「鈴葉ー!」

 母の声が一階から聞こえて来た。足音を大きく鳴らして、階段を駆け上がって来る。

「ちょっと! 何回も電話したのよ! 面接延期になっちゃったじゃない! って……あなた……お父さんの部屋で何してるの……?」
「お母さん……」

 私は抱き締めていたノートを母に差し出した。母は目を見開いて、それから、泣いている私の前に座り込んだ。

「……知ったのね」
「どうして今まで隠してたの? 殺人犯の息子だって関係ない! 何で戸籍に入れないのよッ」
「茜の希望だから」
「えっ……?」

 母は私からノートを受け取ると、懐かしそうに目を細めた。

「殺人犯の息子を養子になんてしたら、何をされるかわからないって。でもね、あの子……違うのよ」
「違うって……何が?」
「あの子は両親を殺されていることになってるの」

 母の言葉に違和感を覚えた。

「殺されていることに、って……じゃあ、本当は?」
「それは私にはわからない。知ってるでしょ? お父さんは仕事を家庭に持ち込まないから」

 なら、全てを知っているのは、父と茜の二人だけ。

「茜を連れて来たのはお父さんよ。でも、私もあの子を引き取りたいと心からそう思ったわ」

 母は私の手を握ると、そう言った。彼女は本当に茜を大切に思ってくれている。

「……鈴葉。戸籍の件は、今でも私とお父さんで茜を説得してる。あの子を本当の意味で家族として迎える為に。今は、本当の桑原茜じゃないけれど、いつかきっとそうしてみせる」

 母の言葉に私は強く頷いた。

「このノートはあなたが持っていて」
「で、でもこれは……」
「あの子の苦しみを半分だけ背負ってあげてくれない?」
「お母さん……」
「茜を大切だと思うのなら、お願い」
「……わかった」

 私は母からノートを受け取って、立ち上がった。
 私と出会う前の茜の苦しみが綴られたノートを私が持っていることで、過去の彼が少しでも安心出来るのなら、それがいい。

***

 その日の夜、私は茜の部屋の扉を叩いた。

「茜さん、ちょっといい?」

 ガチャッと音が鳴って扉が開く。お風呂から上がったばかりなのだろうか、髪が濡れていた。

「もう……ちゃんと乾かさないからくるくるになるんだよ」
「乾かしてもくるくるなんだが」
「しょうがないなぁ……私の部屋に来て」
「えっ」
「髪、乾かしてあげる」

 彼は戸惑いつつも、私の後ろについてきた。私は扉を開けて、彼を部屋の中へ招き入れると、ドライヤーのコンセントを差して待ち構える。そして、私の前に座るように促した。

「さ、座って下さい」
「は、はい」

 もう既に癖が出始めている彼の髪にそっと触れて、ドライヤーの電源をオンにした。彼の髪を乾かしながら、私はノートのことを思い出す。

「ねえ、茜さん」
「ん? ちょっとよく聞こえない」

 だが、私はそれでもよかった。

「……あなたが桑原茜じゃなくても私は好きだよ」

 たとえ、彼が何者であっても私の気持ちは変わらない。

「……鈴葉」

 ドライヤーを握る私の手を掴んで、彼はくるりと振り向いた。そして、電源を落とす。

「今のどういう意味?」
「聞こえてたの……?」
「どういう意味だよ。何かあった?」

 彼はいつも私のことを心配してばかりだ。
 私は彼の手からドライヤーを奪い返すと床に置いた。そして、彼の手を握る。

「あなたを茜にしたのは私でしょ」
「思い、出したのか?」
「……あなたがどこの誰でもいい。誰の息子でも構わない」

 私がそう言った瞬間、彼の瞳が揺れた。

「鈴葉……まさか、知ってるのか……?」

 やはり茜は隠しておくつもりだったらしい。あれほどの傷をたった一人で背負い続けられるはずがないのに。
 彼の頬に手を添えて、私は静かに唇を開いた。

「知ってる。知ってて言ってるの」
「…………」

 彼は私の言葉を聞くと、拳を握り締めた。

「茜さん……」
「――――俺は両親を殺された。でも、本当は違うんだ。殺されたのは母さんで、殺したのは俺の父親だ」

 彼は、感情のない低い声で呟くように話し始めた。

「目の前で母親を刺されて、俺はその時逃げたんだ。すぐに戻ったけど、その時にはもう……全部、終わってた……」
「やめて、無理に話さなくていい」

 私は茜の頭を包み込むように抱き締めた。
 ――――違う。彼にこんな顔をさせたかったわけではない。私はただ伝えたかっただけだ。

「聞いてほしいんだ、お前に」

 彼は私の胸の中でそう言った。私は口を噤んで、彼の言葉を待つ。

「父親に母親を殺されて、その時の俺は何も考えられなかった。だから、警察が来た時に犯人を見たかと聞かれて、嘘を吐いた。父が殺したとは言えなかった」

 彼の声が段々と震えていく。

「その後、刑事が言った……犯人に父さんも殺されたって。でも、俺は、それが間違ってるって気づいてたんだ。だって、母さんを殺したのは父さんだから。でも、俺は言えなかった」

 彼の話を聞いている内に、私は気づく。この話に似た事件を私は最近耳にしたはずだ。
 私の様子に気がついて、茜が私から顔を離した。そして、俯いたまま、告げる。

「――――俺は、九年前に関西で起きた連続殺人事件の最初の被害者の息子。そして、その犯人の息子だ」

 私は目を見開いて、目の前の茜を呆然と見つめた。
 母親を殺され、犯人が『男』だったと証言した子供。それが、茜――――。

「俺の父親は死んでない。母さんを殺して逃げたんだ。自分が死んだことにして、その後も犯行を繰り返し、消息を絶った……」

 彼の話が本当ならば、私の親友を――――穂波を殺したのは、逃亡を続けている茜の実の父親だということになる。
 私から穂波を奪った男と目の前の彼の血が繋がっているだなんて、信じたくない。

「茜、さん」
「ごめん、鈴葉」

 茜は震えていた。私の顔を真っ直ぐに見ることも出来ずに。

「俺のせいで、殺されたのかもしれない。俺がお前と関わったから……俺がこの家に来たから……」

 彼は自分を責めながら、私から後退った。

「ごめん、鈴葉……俺を恨んでくれ……ごめん」

 私が茜の新しい家族だから、彼の父親に目をつけられて、親友を殺された――――。そんな馬鹿な話があるわけない。たとえ、そうだとしても、どうして茜が私に謝る。
 私は、泣きながら震える彼を抱き締めた。

「ッ、鈴葉……?」
「どうして私があなたを恨むの?」
「だって、俺のせいかもしれない……ずっと、怖くて、言えなかった」
「怖くて当たり前じゃない、そんなの」

 私は彼の湿った髪を撫でて、顔を埋めた。

「約束、忘れた? 私は生きている限り、茜さんの家族だよ。何があっても、絶対に」

 それは、私が死んでも果たされる約束だ。

「私が憎むのは穂波を殺した犯人だけ。たとえそれが茜さんの実の父親であっても絶対に許さない。だけど、あなたはこの事件に何の関係もないでしょ。負い目を感じる必要なんてない」
「父親が……母を……他の人も殺したのに……?」
「どうして、その子供が罪を背負うのよ」

 茜に何の罪がある。彼がどんな人間か私はよく知っている。

「茜さんは、桑原茜。私のお兄さんだよ」

 私が微笑んでそう言うと、茜は私に強くしがみついた。私は彼を抱き締め返して、何度も伝える。

「茜さんは悪くない。殺人犯の息子だなんて言わせない。茜さんは私の知ってる茜さんのままだよ」
「鈴葉……ッ」

 私を救った人が泣いている。だから、抱き締める。ただそれだけだ。彼が誰の息子であっても構わない。茜は、私が守る。幼い頃、彼が誓ってくれたように、今度は私が過去から救う。

 彼を誰にも泣かせない。