あの時、佐奈には私がどんな風に見えていたのだろうか。

「当時のこと、あの子はよく覚えていないかもしれないけれど、私と夫にとって佐奈は唯一の希望だった」
「……私、は」
「あなたにもきっとあるはずよ。そうでなければ、あなたを置いて行くわけがないもの。あなたのような優しい子を一人にするわけがない」
「ッ、う」
「私はそう思うわ」

 再び、止まっていた涙が流れ出した。感情を堪えることが出来なくなった私のことを、綾は包み込むように抱き締めた。

 あの子は私を置いて行ったりしない。私も彼女を置いてはどこにも行かない。私達は、今も見えないところで繋がっている。それなのに、この寂しさが埋められない。私にとっての希望は、今も変わっていないはずなのに。

「私は、鈴葉ちゃんのこともその子のこともまだよく知らないけれど、でも、わかることもちゃんとある。あなたは、いつか必ずその子のことを笑顔で思い出せる日が来るわ。だから、鈴葉ちゃん……あなたは絶対に大丈夫」

 綾の言葉を聞いた瞬間、私の脳裏で、喪服を着た癖毛の少年が口を開いた。

『鈴葉、大丈夫だ。絶対に大丈夫だから、俺と一緒に会いに行こう』

 彼女を失った現実に耐え切れず、葬儀にすら行けなかった私に彼はそう言った。彼だけが私を連れて行こうとしてくれた。だが、当時の私は、彼が差し出してくれた手を拒絶したのだ。あの時の私は、彼の優しさを何一つわかっていなかったから。

「……怖いんです。あの子以外の希望を見つけてしまったら、私は……きっと、悲しむのをやめてしまう」

 少しでも早く、その希望に縋りつこうとするはずだ。私は、弱い人間だから。だが、それは彼女の死を認めるということだ。彼女の死を受け入れるということだ。

「そんなの嫌……置いて行きたくない」
「そうね……辛いことだわ」
「あの子は、まだ死ぬべきじゃなかったんです……」
「……ええ、きっとそうよ」

 人の死を簡単に受け入れることが出来るのなら、人間に感情なんていらなかった――――。

 綾が泣きじゃくる私の背中を撫でる。
 胸が痛い。悔しさと悲しみで、心臓が押し潰されそうだ。私は何故、あの子を失ってまで、生き続けているのだろうか。どうして私は、彼女と一緒にいられないのだろうか。この悔しさを、怒りを、何にぶつけたら前に進めるのかわからない。

「鈴葉ちゃん! 鈴葉ちゃん、どうしたのっ! 泣いてるのっ? どうしてっ?」
「ッ、佐奈、ちゃん……」

 私はベンチから降りて、その場に屈んだ。狼狽える佐奈と同じ目線になり、彼女の頬を撫でる。

「大丈夫だよ、驚かせてごめんね」
「けど、けど……」
「悲しいことを思い出したの。でも、佐奈ちゃんが来てくれたから、少しだけ大丈夫になったんだ」
「本当に……?」
「うん」

 この子は、優しい子だ。私の悲しみを見抜いて、声をかけてくれた。こんな小さな子供が何歳も年上の私を心配してくれた。これ以上、この子には心配をかけたくない。
 力を振り絞って、私は笑ってみせた。すると、佐奈は小さなその手を私の頭に向かって伸ばして来た。ぎこちない手つきで、一生懸命に私の頭を撫でる。

「いい子、いい子。鈴葉ちゃん、偉いねぇ。頑張ったね!」
「……!」

 まるで、母親が子供にするかのように温かかった。子供のすることなのに、私は堪え切れなかった涙を零して、唇を噛む。
 私は、自分を取り巻く全てから逃げ続けているのに、佐奈には、こんな私が頑張っているように見えるのか。

「鈴葉ちゃん、顔を上げて」
「えっ、う、わわ」

 突然、綾にハンカチで目元を拭われる。彼女に促されて公園の時計に目を向けると、もう十八時を過ぎていた。

「こんな時間か……」

 そろそろ、茜も気づいた頃だろうか。電源を落としている私の携帯には、きっと彼からの通知が山ほど溜まっているのだろう。

「お家の人が心配するでしょう? ごめんなさいね、こんな時間まで」
「いいえ、いいんです」

 茜は明日から試験を控えている。さすがに今日は私を探しには来ないはずだ。
 私がベンチに自分のリュックを取りに行くと、綾が訝し気な視線を向けてきた。

「な、何ですか?」
「いいわけないでしょう。お家まで送らせてちょうだい」
「い、いや! それはちょっと……」

 急いでリュックを背負って、綾から距離を取る。彼女は、焦り始めた私の顔をじっと見つめると、何かに気づいたように目を見開いた。

「す、鈴葉ちゃん? もしかして、あなた……『家出』するつもり、じゃないわよね……?」
「――――まあ、そんなところですかね」
 
 私は諦めて、苦笑いを浮かべた。すると、綾は静かに私の手を掴み、首を力強く左右に振った。

「だめよ。大人として、未成年のあなたをこのまま行かせられないわ。家を出てどこへ行くつもりなの? 高校生でしょう、あなた」
「一応、数日で帰る予定なんですけど……」
「えっ?」

 私は綾に笑いかけてから、ゆっくりと手を解いた。

「家族には内緒で行きたいところがあるんです」

 やっとの思いで見つけた手がかりだ。逃すわけにはいかない。あの子の為にも。

「だから、このまま行かせてくれませんか?」
「それなら、あなたと保護者の方の連絡先を教えて」
「そ、それは……」
「勘違いしないでね。止める為じゃないのよ」
「え……」

 綾は自分の携帯を取り出すと、私に向かって差し出した。

「あなたが行った後、私があなたのご家族に連絡を入れるわ」
「綾さん……」
「毎日、必ずご家族に連絡を入れなさい。いい?」

 てっきり、阻まれるものだと思っていた。何故、彼女は出会ったばかりの私にここまでよくしてくれるのだろうか。

「綾さんは、どうして私を助けてくれるんですか?」
「……わかるから。鈴葉ちゃんが必死なことが」
「それだけ……?」
「そうよ、それだけよ。だから、何も気負うことはないの」

 綾は、私に気を遣わせないようにそう言ってくれたのだと思う。だが、『あの事件』のことを知ったら、きっと彼女は――――私と出会ったことを後悔するだろう。だから、綾とも佐奈ともここで終わりだ。

「……ありがとうございます」

 私は、胸の内に浮かんだ言葉を呑み込んで、彼女から携帯を受け取った。そして、でたらめに打った番号を連絡先に追加し、彼女に返した。