どこかで聞いたような言葉だ、とウィリアムは思案し、瞬刻ベッドに入る寸前に立ち止まった。モリス博士の言葉だったか、とも追憶する。だが、ウィリアムはそれ以上深く考えず、
「そういえば昔そんな題名の映画があったな」
 と軽く呟いてエレナの傍で横になった。ウィリアムは彼女を起こさないように優しく手を握る。
〈愛が死より冷酷なんて事があるわけないじゃないか〉
 エレナの指から伝わる体温を感じながら、ウィリアムはそう締めくくる。徐々に心地よい和みが彼を包み込む。
そして、ウィリアムは眠りに入る間際、悪夢がよぎる予感以上に、一つの強い思いを巡らした。
もし、モリス博士と再会できたなら、今度こそ声を大にして「父さん」と呼んでみたい、と。
          *
モリス失踪から一ヶ月近く経った頃。
ビーンストーク内で俄かではあるが、とある風聞が広がりつつあった。
それはモリス・トンプソンがビーンストークでの機密事項を売ったのではないか、という噂。
仮にモリスが軌道エレベーターの独自開発を行っている国家らの何某(なにがし)に捕らわれたとしても、以後あまりにも他国のそれらから開発技術発展の話がないため、それは虚報だったのではないか? という事から始まり、また、モリスは高名な科学者であるので、身代金目的で拉致及び誘拐されたのであれば、何らかの要求が犯人もしくは加害者側からあってもおかしくはない。それにも関わらず一向にその気配がない等、様々な情報の錯綜が積み重なった結果の話であった。
彼(か)のような幾多の憶測が起因となり、ならばモリス自身が進んでビーンストークにおける研究成果を、軌道エレベーターの開発を水面下で独自に画策している他国や、もしくは裏ルートで別のライバル研究所に情報を提供しているのではないか? という疑惑が流布してきた。
「ふざけた話だ! どうせモリスの局長ポストを狙う、お偉方研究員が流したデマに過ぎない。モリスが無事に戻ってきた際に、余計な疑いをかけてスポイルさせる。子供じみた常套手段だよ。だいたい事件か事故かだってまだ判然としないのに、何も音沙汰がないだけで、モリスに汚名を着せるような根拠のない飛語が出てくる事自体が、彼にとっての侮辱だ!」
 昼休み。ウィリアムとともにウィリアムの研究室で昼食をとっていた、フィリップ・ベンジャミンは口角泡を飛ばす勢いで言葉を吐いた。フィリップが口にしていたカップ麺の食材の幾つかが床に飛び散る。一方、フィリップが座しているソファの横で、アームチェアにもたれているウィリアムは、上気するフィリップとは対照的に、エレナ特製のBLTサンドを瞬きもまばらに黙って食べていた。
うららかな午後の日差しが、煩わしくない程度に賑やかなカケスの鳴き声とともに、窓を抜けて部屋に入り込む。ウィリアムの研究室は「科学者らしかぬほど」に整理整頓が行き届いており、雑然とした様子はない。デスクの上も片付けられていて、研究書が並べられたブックエンドの側には、エレナのスナップ写真が置いてある。部屋の雰囲気はおおよそ閑静な佇まいを醸し出していた。
だが、フィリップ・ベンジャミンはその空気とは裏腹に、いまだいきり立っている。
「なあ、そうは思わんかねウィリアム!」
「はあ」
 フィリップの檄に近い言葉に対して、気のない相槌で返すウィリアム。フィリップは自若(じじゃく)な態度のウィリアムを不服に感じ、
「何だ、ウィリアム。随分と落ち着いているものだな。君の恩師のような存在が蔑まされているというのに」
 と皮肉っぽく言ってみせた。しかし、ウィリアムは微動だにせず、
「馬鹿らしくて話にならないからですよ。モリス博士が機密情報を漏らす? それこそナンセンスなんじゃないですか」
 と突っぱねるように答えてサンドウィッチを口に放り込んだ。落ち着き払ったウィリアムの素振りをフィリップは改めて眺めると、
「そう、そうだったな」
 とポツリと呟き冷静さを取り戻していった。そして、フォークを差し込んだままのカップ麺の容器を、いったん目の前のテーブルに置いて、
「いや、すまん。大人気なく熱くなってしまって。沈着たる態度を旨とする科学者としては失格だな」
 とはにかみながら言いつつ、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「いえ、そんな。僕だって内心は怒り心頭ですよ。ですけど、あまりにも根も葉もない噂話なので、いちいち腹を立てる事もできないんです。ただ……」
 と途中ウィリアムは口をこもらした後、手元のソイミルクを飲み込んで、
「ちょっとモリス博士について気になる事を聞きましてね」
「気になること?」
「ええ。やはりモリス博士の消息は気になりますので、僕なりに色々な人に話を伺ったところ、と言ってもビーンストーク内の関係者だけなんですが、その中でレフォーズ博士から妙な情報をもらって」
「数学研究のレフォーズ博士から?」
「はい。どうもモリス博士は失踪するまでの直前にかけて、しかも二,三年前ぐらいから、度々レフォーズ博士の研究室に訪れては、『時間』に関する理論について相談をしていたそうです」
 そういえば僕の母が亡くなった頃と、時間の話についてレフォーズ博士にモリス博士が訪ねに行くようになった頃が重なるな、と不意にウィリアムは思った。
「時間についての理論? ああ、レフォーズ博士は相対性理論や量子力学とかにも明るいから標準理論にも碩学だ。確かに時間の物理学なら詳しい話を聞けるかも知れないが、またまたどうしてモリスはそんな事にクビを突っ込んでいたんだ?」
「フィリップ博士も言っていたじゃありませんか。モリス博士と時空論の話で云々と」
「ああ、そういえばそんな事も言っていたけど、あれは飲んでいる最中の冗談で……」
「それがどうもモリス博士にしたらただのジョークじゃなかったらしいんですよ」
 ウィリアムはフィリップの言葉を遮って意見した。フィリップはウィリアムのその声色に険しさを覚えて、神妙な面持ちで尋ねた。
「ジョークではない、というと?」
「レフォーズ博士が言うには、モリス博士はどこか隠れ家的な部屋を借りて一室ラボ仕様にして、タイム・トラベルの実験に着手していたのではないか……と」
「タイム・トラベルの実験だって? そんな馬鹿な話が……」
 フィリップは一笑に付そうとしたが、眉一つ動かさないウィリアムの態度を察して、口をつぐみウィリアムの次の言葉を待った。
「僕も馬鹿な話だな、とは思いましたけど、レフォーズ博士が言うには、このビーンストークの忙しい時期にしては、趣味がてらの片手間というよりは、どうも本格的に研究していたのではないかと」
「何だね。それではモリスはタイム・マシンの類いでも作って、未来旅行に出かけてしまったとでも言うのかね」
 さすがにフィリップも肩の力が抜け、相好(そうごう)を崩して答えた。だが、ウィリアムは硬い口調のまま間髪を入れず、
「いえ、どうもモリス博士は過去へ遡る事を考えていたらしいです」
「過去?」
「はい。しかも独自のタイム・トラベル理論を駆使して」
「というと?」
「フィリップ博士はインフレーション理論については詳しいですか」
「インフレーション? あのビッグバンによる宇宙創生の前に起こったと言われる、急激な加速膨張の現象の事かね。改めて言われると、あまり深い見識はないが……」
 インフレーション理論とは宇宙誕生と考えられてきた、ビッグバン宇宙論の矛盾を解決するために出来た宇宙論の一つ。
宇宙は膨張をしている。
定常化したものではなく、今もなお絶えずその空間は広がり続けている。それは二十世紀中に行われた観測結果から一つの解答として出た事実。そして、ビッグバンと呼ばれる超高温・超高密度の玉宇宙から全てが始まった、というそれも。ビッグバンという現象も宇宙マイクロ波背景放射という電波の発見により、もはやその存在は現在の標準宇宙論の中では確固たる事実となっている。
だが、ビッグバンをもって宇宙が開闢(かいびゃく)したとなると、その始まりは特異点と呼ばれるミクロ領域まで遡る事となり、マクロな世界(実際に生活している現世界)では論理的破綻をきたす事が分かった。平たく言うとビッグバンの理論で発生した膨張速度では、現在の宇宙の広がり(ハッブル体積の大きさ。つまり宇宙の大きさ)を鑑みるに、膨張のスピードが間に合わないのである。そこでビッグバンの前に量子宇宙という空間が存在し、さらにインフレーションと呼ばれる相転移が起こり、急激な空間の膨張が発生したとすれば、標準理論の矛盾を補完されると考えられた。宇宙誕生直後の原子サイズ以下のその宇宙そのものが、僅か十マイナス三十六乗秒の間に、三ミリメートルというとてつもなく広大な領域に変化した事に説得力をつけるには、インフレーション理論の必要性がある、と。
精度の高い観測衛星によって、インフレーション理論の正当性を証明する試みは進んではいるが、まだ決定的な事実はない。だが、標準理論の破綻をきたさないための有力な宇宙論の一つに挙げられている。
「そのインフレーションが起きた際の空間の広がり具合というのが、光の速度をゆうに超えていて、同時に空間の絶対温度が十の約三十乗Kという超絶的な高温状態であった、というらしいんです。今の宇宙論的には」
「え? あ、ああ」
 実践的な工学理論ばかりで、どちらかというとイマジネーション寄りの宇宙理論には疎いフィリップは、ウィリアムが言う台詞を逐一理解するのが困難であった。フィリップは鼻梁(びりょう)の辺りを掻きながら、
「えーと、つまり、それがどのようになってタイム・トラベルに繋がるのかね?」
「モリス博士が提唱するに、超高温化の中では我々の時間の感覚が違う……その、つまり、時間が早く進む、というらしいんです」
「は?」
「レフォーズ博士がモリス博士から聞いた話を要約して、さらに端的に言ってしまえば、温度の高い空間は時間が早く進み、逆に低ければゆっくり時間は流れる、という事なんですが……」
「それならば南極大陸では赤道直下の国々より時間が遅く進んでいるとでもいうのかね?」
「いや、この地球上のような微々たる温度差では関係ないらしいんです。それこそ宇宙創生の頃の超絶高温の領域、何兆度やら何京度、それ以上の極端な温度の状態になるぐらいでないと作用は生まれない、とモリス博士は考えていたようです。その超絶高温は即ち熱膨張イコール時間の急激膨張というアルゴリズムを成立させる。そのフローチャートの過程で、インフレーションで起こった光速を上回る膨張速度の理由をして、我々が普段体験している時間ではなく、もはや別次元の時間の進み方を呈していたから可能だった。それは想像を絶する超高温によって、四次元時空を歪ませたのが原因だった、と」
 フィリップは瞬きを幾度もしながら、
「それは、その、そっち方面、つまり、宇宙論の分野では一般的な解釈なのかね?」
 と探り探りウィリアムに問うた。
「いえ、モリス博士の独自の理論だそうです。温度差による時間のズレ、に対して検証も観測事実もないそうです。だから完全に突飛な考えなんですが、レフォーズ博士が聞いた所の、モリス博士曰く『アリストテレス的発想から、時間を一種の運動とみなす。すなわち時間イコール運動。そこで分子の振る舞いが活発な運動状態、つまり高温を未来軸に向け、その逆の低温状態を過去の座標とする。【温度】と【時間】とは、実在という観点からいえば、実在しえない実在である。その相似性から両者を同一的な事象ととらえる。さらに、その条件下、つまり超高温もしくは極低温の状態そのものが、別の位相としてあるので、それ自体に広がる時間が必然の時間、言わばモジュライ的解釈になる。詰まる所、そこで発生する加速している時間というのは、現在の我々の四次元時空の感覚から比較した結果からであり、かつ総体としての場が四次元時空全てなので、相対的状況にはなりえないので、反証不能。つまり、検証としては不可能』なんだそうです」
 丁寧ではあるが平易な説明でないウィリアムの言葉。よくもまあ、レフォーズ博士からの聞き伝えの話を、事細かに記憶して逐語的に説明できるもんだなあ、と半ば感心し半ば呆れているフィリップは、さらに気色を曇らせ、
「う、うーむ、余計に分からなくなってきたなあ。とりあえずモリスの言う時間論は証明することができない、という事か。検証不能で理論のみが先行しすぎるのは、宇宙論などの理論物理が陥りやすい隘路ではあるよね。だが、時空の歪みというと重力や加速度運動が絡んでくるのは知っているが、まさか温度をもってくるとは驚きだ。タイム・トラベルだったらワームホール理論だっけ、時空のトンネルとか称されている。まあ、我々の次元では光速を超える速度は存在しえないわけだから、多少飛躍した理論を持ってこないといけないのは分かるよ。だけど宇宙工学分野の見地から言えば、相対論や量子力学よりも、プリンキピア(ニュートン力学)の方に重きを置いてだね……」
 専門外の言葉を羅列されて思うように意見が言えなかったフィリップは、モリスの時間論の瑕疵に気づくと、ここぞとばかりに多弁を弄し始めた。口数少なかった欲求不満を解消するかのように。だが、一通り喋って落ち着くと、
「む? そういえばウィリアムはさっき、モリスは過去に行く事を目的としている、と言っていたね」
「はい」
 フィリップの講義じみた語りの聞き手に徹していたウィリアムは明快に返事すると、
「そうなんです。モリス博士の理屈の上では、高温状態を突き詰めていけば時間は早く進み、やがては未来へ。だから逆に低温状態を掘り下げていけば過去に戻れる。そして、その過去に行く際の分岐点は、セルシウス度でいうマイナス二百七十三.一五度を超える零下の状況にある、と」
「マイナス二百七十三……って絶対温度……絶対零度以下の状況じゃないか? この自然界でそれ以下の温度が存在する、とでもいうのかね。エネルギーが最低の状態に陥る極低温下では原子の振動が止まり、いや、確かにさっき君が言ったモリスの時間イコール運動の理論を強引に当てはめれば、屁理屈として通るかも知れないし、それにまたここで量子力学が出てくると話が変わってくるだろうけど、だとしても低温状態では超伝導の作用との兼ね合いもあるしね。そもそも分子の運動の励起が温度の高低に作用するわけだから、素粒子レベルの時間の話とどう関係してくるのか……」
 再び奇抜な話に戻ると直感したフィリップは、それを遮る勢いで声を出し始めた。だが、すぐにウィリアムが、
「絶対零度以下の状態が存在する、のではなく、絶対零度以下の環境を作り上げる、というのがモリス博士のタイム・トラベル理論の要だそうです。絶対零度以下という不可能的な超極限低温状況下における場の相変化によって、四次元時空は対称性の破れが起きる。ここでいう対称性の破れというのは、時空そのものを指すらしく、空間や時間が一方的に向いてしまうとのこと。つまり、それらのベクトルやらスカラーやらを、過去へ向ける事が可能、だというらしいんです。さらに厳密に言うと、相転移の力学的現象を援用して、それを対流状態、詰まる所のマランゴニ対流のような温度差、ここでは絶対零度以下の状況と周囲の通常温度との温度差を示し、その環境から空間密度の濃度差を抽出して、時空そのものを移す。言い換えれば、過去に相転移する。とどのつまり、時間を逆流させる、ということです。過去のビッグバン時の超過熱状況が時間を経るにつれ、宇宙そのものが冷却していき相転移が次々と起こった、という事象を踏まえ、その冷却作用それ自体を時間の逆向に援用する。そして、時間の対流がある閾値に達した瞬間、カオス状態に陥り、空間とともにさらに相転移、一括りに時空の移動が可能となる……そうなんです。けれども宇宙の相転移という観点から言えば、どうにもモリス博士の理論、というか理屈は矛盾している、とレフォーズ博士は指摘しているんですよね。自分は素粒子物理学には通暁していないので詳しくは分からないのですが、宇宙創生から十のマイナス四十四乗秒後の周囲の温度は十の三十二乗という超高温の世界だった。それが宇宙誕生後の十のマイナス十一乗秒後の間に三回の相転移が起こって、温度は十の十五乗まで下がり、基本相互作用の四つの力である『重力』と『強い核力』と『弱い核力』と『電磁気力』の分岐が次々と発生した。つまり、標準理論の見地からすれば、高温状態になればなるほど過去の姿が浮かび上がって来る、言い方を変えれば時間を遡るほど宇宙の温度は高い状態になっていくわけです。そう考えると低温状態を突き詰めていくより、限りなく高温状態を目指した方が、モリス博士の私見によるタイムトリップ論、所謂、過去に戻るという行為に即している、というのがレフォーズ博士の見解なんです。ただ、これもまたモリス博士曰く、それは宇宙空間という幅で見た場合の理解で、それに時間を足した、つまり、時空という次元では成立しない、と言うらしいんですよ。時空の相転移は真逆に向かう、と。究極に到達すべき状態はあくまで絶対零度以下の環境だと、も。その根拠の希薄さや不確実性は否めませんけど、やはりそれがモリス博士の結論だったらしいんです」
 と口を挟み延々とした弁を弄した。だが、その長口上とは別に、その語調は迷い迷いの節があり、自らの話を拒まれ聞き手にまわったフィリップも、ウィリアムの話の内容を半ば理解していた程度ではあったが、科学者の聖典とも言える標準モデルを排してまで、モリスが突拍子な理論とはいえ、自らの持論の展開をしていた事に違和感を覚えていた。
「ただ、その絶対零度以下の環境作りの手段を、どのような構造の装置によって行うか、そして、演出するかは分かりませんし、それにどの値をもってしてタイムトリップするのかも知らないですけど」
 そして、付け加えた感じでウィリアムは伏し目がちにそう一言告げた。フィリップは口を尖らせ嘆息すると、両手を組んで唸り始めた。だが、唸っているだけで黙り込んだまま。一方でウィリアムはそんなフィリップの様子を察して、
「いや、結局はそれだけの話ですよ。どうにも難しい理屈ではありますが、レフォーズ博士もモリス博士はそれほどシリアスに語っていたわけではない、と言っていましたから。一つの仮定的な理論としてレフォーズ博士に相談しに来た程度の、いわゆる談話の類ですよ。それに、ビーンストークの仕事で多忙な時期の割には、モリス博士の独自の時間論への、モリス博士自身ののめり込み方が気になったという事で、レフォーズ博士は引っかかっていただけ、だったようですし」
 と今まで強張っていた表情を緩めて言った。フィリップも苦笑いしながら、
「あ、ああ。そうだな。そんなに深く考える必要はないか」
「ええ。僕だってそんな荒唐無稽な話をモリス博士が持ち出して、タイム・トラベルして何処かに消えてしまったとは思っていませんから」
「確かに。過去に遡ってジュラ紀やら白亜紀の恐竜を物見遊山する趣味があるとは、モリスからは聞いた事がないからな」
 二人してどうも真剣に議論してしまったモリスのタイム・トラベル理論。それについての納め時を両者は察して、ウィリアムとフィリップは、互いに子供じみたいたずらっぽい笑顔で締め括った。
一頻りにフィリップは笑うと、不意にウィリアムのデスクの上にある、エレナの写真を目にしてそれを手に取り、
「ああ、そういえばもうすぐ挙式だな」
「そうですね。エレナはモリス博士の失踪を気遣って延期しても構わないと言っていたんですが、これ以上エレナを待たせてしまうのも忍びなくて」
「そうか。しかし、私でよかったのかね、仲人の祝辞は。本当はモリスに頼みたかっただろうに」
「いえ、そんな……」
 思わず口を濁すウィリアム。フィリップは写真をデスクに置き直すと、
「うーん、やはりエレナはソフィア、ああ、君のお母さんの面影があるなあ」
 としみじみ告げた。
「母の髪はブロンドではないですよ」
「いや、見た目の部分じゃなく、何かこう、雰囲気的というのかな。美人である事は一緒だしね。ソフィアは大学時代、私たちの学部じゃちょっとしたアイドルだったからな」
 ウィリアムの母親であるソフィアは、父親のジョージの一学年下の後輩。もともと女性の少ない学部でもあったので、二重瞼の瞳、それにカラスの濡れ羽色の黒髪が映えたソフィアの存在は一際目立っていた。
「まあ、その美貌だけじゃなく聡明でもあり、品格もあったけれど。それに多少性格がキツい部分はあったかなあ、はは。とはいえみんながソフィアを好きだったよ。結局、ソフィアは眼鏡組の僕らでなく、長身で口が達者なジョージが取っていってしまったがね。あいつは女性に対して奥手が多い理系人間の中では珍しく、どんな女の子にも気軽に話す事ができたからなあ」
 どこか懐かしく、また、妬むような口調でフィリップは語る。ウィリアムはフィリップの話をしばらく考え込みながら聞いた後、
「モリス博士は母を愛していたのでしょうか?」
 とフィリップに真顔で尋ねた。一瞬、フィリップの動きが止まった。だが、すぐに微笑んで返して、
「あいつはそういう部分を恥ずかしがって見せないタイプだからな。だけど奴だってソフィアを好きだったはずさ。それはジョージが亡くなった後を見れば、君の方がよく知っているはずだろ。ただ、死した親友を気にして、表立ってソフィアへの恋愛感情を顕にはしなかったけど、好意は抱いていただろう。じゃなければあんなに君らの傍にはいない。そう、ソフィアを愛していたさ。僕と同じように」
 と言って片目を目配せさせた。ウィリアムはそんなフィリップの温顔を見て、安堵の溜め息を漏らした。
〈そうだよな。モリス博士が僕や母に見せてくれたあの優しい笑顔は、偽りなんかじゃない。だけど……〉
 偽り、ではないと胸襟断じるウィリアム。さらに、揺るぎ無い信頼と愛情の上でモリスとの絆は築かれていたと請うウィリアム・ロックワード。
 だが、一方で懐疑し始めている自分も認める。
モリス・トンプソンの行方に『疑い』を持っていることを。
それは心配するという類いではない。あくまで、疑う、という意味合いが近い。どうして疑念の思いが強いのか。
それはウィリアム自身にも分からなかった。

その日の夕方。
フィリップと昼食をとり別れた後、昼下りから黙々とレポートと向き合っていたウィリアムは、いつの間にかうたた寝をしていた。研究室の窓から夕日が差す頃、ウィリアムは徐に目を覚ます。すでに薄暗くなった室内で、しばらくポツネンとイスに腰掛けているウィリアム。モリスの失踪前であれば、それこそ飛び起きて再び仕事に取り掛かっていたが、いまだにビーンストーク内の全体の業務が滞り気味で、実質的にウィリアムがしている事といえば、実験報告書の確認作業ばかりで、何ら進展はない。
〈軌道エレベーター事業はこのまま先細りしていくのではないだろうか?〉
 まさか国際プロジェクト・レベルの事業が、このまま頓挫するとは思えないが、一抹の不安をウィリアムは抱く。
モリスが失踪して以来、大人の事情も相まって遅々として進まないプロジェクト。次第にウィリアムはビーンストークでの仕事に失望感を覚えていった。純粋に科学研究を目指すウィリアムにとって、利益や利権がかかる『事業』というものが、俗っぽく感じて肌に合わなくなってきた。
出し抜けに大学の教授職を顧みて心地よさを抱く。
「ふう、僕もアマちゃんだな」
 愚痴っぽく一人言葉を吐いたウィリアムは、無聊に窓の景色を眺めた。茜空が広がる好天。癒される塩梅のグラデーション。そんな晴れた夕映えを見て、張り詰めた気持ちはない。だが、心境は曇っている、というのがウィリアムの本音。
先までの半睡(はんすい)。その中でも断片的ではあるが、ウィリアムは夢を見た。ジョージ・ロックワードの死の場面から始まる疑惑を有する夢を。
〈父さんやモリス博士、さらには僕とも通じる人間が犯人だったとなれば、一体何者が浮上してくる?〉
 探偵気取りの推理、と突き放して考えてみても、結局その思案に固執してしまう。納得が出来なければ、なかなか気持ちを切り替えられないのは、科学者のよくある性分ではあるが、ウィリアムもやはり多分にはもれなかった。
 ジョージの死、モリスの失踪、タイム・トラベルの時空論など……それらのパーツがそれぞれ繋がった時、もしかすると父親を殺害した犯人が分かるのでは? と漠然とウィリアムは慮る。
〈うっすらだが、答えが見え始めているのではないか〉
 喉に詰まった小骨が取れる程度。ほんの少しの揺らぎでいい。僅かなキッカケがあればこの煩わしさは解決する、とウィリアム・ロックワードはやはり留意する。そして、その方法は幾度の眠りの中、頻々(ひんぴん)と見るあの夢と向き合うこと。それが鍵となる、とも。
「…………」
 ウィリアムは目を閉じると、鼻背(びはい)を人差し指と親指で押さえた。
〈もう、逃げる事は許されない〉
 独り善がりではある。だが、ウィリアムは若干の決意をもって、勢い良く目を見開いてみせた。
              *
 ある休日の午後。
 その日はウィリアムにとって久しぶりの寸暇だった。だが、タイミング悪く今日はエレナの学生時代の友達が、久しぶりに帰ってくるというので、エレナは家を出て友達と合流してしまっていた。
夕飯までには帰ってくる。
朝、エレナは口惜しさを残したものの、気散じとした表情でウィリアムにそう告げた。そんなエレナを笑顔で見送ったウィリアム。しかし、今のウィリアムの相好は曇っている。エレナがいない事からの所在無さからでない。先ほど書斎の机の中から引っ張り出した、一通の手紙をいまだに眺めている事が原因であった。
件(くだん)のモリス・トンプソンからの手紙。
 私は私自身との約束を果たす時がきた。親愛なるウィリアム・ロックワードへ。君こそ我が息子だ……この文言に対して、謎は深まるばかり。ウィリアムはどのような意味を持っているのか時折手紙を取り出しては熟考していた。何らかの決意を認めた伝言。まさか遺書の類いではないか、とも。だが、この短すぎる手紙の内容では、あらゆる憶測も適うものはなかった。
〈それにしたって唯一の手がかりだ〉
 無駄な結果に終わると思っても、さらに無駄を重ねてウィリアムは勘繰る。書斎に一人籠るウィリアムは温い紅茶をすすりながら、深くイスに腰掛け手紙を見つめる。お札の透かしをするように蛍光に当ててみたり、指で何度も手紙を擦ってみたり。仕掛け的な部分も含めて、手紙そのものにも探りを入れてみる。だが、手紙は上質系ノンコートの紙以外の何ものでもない。それ以上は何も語らない。
〈もしや何者かに脅迫されて無理矢理書かされたのでは? いや、待てよ。モリス博士を名乗る他の誰かがこの手紙を書いたのでは?〉
 そこまでの当て推量を毎度ウィリアムは頭に浮かべているが、また、しばらくすると例の如く、
〈しかし、それならばどういう目的で?〉
 という結論にいたる。畢竟する所は常に反復。
〈エレナが側にいない時に一人家にいると、どうも条件反射的に手紙を見ては、推理探偵小説の真似事をする。今日など僕が休日でエレナは夜までいないのだから、このままではずっと薄暗い部屋でこの手紙と向かい合っているハメになるぞ〉
 ウィリアムはいい加減、己の行為に飽き始めると、モリスからの手紙を手荒めに封筒に戻し、机の引き出しに入れ込んだ。
〈せっかくの休みだ。エレナが帰る頃までは何処か外にでも出てみるか〉
 特に出かける場所などはなかったが、ウィリアムは散歩がてらに家を後にした。
 外は心地よい日和。
やはり休日に降り注ぐ陽光は、普段仕事をしている中、研究室の窓を介して入って来る日差しとは質が違うな、とウィリアムは述懐する。いい塩梅だ、何もかもが気分転換になる……そう自分に念じて。
〈煩わしい事など何もない〉
 通りすがりにウェルシュ・コーギーを散歩する面識のない老婦人にやにわに挨拶をしたり、地面で群れている鳩に向かって子供じみつつも駆け出してみたり、公園に入っては少年たちがキャッチボールしているボールが自分に転がって来るのに気づくと、それを拾い必要以上に力強く彼らに返球してみたり……と一見すると童心に戻った大人のように、ウィリアムは諸処を振る舞っているようだった。
 だが、多少の疲れを覚え公園のベンチに座ると、動悸がおさまるにつれ再び思慮深い姿に戻っていった。いつしか前傾になり両膝の上に両肘を乗せ、手を重ねると、さらにその上に顎を置き、ゆっくりとウィリアムは瞼を閉じた。
〈何も考えてはいない。ただベンチに座って休んでいるだけだ〉
 そう自分に言い聞かせるウィリアム。
一方で深い溜め息をついて、
「だけど、もう少しで何かが分かりそうな……解けそうな気が……」
 一弾指(いちだんし)、独り言を漏らす姿があった。

 帰宅したウィリアム。間もなくエレナも家に戻り、二人で夕食を終え、その後、暫時の歓談を経て、共に床に就いた。
深い宵の頃。
 ウィリアム・ロックワードは夢路を彷徨っていた。
同じ夢の繰り返し。
それはいつも通りの父ジョージ殺害に関する悪夢の反芻。
だが、もはやウィリアムにとってその悪夢は悪夢足りえない存在になっていた。少年期の頃よりも、しつこく脳裏に浮かぶ昨今の悪夢に対して、抵抗力がついたのか。それとも成人してそれに耐えうる免疫ができたのか。
否。
何故ならウィリアム自身がその夢を覗く事を選んでいるから。何度も繰り返し、また、塗り替えさせる、かつて悪夢と呼んだその夢は、今ではウィリアムが抱いている『謎』や『疑い』を解く鍵として機能し始めたから。それはウィリアムも自覚的に感じていること。無意識より出でて意識的に形成される夢のシナリオは、幾度も反復する事によって記憶を涵養(かんよう)していき、自然とそれを再生していく。自我や超自我、エスといった精神分析の観念からの結果なのか。しかし、そこはウィリアムが問う部分ではなかった。ウィリアムが愚直に知りたいのは、ジョージ殺害当時は忌避し、現実から逃げ込んでしまった、その時、その瞬間の記憶(スーベニア)であり場面(ランドスケープ)。だからこそウィリアム・ロックワードは、ある種、果敢な態度をもって、かつてトラウマとなっていた夢に触れる。
悪夢と自らが呼んでいたそれは、現れる毎に記憶の輪郭を明確にしていく。ウィリアムが心の奥底に仕舞い込んでいたメモリーを徐々にクリアにしていく。まどろみの中で夢の素描(デッサン)は次第に色づけされていく。
父親に銃口を向ける犯人の姿。響く銃声。力なく横に傾くジョージの頭部。そして、近づいてくる男。フラッシュバック。それら一連の流れは連続するシークエンスではなく、一場面ごとに分断された写真のように現れる。ゼノンの飛ぶ時間の矢。一瞬一瞬が静止した時間のフラグメント。量ではなく数として、分かちながら。時空がプランク長の一つ一つのコマとして割かれていく……

あの時、僕は、見た。
背の高い男の姿を。
パソコンのモニターの弱々しい照明ではあったけれども、立派な体格であり……そう、それに頭髪が白髪かかっていた事は確認できた。
そして、気を失いかけている僕に語りかけてきた、あの声。毅然として低く落ち着いた、あの声。奇妙にも懐かしく温かみすら覚えた、あの声。何処かで聞いた声だったか、何処かで知った声だったか。
そして、僕へ向けてきた台詞。
「少年よ」
確かに彼はそう話し始めた。そう話しかけた。
いや、待てよ。
いや、違う。
違った。
そうじゃなかった。
彼はこう語りかけてきたんだ。
「私は私自身との約束を果たす時がきたのだ……」
 そして、言葉を繋げた。
「……少年よ、時に愛は死より冷酷なものなのだよ」
 低く落ち着いた声で確かにそう言った。
 そうだ。
 愛は死より冷酷、だと、彼は、はっきりと、言ったんだ。

「はっ!」
 夢が逆流し、思わず半身を起こし、目覚めたウィリアム。手は汗ばみ、全身も寝汗に覆われている。呼吸も幾分乱れ、喉の渇きも感じていた。
〈久しぶりに身を起こしてしまった〉
 夢を見て目覚める事は多々あったが、それはゆっくり目を開けるていど。体を起こすほどの目覚め方は、少年期の悪夢と呼んでいた頃以来であった。
 やにわに隣で眠るエレナの姿をウィリアムは確認した。何事もなかったように安らかに寝息を立てている。その寝顔を見てウィリアムは深く息を吐くと、幾分落ち着きを取り戻しエレナのブロンドの髪にそっと触れた。するとエレナは無意識的に、自らの髪に触れるウィリアムの手を握り返した。目を瞑ったまま。
〈……もう、夢の件については深く考えるのはよそう〉
 エレナさえ、傍にいればそれでいい。そう思いながらウィリアムは再び床に就いた。だが、喉の渇きを覚えたままなので、水を飲みに行こうとキッチンへ向かった。冷蔵庫から氷を取り出してコップに入れる。そして、水を蛇口から出す。手にする冷水。コップから凍えた感覚が伝わってくる。
〈凍てついた時間をさらに越えて、過去に遡れるとしたら……〉
 とみに思い起こすウィリアム。
「馬鹿らしい。そうだ馬鹿らしい事なんだ」
 ウィリアムは独り言で一蹴して、エレナの寝顔を思い返した。
〈いつまでも過去にこだわり続けてどうする。僕には未来があるじゃないか。大事なこれからがあるじゃないか。エレナ・カーティス……いや、やがてエレナ・ロックワードとなる彼女の夫としてのつとめや、そう、新しい人生設計を築いていくという事に頭を切り替えないと。いずれ僕も父親になり、家族というものを形作っていく。そんな青写真をしっかりと考えていかなければならないんだ。父親となった時のそれを〉
思い出との訣別。記憶との乖離(かいり)。
ウィリアムはコップに入った水を口に含んで、それら全てを飲み込もうとした。新しい明日を、これからを迎えるためにも。
〈もしかすると、もうモリス博士とは会えないかも知れない〉
 あまりにも長いモリスの失踪の空白の期間から、ウィリアムはある種の諦念を情緒に刻む。幾分、火照る感傷。しかし、喉から伝わるしんしんとした水が、その胸の内を潤し、多少の清涼となる。
一方でその冷水は勃然(ぼつぜん)と一つの疑問を彼に差し出した。

 だが、もし……もし、モリス・トンプソンと再会したならば、本当に「父さん」と素直に呼べるだろうか?
何の屈託もなく父親と感じる事が出来るだろうか?
 
そんな思いを。
              

                       終