「き、今日ッ? てか、今からかッ!」
「そう。今日から茜さん学校休みでしょ?」
「そうだが……! ちょっと待って! 一時間くらい!」
「無理。三十分」

 半泣きで部屋に駆け込んだ彼を見て、私は大きく欠伸をした。それから、心の中で気合を入れる。

「……絶対に逃がさない」

 穂波の母親には、怒りにも似た感情を抱いている。だって、彼女は、穂波の死から逃げて、娘を置き去りに行方を眩ましたのだから。
 私も部屋に戻り、昨日纏めた荷物をもう一度確認した。その時、壁に飾ってあった写真と目が合って、私は思わずその場に座り込む。高校の入学式の時に撮影した、二人で映る最後の写真――――。

「……おばさんに会いに行って来るね」

 写真の中で、眩しいほどの笑顔を浮かべる穂波に向かってそう言った。

 ――――数十分後、支度を終えてリビングに下りると、珍しく父の姿を見つけて、駆け寄った。

「おはよう、お父さんっ」
「おはよう」
「どうしたの? 朝起きてるなんて珍しいね」
「今日は非番だからね」

 私の父、桑原葉介は、警察署に勤務している。仕事の話を家庭に持ち込む性格ではない為、父の詳しい部署や地位はよく知らないが、見た目の柔らかさのせいか、手錠を持って犯罪者を捕まえている姿など想像も出来ない。

「うん? 何だい?」
「……ふふっ」

 私と同じ薄い茶色の髪に寝癖を見つけて、私は一人で笑った。

「お母さーん!」
「あら、鈴葉。おはよう」
「お父さん、頭に寝癖」
「あらら、だらしないわね」
「夫に向かってだらしないって……」

 眉を下げて悲しむ素振りを見せる父の頭を突然現れた茜が笑う。

「うわ、本当だ! みっともない! それはちょっと公務員としてどうなの? 父さん」
「寝癖だらけの奴に言われたくないよ」
「俺は寝癖じゃなくて癖毛ぇえッ! 腹立つッ!」

 言い合いを始めた父と兄を眺めて、私は母の淹れてくれた紅茶を飲んだ。

「お母さん、休学の件よろしくお願いします」
「ええ、それは安心していいわよ」

 私は、今まで学校に行けなかった理由を茜以外には話していない。だが、母は私の様子を見て、何となく『何か』があったことには気がついているようだった。
 半年前は、父も母も、私にあの事件を忘れるように言い聞かせていた。だが、今は、私の行動を見守ってくれている。

「ありがとう、お母さん」
「いいのよ、そんなこと」

 それが素直に嬉しく思う。

「お金出してあげるから、ストパーかけておいでよ」
「一日で戻る俺への嫌味か?」
「ごめんね、俺、髪で悩んだことないから」
「ほら! 嫌味じゃないかッ! 鈴葉、朝御飯は外で食べよう! もう行くぞ!」

 拗ねた茜に腕を掴まれたその時、父がフッと笑った。

「茜」
「何だよ!」
「わかってはいるだろうけれど、無理はしちゃいけないよ」

 父の優しい声に茜は渋々頷いた。

「ああ、わかってるよ」

 父はそれから私に視線を移すと、手に持っていた新聞紙を置いた。
 
「鈴葉」
「はい、お父さん」
「……茜を頼むね。お前も何かあったらすぐに連絡しなさい」
「……うん」
「何をするつもりなのかは聞かないよ。聞いたらきっと止めてしまうから。だから、お父さんはお父さんに出来ることをするよ。お前の為に」

 あの事件以来、数日前まで口も聞かなかった娘の頭を撫でて、父はそう言った。私は笑みを浮かべて頷く。

「今まで心配かけてごめんね、お父さん。茜さんと行くこと、許してくれてありがとう」

 父は何も言わずに、微笑んだ。
 その後、両親に見送られて、私達は実家を後にした。

***

「この辺りなのか?」
「そうだよ」

 私と茜は古びた商店街を抜けた先にある静かな住宅街まで足を延ばしていた。大きな荷物はホテルに預けてきてある。ここへは、私達の住んでいる町から電車とバスを乗り継いで、二時間以上もかけてようやく辿り着いた。

「静かなところだな」
「……うん」

 聞こえて来るのは、どこかの家から漏れているテレビの音だけだ。一人で娘の死を受け止めるには、最適な環境。だが、彼女がその為にここで暮らしているとは思えない。
 少ししてから、私は立ち止まる。そして、目の前の一軒の住宅を指差した。

「着いたよ」
「ここが、相田さんのお母さんの家……?」

 平屋建ての一軒家。青い屋根のその家は、所々が朽ちかけていて、古びた印象を受ける。

「……ここ、が?」

 茜の瞳は見開かれたまま、止まっていた。私は彼の尋常ではない様子を見て、慌てて手を引く。

「茜さんっ?」
「あ……」
「どうしたの? 大丈夫?」
「あ、ああ、ごめん」

 彼はそう言って、額に浮かんだ汗を拭った。一体どうしたのか尋ねようとも思ったが、彼の瞳を見たら、何も言えなくなってしまった。
 このところ、茜はおかしい。決定的なものは何もないのだけれど、それでも変だと私は思う。
 だが、今は、穂波の母親に会うことが優先だ。
 私は気を取り直して、家のポストに手を伸ばした。

「郵便物が何も入ってない……それにこの埃……多分、数か月は何も投函されてなさそう」
「人が住んでる気配もないぞ。本当にここなのか?」
「うん。一度も会えてはいないけど、それは確かだよ」

 私は蔓の巻きついたドアノブを見て、それから視線を下ろした。

「あれ、見える? 扉の下」
「あー……ペットの出入口?」
「そう。そこに穂波の飼っていた猫が入って行くのを見たの」
「ね、猫っ?」