本当に偶然のことだった。元は野良猫だったそうだが、彼女が餌をあげている内に、やがて家の中で飼うようになったらしい。彼女は、その猫の写真をよく私に見せてくれた。

「首に穂波とお揃いの青いリボン……それから背中の三日月模様……見間違えるはずがない。世話をする人間がいなくなったから、てっきり野良に戻ったものと思っていたけど……違ったんだ」

 穂波の母親は、娘が世話していた猫を連れて、私達の町を去ったのだ。

「一体、どういう風の吹き回しなのかはわからないけど、そのおかけで居場所を見つけられた」

 穂波が導いてくれたとしか思えない。
 私は胸の辺りに手を当てて、込み上げて来た感情に目を細めた。

「随分、棘のある言い方をするな、お前。娘が飼っていたんだから、連れて行くのは当たり前なんじゃないのか?」
「……当たり前?」

 穂波と母親の関係を何も知らない茜は不思議そうに私を見る。

「娘に関して当たり前のことなんて、あの人にはないよ」

 私は乾いた笑いを漏らして、吐き捨てるようにそう言った。

「鈴葉……」

 私は茜の視線を受け流して、インターホンに触れる。
 朝から夕方までの間、家を留守にしている彼女が帰ってくるのは、恐らく深夜。私は携帯で現在の時刻を確認した。

「まだ午後になったばかりか……」

 当然、母親は不在だろう。だが、それを承知で私はインターホンのブザーを鳴らした。

 ――――応答する様子はない。

「……出ないな。どうする?」
「まだこの時間だし仕方ないよ。一度ホテルに戻って、深夜にもう一度来よう」
「わかった」

 茜のテスト休みは、今日から四日間。明後日には帰らないといけない。それまでに穂波の母親と接触する必要がある。
 私は拳を固く握り締めて、玄関の扉を睨んだ。

 ――――それから、茜と共に軽い食事を済ませて、数時間の仮眠を取った後、私達は再び彼女の家の前までやって来ていた。茜が携帯で時間を確認する。

「一時、か……この時間に本当にいるのか?」
「多分。でも、電気が点いてないからわからない……」
「寝てるのかもな」
「そうかもしれない。でも、とにかく会わなきゃ」

 早く、彼女の母親に会いたい。会って、確かめないと。

「じゃあ、押してみるか」
「うん」

 茜がインターホンのブザーを鳴らした。数秒の沈黙が場を満たす。

「……いない、のか?」

 彼がもう一度、ブザーを指で押し込んだ。それでも、人が動く気配すら感じ取れない。

「いない……? どうして……」

 私は唇に指を当てて、考え込んだ。
 この時間にいないのなら、もっと遅い時間か朝方かのどちらか。ここでこのまま母親が帰宅するのを待っていた方がいいのかもしれない。

「もっと遅い時間じゃないとだめかもな」
「うん。だから、茜さんは一度ホテルに戻って」

 私がそう言うと、彼は不満そうに私を見て、首を横に振った。

「だめだ。俺も残るよ」
「でも、今から朝方まで待つことになるかも……」
「だったら尚更だろ。一緒にやるって決めたじゃないか」
「……うん」

 私と茜は並んで家の塀に凭れかかった。背中に当たる冷たいコンクリートの感触が私の熱くなった頭をゆっくりと冷ましていく。
 私は、きっと、焦っているのだ。母親が再び行方を眩ましていたらと思うと不安で堪らなくなる。

「鈴葉」
「何?」
「相田さんのお母さんってどんな人?」
「……どうして?」
「お前がかなり嫌ってるみたいだから……」

 私は星一つない夜空を見上げて、目を閉じた。

「大嫌いだよ。でも、おばさんもきっと私のことを嫌ってる。私に言いたいこともたくさんあると思う」

 そうであってほしいと望んでいる自分がいるのも確かだけれど。

「――――私は、娘の死のきっかけなんだから」

 生温い風に煽られて、髪が揺れた。私は片手で軽く前髪を押さえると、唇に笑みを浮かべる。

「だって、穂波に約束を切り出したのは私だもの」

 私は彼女の母親に殴られる覚悟でここまで来た。だが、きっとあの人は――――私にそんなことはしない。

「いっそ、怒鳴りつけてくれたらいいのに……」

 そうしたら私は謝れる。彼女が最低の母親でも、頭を下げられるはずなのだ。

「……怒られたいの?」
「どうかな……わかんないや」

 茜は視線を落とした私の頭に手を置いて、乱れた髪を手櫛で整える。その温度に耳を澄ませて、私はもう一度暗い夜空を見上げた。

「茜さん、ちょっとお願いがあるんだけど……」
「うん、どうした?」
「近くにコンビニあったよね?」
「あっ、何か買って来ようか? 喉乾いたよなー」

 さすがにこの蒸し暑さの中では、手持ちの飲料水だけでは限界がある。だからと言って、彼と一緒にここを離れてしまっては母親と入れ違いになるかもしれないし、茜を残して行っても彼では母親の顔がわからない。

「お願いします……」
「うん! すぐ戻るけど、何かあったら電話しろよ!」
「はーい」

 コンビニの方へ走って行った彼の背中を見送って、私は滴る汗をハンカチで拭った。

「もうすっかり夏だな……」

 梅雨も明けて、季節はどんどん先に進んでいく。その内、あっという間に冬が来て、またあの日を迎えるのだろう。
 穂波が死んだ十二月。せめて、その日までに手がかりを一つでも見つけたい。
 そんなことを考えていた時だった。先程、茜が曲がって行った道の角からふらっと人影が現れた。茜にしては、戻って来るのが早すぎる。私は咄嗟に塀の裏側に身を隠した。

 カツン、カツン

 ヒールの音が段々と私の方へ近づいて来る。やがて、ジャラッという金属音と共に影が目の前を通り過ぎた。私の存在に気づく様子もなく、髪を一つに束ねた細身の女は、迷うことなく蔓の巻きついたドアノブに鍵を差し込んだ。
 私は歯を食い縛って、塀の影から姿を現すと、彼女の背後に迫った。そして、口を開く。

「おばさん」

 私の声に女は肩を揺らして、動きを止めた。だが、こちらを振り返る様子はない。私は、もう一度、大きな声で呼んだ。

「おばさんッ」

 女はゆっくりとこちらを振り向いた。彼女は、私を目に映したその瞬間、唇を震わせる。

「……ど、うして……」
「やっと、お会い出来ましたね」
「何であなたがここにるのよ……」

 彼女は静かにそう言った。私は握り締めた拳を開いて、彼女を睨む。
 穂波とよく似た顔立ちの女性。彼女こそ、穂波の実の母親――――相田凛々子だ。