お前がいつの日か出会う禍は、
 お前が疎かにした、
ある時間の報いなのだ。
                   ナポレオン・ボナパルト
         *         *
 ISEDO(INTERNATIONAL the SPACE ELEVATOR DEVEROPMENT ORGANIZATION=国際軌道エレベーター開発機構)の本部ビルは、その仰々しい名称に比して白を基調とした簡素な作りになっている。
莫大な予算がかかる軌道エレベーター開発費。それ以外の予算は出せないのが組織の現状ではあるが、開発機構で働く当人たちのほとんどは、そんな些細な出ない経費のことなど気にしていない。彼らのほとんどは軌道エレベーターの開発にこそ情熱を燃やしているのであるから。
 若き研究員助手のウィリアム・ロックワードもその一人だった。
 ウィリアムは軌道エレベーターのシミュレーションのデータ収集による連日の徹夜で、幾度も本部ビルで朝を迎えていた。
〈二週間は家に帰っていないな。エレナとはこまめに連絡を取っているが、また怒られてしまうぞ〉
ウィリアムは本部ビル内のロビーに設置してある、自動販売機の缶コーヒーを飲みながら、朝日が延びる窓を開けて、不精ヒゲの上部にうっすらと浮かぶ目のクマをさすり、家で自分の帰りを待つブロンドの髪の婚約者(フィアンセ)の姿を想像する。八重歯が飛び出る彼女の笑顔を。
やにわにウィリアムが微笑むと、新鮮な朝の涼風が疲れで火照った彼の頬を撫で、徹夜明けでシャワーを浴びていない脂ぎった黒髪を揺らした。
「何を一人で笑っているんだね、ビリー(ウィリアム)?」
 ウィリアムの背後から貫禄のあるバリトンがかった声が聞こえた。
「ああ、モリス博士。今朝は早いですね」
 モリス博士、と呼び翻ったウィリアムの前には、背と肩幅に余裕のある体躯の中老の男性が立っていた。年齢以上に豊かなオールグレイの総髪に白髪の顎ヒゲ、彫り深い目鼻立ちに架ける縁なしの眼鏡、さらに折り目正しく白衣を纏うその容姿からは、いかにも科学者然とした凛々しさが窺える。
「昨日も徹夜で仕事かね?」
「ええ、まあ」
「その割に疲れは幾分顔に見えるが楽しそうだね」
 ウィリアムは苦笑いし、
「いえ、ここ最近家の方に帰っていないんで、どうやってエレナに言い訳しようかと考えていたんです。いつも、明日は帰れるから、明日は帰れるからって言ってたもんで」
「はは、なるほど。それは辛い所だ。これから軌道実験研究の中間発表で、今が忙しい時期だからな」
「確かに……あ、何か飲みますか?」
 ウィリアムが自動販売機にコインを入れようとしたが、モリスはそれを制止して、
「いや、結構。私もこれからすぐにラボに行って、資料をまとめなきゃいかんのだよ。そのための早出でね」
「お疲れ様です」
「いや、君の方こそな。そういえばエレナとは今年中に挙式をあげる予定だったんだっけ?」
「はい。一応は年内を目処に。今の状態じゃ難しい感じですけど」
「そうか。あまり待たせてエレナをやきもきさせるなよ。時に、愛は死より冷酷なものになるからな」
「モリス博士、そんな怖いこと言わないで下さいよ」
「まあ、くれぐれも気をつけたまえ、教授(プロフェッサー)」
 モリスは微かに顔を崩し、ウィリアムの肩をポンと叩くと、年相応には見えない、軽快で颯爽とした足取りでその場を去っていった。
「愛は死より冷酷、か」
ウィリアムは独り言を呟くと肩をすくめ、モリスの後ろ姿を眠気眼で見送った。徐々に離れていくその背にウィリアムは身が引き締まる思いにかられた。
尊敬すべき科学者であり、慕うべき父のような存在。
ウィリアム・ロックワードにとってモリス・トンプソン博士は目指すべき人格者であった。
ウィリアムの本職は大学での教授。だが、学会での研究論文である『静止軌道衛星上における宇宙工学的解釈』が斯界に評価され、ISEDOに客員として招聘された。その実、ウィリアム自身はモリスの口添えによって客員の研究員助手としてISEDOに招かれたのであろう、と推し量っていた。だが、どちらにしても好機だった。モリスの近くで働けるということ。それが叶った、と。
兎にも角にも、教授職と研究員助手の二足のワラジを履きながら、国際的宇宙プロジェクトに参加できるという事に、ウィリアムは喜びを感じていた。さらにはモリスと共にその偉業を達成しようとすることに。

だが、半年後モリス・トンプソンは、そんなウィリアムの思いも他所に、忽然と姿を消した。

そして、モリスが失踪してから数日後、一通の手紙をウィリアムは受け取る。

《私は私自身との約束を果たす時がきた。親愛なるウィリアム・ロックワードへ。君こそ我が息子だ》

手紙の本文の内容は、ただそれだけ。
 差出人の名前はモリス・トンプソン。

その手紙はソフィア・ロックワード……ウィリアムの母親の三年目の命日が過ぎた頃に届いたものだった。
              *
軌道エレベーター。
別称を宇宙エレベーターとも言う。
赤道上空で地球の自転と同じ速度でまわる静止衛星から、地上へケーブルを下げて衛星と地球を行き来する、文字通り宇宙と地球をつなぐエレベーター。一聴するとSF映画の類いの夢物語にも聞こえるが、この発想はすでに十九世紀の終わりには高名な科学者によって紹介されていたので歴史は古い。
宇宙空間における物資の運搬はロケットによるものだが、それでは運搬コストが非常に高く、また、ロケット燃料による大気汚染や、爆発事故などのリスクが伴う。そこで実用的な技術開発として、軌道エレベーター開発案が持ち上がった。だが、静止軌道まで約三万六千キロの距離に対して、ケーブル自身の重さと、それに取り付ける昇降機の重さに耐えうる素材がなく、理論的には可能でも技術的には実現不可能な代物だと考えられた。
しかし、二十世紀の末頃、ナノテクノロジーの発展により、軽くて強度の高いカーボンナノチューブ(炭素によって作られる蜂の巣状の構造が管になった物質)やグラフェン(カーボンナノチューブと同様の炭素同素体)が開発され、軌道エレベーター施工案が現実味を帯び、遂に国際的開発プロジェクトが発足した。
それが国際協力開発機関であるISEDO。
科学理論や科学技術の分野の各国の優秀な人材が結集したシンク・タンクでもある。そして、所属の研究員たちは童話のジャックと豆の木から拝借した軌道エレベーターの愛称でもある、「ビーンストーク(豆の木)」という名で自らの組織を呼んでいた。
そのビーンストークの主要メンバーである科学者兼技術者のモリス・トンプソン博士が、何の前触れもなく、何の連絡も残さないまま、失踪。
唯一残したのはウィリアムへのメッセージ。だが、ウィリアムにもそのあまりに簡潔すぎる手紙の内容の意味が分からなかった。ただウィリアムが気になったのは、幼少の頃から父同様に接してきてくれたモリスであったが、今まで一度も自分を「息子」と呼んでくれなかったのに、この手紙には、我が息子、と堂々と肉筆で書いてあったこと。それがウィリアムのモリスへの安否いかんも含めて、さらに胸中を複雑にさせていた。
〈そういえば僕自身、モリス博士を父と呼んだ事はなかった〉
 ウィリアムはモリスから受け取った手紙の件を他の研究員に口外していない。
モリス博士の失踪について小会議を開いている今この時も。
 表面が強化透過ガラス張りの円卓を囲む六人。しきりに人差し指をテーブルに打ちつける者、幾度も足を組み替える者、タバコを取り出そうとしたが禁煙だと気づき再びポケットにしまう者。いずれにしても皆にわかに苛立っている。やはり施設同様に質素な作りになっているカウンシル・ルーム。六人の前に出されているレモンティー以外に生活感然としたものはない。
 会議室で開いている議題は、モリス博士の失踪と今後のプロジェクトの運用について。語調は静かなものの喧々諤々と言葉を発する各々。そのほとんどがビーンストークの重役クラスの研究員。その中に一介の大学教授客員に過ぎないウィリアムが混ざっている。無論、モリスとの仲が懇意であったから出席しているだけ。だが、ウィリアムは発言をする姿勢を見せず、傍観を決め込んでいるようだった。事実、ウィリアム自身モリスが失踪する理由は分からない。一方で手紙の件を述べる事も憚っていた。
〈まだヘタに漏らさない方がいい〉
そう直感して。
「モリス博士が失踪したとはどうしても考えにくいものだ」
「身代金目的で誘拐されたというなら、何らかの要求が来てもおかしくはないし」
「モリス博士のマンパワーを利用目的とするならば話は変わってくる」
「やはりR国が拉致したという噂に信憑性があるというのかね?」
「R国はビーンストークに参加していない。一方である情報筋からは、R国が独自に軌道エレベーターの開発を行っている、という話も聞く」
「C国やK国だってビーンストークには参加してないじゃないか」
「だからそれらの同主義国家が連合して、ビーンストークとは別に軌道エレベーターの開発に取り掛かっているんだ」
「そこでモリス博士を拉致して、軌道エレベーター開発の技術ノウハウを聞き出す」
「なるほど」
「軌道エレベーター事業は莫大な利権が発生するからな」
「国際法的に軌道エレベーターの開発や所有は、国際機関に限られたものではないし」
「言ってしまえば早い者勝ち、作った者勝ちだ」
「軌道エレベーター事業の法制化は焦眉の急であったのに、国家規模による秘密裏の開発競争ばかりが先行している」
「そう、あくまで秘密裏だ。R国などが軌道エレベーターを極秘に開発している、という話は現段階ではスペキュレーションにすぎない」
「それではモリス博士の拉致もナンセンスになってしまうのではないか。推測の域を出ないならば」
「モリス博士の拉致、という事件性を帯びた懸案にするには、あまりにも確証が少なすぎるし」
「うーむ、やはり黙って捜索を待つしかないのか」
「マスコミも騒ぎ出している。そちらの対応に気を削がれて本来の研究に支障が出てはならない。搜索の進展も含めて諸々の問題の早期の解決が急務だ」
「確かに……」
淡々と進むミーティング。片や静寂(しじま)を守るウィリアム。幾人かの出席者はそんなウィリアムの姿をチラチラと一瞥していた。何か自分に意見を求めている。それはウィリアムも察していた。一方で、発言すべき内容は持っていない、とも自らに言い聞かせている。実際にモリスの失踪については何も知らないのだから。
〈だが、発言すべき情報は持っている〉
 失踪直後のモリスから送られてきた例の手紙。
〈一応は報告すべきであろうか?〉
ウィリアムは逡巡していた。
その時、
「それとも単に開発局長という重責から逃れるために、モリス博士は仕事をほっぽり出して姿を消してしまったとか」
 という発言が一部の出席者から漏れた。それを聞いて今まで黙っていたウィリアムはすぐに反論をしようとしたが、
「それこそナンセンスな話だ。馬鹿げている」
 語気を多少荒くした一人の研究員の言葉が、ウィリアムの口よりも早く飛び出した。
「フィリップ博士……」
 そう呟いてウィリアムが目をやったのが、やはりウィリアムと同様に口をつぐんでいたフィリップ・ベンジャミン博士だった。
「皆さんはモリス博士がそんな無責任な研究者だと本当にお思いか?」
 フィリップはモリスとは年相応ではあるが、彼とは対照的に頭頂部の髪が薄く、度の強い黒縁眼鏡を白肌の大きな鼻にかけ、猫背の小柄な体をした風貌。それに裾捲りをしていたのか、白衣の腕周りのシワがひどい。外見からすればモリスのような威厳は感じられない。だが、一見、好々爺の印象すら受けて強面とは程遠いものの、その一言に宿した気概には迫力があった。他の出席者たちもその気迫に押され、
「いや、そんな事はないです」
 とバツの悪い笑顔で応じるしかなかった。
 結局、議題はほとんど解決しないままミーティングは終わった。とりあえずモリスの仕事の穴埋めは幹部クラスのメンバーで分担して、さらにモリスの安否否状況が判明するのが長引くのならば、暫定的にモリスの開発局長ポストの代理を選定する事に決めた。
 三々五々、出席者は会議室を出ていき、自らの持ち場へと戻り始めた。ウィリアムはまだ部屋に残って着座しているフィリップに近づき、
「ありがとうございます、フィリップ博士」
「ん? いや、なあに」
 フィリップは鼻の頭をポリポリと掻きながら徐に立ち上がって応えると、
「軌道エレベーター開発は国際プロジェクトだからね。この一大事業で開発部の主任局長を担っているモリスへのやっかみは耳にするから、ちょっと一言と思って。ビーンストークの連中だって全員が全員、聖人君子の気構えで開発に没頭している訳ではないからさ。この偉業をトップの地位で成しえたいと思っている人間だっている。ただ現時点で失踪の理由の分からないモリスへの誹謗中傷だけは避けたいんだよ」
「そうですね。だけど、すいません。本来なら僕がすぐに否定すべき事をフィリップ博士に言わせて」
「何を言っているんだ、ウィリアム。私が勝手に勇み足でフライングしただけのことさ」
 何処か照れくさそうにフィリップは答えた。
〈もし僕が反論したならば感情的になってしまうだけだった〉
 だからこそフィリップは敢えて自分よりも先に意見を言ったのだろう、とウィリアムは推し量った。フィリップがそのような気遣いが出来る人間である事をウィリアムは知っている。
「何よりもモリスとは長い付き合いだ。あいつには大学時代から世話になっているからね。結果がものを言う斯界の職種とはいえ、人種的偏見(レイシャル・プレジュディス)で色々と私も狭い思いをしてきた時、いつもその際にはモリスがフォローしてきてくれたんだ。彼の肩を持つのは当然だろ。私の数少ない親友なんだから」
 自嘲気味にフィリップは話すと、ウィリアムの肩に手を乗せて、
「そう、それに君のお父上も」
 と一言添えた。
 フィリップとモリス、そして、ウィリアムの実父であるジョージ・ロックワードの三人は大学の同窓生であり、その後も同じ科学者畑の道を進んでいった。
「ジョージも生きていれば、ビーンストークに加わって、我々と一緒に研究をしていたかも知れん。有能な理論物理学者だったからな」
 フィリップは首を小刻みに横に振りながら嘆息して言った。
 ジョージ・ロックワードはウィリアムがまだ少年期だった頃に亡くなった。
より正確に言うと、何者かによって殺された、と記すべき事柄。
そして、それはウィリアム少年の目の前で起こった出来事。

二十年近く前のある日。

その日、ウィリアムとジョージは、ウィリアムの母親のソフィアが実家の父の風邪を看病するために留守だったため、二人で映画に行く予定だった。だが、ジョージの仕事先の科学論文の仕上がりが遅れていたため、急遽モリスにウィリアムを映画に連れて行ってもらう事をジョージは頼んだ。
「すまんな、ビリー。それじゃ後は頼むよ、モリス」
 ジョージは書き仕事による徹夜明けで、しわくちゃの寝巻き姿のまま二人を見送った。その台詞と父の疲れた容貌が、ウィリアムが聞いたジョージ・ロックワードの最後の声であり笑顔であった。
その日の夜。
ウィリアムとモリスは映画を観た後、レストランで夕食をとり、二人はその場で別れた。人気の少ない小路ではあるがウィリアムの実家は近く、わざわざモリスに送ってもらうほどの距離ではない。ウィリアム少年は臆する事なく夜道を闊歩し、我が家であり我がマンションにたどり着いた。
母親は今夜もソフィアの父、つまりウィリアムの祖父の看病のため、家にはいない。おそらく父のジョージは、一人寂しく旨くもないバタード・フィッシュを片手に、仕事の論文を書いているのだろう、とウィリアムは思いながら家のキーをドアの鍵穴に挿して回した。だが、手応えがない。
開いている?
ドアの鍵はかかっておらず開いていた。父のジョージは母と違って不精な性格で、家の鍵など閉め忘れる事は多々あったので、別段ウィリアムは訝る事もなくそのまま家の中に入った。玄関から廊下にかかる明かりは弱々しく頼りない。その先にジョージの書斎がある。
父さんの部屋のドアも開いている?
ウィリアムは一瞬立ち止まった。書斎のドアがどうやら開いている。論文を書く際に限っては神経質になり、必ずドアを閉めて防音につとめているジョージ。開いているドアからは部屋の照明の光は漏れていない。照明は消えていて、おそらくパソコンのモニターであろう僅かな明かりが、廊下のフローリングの床に零れているだけ。集中するために書斎を暗くして論文を書くのは、普段のジョージのやり方ではあるが、それにしてもドアを開けっ放しにする事はない。
おかしいな。
ウィリアム少年はここで不穏当な胸騒ぎを覚える。ウィリアムはジョージの書斎へ足音を立てず徐に進んでいった。何やら話し声が聞こえる。
父さん以外に誰かいる?
聞き耳をたてて歩を運ぶウィリアム。目前には開放されたドア。ウィリアムはそこから書斎に目を通した。
すると奇妙な光景があった。
イスにもたれてパソコンのキーボードを弾いているジョージの背面。ジョージは一人喋っているようだった。そのやや右寄りの背後でジョージの後頭部に銃口を向けている、男。部屋が暗くて詳しい姿かたちはウィリアムには確認できなかったが、パソコンのモニターの微弱な光から浮き出たシルエットからは、雄勁(ゆうけい)な体型を覗かせる。大柄な男性である、とウィリアムは見なした。だが、そう即断したにも関わらず、ウィリアムは虚をつかれ、声を発する事が出来なかった。
その刹那、銃口から火が吹いた。
ジョージの後頭部に弾丸は放たれた。幾ばくかの血しぶきが舞う。そして、力なくジョージの頭はイスの左側の肘掛けに寄る。ウィリアムに背を向けたまま。
一瞬の出来事。
すぐさまウィリアム少年の脳は、その衝撃的な現実を前にして、自己防衛本能を働かせた。それは気を失うこと。ウィリアムはその場に崩れ落ちた。ウィリアムは薄れゆく意識の中、ジョージを撃った男が自分に近づいてくるのを見る。そして、ウィリアムはその男が自らに向かって何か話しかけてくるのを知る。だが、その台詞は覚えていない。それとも意識朦朧として聞こえなかったか。兎に角、ウィリアム少年の思考は沈んでいった。
その後のウィリアム・ロックワードの記憶はない。
だが、ジョージを撃った男の結末は明確にある。
男はジョージを撃った後、逃走。その走り去る怪しい人影を、ウィリアムと別れたばかりのモリスがたまたま見かけ、モリスは条件反射的に男を追跡した。さらに銃声を聞いた誰かが警察に通報し、モリスの追走中に幾人かの警官が二人を目撃し合流。男は川縁にぶつかり袋小路の状況に追い込まれ、モリスや警官達の前でその河に飛び込んだ。河の下流は、ウィリアムの田舎町(スモール・タウン)では有名な、一度流されたら溺死体は浮き出ず、時に自殺の橋頭堡にもなっている、小さな滝(カスケード)と呼ばれる河口につながり、男もそこに飲み込まれた。
そして、やはり遺体は見つからず、結局、被疑者不明のまま、保守的な小さな町で起きた惨劇は幕を閉じた。しかし、当の住民にとっては現実感のないサスペンス映画の一夜のような出来事に過ぎなかった。
それがジョージ・ロックワード銃殺事件の顛末。
後日、ウィリアムと彼の母親のソフィア・ロックワードは、悲嘆に暮れる間もなく町をあとにする。ジョージが殺された出来事、思い出。閉鎖的な町における根も葉もない醜聞。ロックワード母子にとって、ウィリアムが生まれ育った町は、あらゆる意味でもはや居づらい場所となっていた。また、ジョージの殺害を目にしたウィリアムがPTSD(心的外傷後ストレス障害)になり、一時的に失語症に陥ったので、その療養のための転居という目的もあった。だが、精神科医との度重なるカウンセリングや、甲斐甲斐しいソフィアの介護もあり、ほどなくウィリアムの心のケアは功を奏していった。
ソフィアとウィリアムの二人を、毛布(ブランケット)のように常に傍らで包んでいた、モリス・トンプソンの協力もあって。
そんな過程もあり、よりモリスを慕うようになったウィリアム。子供心に、二人はいつしか結婚するのだろう、と考えていた。父の親友であるモリスなら、ジョージ自身も天国で納得するだろうし、とも。ウィリアム自身もモリスを歓迎し、三人で食卓を囲む場面を想像していた。
だが、モリスとソフィアが一緒になるような事はなかった。
少なくとも籍を入れるような事はなかった。いつも仲睦まじいソフィアとモリスの姿をウィリアム少年は見続けたが、同居するような事もなく、ある一定の距離を置いてお互い接し続けているように感じていた。
やがてウィリアムは成長し、亡き父とモリスの背中を追うように、科学畑の仕事に就くようになる。母のソフィアは、蛙の子は蛙ね、と言って屈託のない笑顔でウィリアムの進路を喜んでいた。
そして、幾星霜。ソフィア・ロックワードは病によって若くして鬼籍に入る。
モリス・トンプソンとはついに結ばれる事もなく。
だが、モリスが恩人以上の存在である事はウィリアムには変わらない。ジョージ亡き後、ウィリアムにとってモリスは真に父親代わりであり、そして、仰ぐべき科学者だった。

その気持ちは今も同じく。

「あ、すまんね。湿っぽい事を言ってしまって」
とフィリップは言うと、眼鏡を一度外して、レンズに息を吹きかけた。
「いえ、そんな……」
 ウィリアムは決まりが悪そうな笑みで返すと、
「あの、フィリップ博士。今さらと言えば今さらなんですが、フィリップ博士はモリス博士の失踪直前に、変わった事とか、気づいた事は見受けられませんでしたか?」
「うーん、そうだなあ」
 フィリップは眼鏡をかけ直し、薄くなった頭部をポリポリと掻くと、
「そういえば、何やら個人的に時空論についての研究が、どうのこうのとか言っていた気がしたなあ」
「時空論?」
「ああ、文字通り時空についての理論物理。ビーンストークのこの忙しい時期に、よくまあ趣味がてらの研究をしているなあ、と思って引っかかっていたんだ。いや、時空ネタは私たちが学生の時に少し流行ってね、ジョージなんかは特に興味を示して論文を書いたりもしていたよ。彼は現実的な物理工学よりも、ちょっと突飛で空想的な宇宙論とかが好きだったからね。逆にモリスはそういう理論よりも実践の上で科学が役に立つか、といった実用科学第一主義だった。だからよく口論とかも多かったな、あの二人は。だけどジョージの死後、妙に理論物理、というか時空の理論にモリスは突っ込むようになっていったな。亡きジョージの遺志でも継ぐかのような殊勝な心がけか、とも思ったけど、まあ、好事家程度の研究だった感じだね。しばらくはあまり時空の話題はなかったんだけど、失踪直前辺りにちょいちょい雑談で俎上に出てきた記憶があるよ」
 確かにモリスは仕事の休憩がてら、時間や空間についての話題を時折自分にも述懐してきた、とウィリアムは覚えている。
さらにフィリップに問う。
「具体的にどんな事を話していましたか?」
「えーと、何だっけなあ。ミンコフスキー空間の因果構造についてだとか、熱力学第二法則がどうのこうのとか。いや、エントロピーの増大を減少に転じさせるとか何とかだったかな? それと絶対零度がどうのこうのとも言ってた覚えがあるけど、結論的にはタイムトリップやらなんやらの突拍子な話になった記憶も……うーむ、酒の席での戯言として聞いていたから、詳しくはちょっとね。所詮、冗談半分の話さ」
 フィリップは苦笑いして答えると、
「まあ、あまり気にしないでくれ」
 と言ってウィリアムの背を押して退室を促した。ウィリアムも、そうですね、と軽く呟いて進み出した。
 二人は部屋を出た後、各々の仕事場へと戻って行った。
 フィリップがジョージ・ロックワードの名前を出したのをきっかけに、ウィリアムは狭く白いホールを歩きながらふと思う。
〈そういえば最近よく夢に見るな。父が殺されたあの場面を〉
 ジョージが殺された直後の少年期は、そのシーンが頭にこびりつき、毎晩悪夢にうなされていた。だが、時間とともに次第にその夢の頻度は減っていって、精神の安定を取り戻していった。成人してからも時折その夢はあらわれたが、少年時代に苦しんだ程ではなく、多少寝汗をかく程度の状態。
 とはいえ、悪夢であった事は事実。そして、確実にその悪夢を頻繁に見ている近況。ウィリアムはさらに推してみる。いつ頃から悪夢が再発してきたのか、と。
〈モリス博士が失踪してからじゃないだろうか?〉
 しかし、それと何の関連があって父の死の思い出が蘇る……ウィリアムは自問自答してみるが答えは見つからない。ジョージの死とモリスの失踪。ウィリアムにとっての、父性の不在感、という意味では類似点があるかも知れない。だが、ウィリアム自身、それでは納得できなかった。そのような連想ではない、と根拠はないが直感的に思う。
〈厳密に言えば、モリス博士から例の手紙が届いた日から始まったのかも知れない〉
 ウィリアムはそう熟考したが、どちらにしても夢との因果関係が見つからないのは同じ、と下す。
〈それにモリス博士と時空論についても何のつながりが見いだせない〉
 時空論と失踪の因果関係。だが、冗談半分の話、とフィリップが言っていた。それをウィリアムは思い出すと、
〈確かにビーンストークの多忙な時期に、そんな現実味のない研究をプライベートでしていた事は引っかかるけど、単に気分転換の一つだったのかも知れない。こちらの件はあまり気にする事はないな〉
 と早々と煩いを切り上げる。そして、気分を改めて家に帰った後のディナーを想像する。それは婚約者のエレナの手料理。モリスの失踪のために、プロジェクト進行は遅延気味になって、その結果ウィリアムの仕事も一段落し、家に帰れる日が多くなった。
〈皮肉な話だな〉
 ウィリアムは内心そう毒づいてみるが、モリスの失踪と帰宅の頻度の因果関係は見い出せた、と奇妙な合点をした。
 
 その日の夜。
エレナ曰く、いつもより牛乳をふんだんに使った、クリームシチューにウィリアムは舌鼓を打った後、自宅に早く帰れる喜びと、モリスへの心掛りを同時に抱くというジレンマを覚えながら、所在無くリビングでテレビを眺めていた。夜のニュース番組。モリス失踪の続報でもやらないか、とウィリアムは期待したが、特に気になる情報が流れる事はなく番組は終わった。その後に放送が始まったクラシックの名曲紹介番組の音声をバックに、ウィリアムはキッチンで食器を洗うエレナの後ろ姿を無聊に眺める。
〈注目されなくなり始めたな〉
モリスの失踪事件もその直後は大々的に、「ISEDOの開発局長が失踪!? 天才科学者の身に何が!」というような扇情的な文句で報道されていたが、近頃は尻すぼみ感が否めなくなってきた。ウィリアムの心配を他所にモリス失踪の話題性は薄まりつつある。
〈ちゃんと警察の捜査の方は進んでいるのか〉
 ウィリアムは内意で焦思する。
モリス・トンプソンは独身を通し、モリスの親族もモリスが科学分野の世界的権威になって以来は疎遠な関係となり、モリスの近辺で彼の親しい身内と呼べる存在がいなかった。結局はビーンストーク内の人間の聞き込みに警察は重点を置く事になり、やはりモリスと昵懇の仲だったウィリアムに取り調べは集中した。初動捜査の頃はしつこいくらいウィリアムのもとに尋問にきた当局。それはウィリアムが、自分に何らかの嫌疑がかけられているのではないか? と困惑するほど。
だが、最近では警察からの音沙汰はない。
〈身の回りが静かになったのは良かったが、こうも何の動きがないと逆に肩透かしというか、捜査を勝手に打ち切ってしまったのではないかと不安になるな。もっともこれ以上何か聞かれても答えるべき事はないけれど〉
繰り返し質問されても結果は同じ。隠している証言も、何らかの答弁する由もウィリアムは持っていない。
だが、一つだけ秘密にしている事がある。
それはモリスから送られた肉筆の手紙。
ウィリアムは警察にもその件だけは内緒にしていた。この手紙の存在を教えればむしろ混乱が起きるかも知れない、とウィリアム自身が了承して。
〈手紙を書き、届ける事ができる状況にモリス博士があったとすれば、だいぶ話が変わってくる〉
 モリスの失踪が自発的な印象を与えるのではないか、というウィリアムの危惧。はたしてそれがモリスの擁護になるのかは分からないが、差し当たり手紙の所在は措いておいた方が良い、と彼は判断する。一方で、この手紙がまさか失踪事件の手懸りになりえるものだったら? という憂慮もあった。だが、守秘する事の方が賢明だとして、誰にもウィリアムは手紙の存在を漏らしていない。
愛するエレナにさえも。

 夜の一時を回る頃。
 傍らで寝息をたてているエレナ。
いつも眠りに落ちるまで横にいるウィリアムの片手を握って離さない。だが、今は指の力が抜けている。
〈どうやら眠ったようだ〉
 ウィリアムはそっとエレナから手を離し、軽く彼女の寝顔を撫でた後、徐にベッドから降りる。そして、エレナを起こさないよう静かにドアを開け寝室を出た。
ウィリアムはいまだに眠れないでいた。明日も仕事は早い。だが、今夜はなかなか眠れないであろう、とは予想していた。
モリス失踪の件からどうしてか繋がる父ジョージの殺害の記憶。
それが家に帰ってからもずっと頭にこびりついている。ウィリアムは書斎に入り現代思想や哲学、それにウィリアム自身が苦手としている数学の集合論についての本など、小難しい書を乱読して眠気を誘おうとした。だが、一向に効果はない。ウィリアムは一度本を閉じて、肘掛け椅子に深く座りこみ目を閉じてみた。
〈……そろそろ父さんの死に対して、真正面から受け止める時期に、年齢に、差し掛かってきたのかも知れないな〉
 不意にウィリアムはシリアスな心境に陥る。
 少年期にトラウマとなった、目前で起きたジョージの殺害場面。母ソフィアの必死のケアと、児童心理専門の精神科医らのカウンセリングによって、その精神的外傷は克服できた、とウィリアム自身も納得していた。
しかし、一方で顧みる。
 父の死の場面から逃避してきただけではないか? と。あまりに衝撃的なシーンであったために、その瞬間の記憶を封印し続けているのではないか、とも。
少年期ならそれも仕方ない。むしろそうする事によって正気を取り戻せたのだから。だが、成人した今となっても、唯一の追想したくない不快な記憶、としてだけ片付けてしまっていいものか。
〈もうすぐ僕も結婚する〉
生活が変わる。人生が変わる。それらの心構えの一つとして、父の殺害、その死の記憶と正面から対峙して、自分自身との決着をつけたい、とウィリアムはやや仰々しくも悲壮な意志を固め始めていた。
〈子供の頃にはトラウマだった思い出も、大人となった今ではある程度冷静に対応できる事は可能だ〉
ウィリアムは側のデスクに置いてある、アールデコ調の骨董品スタンドの弱い明かりを見つめながら、落ち着いてジョージ殺害の記憶の糸をたどる。
〈実際、当時の時点で気になる事柄があった〉
 少年時代、ショッキングな記憶に蓋をしてしまったため、その後深く事件についてこだわる事はなかったが、ウィリアムはあえて思い出す。
幾つかの違和感を。
〈そう、あまりに父さんと犯人との距離が近すぎた〉
 たまたま玄関のドアに鍵がかかっていなくて、さらに足音もなく犯人が侵入したと考えれば話は終わる。
〈だけど、父さんの話し声が聞こえた〉
 ジョージに独り言の癖はない。物事に集中する時は瞬きせずに黙り込む。それが論文を作成しているとなれば、いっそう。
〈つまり、父さんは犯人と会話していたのではないか?〉
 ウィリアムは限りなく憶測に近い推察をする。
 ウィリアムが少年時代に住んでいたマンションのエントランスは、カメラのない音声のみのインターホン。犯人はその呼び鈴を鳴らす。そして、ジョージは家のマイクから答える。鍵はかかっていないから入ってこいよ、と。その後ジョージは書斎に戻り、殺されるとは知らずに、背後を振り返る事もなく、論文書きに集中。犯人が来るその時まで。
だが、どうしてジョージは疑い無く、入ってこいよ、と気軽に返事したか?
〈それは父さんの耳に入ってきたインターホン越しの声は、父さんには聞き覚えのある、そう、父さんの知っている声だった〉
 つまり、犯人はジョージの知り合いだったのではないか? という疑念。
 そして、もう一つの違和感は当時のモリスの証言。
 偶然にも犯人と遭遇したモリス。そして、犯人を追跡。やがて犯人の最期を警官らとともに目撃する。その時の彼の証言の一つに、銃声は聞こえなかった、という言葉があった事をウィリアムは記憶している。
それがウィリアムの感じる違和。
銃声が聞こえなかった、という供述が偽証ではないか? という事ではない。それはおそらく真実であろう、とウィリアムは忖度する。ウィリアムの違和感はそこではない。腑に落ちないのは、銃声が聞こえない程遠くの距離にいたモリスが、どうしてただ走っているだけの男を追いかけたのか? という点。夜間、人通りの少ない路とはいえ、疾走しているだけの男を怪しみ追走するとは、ただの物好きとだけでは解釈できない。
〈何らかの直感が働いた、と述べられたら返す言葉はないけど〉
 とはいえやはり矛盾する、とウィリアムは考え直す。
また、犯人と途中で合流した警官らは、犯人が河に飛び込むまでずっと犯人の後ろ姿しか見ておらず、顔の判別は出来なかった、とウィリアムは聞いている。それはモリスも同様だと。
〈いや、モリス博士は実は犯人の顔を見ていた。そして、顔見知りの人間が駆けていたから、思わず追いかけた〉
 警察から調書を取っている際、モリス博士の気色は常に蒼白していたと聞くし、全てが全て潔白でない供述であるならば、顔見知りの犯行説もある程度辻褄が合うのではないか? とウィリアムは得心する。
〈つまり、父さんとモリス博士の共通の知り合いが犯人になるのか?〉
 背中に悪寒に近いものをウィリアムは感じた。
そして、
「いや、それだけではない」
 と顎をさすりながら思わず声に出して呟いた。
〈犯人は失神寸前の僕に話しかけてきた〉
 曖昧な記憶ではあるが、犯人は親しみを込めて話しかけてきたような気が、ウィリアムにはした。また、どうしてか妙に懐かしい声音だった、と。さらに思い起こす。
 少年よ。
 確か犯人はそう言って語りかけてきたのではないか? とも。
〈犯人は僕を知っていた?〉
 ウィリアムもまた犯人の顔は覗いていない。目撃したのは大柄な体躯のシルエットのみ。そんな未知の存在の男が、父を殺した憎むべき張本人が、自分を知る人間だったならば……とウィリアムは想像した。
〈父さんとモリス博士の知己であり、さらには僕を知る人間、いや、ヘタをすると僕の方も知っている人間が犯人だったら……〉
 一瞬、スタンドの明かりが点滅した。と同時にウィリアムは首を横に振る。
「ふ、馬鹿な推理だ」
 ジョージの殺害の場面と向き合う思いが、いつの間にか探偵気取りの推論になっていた事に対して、ウィリアムは嘲るように独り言を吐いた。
〈だったらさらに拡大解釈の推理をして、実はまだ犯人が生きていて、モリス博士に面がバレているから、今のこの時になって口封じのために、犯人がモリス博士を拉致したとでも想定してみるか〉
 思わず自分の想像、否、空想に苦笑いをするウィリアム。
 スタンドの明かりを消しウィリアムは書斎を出た。
〈今夜は確実にまたあの夢を見そうだな〉
 眠気が訪れないまま、受け入れたくない予想をするウィリアム。眠りに落ちるまでは時間がかかるだろう、とも見通す。
〈いや、エレナの手を握りしめれば大丈夫さ〉
 とウィリアムは募らせ、また覚悟を決め、エレナが眠る寝室へと戻って行った。
ただ部屋に入る寸前に翻然と一つの台詞が、脈絡なくウィリアムの脳裏を駆け巡った。まるで電流のように。
 愛は死より冷酷。
その一言が。