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 ――――どくん、どくん。

 足を前へ進める度に心臓が嫌な音を立てる。

 ――――ぐしゃ、ぐしゃ。

 足元の『雪』が私の行く手を阻む。

「ッ、はッ、はあッ」

 乱れる呼吸。眩む意識。
 ふらつく私の身体を支える兄が私の耳元で静かに話す。

「鈴葉、大丈夫。一人じゃない。俺がいるだろ。大丈夫だ」

 彼が必死に私を繋ぎ止めてくれている。それがわかっているからこそ、私は意識を保てていた。

「茜さん……」
「うん」
「雪が」
「降ってるのか?」
「……うん。足も、とても重い」

 彼は、校庭の手前で立ち止まってしまった私の肩に手を置いた。

「ゆっくりでいい。少しずつ歩こう。な?」

 彼はそう言ってくれたけれど、私達を遠巻きに見つめる生徒達の視線は鋭かった。嘲るような眼差しが私に向けられる。

「いい加減にしてほしいよね……」
「悪いとは思うけど、俺等、その子の知り合いじゃないし」

 ぼそぼそと話し声が聞こえてきた。茜の耳にも勿論その声は届いているはずだ。だが、彼は、私の手を強く握ったまま黙って彼等の言葉に耳を傾けていた。
 茜の瞳は、静かに濁るような怒りに燃えている。

「警察来て凄かったよね、あれ」
「野次馬かよ、お前!」
「だって、気になるじゃん!」

 私の拳も、かたかたと震え出した。爪が肉に食い込むほど強く握り締めて、私は今にも叫び出しそうになるのを堪える。
 穂波を――――穂波の死を――――どうして、笑い話に出来る。

「あの子が第一発見者だろ? 事情聴取ってやつされたんだっけ?」
「見殺しにしたとか噂になってたよね」
「冬休みに学校で会うなんて怪しいよなー」
「痴情のもつれで殺しちゃったんじゃない? アハハッ!」
「そんな噂もあったよな。じゃあ、あいつが犯人? 怖すぎじゃねー?」
「……俺の妹を犯罪者呼ばわりするな……」

 好奇の視線に晒される私を庇うように立つと、茜は穂波を貶める発言をした生徒達を睨んだ。今にも殴りかかりそうな瞳をして、彼は言葉を続ける。

「この子と彼女の友情を、お前等みたいな馬鹿が理解出来ると思うのか?」

 彼はそれだけ言うと、周囲の生徒達の視線を気にも留めず、私の身体を難なく持ち上げた。

「あ、茜さんっ?」

 雪に足が取られて、まともに歩けそうになかったからか、彼は迷いなくそうした。

「お前の怒りは俺が全部ぶつけてやる。だから、今は、もう少し我慢出来るか?」
「……出来るよ。茜さんがいてくれるから」
「行こう」
「うん」

 彼の足元にも雪は積もっている。だが、彼の歩みを阻むことは出来ない。淡々と倒れている穂波の傍へと近づいて行った。

「穂波……」

 私は、引き寄せられるように手を伸ばした。茜は私の身体をその場にゆっくり下ろす。私は自分の足で雪の上を歩いた。

「……ッう」

 相変わらず、彼女の姿は酷いものだった。無造作に斬りつけられた身体の至るところから血を垂れ流し、純白を真っ赤に染め上げている。
 どうして、彼女は、私の夢の中でもずっと殺され続けなければならないのだろう。

「鈴葉、相田さんが見えるのか?」
「うん、ずっと」
「……どこにいる?」

 私は、穂波に手を伸ばすばかりだった。駆け寄ることが出来ない。
 雪の感触も、鼻腔を満たす鉄錆びの芳香も、あの時と変わらず同じだが、彼女にだけは触れられないとわかっているから。

「……そこで、倒れてる」
「わかった」

 震える私の指が示す場所に膝を突くと、茜は近くの花屋で購入した花束をそっと置いた。穂波の手の上に置かれたそれを見て、私はぽたぽたと涙を零す。
 私は、彼女の葬儀の日、花を手向けることすら出来なかった。そんなこと、許されるはずがなかった。
 茜は、そっと両手を合わせると頭を下げた。それから、ゆっくりと顔を上げる。

「……相田さん」

 彼は、彼女に語りかける。
 私の悪夢に呼びかける。

「君は、幼稚園の頃から鈴葉と一緒にいたね。俺よりも長く妹と一緒にいた……」

 これからもずっと一緒にいられるはずだった。あの日、雪が降るまでは。

「鈴葉を大切にしてくれてありがとう。今まで、本当にありがとう」

 私の代わりに、彼は感謝を口にした。

 ――――私は、穂波が大切だった。今でも、かけがえのない大切な友達。この世にいなくても、会えなくても、この気持ちは変わらない。

「穂波……」

 目が熱い。零れ落ちる涙が止まらない。頬を濡らして、押さえる指を伝って、雪に溶けて消えていく。

「……これからは、俺が君に代わって鈴葉を守ってもいいかな?」

 茜は、雪の上に手を突いた。その瞬間、彼が触れた雪が『溶けた』。

「え……」

 降り続けていた雪が止んでいく。茜と穂波を中心に白銀の世界が薄れていった。その瞬間的な変化に混乱する私をよそに茜は言葉を続ける。

「……君も苦しかっただろう。とても痛かっただろう。でも、鈴葉にその苦しみを与えるつもりなんてないんだろう?」

 私は目を見開いて、震える唇を両手で覆い隠した。

「相田さんはさ、鈴葉を恨んではいないよな。それなら、もう鈴葉を返してくれないか」

 彼はそう言うと、私の悪夢に――――穂波に頭を下げた。校庭の地面に額をつけて、彼は消え入るように言い続ける。

「頼むよ……鈴葉の苦しむ姿は見たくないんだ……」
「……ッ」