そこにいるのは、私の悪夢だ。本物の穂波ではない。
 茜に彼女の姿は見えていないはずなのに、まるで本当に穂波がそこにいるかのように振る舞った。
 彼は、私が最後に見た穂波に願っているのだ。私の為に、私の解放を。

「……鈴葉、こっちへおいで」
「っ、ぅっ、っく」

 茜は、泣きじゃくる私の手を掴んで、自分の元へ引き寄せた。私は彼に肩を抱かれながら、半透明に透ける傷だらけの彼女に手を伸ばした。

 私に苦しみを与えて、穂波が楽になるのならそれでもいい。私が穂波の傷を代わってあげられるのなら、その方法が知りたい。

「鈴葉、ここにいる相田さんとお別れをしよう」
「い、嫌だ……そんなこと出来ないッ」
「鈴葉」
「だって……だって、そうしたら……穂波に会えない……!」
「相田さんをこのままにして逃げるのか?」
「ッ」

 それは――――それだけは、絶対に嫌だ。
 私は唇をぐっと噛み締めて、目の前の彼女を見つめた。
 もうこれ以上は一秒だって穂波を苦しめたくない。私の作り出した彼女を、眠らせる。

「……穂波」

 私の声は、涙で震えていた。

「……穂波……」

 消えかけている彼女にぽつりと話し始める。

「……ごめんね、助けてあげられなくて。一人にして……本当にごめんなさい。痛かったよね、怖かったよね。私があの時、遅れてさえいなければ……あなたを一人にしなければ……!」

 ぐしゃっと髪を掴んで、頭を抱えて、私は涙を撒き散らした。

「私は、今も……穂波を助けてあげられない……だって、あなたはもうここにはいないから。ここにいるあなたは私が見ている――――悪夢なんだと、そう思ってた」

 けれども茜は、手を合わせ、花を手向けて、頭を下げた。私の代わりに別れを切り出してくれた。

「……違うよね? ここにいるのは、私が最後に見た穂波だもん。悪夢なんかじゃない。悪夢になんてしないっ」

 腕で涙を拭って、私は精一杯の笑顔を作った。

「私、穂波が大好きだよ。私の親友、私のたった一人の友達……」

 それでも涙が止まらなくて、胸が張り裂けそうなほど締め付けられた。
 この痛みは、切なさは、絶対に消えない。私が穂波を大切に思う証だから。

「あの時、助けてあげられなくて――――……一人にして、本当にごめん。必ず、真実を突き止めるから、だからッ」

 私は茜の手をぎゅっと握った。離れないように、離されないように。

「もう、行くね」

 私は穂波の死を忘れない。彼女の苦しみをなかったことになんてしない。けれども、もう――――彼女の死を叫ぶことはないだろう。

「私、先に行くよ。今度は私が穂波を待つから」

 だから、必ず。

「また、会おうね。絶対だからね。私、ずっと待ってるから。穂波が来るのを、ずっと……」

 もう二度と彼女を待たせるものか。

「だから、ばいばい」

 あの時、言えなかった彼女への最後の言葉を口にして、瞳を閉じた。そして、次に目を開けた時、そこにはもう――――。

 穂波も、白銀の世界も、消えていた。

「穂波……? 穂波……!」

 私は溢れる涙をどこへ向けていいかわからず、隣の青年に凭れかかった。彼は私を抱き締めると、あやすように背中を撫でる。

「茜さん。もう……もう見えない。穂波が……見えないよぉッ」

 会いたくて堪らない。彼女に伝えたい言葉がたくさんある。まだ、ずっと――――一緒に。

「これでよかったんだよ。俺とお前にはやるべきことがあるだろ」
「うん……うんッ」

 ――――相田穂波の死の真相を明かすこと。それが、今の私に残された彼女との繋がりだ。

「鈴葉……もう自分を恨まなくていい」

 彼の言葉に私は勢いよく顔を上げた。

「茜、さん――――……」
「相田さんを助けられなかったのは、お前のせいなんかじゃない。お前のせいだって言うのなら、俺にも責任がある。この場にいる全員に責任があるんだッ!」

 茜の言葉を聞いた生徒達が僅かに息を呑んだ。

「……鈴葉を責められる人間なんていないんだよ……」

 茜は泣きそうな顔で眉根を寄せた。私は、自分の胸に手を当てて、瞳を閉じる。

 ――――そうか。私はもう、私を嘆かなくていいのか。

「悪いのはお前じゃない。相田さんを殺した男が全ての責任を負うべきだ」
「っ、ぅ」
「彼女が鈴葉を恨むはずがないだろ……?」
「っ、ぁ……ッ、ぅう、ぁああッ!」

 茜の胸の中で、私は泣き叫んだ。蘇る穂波との思い出が私の脳裏を満たしていく。

 ――――穂波はあの日、泣きじゃくる私に微笑んだ。最期の力を振り絞って、笑ってくれた。そんな彼女が私を恨んでいるなんて、どうしてそう思ってしまったのか。それは、私が私自身を恨んでいたからだ。穂波を救えなかった自分を憎んで、今日まで生きてきた。それが間違っていた。
 私は私を恨むよりも先に、苦しむ彼女に微笑んであげるべきだった。彼女の死を悼んで、前に進むべきだった。