冷たい雪が校舎に積もり、幾つもの足跡が残る白銀の校庭。そして、そこに広がる生暖かい、『鮮血』――――。寝ても覚めても、その悪夢が、私の頭の中から消えてくれない。

 夢なら、もう覚めてもいいはずだ。
 雪なんて、もう止んでいるのに。

 それなのに、私の悪夢は終わらない。今でもずっと、脳裏の奥で、雪が降り続けている。片隅に鮮やかな赤色を残したまま――――。
 あの瞬間の出来事は、私の中の時間の流れを止めるには、十分過ぎるほどの衝撃だった。心が砕けて、涙が溢れて、感情が枯れ果てて、その末に私は悪夢に囚われた。雪が解けて、若葉が姿を現しても、変わることなく、ずっと。

「何で、私だけが……忘れられないんだろう」

 あの光景を、あの子の最期を、私だけが今も抱え続けている。

***

「ねー、お姉ちゃん、一緒に遊ぶ?」
「っ、えっ?」

 不意に、小さな女の子が一人、私の顔を覗き込んできた。呆けていた私は、思わず首を横に振る。すると、その子は案外あっさりと私の傍を離れていった。私が一人きりでいるのが気になったのだろうか。

「そっか、もう夕方か……」

 公園のブランコから立ち上がり、辺りを見回すと、学校帰りの子供達がジャングルジムで楽しそうに遊んでいた。声をかけてきた女の子も友達と楽しそうに話している。その姿を見て、懐かしく思いながら目を背けた。
 私がここにいては、子供達の邪魔になるだろう。そう思い、公園から立ち去ろうとした私の前を見慣れた癖毛が両手を広げて塞いだ。

「おかえり、鈴葉!」

 私の名を呼び、にこりと笑った細身の少年。中性的な顔立ちと癖毛が特徴の彼の名は、桑原茜。私の両親が八年前に引き取った、私の『義兄』だ。
 私は彼から視線を逸らして、目の前の邪魔な腕を払いのけた。

「何しに来たの、茜さん」
「迎えに来たに決まってるだろ?」

 何で私の居場所がわかったのだろうか。

「悪いけど、まだ帰らないよ、私」

 そう言い、歩き出した私の後を彼は静かについて来た。

「こんな時間にどこに行くんだ? 夕飯冷めるぞ?」
「……お父さんとお母さんは?」
「家にいるよ。さっき帰って来たばかり」
「……じゃあ、もう帰る」
「え?」
「早く帰らないと、根掘り葉掘り聞かれるし」

 両親に心配をかけてまで、一人でいても仕方がない。結局、どこを探しても、私の求めているものはどこにもないのだから。

「鈴葉」
「何?」
「まだ、帰りたくない?」

 茜の声に私はゆっくりと振り向いた。

「どこにいたって同じでしょ」

 私はそう小さく笑ってから、再び彼に背中を向けた。

「茜さんがわざわざ迎えに来なくても、私はちゃんと帰るから。だからもう、探したりしないで」
「……帰るだけだろ……」
「え――――……」
「帰って来るだけじゃないか、お前」
「あ、茜さんっ?」

 私が振り向くよりも先に彼の手が私の肩を掴んだ。その手の熱さに、目を見開く。

「俺の言葉をちゃんと聞いてるのか? 鈴葉」

 表情も、声も、いつもの彼なのに、体温だけが私に揺さぶりをかけてくる。
 私は、この人のことなんて何一つ知りたくなどないのに、何故、近づいて来るのだろうか。

「だから、帰るって言ってるでしょッ? 離して!」
「そうじゃない」
「は……?」
「父さんと母さん、それから、俺がいるあの家に……家族の輪に戻って来い」
「何、それ……」

 彼の言葉の意味がわからず、私は躊躇いながら彼の顔を見上げた。やはり、その表情に変化はない。

「何が言いたいの……何で、茜さんが私にそんなこと言うの? 家族だから? だったら、尚更、放って置いてよ!」
「お前の居場所はなくなってなんかいないだろ。何で、俺達から逃げるんだ……?」

 ――――そうだ。茜は、知らない。私が今をどんな思いで生きているのか。私が毎日、この町を彷徨いながら、何を探しているのかを。だから、迷いなく私に向かってその言葉を口に出来るのだ。
 居場所なんて私にはもうない。

「お前の帰る場所は、ちゃんとあるよ。だから、一緒に帰ろう。皆で一緒に御飯を食べて、一緒に笑って、それで――――……」
「――――どこにあるの?」
「え?」
「私の居場所、あるんでしょ? どこにあるのッ? 教えてよッ!」

 私は握り締めた拳で、茜の肩を思いっきり殴りつけた。痛みが走っただろうに、彼はそれでも私の肩から手を離さない。そんな彼を真っ直ぐに睨んで、震える唇を開いた。

「いないんだよ、代わりなんてッ! なのにッ、あなたがそれを簡単に言わないでッ!」

 何度も、何度も、力任せに拳をぶつける私を茜は黙って見つめていた。その瞳を見て、私は歯を食い縛る。
 彼は、泣きそうな顔をしていた。やっと変化を見せた彼の表情は、私と全く同じものだった。傷ついて、血が滲みそうなほど唇を噛み、私の想いを一身に受け止めている。
 それ以上、茜を殴ることが出来なくなった私の拳は、あっさりと彼の手の内に収まった。彼は、私の拳を労わるようにそっと撫でる。

「ごめん、鈴葉」

 痛い思いさせて、本当にごめん。

 誰よりも苦しそうに、茜はそう言った。私は俯いて、彼の胸に凭れかかる。それから、ゆっくりと言葉を吐いた。

「……お父さん達が私を心配していることはわかってる。でも、私はあなた達と関わりたくないの」
「……何で?」
「皆、言うことは同じだから」

 そう言いながら、私は茜の手から自身の拳を引き抜くと、未だに私の肩を掴んだままの彼の手をそっと退かした。

「もう忘れなさい、って、何度もそう言われたよ。茜さんだって、私に言いたいことはそれでしょう」
「ち、違うよ、俺は……」
「茜さんの言う通りの生活をしたら、私はどうなるの? 皆と笑い合っていれば、忘れられる? それでいいの?」
「鈴葉……!」
「少なくとも、あなた達は……私の居場所じゃない」

 私が探しているものは、どこにもない。
 私の居場所は――――死んでしまったから。
 
「……ごめん、鈴葉。それでも俺は、またお前を探しに行く。何度だって、こうすると思う」

 言葉通り、茜は明日も私を探しに来るだろう。その度に、私は彼を突き跳ねる。そのやり取りに、一体何の意味があるのだろうか。茜は、私に何を求めているのだろうか。傷つくのは、彼だって同じことなのに。

 脳裏に浮かんだ銀世界に囚われながら、私は両親の待つ家へと帰った――――。