彼に一度でもその言葉を返してあげたことがあっただろうか。彼が家族との繋がりをとても大事にしていると知っていながら、私はずっと彼にこんな顔をさせていたのだろうか。

「鈴葉……」

 彼が私にゆっくりと手を伸ばす。

「俺は大丈夫だから、そんな顔しなくていい」

 それは、私が彼に言うべき言葉だ。
 私は、茜にそんな――――泣きそうな顔はしてほしくない。

 私は、彼が伸ばした手を自ら掴んだ。口に出来なかったその言葉を温度で伝える。すると、私と茜の様子を黙って見つめていた綾が静かに目を伏せた。

「ごめんなさい、私が悪かったわ。無神経なことを言ってごめんなさい」
「俺は平気です。妹を心配して下さったんでしょう?」
「ねえ! お兄ちゃんは、鈴葉ちゃんのお兄ちゃんなの?」
「ん?」

 母親に地面へ降ろされた佐奈が何故か仁王立ちで茜を見上げていた。

「どうなの?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、佐奈に鈴葉ちゃんちょうだい!」
「ええー?」
「さ、佐奈ちゃん……?」
「あらら……」
「ちょうだい!」

 どういった感情からその発想が生まれたのかはわからないが、私は何とか頭の中で言葉を繋ぎ合わせ、彼女を宥めようとした。だが、その前に茜が佐奈と目線を合わせた。

「鈴葉は俺の大事な人だから、誰にもあげられないんだ。ごめんな」

 『大事な人』――――。彼の言葉を聞いて、私は思わず息を呑んだ。
 今まで、彼から何度も聞いてきた言葉のはずなのに、今は不思議な感覚がする。少しの緊張と共に言葉が静かに心に染み渡っていくようだ。

「んー、わかった。大事にしてね」
「うん、大事にするよ」

 佐奈はあっさりと諦めて、私にへらっと笑いかけた。幼い子供の考えは、突拍子がなさ過ぎて、よくわからない。

「鈴葉ちゃん」
「はい?」
「……いいお兄さんね」

 綾の言葉に、私はただ頷いた。