「君さぁ、ここどこだと思ってんの。そんな全開でスマホ触るやつがどこにいるわけ。他の患者さんの迷惑になるからやめてくれるー」
「他の患者どころかこの部屋俺しかいないんだけど」
「今は偶然。広いからって何してもいいわけじゃなーい」
「マジすか。んじゃ没収前にレオナちゃんのLINEのID教えて」
「はい体温測りまーす」
雑に体温計を突っ込まれて簡単にかわされる。とはいえ持病で入院って訳じゃないし、所詮は骨折だ。カルテに記入することも高が知れてる。計測中手持ち無沙汰そうにベッドシーツを整えたりする彼女に話しかけない手はない。
「なー、レオナちゃん可愛いから他の病室でもモテるんでないの。入院してる爺ちゃんとかにセクハラ受けたりしない?」
「まー、無きにしも非(あら)ずかな。適当にいなすし」
「用心棒とかつけたほうがいいって、今のご時世何が起こるかわかんないしさ。あ、因みに俺とかどっすか。結婚を前提にお付き合い」
「やだー。高校生とかガキだもん」
「往来行き交うスーツ着た大人だって元はガキだったんだよ、俺十年経ったらすごいと思うよ多分」
「自分で言っちゃうんだ、それ」
「スタミナだけはある。あと人徳」
「あー。ま、きみが将来大出世して生涯食いっぱぐれのないようあたしのこと養ってくれるってんなら、考えてみてもいいかもねー」
「えっ!? まじ…」
そこで、スッと体温計を引っこ抜かれる。
「36度5分。いたって健康」
「それは良かった。てか今の話、」
「本来骨折だけなら大事を取っても一日二日ってとこだけどー、きみはぁ一応頭打ってるから。精密検査の結果が出るまで三日は入院。
こじんまりした病院だから噂の一人歩きが早いんだって。あんまりぴんぴんしてたらドン引きされんの、場合によっちゃ逆恨み買うからね。だから一応大人しくはしといて。ってのがあたしが仰せつかった師長からの伝言」
「もれなく片足折れてる人間にそういうこと言う? 極めすぎだろ不謹慎」
「不謹慎ついでに言っとくとお金の工面はお父さんがしてくれるってさ。ま、家族だからトーゼンかぁ。可愛い妹とビジネスマンなお父さん持ってて羨ましー。
あとトイレなりなんなりは松葉杖使って。今日一応きみが好きそうな雑誌の新刊入る日だよ」
☾
「エロ本のチョイスに関しては改良の余地ありだな」
人妻ナース、調教、SM、エトセトラ。
あまりに暴力的な言葉が並ぶ雑誌を手に取ったところで、健全な男子高校生が手放しに喜ぶと思ってんのか。もっとせめて健康的なのにしろよ、これ喜ぶの爺さんたちばっかだろ知らんけど。
「まいどー」
遠路はるばる病室から院内のコンビニまで赴いたってのにこの仕打ちはない。
結局雑誌は買わず目に付いた将棋の本とバナナ、パック牛乳を買って渋々病室にリターンする。左足が折れた今、直立一足歩行とはいえ松葉杖一つで人間そこそこいけるもんだ。
はじめこそ脇痛いとか使い勝手に文句を垂れたが、使い慣れた今ではもはや左足も同然。
「あとは同室に誰かいたら話し相手の一つも出来んだけどなー」
「鈴木ちゃん、目の下すーっごいクマ!」
ちびりちびり飲んでいたパック牛乳のストローがずこ、と音を立てた。
視界のはたに見えたナースステーションの中、二人の看護師が向かい合って談笑している。その片割れは遠巻きから見ても顔面蒼白だった。
「うわやっぱり化粧で隠せてない…? もうむり眠い」
「まーた【長】の仕業ですか」
「ほんっと酷いよあの子…眠れないからって夜通し暇潰しに付き合わされてさ、寝かけたら発狂するしこっちはほとんど一睡も出来なかったんだから」
「病気だから仕方ないけどねー」
「いくら病気だからって夜勤が一睡も出来ないなんて重度すぎ。拘束器具なり何なり使ってさっさと隔離病棟送りにした方がいいと思うわ」
「無理無理。あの子には鎹(かすがい)がいるもん」
「マジほんといい迷惑」
体力的に疲れていたのか、階段から転げ落ちてから丸一日寝こけていたわりにその日はすぐに眠りについた。
部屋に戻って、病院食の後、夜食と称してバナナを貪りながら窓の外を見る。夜に浮かぶ月を眺めながら、ナースステーションでのやりとりが確か、眠りにつく寸前まで頭の片隅にこだましていた。
そして翌朝、俺は人生で初めてベッドから転がり落ちて目を覚ました。
健常時ならまだしも、何故今だったのか思い返すだけで腹立たしい。
原因はスター・ウォーズでいうヨーダみたいな見た目で背中のひん曲がったよぼよぼの老人に寝込みを襲われたからで、高鳴る鼓動と狂気じみた悲鳴の後、その爺さんから「精密検査の結果出たよ」とついでみたいな声を聞いた。
「はっ? 盲腸?」
背中のひん曲がったよぼよぼの老人医師が俺の担当医師であることを知るのに、そう時間はかからなかった。
調子はどうだい、と聞かれてから、現在の状況に至るまで。そのほとんどを把握していたというのもその一つだが、それ以前に彼はまずなんの前置きもなしに精密検査の結果を報告し出したからだ。
そして俺は別の意味で冒頭の喫驚に転ぶ。
自分の自己紹介もなしに、誘(いざな)われるまま訪れた診察室で告げる老人医師が言うには、こうだ。
「んん。きみ頭打ってるからねぇ、やったでしょ精密検査。それで幸い、結果、脳や臓器に異常なし、左足の骨折だけってことがわかったんだけどぉ。
腹部のX線写真で、そう、これね。写真じゃわかりにくいんだけどなっちゃってるのよ、軽度の虫垂炎。要するに盲腸」
「やっ…いやいやいや。でも俺別に体何ともないし」
「軽度だからねぇ。なんならこのタイミングで精密検査しといてよかったよ。ほっといたら痛い痛いになってたよ」
「はぁ…ま、自覚症状ないし。軽度なんだったら別に様子見とかで大丈夫なんすよね」
「や、手術案件」
「はぁ!?」
「早期発見が叶っただけでまだ軽度だけど、この炎症の感じはよろしくないねぇ。なるべく早めに手術して取り除いちゃったが早い。痛いの嫌でしょ。サクッと終わらせよ、サクッと」
「サクッとって…」
「良かったじゃない、偶然にも骨折でどっちみち入院してたわけだしさ。+大目に見て4日ってところかな。期間がちょっと延びるだけだと思って。
人生でそうそう経験出来ない入院生活。せめてちょっとばかりエンジョイしてちょうだいな」
☾
「ふざっけんなよあの耄碌じじい!」
話が終わってから自分の部屋に戻るまでの道のりで、目に付いた自販機横のゴミ箱を蹴っ飛ばす。
スリッパでそんなことをしたもんだからあたりが悪く、ゴミ箱はがひょんと中途半端な音をあげた。
なにが良かっただ。なにがエンジョイだ。
他人事だからって好き勝手言いやがって、医者って生き物はやっぱ変わり者ばっかなのか。大勢の患者を見ていたら新鮮味が損なわれて、人を人とも見れなくなって、そんなだから変わり者だとかって罵られるんじゃないのか。
「あー…ダメだ落ち着け。物事を斜めから見るのはよろしくない、自分の物差しで人を推し量るな。けどすっげーむかつく、どうするよこの憤り」
うーんと頭を抱えて、とりあえず一旦冷静になりレオナちゃんから返してもらったスマホで円にメッセージを入れておく。
【悲報
盲腸で入院延長】
改めて文字に起こすとかえってムカついてもう一度ゴミ箱を蹴る。今度は勢い余ってばたん、と倒れてしまって、放っておこうと通り過ぎてから、やっぱり出来ずに逆再生の動きで散らばった紙くずを拾い上げる。
「ゴミ拾いとは精が出るな」
何やってんだろうとか、なんか泣きたくなってきたその時だ。遠くに転げ落ちた紙くずの最後に手を伸ばすと、大きな厚みのある手がそれを拾い上げた。
スリッパ、若草色の患者衣に羽織を纏った白髪の仏頂面。背筋のピンと張ったへの字口の老人は、俺を見下ろしたまま小首を傾げた。
「小僧、老いぼれの酔狂に付き合う暇はあるか」
☾
「なかなか筋がいい」
背筋のピンと張った老人、(以降じいさまと呼ぶ)に言われるがまま後に続くと、彼が俺のいる部屋の一個下の階に入院していることがわかった。
大部屋、縦並びに表記されたいくつものネームプレートの字の中で“松江宗山”を見つけ、きっとこの名前だ、と疑うことなくそう思う。
「うちの学校、生徒は部活・同好会入部必須なんだよ。バリバリやんのは嫌だった、そもそも別に部活強い学校とかでもないし。で、入ったのが将棋同好会」
「部員は」
「三人」
「軟弱者め」
大部屋の他の寝台は、他の老人が戯れていた。
それぞれみかんを食べたり、新聞を見ながらイヤホンでラジオを聴いていたり。それこそ有料テレビで将棋の番組に没頭する者もいたりで、老人とあっても、男はあまり変に群れたりしないで単独行動をする傾向があるのかもしれない。
じいさまに連れられて入ってきたときは異国民でも見るような目でじろじろと見られたが、じいさまのベッド脇で将棋に勤しむ今、その目も通常運転に戻りそれぞれの職務を全うしている。
「中学の頃は剣道やってたんだ、なんかその頃から身長ばきばき伸び出して抜きん出てるのが嫌で猫背でいたら、姿勢悪いって先公にドヤされて。んでもって厳しいもんだから学校から帰ったら夕食後死んだように寝てまた朝練。
高校はそうなってやるもんかーって思ったわけよ、彼女も欲しかったしねー。ま、高校三年間過ごしてもうそろ卒業手前、未だに出来てねーけど」
「上々だ。何事も生半可で成果は出せない。王手」
「あっ、くっそー! また負けた!」
「日頃の怠慢の結果だな」
低い声でくつくつと笑われて、渋々患者衣のポケットから100円を取り出して貯金箱の中に入れる。黒のボディで中身はわからないが、金貨の落下音からして中身は相当入っていそうだ。じいさまは日頃、暇を持て余しては相手を見つけ、貯金に勤しんでいるらしい。
「食えねーじじいだな、初心者なんだから加減してくれよ」
「初心者? どの口が、ルールを知って対局出来るとあれば十二分に一端だ。加減は無用」
「あら侍。八百長はお嫌いですか」
「イカサマもな」
胸ポケットから予備の駒を掠め取られる。苦笑いしたら、その手でごつんと額に拳をくらった。痛い。
「じいさまいつもこーやって相手見つけて金せびってんの。強すぎて相手も相手にならねーんじゃいい商売ですね、あと高校生から助言しとくと友だち失くしますよ」
「いい鴨なら目の前にいる」
「標的にされたよ」
俺だってコンビニバイトで稼いだなけなしの金しかないってのにあんまりだ。退院する頃には素寒貧だぞ多分。
「加地さん、気管チューブ。交換しましょうねー」
ワゴンを持って大部屋にやってきた看護師に、新聞を見ていた老人が頷く。ベッドに横たわった老人の喉に入った気管チューブからなんとも言えない吸引する音がして、「痰いっぱい出ましたねー」なんてやりとりを横目に見てから、丸椅子の上で猫背だった姿勢を正した。
「あ、そうだ。俺さぁ、昨日ここに入院になったばっかでこの病院のこと、ちょっとよくわかんねーんだよね。
でもナースステーションの横で聞いたんだ、じいさま“長”って知ってる?」
「小児病棟の娘のことか」
「娘?」
丸椅子を掴み、前のめりになる。
「詳しく」
「小児病棟にいるとは言っても童ではない。ただ奴は幼少期からこの病院に罹っていて、今までに多くの童らの入退院を見届けてきた。慣れない児童らを迎え入れ送り出し、時にそれが叶わない者のことも誰よりも。
そんじょそこらの看護婦よりもこの病院のことを知っている、だから称されることになる。そのうち誰からともなく「長」と」
「へぇ。んで今も児童を構えるヌシ様ってわけね。年は?」
「小僧とそう変わらんだろう、本人に訊いてみるといい。別嬪だぞ」
「そういうの待ってた」
せっかくの入院生活、浮いた話の一つも無いんじゃ退院後ヒデとよっちゃんにも顔向け出来まい。そうと決まればと起立して松葉杖を走らせる俺に、横を通りすがりざま看護師さんから「きみ、松葉杖で走らない!」と怒られた。
☾
小児病棟は、一般病棟の反対にある、二階に位置するんだそうだ。
廊下に貼り付けられた病棟の地図を頼りに松葉杖を走らせること十分ほど。わざわざ興味本位で、美人だから見たいって下心だけを動力源に松葉杖でてけてけと歩いてきた。
そのうち掲示板に保育園や、幼稚園なんかによくある折り紙で作られたチューリップやカエル? と思しきものが貼り付けられていて、「手洗いうがい」「インフルエンザ対策」などといった注意書きに目を走らせる。
子どもたちの声が聞こえてきた。
わいきゃい、と騒ぐ声に、ピアニカと思しき音。ほんと小学校の音楽の時間みたいだ、と立ち止まっていると足元に子どもがいた。
鼻にチューブを通した子が不思議そうに見上げてきて、気を取られていると「すみません」と声をかけられる。慌ててどけば、頭を下げて横を車椅子が通りすがった。
背中に大きな酸素ボンベを担いだ車椅子の少年だった。そのまま病室に戻っていく姿を目で追うと、そこに、彼女がいた。
病室のベッドに横たわった少女に絵本の読み聞かせをしているらしい。ベッドの周りは彼女を取り囲むようにして多くの児童で溢れ、彼女の言葉に耳を傾けている。
澄んだ声が聴こえる。
「“アナグマは死ぬことをおそれてはいません。死んで、からだがなくなっても、心が残ることを、知っていたからです。”」
壁に寄り添い、そっと目を閉じる。
真っ白な部屋に、風を受けて膨らんだカーテンを思い浮かべる。
「“夜になって、アナグマは、家に帰ってきました。月におやすみを言って、カーテンを閉めました。それから…”」
物語の続きを待っていたのに、突然声が事切れた。
なんでだと思い、身を乗り出す。前のめりになり、病室を盗み見たところで、
─────────彼女と、 目が、あった。
「やべ」
思わず口を手で塞いで顔を引っ込める。まずい。今のは絶対バレた。慌てて松葉杖の柄を握りUターンする。心臓がばくばくと鳴って痛くても、それでも離れた。見つけられてはいけない気がしたからだ。
ある程度病室から離れて、追っ手もないとわかれば速度を緩める。緊張が解けた途端くぅ、と腹が鳴り、時計を見れば丁度昼を回ったところだった。そりゃ腹も鳴るわけだ。
「…はー、俺、だっさ。帰ろ帰ろ」
乱雑に横髪を掻いて、来た道を戻る。松葉杖で床を蹴り、一歩、また一歩と復路に準じながら、腑に落ちない点を反芻する。
───…なんでだろう。
さっき、気のせいだろうか。彼女と目があったとき。一瞬喫驚したような顔が、怒ったようにムッとして。
それから、
「…え、どうしたの」
ふと物思いに耽りながら曲がり角を曲がった時だ。
視界のはたに、ひとりの小柄な少女が座り込んでいた。エレベーターに乗り込む手前の小さな角で、うっかりすれば見落としてしまいそうな場所に、辺りを見回す。…かくれんぼ、って訳でもないんだろうな。ここは、小児病棟からだいぶ外れにあたるし、何より子どもの影もない。
骨折してるだけに屈むのも一苦労で、何とかして壁に手をついて前のめりになる。
「なぁ、」
そこで、伸びてきた手がきゅっと、頼りなく俺の服の裾を掴んだ。
「…たす、けて、おに、」
「───え? っおい!」
かすれた声がそう言ったのを最後に、彼女はそのまま廊下に倒れこんだ。よく見れば身体中汗でびっしょり濡れているし、顔は真っ赤だ。
「ちょっ、誰か!」
松葉杖を落として床に倒れこむ。少女は5、6歳といったところだろうか。じっとりと汗で濡れた体を抱き起こして、事態の重篤さに気付いた。熱い。尋常でない熱さだ。早く、と立ち上がろうとするのに左足のギブスが邪魔をして舌打ちをする。くそ、動けよ足!
「女の子が倒れてる、誰か医者を、」
「ルナ!!」
ばたばたと廊下を駆ける音に驚いている間に、曲がり角から少年と、それから、“長”が現れた。
意表をつかれて仰天している間に彼女は俺からルナ、と呼ばれた少女を受け取り、少年に呼びかける。