「あ、茜さ……じゃなくて、に、兄さん!」

 普段は使わない呼び方で、私は茜を制止した。担任以外の教師や他の生徒もまだ大勢残っている。誤解を招かない為にも、ここは兄だということを強調した方がいいだろう。

「もうやめて、私は大丈夫だから」
「俺が大丈夫じゃない」
「それでもやめてほしいの」

 私は、静かに彼に告げる。

「私、ちゃんとわかってるから」

 噂なんて、所詮その程度のものなのだ。誰も本気でそんなことを言っているわけではない。

「もう怒らないで。似合わないよ、それ」
「……いいのか?」
「うん」

 納得のいかない様子で、茜は少し俯いた。苦笑しつつ、私は彼の腕から離れると、肩をとんっと叩いた。

「我慢して。私の自慢のお兄さんなんだから、そのくらい出来るでしょ?」
「えっ」

 勢いよく顔を上げると、茜は私を見て固まった。首を傾けて、私は問う。

「違うの?」
「……え、と」
「出来ない?」
「……出来る」

 そう答えた彼から怒りの色は消えていた。私はにこりと微笑んで、茜に手を差し出す。彼は躊躇いながら、私の手を見つめていた。

「帰ろう、兄さん。ほら、早く!」

 私は、茜の手を強引に握ると担任に向き直った。

「先生、私、休学します」
「はッ? 何を突然――――」
「両親から連絡を差し上げますので、よろしくお願いします」

 私は軽く頭を下げて、それから立ち尽くしている二人の生徒に目を向けた。彼等とは、もう二度と会うことはないだろう。言いたいことは全て茜が言ってくれた。私はただ彼等を軽蔑するだけだ。

「では、失礼します」

 ――――高校には、穂波と過ごした最後の思い出が詰まっている。だからこそ、彼女を殺した犯人が捕まるまではここへ戻るつもりはない。
 茜の手を握ったまま、私はその場にいる全員に背を向けて、歩き出した。

「鈴葉、本当にいいんだな?」
「うん」

 学校を出てから暫く歩いた後、茜が口を開いた。私は短く答えを返してから、通学路にある河川敷を見て、目を細めた。ここで彼に怒鳴られたことを思い出して、私はそっと視線を落とす。
 ――――私は、あの場所で茜への想いを自覚した。

「茜さん、ちょっと寄って行きませんか?」
「ん、いいよ」

 私達は手を繋いだまま、芝生の上に腰を下ろした。暫く川の流れを見つめた後、私はゆっくりと口を開く。

「茜さん」
「何だ」
「……ありがとう」
「んー?」

 呆れたように笑って、茜は私に顔を向けた。

「何だよ、またか?」
「だって、私の代わりに怒ってくれたでしょ?」
「お兄ちゃんなんだから、当然だろ?」
「ううん、当然なんかじゃない」

 優しさが当然なわけがない。

「あなたがくれる優しさは、無条件に貰っていいものじゃないんだよ。それくらい、私にだってわかる」
「鈴葉……?」
「一生感謝しても、きっと足りないね……」

 彼は、私の人生を変えたのだ。どれだけ感謝を伝えても足りない。

 ――――たとえ、私の知る茜が彼の全てではなくても。

 私は彼への恋情を呑み込んで、目を閉じた。そして、静かに瞳を開けると、彼の頬に触れる。

「だからね、私……今、ここで茜さんに約束する」
「約、束?」
「――――茜さん」
「は、はい……」
「私は生きている限り、茜さんの『家族』で居続けます」

 茜が桑原家にやって来た時から、こだわっていた言葉。彼にとって重要なキーワードを口にした私に彼は疑問の眼差しを向けた。
 何故、今それを言うのかと言いたげな瞳で茜は私を見ている。

「何があっても、絶対だよ」

(伝われ、伝われ、伝われ)

 茜を信じる私の気持ちが全部彼に聞こえたらいい。

「誓ったからね。絶対に忘れないで」
「うん……わかった」

 私は、熱を帯びてきた彼の頬から手を離した。すると、茜は引き寄せられるように私に手を伸ばす。それを横目で見て、私は再び口を開いた。

「――――それを踏まえて、聞かせてほしいことがあるの」
「へ……?」

 彼の動きが止まる。私は鋭く彼を見つめて、行き場をなくした彼の手を掴んだ。

「それがどんな答えだったとしても、今の約束は絶対に守るから。だから、嘘偽りなく答えて!」
「……お前に嘘は吐かないよ。俺に何を聞きたいの?」

 本当にこのまま尋ねるべきなのだろうか。もしも、その答えがよくないものだったら――――。
 心に生じた迷いに支配されそうになるのを必死で耐える。

 たとえ、そうだとしても、私は誓った。茜を見捨てたりしない。何があっても、どんな答えでも、彼の隣に居続ける。

 私は困ったように微笑む茜を見上げて、震える唇を開いた。

「どうして、穂波を殺した犯人が『男』だと言ったの?」

 私の質問を聞いたその瞬間、彼の表情が変わった。感情が消えたような目で、彼は虚ろに唇を動かした。

「えっ?」

 彼が混乱しているのは見てわかる。私の質問に戸惑っていることも。だが、それでも私は一歩も退く気はなかった。

「答えてよッ」
「そ、れは」
「警察がどれだけ調べても犯人の性別すら特定出来ていない! それなのに! 何で、茜さんが知ってるの……!」