フェンスのない屋上だった。

 病院に今時そんな屋上あるわけない。この場所は何かがずっとおかしかった。ずっとおかしかったんだ。

 ヒュ、と後ろ手が空を裂く。

 背後には悠然と虚空が聳え立っている。


 振り向けば、もう目の前に迫ったミオが悟ったような顔で俺を静かに見つめていた。


「今日が来るって知ってたよ、私」

「なに…」

「きみは強い人だから。だから期限がちゃんとあって、私を見つけてくれたんだ。すごく、すごく嬉しかった。…ありがとう。でも今度は私の番」

「ミオ、」


 どん、と胸に届く衝動。
 言いようのない浮遊感。


「   」










 










 真っ逆さまに落ちる最中、最期に見たのはミオの笑った顔だった。


 



 終わったな、と痛感した。

 馬鹿笑いをした日々が記憶に新しい。

 伸ばした手でどうにか掴めないかと躍起になったけれど、手遅れだった気がする。
 藻搔いた手が虚しく空を裂いて思った。

 走馬灯は存在した。記憶のフィルムが耳の片方から容易く解けて散らばったとき、大切なのはいつも取るに足らないものばかりだった。

 ありがとうもごめんもさよならとも違う、有り触れた大層な御託。
 耳を塞ぎたくなる世界で次に目を覚ました時、せめてどうか【彼女】には優しくあればいいと願う。







 


















 


 学校で友人と悪ふざけをしていた。ら、誤って階段から転げ落ちた。

 気がついたら病院にいて、俺は救急車で運ばれてどうやら頭を打ったらしかった。先生曰く、左足の骨の大切な連結部分みたいのに傷を負ってしまったとかで、完璧に治るのに三ヶ月はかかるらしい。頭に異常がないかを調べるために検査もする。

 だから俺は、入院することになった。

 宿題もやらなくて済むし、学校に行かなくていいのは超ラッキー。

 けど、病室から見えるのがずっと同じ景色っていうのには、正直ちょっと飽きてきた。








「あ、くそまた逆メテオかけてきやがったこいつ」

 ぶっぱ、吹っ飛びからのバースト技。

 剣を持ったキャラクターが場外に落下するのを待たないで、俺はゲーム機をベッドに放り投げた。連戦連敗。あーくそ腹立つ、と舌打ちをすると大部屋の入り口からあーっ! っと声がする。

「おにいちゃんまたゲームばっかやってる! いっけないんだー! 目がわるくなるからやりすぎ注意、っておかあさんに言われてたのに」

「るっせー泣き虫マドカ。暇なんだからしょーがねーだろ」

「まどか泣き虫じゃないもん!」

「えー?」


 初めての骨折、初めての入院。

 検査も含めて一週間も学校が休めるって喜んで損した。実際はベッドでずーっと寝てなきゃいけないし、病院食だって味が薄めでお菓子も好き放題食べられない。これなら下手くそでも、5歳の妹が母さんに代わって作るしょっぱいおにぎりの方が、まだマシな気がする。


「あー早く退院できねーかなー」

「へんなの。きのうはヤッター学校休めるー! ってよろこんでたくせに」

「人間無い物ねだりなんだよ」

「ちょっとよくわかんない。あ、これおにいちゃんきがえ。おかあさんに頼まれたから持ってきたよ」

「お、サンキュ」


 紙袋に入ったお気に入りのTシャツを見て、ちょっとだけテンションが上がる。入院用の服はちょっと堅苦しいんだよな、と早速上を脱ぎ始めたら、りんごの詰まったフルーツバスケットを置いた妹が、遠慮がちに顎を引いた。


「…ねえおにいちゃん」

「んー」

「おとうさんとおかあさんが【りこん】したら、私たち、名前変わっちゃうってほんと?」


 

「誰かがそう言ったのか?」

「さっき、かんごしのおねーさんたちがろうかでしゃべってたの」

「ふーん」

「ねぇ、おとうさんとおかあさんが【りこん】したら名前、変わっちゃうの? まどかはまどかじゃなくなっちゃうの?」

「下の名前は変わんねーよ。俺は恭平だし、円は円だ。変わんのはここ」


 もたれたベッドの背中、枕をよけ、ネームプレートの苗字を指の節でとん、と小突いてやる。それを見ると円は目を丸くして、すぐほっとしたように胸を撫で下ろした。


「なーんだ、よかったぁ。…でも、今の名前の方がまどか、よかったなぁ…」

「別に、取り戻せばいーだろ。女は大概結婚したら苗字変わんだから。そんなに好きなら前の苗字と同じ男と結婚すれば」

「えー? それっていつー?」

「最短十一年後。そんなことより円、お前母さんのとこ行かなくていいのかよ」

「あっ! おかあさんにおつかい頼まれてるの忘れてたっ! じゃあねおにいちゃん、なんかあったらまどか、おかあさんの病室にいるからすぐ呼んでね!」

「ヘーイ。あ、そだフルーツバスケット今度持ってくる時はバナナにして。りんごやだ」

「はーい」

「あと今度来るときは購買でジャンプ買ってきて」

「もーっ!」


 もう一度ゲーム機に目を落としながらひらひら手を振ると、円はどたどたと足音を立てて病室を出て行った。それを見送って、ゲーム機を棚の上に置いてから、枕をどけて。

 ネームプレートの苗字を、指の腹で撫でてみる。


 ☾


 母さんが病気で入院することになったのは、去年の夏の話だ。

 検査が長くなるからって、妹とは別に俺は初めて行く母さんの田舎の爺ちゃん家に預けられた。

 母さんは元々心臓が弱くて、これまでにも何度か定期的に病院に通うことがあったから、今回もそれと同じなんだと思ってた。

 でも結局夏休みが終わっても母さんは帰って来なくって、今じゃほとんど家には帰ってない。


 最近、父さんと母さんは喧嘩ばっかしてる。

 この前病室を覗いたとき、見舞いに来た父さんに母さんが何か物を投げていた。それからたぶん、泣いていた。それが結構ショックだった。

 だからはじめて妹に訊かれたときは適当に誤魔化した。
 妹は離婚の意味をわかってない。わからなくていいと思うし、わかってほしくなんかない。


 

(だってそしたら俺たち家族)

「…離ればなれになっちゃうじゃん」


 トイレから戻る帰り道、廊下で自分の手の平を見て、きゅっと握る。そのまま下唇を噛み締めているとがしゃん、と何かが倒れる音がした。

 廊下の向こうの方だ。転かされた車椅子の前に同い年くらいの男が倒れていて、それを三人のやんちゃそうな奴等が取り囲んでいる。


「立てよ拓真。転かしたくらいなら立てんだろ」


 いかにも、やんちゃ代表って感じの男子だった。廊下に倒れた少年を笑いながら見下げていたそいつは、少年が起き上がるのに苦戦してるとわかると突然きっ、と牙を剥く。


「てめぇ大袈裟なんだよ! 知ってんだかんな拓真、お前が実は健康なのにズル休みしてるって! 元気なのに学校に来ないなんて卑怯だぞ!」

「───…誰かが、そう言ったの?」

「見りゃわかんだよ、車椅子乗ってるだけで管もなんもつけてない、そのくせ平然と病院うろちょろしやがって! ズルだってみんな言ってる、卑怯だって、」

「そっか。僕、元気だって思ってもらえてるんだね。嬉しいよ」

「───! お前のそのスカした態度がいっちばん腹立つんだよ!」

「お前ら何やってんだよ!!」


 怒声を上げて一気にそいつらに立ちはだかる。今にも少年を蹴ろうと足を上げたやんちゃは足を降ろすと、目を細めて眉を顰めた。


「誰だお前」

「誰でもいーだろ」

「うん…? はっ! 思い出した! こいつ、朝礼で校長が言ってた階段から落ちた三年じゃん! 昼休み救急車で運ばれた!」

「はあ!? だっ…さ! つか下級生が楯突いてくんじゃねーよ階段から落ちた鈍臭いマヌケが!」


 ひゅん、と拳が飛んでくるのをすんでで避けてがぶっ、とそいつの腕に噛み付く。途端、狂ったみたいにやんちゃがぎゃあっと悲鳴をあげた。


「いっだぁあ!! 折れた! うわぁあぁんぜってー折れたぁあ!」

「タケル!? 噛み付くとか反則だろ、こいつ頭おかしいんじゃねーの! いこーぜ」

「うわぁあぁん!!」


 泣き喚いて退散する三人を見送って、ふんと鼻を鳴らす。


「けっ。口ほどにも無い奴らめ」


 三人で一人を相手にしようなんてどうかしてる。俺だって足折れてんのに反則も何もあるもんか。まず怯ませる目的でそこまで強く噛んでないし。
 歯が気持ち悪い、と顎をさすってからはた、と思い出して振り返る。

 咄嗟に倒れ込んでいた男に手を貸すと、そいつはごめんね、と小さく呟いてからそっと車椅子に腰かけた。

 病的に白い肌をした、黒髪の、青みがかった瞳。


「ありがとう、助けてくれて」


 微笑まれて、控えめにこく、と頷く。

 さっきのやんちゃの口ぶりからするに年はそう変わらないはずなのに、それは世界の雑音全てを搔き消したような透明で、落ち着いた声だった。大人びていて、女子顔負けの品がある。中性的で整った顔立ちは、同じクラスの女子が見たら息を呑んで言葉を失くすレベルだろう。実際、男の俺ですら言い淀んだ。


「…ぁの」

「きみ、何年生?」

「…三年」

「そっか。じゃあ一つ年下だ」


 伏し目がちで「よく、からかわれるんだ」と続いた。さっきのやんちゃ達のことだろう。それをでも、煙たがっているわけでも、嫌がっているわけでもないように見えた。黒髪は、それよりも自分の不甲斐なさを悔やむような声で言う。


「僕がこれから死んでもし、誰かの夢に出ることがあったら。そのときは病気だって疑われないように、管でもつけてたらいいのかな」


 

 言葉の意図が汲めずに返事が浮かばないでいると、「あ、そうだこれ」と黒髪がズボンのポケットから何かを取り出す。


「きみにあげる。助けてくれたお礼」


 握った手を開くと現れる、蒼く煌めく、光。

 雫型をした透明の硝子の中、寄せては返す波のような蒼い砂のペンダントに、一瞬間の抜けた声が出る。少なくとも俺が生きてきた9年間で見る、ガラスケースの中に飾られた指輪やネックレス、ペンダント。そのどれよりも綺麗な輝きを放っていた。

 金一封を目の前にした悪代官みたいな反応をしていたと思う。散々見惚れてしまってから、はっとして我にかえる。


「…お、男にペンダント?」

「ごめん。でも今僕があげられる一番大切なものってこれだから。
 僕の父さん、宇宙について研究してる人なんだ。これも実際、不時着した天体で見つけた星の破片」

「不時着…!? 星の破片!?」

「星ってね、表面温度と年齢、その質量で色が変わってくるんだ。僕らが地上から見たとき眩しくてすぐに見つけられるのは、大抵が青い星。核反応が弱くて温度が低い赤い星に比べて、太陽の二倍以上のエネルギーを急激に放つからより輝いて見えるんだ。それだけの燃料を放出するんだ、星は若いうちに死んでいく。青い星が短命なのは、そのせい」

「青く光ってる…ってことは、じゃあ、これも重くて若い星?」

「うーん。ちょっと意地悪したね。あくまでそれは地上から観測した星の観え方の話で、“星”を実際地球に持ち帰ったらその辺にある石と判別付かないと思う。赤い恒星ですら2000度にも到達する、それも死んだら爆発と共に消失する。だとしたら多分、これは」

「…星じゃないんじゃ」

「乃至、爆発の拍子で惑星に到達したとある恒星の死骸」


 死骸! 俺、人助けして死骸突きつけられてんの!

 その瞬間虫や動物が息絶えてしまった姿を瞼の裏に見て、すぐさま突き返そうとする。も、黒髪はそれを静かに手で制した。


「でも、父さんはこれを星だって言った。もっと大きい個体だったそれを、不時着の混乱に乗じて破片だけ持ち帰ってきたんだよ。未観測の物質は本来、発見者を軸に名前が付けられたり研究の対象になったりする。でも内密にして僕に託した。粉末にして硝子の中に入れてね。星の亡骸を閉じ込めたそれを、僕は遺骨ペンダントって名付けた。もらってから今日まで、ずっと大切にしてたんだ」

「何それ、めちゃくちゃ大事なものじゃん。たとえお礼って言われても貰えないよ。そんな大切なもの、なんで手放して俺にくれようとするんだよ」

「…僕と一緒に燃えて死ぬのは、可哀想だと思ったから」


 一瞬、その言葉の意味がわからなかった。

 人は、死んだら、その棺桶の中にその人間の生前好きだったものや、宝物を一緒に詰めて火葬する。服や靴に、花。その中にはきっと、この黒髪の場合、星の遺骨も含まれているのだろう。

 どの星も最期は、燃え尽きて死ぬ。

 その結果奇跡的にヒトの手に渡ったこの蒼い星を、わざわざ宇宙と地球で、二度死なせてやることはないというのだ。


 

「だからこれは、きみが僕の代わりに持っていて。
 きみの重荷になるのなら、誰かに託すのもまた一つだ」


 直接的に目の前の少年の命の期限を知った訳ではないけれど、その行動が全てを物語っていたと思う。同じ時代に生きて、同じ瞬間にここにいるのに、その先の長く続いたレールは多分、俺より先に、こいつは途中で途切れている。

 全部を悟ったみたいにそれでも笑顔でいるから、受け取らない理由も見つからなかった。だから黙って受け取った。どうするかはわからなくても、これはいずれ、少年の、

 拓真の形見になる。


「お願い染みたお礼でごめんね」

「本当だよ」

「あ、そうそう。あとこれは宇宙飛行士の間で話題の言い伝えなんだけどね。
 まだ多くの目に触れられていない星は、願い事を一つだけ叶えてくれるんだって」


──────きみの願いが、この星に届きますように。










 蒼く光るその星を、あいつと別れてから手でぶら下げて光に透かした。

 きらきらと煌めく星は夜空に浮かぶ儚い光というより、海が陽の光を受けて瞬くような、頻りに降り続けていた雨空が晴れるあの、雲の切れ間から覗く太陽みたいな強さがある。

 
「───ねぇ、また暴れたってほんと?」


 看護師の言葉が耳を掠めたのは、俺がペンダントに見惚れていた直後だ。
 顔を上げるとカルテを持った看護師とワゴンを押した看護師がそれぞれ向かい合って声を潜めていて、奥にある病室を見つめている。


「らしいわよ。なんかね、あの子の場合ちょっと特殊なのよ、普通の子らとちょっと違うっていうか」

「狂気染みてるもんねぇ、やだなぁ私今日夜勤なのに」

「気をつけて、噛み付いたり引っ掻いたりしてくるから。施設の老人たちと変わんないわよもー。

 夜が怖いってのはわからないでもないけど…あれだけ症状が重篤だったらこの先不安。ちょっと困りものよねえ」


 その部屋を通りすがるとき、ふとネームプレートを見上げた。


「……ふか……あお」


 人より漢字は苦手で、眉間に皺を寄せて目を細めてみる。誰かがきっと隣にいたら、違うよ○○だよ、と訂正の言葉が入ったのかもしれない。



 
 だからわからなかったんだ。その名前がなんて読むのか、結局、最期まで。


 泣き声がした。

 誰かが一人で泣いていた。

 行って、傍にいてやらないと。


 そう思うのに、自分以外の景色が、世界が途端速度を増して遠ざかっていく。俺自身にだけ急激にクローズアップし、そのうち景色だけが四角い箱の中で繰り広げられているのが遠くに見えて、気付いたら真っ白な空間に背中から投げ出されていた。

 泣いている声がする。その声は遠ざかっていくのに、でも頭の中、鼓膜の奥、すぐ近くで聴こえて、やがて吸い寄せられていく。





















 心電計の音がする。


 ふ、と開けた視界の端で、誰かが一人で泣いていた。それは黒い影だった。懸命に目を凝らしてみれば、次第に視野の靄は晴れていく。


「───あの、あの…っ、お兄ちゃん、お兄ちゃんいつ目を覚ますんですか?」

「円ちゃん落ち着いて…気持ちはわかるけど、先生からも気長に待ちましょうってお話があったじゃない。それよりあなた自分のこと」

「もう一ヶ月も経つんですよ!? お兄ちゃん返してください! お願いだから助けてください!!」

「…………ま どか……?」


 息苦しくて、声が思うように出なかった。やっとの思いで絞り出した声にそれでも気づいてくれたのか、妹は、看護師ははっとして振り返る。


「──────お兄ちゃん!? お兄ちゃん!!」

「507号室の久野さん意識戻りました!! 誰か、誰か早く先生呼んできて!!」


 騒々しい外野の音に頭が打ち付けられて痛い。呆然としてる間にも妹は俺の胸で泣き喚いている。




 そこで俺はようやく、目を、覚ました。