***
長い橋から見下ろす川は、遠く離れているのに、近いようにも感じた。
「穂波、覚えてる? ここで私があなたを止めたこと」
中学生の頃、いつも明るかった彼女が私の前で一度だけ涙を流したことがあった。理由はわからなかったけれど、私はとても戸惑って、肩を抱くことしか出来なかったのを覚えている。
その日の放課後、彼女はここから飛び降りようとした。
あれ以来、ここへは一度も来ていなかったが、穂波の母親が住む家からそう距離のない場所にあったことを思い出して、久しぶりに訪れてみた。あの日と変わらず、ここは寂しいだけの場所だった。
夕陽に照らされて、水面が眩しく光っている。手を伸ばしたら届きそうで、私はゆっくりと身を乗り出した。
「あの時は、何で穂波が飛び降りようとしたのかわからなかったけど、今は少しだけ理解出来るよ」
耐えられないほど辛くて、笑っていることも、息をしていることでさえも苦痛だったのだろう。今の私のように。
「許して、茜さん」
大切な人を置いて行くしかない。それで、穂波の事件が一歩でも前に進むきっかけになるのなら、私は――――。
無惨に奪われた彼女の未来を取り戻す方法があるのならば、私はきっと、『命』だって差し出せる。
橋の手すりに足をかけたその時だった。
「待てッ、だめだ! 鈴葉ぁあッ!」
――――ああ、やはり。
彼は来て、しまうのか。
私は声の先に目を向けて、微笑んだ。そして、体重を前にかける。
「茜さん、ごめんね」
「すずっ――――」
私は、茜に名前を呼ばれるのが好きだった。
瞳を閉じて、飛び降りようとした私の腕を間一髪で茜が掴む。私は目を開けて、彼を見た。あの日と同じように彼は汗に濡れて、荒い呼吸を繰り返している。
「言っただろ……俺が止めるって……」
彼は、あの日のように私を怒鳴ろうとはしなかった。ただ、必死に私を止めようと泣いている。
私は、首を横に振った。
「茜さん、もうだめだよ。これ以上は止めないで」
「……だめだ」
「お願い……限界なの」
「だめだッ! その答えは間違ってる! わかるだろッ?」
私だってわかっている。茜を悲しませたくなくて、今まで何度もこの考えを振り切ってきた。私には生きてやるべきことがあったから。
――――だが、それが失われてしまったら。
「――――捜査が打ち切られるの」
「え……?」
茜の目が見開かれた。私は構うことなく、淡々と言葉を吐く。
「お父さんからメールが来た」
その後も父からすぐに電話が来たが、私は応答しなかった。
「打ち切りだと……? 明らかに九年前と重なるところがあるのに、どうして警察はッ」
「何の進展もないそうよ」
「は? そんなわけないだろ!」
「家族が望んでいない以上、公開捜査も出来ない。警察もこれ以上動けないんだって」
「……そ、んな……」
「なら、無理矢理にでも動かすしかないでしょう?」
私はホテルに二通の手紙を残して、ここへ来た。一通目は、『遺書』。中身には、警察への進言を書き記したものと凛々子へ向けたものと合わせて二枚。二通目は、茜に向けたものだ。私の死後、遺書をメディアに公開するように頼む為に。
親友の死に居合わせた少女が、捜査の打ち切りに対して無念を綴った遺書を遺し、自殺をしたとなれば、警察も動かないわけにはいかないだろう。きっと、父が終わらせない。相田穂波の事件で死者が二人に及べば、メディアも騒ぐ。
「お前、その為にこんなことを――――ッ!」
「僅かでも望みがあるなら、私は何だってやる!」
「相田さんがお前の死を望むとでも思ってるのか……!」
茜は私を橋の上から引き摺り下ろして、力いっぱい抱き締めた。
「何でわからないんだ……なあ、鈴葉……!」
「……茜さんならわかるの? あの子の死が何だったわかるのっ?」
責めるような私の言葉に彼は首を横に振って、私の肩に涙を落とした。
「どれだけ時間が流れても、前に進んでも、そこに死んだ人はいない。死んでしまったら、もう会えないんだ。相田さんは戻って来ないんだよ」
「そんなことわかってるよッ」
「わかってない! わかってないだろ、お前……何で無理するんだ……? だからそんなに辛いんだろ。苦しいんだろ」
わかっているのに、どうして、私は。
「鈴葉、無理に彼女の死を受け入れなくていい。そんなに傷ついて、疲れ果ててまですることじゃない」
私の顔を両手で包み込んで、茜は言う。
「無理矢理、大切な人を忘れて進んだって辛いだけだ……」
「だって、だって、そうしないと……」
「そんなこと誰がお前に言った! 父さんか? 母さんか? それとも学校の人達か? 俺は言ってないだろッ!」
「ッ」
「俺は、お前に言ってないよ……そんな酷いこと」
そうだ、茜は、私に穂波の死を忘れろとは一度も言わなかった。
「いいか、鈴葉。お前の気持ちを蔑ろにするような言葉は、もうこれ以上聞かなくていい。相手が誰でもだ。たとえ、『お前自身』でも」
「私、自身……?」
「死にたくなんてないだろ?」
私は目を見開いた。線を描くように一筋の涙が零れ落ちる。
私ですら気づいていなかった感情に茜は気がついていた。
「お前が耳を塞ぎたいなら、俺が手を添える。お前が立ち止まりたい時は俺が止めてやる。お前が前に進みたいと望むなら、俺がその手を引く!」
茜の言葉が私の心に足跡を残して行く。再び抱き締められた時には、私は無我夢中で彼の背中に腕を回していた。
「俺の傍にいてくれるなら、お前はどこにも行かなくていい。どこにも行くな……!」
死を選ぶことでしか警察を動かせないような無力な私が。
親友の無念を晴らすことも出来ない私が。
「愛してるんだ、お前を」
人を――――愛してもいいのだろうか。
「大切な人を失う気持ちを知ってるお前が……俺にそんな思いをさせるのか?」
私は涙でぐしゃぐしゃになった顔で『違う』と呟いた。
「茜さん……私、もうやめる。もう、やめたい」
「……うん」
茜はきっと私を責めない。ここで引き返しても、傍にいてくれるだろう。だからこそ、私は。
「何も出来ないと嘆くのは、もう嫌だ……!」
「鈴葉……」
茜は驚いたような顔をして、自分の涙を拭った。私が諦めると思っていたのだろう。
「諦めないよ。私は生きたい。あなたと一緒に」
警察に出来ないことを私がする。誰にも頼れないのなら、私が私を頼ればいい。私は何か手がかりを必ず握っている。だって、私は穂波の第一発見者なのだから。
「もう、こんなことしない?」
茜が縋るように私に尋ねた。
「しない。出来ないよ」
あんな言葉を言われて、死ねるものか。
愛を告げられて死ねる人間がいるのだろうか。
「ごめん……約束、破ろうとして」
「本当だよ……お前、昼間まで寝てたのに、コンビニから戻ったらいなくなってるしさ。おまけに遺書なんて置いてあるし! 本当ふざけるなよ、お前!」
「うん、ふふっ、ごめん」
茜の目尻に残っていた涙を指で掬って、私は笑ってみせた。
「何回も泣かせてごめんね、茜さん」
その時だった。
ザアアアアァァアアッ
「……雨だ……」
茜がそっと呟いた。雨音が耳を打ち、あっという間に私達の身体を濡らしていく。
夕暮れを霞ませるような雨を見つめながら、私は茜と手を握り合う。
「……夕暮れが泣いてるね」
「え?」
少し照れ臭そうにそう言った彼をまじまじと見つめると、あっという間に顔が真っ赤になった。
「いや、だって、ほら! ただの天気雨にしては綺麗だろ?」
「そうだけど……照れるくらいなら言わなければいいのに」
「うるさい……」
茜は、消え入るように私の肩に顔を埋めると、それっきり顔を隠してしまった。
――――愛している。私もいつか彼にその言葉を返したい。返せる日が来るのだと思いたかった。
長い橋から見下ろす川は、遠く離れているのに、近いようにも感じた。
「穂波、覚えてる? ここで私があなたを止めたこと」
中学生の頃、いつも明るかった彼女が私の前で一度だけ涙を流したことがあった。理由はわからなかったけれど、私はとても戸惑って、肩を抱くことしか出来なかったのを覚えている。
その日の放課後、彼女はここから飛び降りようとした。
あれ以来、ここへは一度も来ていなかったが、穂波の母親が住む家からそう距離のない場所にあったことを思い出して、久しぶりに訪れてみた。あの日と変わらず、ここは寂しいだけの場所だった。
夕陽に照らされて、水面が眩しく光っている。手を伸ばしたら届きそうで、私はゆっくりと身を乗り出した。
「あの時は、何で穂波が飛び降りようとしたのかわからなかったけど、今は少しだけ理解出来るよ」
耐えられないほど辛くて、笑っていることも、息をしていることでさえも苦痛だったのだろう。今の私のように。
「許して、茜さん」
大切な人を置いて行くしかない。それで、穂波の事件が一歩でも前に進むきっかけになるのなら、私は――――。
無惨に奪われた彼女の未来を取り戻す方法があるのならば、私はきっと、『命』だって差し出せる。
橋の手すりに足をかけたその時だった。
「待てッ、だめだ! 鈴葉ぁあッ!」
――――ああ、やはり。
彼は来て、しまうのか。
私は声の先に目を向けて、微笑んだ。そして、体重を前にかける。
「茜さん、ごめんね」
「すずっ――――」
私は、茜に名前を呼ばれるのが好きだった。
瞳を閉じて、飛び降りようとした私の腕を間一髪で茜が掴む。私は目を開けて、彼を見た。あの日と同じように彼は汗に濡れて、荒い呼吸を繰り返している。
「言っただろ……俺が止めるって……」
彼は、あの日のように私を怒鳴ろうとはしなかった。ただ、必死に私を止めようと泣いている。
私は、首を横に振った。
「茜さん、もうだめだよ。これ以上は止めないで」
「……だめだ」
「お願い……限界なの」
「だめだッ! その答えは間違ってる! わかるだろッ?」
私だってわかっている。茜を悲しませたくなくて、今まで何度もこの考えを振り切ってきた。私には生きてやるべきことがあったから。
――――だが、それが失われてしまったら。
「――――捜査が打ち切られるの」
「え……?」
茜の目が見開かれた。私は構うことなく、淡々と言葉を吐く。
「お父さんからメールが来た」
その後も父からすぐに電話が来たが、私は応答しなかった。
「打ち切りだと……? 明らかに九年前と重なるところがあるのに、どうして警察はッ」
「何の進展もないそうよ」
「は? そんなわけないだろ!」
「家族が望んでいない以上、公開捜査も出来ない。警察もこれ以上動けないんだって」
「……そ、んな……」
「なら、無理矢理にでも動かすしかないでしょう?」
私はホテルに二通の手紙を残して、ここへ来た。一通目は、『遺書』。中身には、警察への進言を書き記したものと凛々子へ向けたものと合わせて二枚。二通目は、茜に向けたものだ。私の死後、遺書をメディアに公開するように頼む為に。
親友の死に居合わせた少女が、捜査の打ち切りに対して無念を綴った遺書を遺し、自殺をしたとなれば、警察も動かないわけにはいかないだろう。きっと、父が終わらせない。相田穂波の事件で死者が二人に及べば、メディアも騒ぐ。
「お前、その為にこんなことを――――ッ!」
「僅かでも望みがあるなら、私は何だってやる!」
「相田さんがお前の死を望むとでも思ってるのか……!」
茜は私を橋の上から引き摺り下ろして、力いっぱい抱き締めた。
「何でわからないんだ……なあ、鈴葉……!」
「……茜さんならわかるの? あの子の死が何だったわかるのっ?」
責めるような私の言葉に彼は首を横に振って、私の肩に涙を落とした。
「どれだけ時間が流れても、前に進んでも、そこに死んだ人はいない。死んでしまったら、もう会えないんだ。相田さんは戻って来ないんだよ」
「そんなことわかってるよッ」
「わかってない! わかってないだろ、お前……何で無理するんだ……? だからそんなに辛いんだろ。苦しいんだろ」
わかっているのに、どうして、私は。
「鈴葉、無理に彼女の死を受け入れなくていい。そんなに傷ついて、疲れ果ててまですることじゃない」
私の顔を両手で包み込んで、茜は言う。
「無理矢理、大切な人を忘れて進んだって辛いだけだ……」
「だって、だって、そうしないと……」
「そんなこと誰がお前に言った! 父さんか? 母さんか? それとも学校の人達か? 俺は言ってないだろッ!」
「ッ」
「俺は、お前に言ってないよ……そんな酷いこと」
そうだ、茜は、私に穂波の死を忘れろとは一度も言わなかった。
「いいか、鈴葉。お前の気持ちを蔑ろにするような言葉は、もうこれ以上聞かなくていい。相手が誰でもだ。たとえ、『お前自身』でも」
「私、自身……?」
「死にたくなんてないだろ?」
私は目を見開いた。線を描くように一筋の涙が零れ落ちる。
私ですら気づいていなかった感情に茜は気がついていた。
「お前が耳を塞ぎたいなら、俺が手を添える。お前が立ち止まりたい時は俺が止めてやる。お前が前に進みたいと望むなら、俺がその手を引く!」
茜の言葉が私の心に足跡を残して行く。再び抱き締められた時には、私は無我夢中で彼の背中に腕を回していた。
「俺の傍にいてくれるなら、お前はどこにも行かなくていい。どこにも行くな……!」
死を選ぶことでしか警察を動かせないような無力な私が。
親友の無念を晴らすことも出来ない私が。
「愛してるんだ、お前を」
人を――――愛してもいいのだろうか。
「大切な人を失う気持ちを知ってるお前が……俺にそんな思いをさせるのか?」
私は涙でぐしゃぐしゃになった顔で『違う』と呟いた。
「茜さん……私、もうやめる。もう、やめたい」
「……うん」
茜はきっと私を責めない。ここで引き返しても、傍にいてくれるだろう。だからこそ、私は。
「何も出来ないと嘆くのは、もう嫌だ……!」
「鈴葉……」
茜は驚いたような顔をして、自分の涙を拭った。私が諦めると思っていたのだろう。
「諦めないよ。私は生きたい。あなたと一緒に」
警察に出来ないことを私がする。誰にも頼れないのなら、私が私を頼ればいい。私は何か手がかりを必ず握っている。だって、私は穂波の第一発見者なのだから。
「もう、こんなことしない?」
茜が縋るように私に尋ねた。
「しない。出来ないよ」
あんな言葉を言われて、死ねるものか。
愛を告げられて死ねる人間がいるのだろうか。
「ごめん……約束、破ろうとして」
「本当だよ……お前、昼間まで寝てたのに、コンビニから戻ったらいなくなってるしさ。おまけに遺書なんて置いてあるし! 本当ふざけるなよ、お前!」
「うん、ふふっ、ごめん」
茜の目尻に残っていた涙を指で掬って、私は笑ってみせた。
「何回も泣かせてごめんね、茜さん」
その時だった。
ザアアアアァァアアッ
「……雨だ……」
茜がそっと呟いた。雨音が耳を打ち、あっという間に私達の身体を濡らしていく。
夕暮れを霞ませるような雨を見つめながら、私は茜と手を握り合う。
「……夕暮れが泣いてるね」
「え?」
少し照れ臭そうにそう言った彼をまじまじと見つめると、あっという間に顔が真っ赤になった。
「いや、だって、ほら! ただの天気雨にしては綺麗だろ?」
「そうだけど……照れるくらいなら言わなければいいのに」
「うるさい……」
茜は、消え入るように私の肩に顔を埋めると、それっきり顔を隠してしまった。
――――愛している。私もいつか彼にその言葉を返したい。返せる日が来るのだと思いたかった。