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 私があの時、遅れてさえいなければ、あの子は死なずに済んだだろうか。
 私が彼女よりも先に学校に着いていたら、あの子の代わりになれただろうか。
 私が来るのを待ちながら、彼女は苦痛に耐えたのだろうか。

 彼女に恨まれていて当然だ。全部、私のせいだから。私が彼女を一人にしたから、あんなことになった。

 ――――時間は巻き戻ったりしない。過去は変えられないし、死者が蘇ることもない。私はそんな世界で、これからも何も変えられないまま、生きていくしかないのだ。穂波を失った世界で、一人でも。それが、死ぬほど辛くても。

「ッ、う……ッ」

 涙が次々と溢れて、頬を伝う。
 彼女の母親に会って、事件の進捗を聞いて、それで一体何が変わるというのだろうか。そんなことをしても、犯人が捕まえられるわけではない。無力な私では、穂波の無念を晴らしてあげられない。穂波に恨まれている私に一体何が出来る。

「……何も変わらないのに、どうして……私は……」

 こんなに辛い思いをしてまで、歩き出したのだろうか――――。

 その疑問が頭の中に浮かんできた瞬間、ぴたり、と歩みが止まった。
 周囲の音が遠のいて、視界がモノクロの世界に変わる。自分の心臓の鼓動と横断歩道の信号機だけが現実の時間の流れにあった。

 私に生きていていい理由なんてないのに。
 それなのに、どうして。

「……ごめん、穂波」

 学校に行く度に彼女の死が蘇る。私の行く手を阻むように、悪夢を見せる。もう耐えられない。

 信号機が点滅を繰り返した。私は虚ろにそれを眺める。

 私の選択は間違っているのだと思う。だが、血に塗れた彼女を見る度に、心臓を素手で握り潰されるような思いがするのだ。無惨に殺された親友の姿を見る度に助けられなかった事実を突きつけられる――――。

「穂波ぃぃッ……ぅぁああッ」

 モノクロに静止した世界で、私は大声で泣き叫んだ。きっと現実の世界では、大勢の人が私を訝し気な目で見つめているのだろう。だが、それでも構わなかった。
 このまま、私が消えていけば、悪夢も終わる――――。
 私は、信号機が点滅を終えたことを確認してから、横断歩道に足を踏み入れた。
 この涙が最後だ。もう、泣いたりしない。

 ――――穂波の元へ、行けるのだから。

「鈴葉ぁぁああッ!」

 鼓膜を揺らす怒鳴り声が私の頭上から降り注いだ。その瞬間、止まっていた世界が動き出し、周囲の音が爆発的に私の元へ戻って来た。クラクションを鳴らす自動車が目の前を何台も通り過ぎて行く。
 突然現実に引き戻されて、足から力が抜けた。私はアスファルトの上に膝から崩れ落ちて、震える自分の体を両腕で抱き締める。

「えっ……?」

 私は今、何をしようと――――。

「お前ッ! 何のつもりだッ!」
「っ、あ」

 痛みを感じるほどの強さで腕を掴まれたと思ったら、そのまま引き摺られるようにして歩道に引き戻された。そして、胸倉を掴まれる。

「答えろッ! 自分が何をしようとしたのかわかってるのかッ!」

 私を怒鳴りつける男の顔を見上げて、私は震える唇を開いた。

「何で……ここに」

 息を荒くして、目を大きく見開いた茜がそこにいた。見たこともないような顔で、私を強く睨みつけている。
 周囲の人々は、私達を避けるように信号の変わった横断歩道を歩いて行った。
 茜は、腰が抜けてしまった私の身体を横向きに抱えて立ち上がると、無言で歩き出した。そして、以前、二人で話した河川敷まで来ると、彼はゆっくりと私を芝生の上に降ろして、私の両肩を掴んだ。

「鈴葉、何であんなことをした」
「離して……!」
「俺の質問に答えろ!」

 彼の声が再び熱を持つ。

「俺がッ、俺が間に合わなかったら、どうするつもりだったんだッ!」
「ッ、そんなのわかんないよッ」

 私は彼から逃れようと身を捩る。だが、茜は私の動きをいとも簡単に封じると、私の額に自分の額を思いっきり叩きつけた。ゴンッと鈍い音が全身に響く。

「いッ」

 視界が揺れて、生理的な涙が目に滲んだ。

「逃げるな」
「……!」
「あんな方法で相田さんの死を忘れようとするなよ……! 自分で決めたばかりじゃないか!」
「茜さんに何がわかるの! 私が……私のせいで穂波は死んだのに……それなのに、私に何が出来るのよ。私が何を変えられるっていうの? どうして茜さんは私を生かそうとするのッ!」

 私が泣き叫んでそう言うと、彼は言葉を詰まらせた。そして、瞳に涙を浮かべると、微笑んだ。思い出すように彼は瞳を閉じる。そして、私と額を重ね合わせた。

「……俺を、変えたじゃないか……」

 彼の目尻から、一滴の涙が零れ落ちた。

 ――――茜が、泣いている。

「私、そんなの知らない……」
「お前が知らなくても、俺は知ってる」
「茜さん……」
「俺を『桑原茜』に変えたのはお前だよ、鈴葉」

 私が彼の涙を見るのは、これが初めてのことだった。
 彼の声が、息が、瞳が、目前にある。睫毛が触れる距離で彼を見たその瞬間、私の涙は変わった。
 痛みでもなく、後悔でもなく、苦しみでも悲しみでもない。これはきっと、この感情を知ったら、私は――――。

「……俺を助けてくれた女の子に生きていてほしいと望んだらだめか?」

 彼を置いて、穂波の元へ行けなくなってしまう。