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 翌朝、一階のリビングに下りると、朝食の用意をしていた母と目が合った。

「おはよう、鈴葉。ご飯はどうする?」

 穂波が死んで以来、避け続けていた家族とこうして話が出来るようになったのも、茜の尽力があったおかげなのだと思う。
 ふと、昨日のことを思い出してしまい、私は母から目を背けた。
 私が茜に向けるこの感情は、血が繋がっていないとは言え、父や母からすれば気分のいいものではないだろう。

「今日はいらない」
「じゃあ、紅茶を淹れる?」
「……うん、ありがとう」

 母の厚意に甘えて、私はテーブルの椅子に腰を下ろした。リビングにいるのは、いつも早起きの母親の姿だけ。茜はまだ起きて来ていないのだろうか。
 私の瞳は自然と茜を探してしまう。

「お母さん、茜さんは?」
「茜? さっき顔を洗いに行ったわよ?」
「そ、そっか」

 彼への気持ちを自覚してから、私はどこかおかしい。私の生活は何も変わらないはずなのに、心だけが別物に作り変えられてしまったような気分だ。
 兄と顔を合わせることが、こんなにも気まずく感じる日が来るとは思っていなかった。
 大きく息を吐いて、私は母が淹れてくれた紅茶を口に含む。そして、自分に言い聞かせる。
 何も緊張することはないではないか。私のするべきことに変更はないのだから。普段通り、こうして軽い身支度を済ませた後、朝食代わりの紅茶を呑み、家を出ればいい。ただそれだけのことだ。

「鈴葉、お前それだけでいいのか?」
「えっ?」

 洗面所から戻って来た茜が私の隣に座った。そして、私のカップを凝視する。

「いや、いつも気になってたんだよ。朝はちゃんと食べなきゃだめだぞ?」
「何なの、急に……」
「何食べる?」
「いらないよ」
「シリアルなら食べられるんじゃないか?」
「だから! いらない!」

 私は、彼を避けるように台所へ行くと、カップを水に浸してから、母に短く『行って来ます』とだけ言い、足早に玄関へ向かった。

「すーずーはー」

 不満そうな茜の声に後ろを振り向くと、子供のように頬を膨らませた彼の姿がそこにはあった。

「何で先に行こうとしてるんだよ」
「何でだめなのッ?」
「俺も一緒に行くから、ちょっと待ってて」
「はあ……?」

 一体、何故――――。

「一緒にって……茜さんの高校、方向真逆だよ?」
「俺、今日学校休むから」
「え……? 茜さん、具合悪いの?」
「ううん、絶好調」

 先程から会話が噛み合わない。

「本当に何言ってるの……」
「だ、か、ら! 鈴葉は今日俺と一緒に登校するんだよ!」
「えー……嘘でしょ……何でついて来るの?」
「約束しただろ」

 私の頭を大きく一撫ですると、茜は柔らかく微笑んだ。

「お前を助けるって」
「あ……」
「ちょっとだけ待っててくれ。な?」
「……うん」

 荷物を取りにリビングへ戻った彼が来るのを待ちながら、私は首の後ろに手を当てた。
 ――――熱い。

***

 隣を歩く茜を見上げて、私は鞄を持ち直した。
 彼は私を救うと言った。ならば、私は、彼の為に一体何が出来るだろうか。

「あっ」

 そう言えば、あの後うやむやになっていたことが一つある。
 私は勢いよく茜の腕を掴んで歩みを止めさせた。彼は少し驚いた顔をして、私をまじまじと見つめる。

「な、何だ? どうした?」
「茜さん、昨日のテストどうしたの?」
「どうって……普通に受けたぞ? ハハッ、何だよ? そんなこと気にしてたのか?」
「そ、そんなことって……」

 茜は、私の手を優しく叩いて、にこりと笑った。私は彼の言動に納得がいかず、唇を尖らせる。
 私が意識を失っていたのは、確か一時間程度だった。茜の高校とさほど距離が離れていないとは言え、到着までに二十分は要するだろう。残りの四十分弱で三教科はあるテストを終えるだなんて不可能ではないのだろうか。私を気遣って、嘘を吐いているのでは。

「……ねえ、本当のことを言って。途中で抜け出して来たんでしょ?」
「いいや、ちゃんと全部解いてからお前の高校に行ったよ。そうじゃないと早退なんてさせてもらえないし」
「えっ、じゃあ本当にテストは無事に受けられたの?」
「もちろん! 自信あるぞー!」
「……よかった」

 私は、ほっと胸を撫で下ろして、茜に笑顔を向けた。

「心配してくれたのか?」
「私のせいで赤点なんて取られたら嫌だもん」
「俺、お前に嘘は吐かないよ」
「うん、知ってる」

 彼が自然と伸ばした手をぎゅっと握ってから、再び歩き出した。

「……鈴葉、俺が一緒にいる。もう怯えなくていい」

 真剣な声で、私にそう言う茜に強く頷き、正面を見据えた。
 脳裏を支配する穂波の悪夢から、彼は私を救うと言ってくれた。私はそれを信じて、先に進むしかない。
 見えて来た高校の校門を睨んで、私は唇を噛んだ。

 ――――行こう。彼女の悪夢に会いに。

 繋いだ茜の手の温もりが、私を現実に引き止めていた。