「は、はぁ? 10年かかって治らなかった病気よ!? そんなこと出来るわけ」

「お願いします」


 自分勝手で傲慢だ。他人のことを顧みていないに違いない。それでもミオを救いたかった。ともすれば崩折れてしまいそうな希望にすら、今は縋る他なかった。深く頭を下げる俺に、医師たちが絆されたのかはわからない。
 
「せいぜい悪足掻きするといい」
 
 少しの間があってから誰かがそれだけ言い残して、顔を上げた時にはもう、大勢の医師たちが背を向けて歩いていくところだった。

 傍らにはミオがいる。
 
 何を言うべきか、と考えていたら向こう側から誰かがやる気のない足取りで歩いてきた。金髪黒縁眼鏡のナース、レオナちゃんだ。
 

「いたいたー。もー探したんだからーちょっとだけ」

「ちょっとかよ」
 
「急にいなくなんないでよ。忘れてんでしょ、今からきみ手術だからね。盲腸」

「そうだった」

「はいGO GO」

「わーかったから押すなって」


 それが仮にも患者に取る態度か。足折れてて早く行けない俺の背中を片手ではよ、って誘導するレオナちゃんに渋々その場を離れる。
 
 あー今から手術か憂鬱だな、と思ったとき、背後から「恭平」と呼び止められた。
 

「…ありがとう」

「…まだこっからだよ」













 残された時間は、退院までの三日間。
 

 


「ただいまー」

 小児病棟、多目的ホールの一角。扉を開けて帰ってきた俺が上着を脱ぐ仕草をすると、奥からぱたぱたとルナが駆けてきた。
 
「おかえりなさいあなた、おしごとお疲れさま」

「いやーマジで疲れたよ、取引先の新人がかくかくしかじかでぽんこつでさぁ」

 ルナと俺は、夫婦である。
 
 もちろん本当のではない。というのもただいま、ままごとの真っ最中なのだ。たいへんねー、なんて言いながら俺の脱いだ上着を受け取る仕草まで忠実に再現するルナは、よもや5歳児とは思えない演技力ですっかり俺の奥さんに成り切っている。

 
「汗かいたでしょ。お風呂にする、ごはんにする、それともわ、た、し?」

「お前それどこで覚えたの」

「ヤダもう早く座って♡ 今日はアナタの大好きな煮っころがしでーす!」

「俺の好きなもの渋くない?」


 マジでほんと5歳児かお前。背中にチャックとかついてんじゃあるまいな、と絶妙な設定を訝りながら椅子に座る。同じように隣に腰かけたルナが、おもちゃの器と箸を取って、それからふー、ふー、と息を吹きかけた。


「はい、あーん♡」

「…いや俺足折れてはいるけど腕は使えるから。自分で食べれるよ」

「だめだよ! 新婚さんなんだから! 前に新婚さんはみんな奥さんが旦那さんにあーんってするって言ってたもん」

「それどこ情報だよだいぶ稀だぞ!」

「………恭ちゃんルナにあーんして欲しくない…?」


 うる、と涙目で見上げられてうっと言葉に詰まる。息子役で待機しているセナの目が光ったように見えてぶんぶん顔を振るといや、と笑ってみせる。そのままぱく、と食べる仕草をしたらふわ、ともちもちのほっぺたが落ちんばかりに破顔した。


「美味しい?」

「うん美味しい」

「えへへーっ。そしたら今度はこっちね」


 演技なのに心底嬉しそうに食卓を囲う姿が目に見えるんだから凄い。ルナの一種の才能かもしれない。一つ一つの料理を説明しながらこれはね、なんて語る姿は愛嬌で溢れてるし、見た目だって目も大きくて可愛らしいから、きっとこの先大きくなったらモテんだろうな、なんて親目線で見ていたらぐい、と俺とルナの間に誰かが割って入ってきた。

 ミオだ。



 
「ちょ、ミオ。お前娘役だろまだ入ってくんの早いぞ」

「どっかの誰かさんが子どもに向かってガチで鼻の下伸ばしてっから自主規制入んないとなーと思って」

「誰が鼻の下伸ばすか!」

「えーっ? 恭ちゃんルナにときめいちゃったの!? 嬉しいっ! 恭ちゃん、じゃあルナのお嫁さんにしてあげるーっ」

「婿じゃなくて?」


 ミオを押し退けてぎゅーっと真っ向から抱きつかれて苦しい、と思うのに可愛いから無下に出来ない。苦笑いしていたら押し退けられて猫が毛を逆立てるような反応をしたミオが反対からぐい、と俺の腕を取った。


「ルナ! 恭平はやめとけこいつお前に本気で手をだしかねない変態だぞ」

「出さねーわ!」

「いいよ! だって恭ちゃんはルナの将来のお婿さんだもん! ねーっ」

「ねーと言われても」

「大体ミオちゃんだってずるい! 恭ちゃんと二人っきりでどっか行ったりしてんのルナ知ってるんだから! ひとのもの盗るなんて意地汚いわよこの…っ泥棒猫!」

「ルナほんとお前どこでそれ覚えたの」

「恭ちゃんは渡さないっ!」

「こっちだって渡さない!」

「いだだだだだ! 両サイドから腕引くなもげる! 息子! 息子役! セナ警察呼べ」

「警察ーっ!!」

「いや叫ぶんじゃなくて電話しろ!!」

「───ごめんください。愛人(ミオ)の息子の拓真です。覚えてますか、父さん」

「だーっ! どんなドロドロままごとだよややこしいっ!!」


 







          五日目








 

「はー…やれやれだぜ、偉い目にあった。なぁミオ」


 ままごと、という名のドロドロ人情劇を終え肩を回す。自由時間が終わり、例の如く子どもたちが検査やら検温やらで病室に戻るのを見送ると多目的ホールは静寂に包まれた。だと言うのに、隣に立つミオは聞こえてるはずが腕を組んでそっぽを向いたままだ。


「おい」

「…」

「たかだかままごとだろ。何ムキになってんだよ」

「ムキになんかなってない!」

「なってんだろ現在進行形で」


 冷静なトーンで言ったらかえってそれが癪に障ったのか、キッと睨みつけられた。それでいてどこか拗ねたような反応にますます意味がわからず小首を傾げていると、バシッと着ていたパーカーを投げつけられる。


「いてっ! 何すんだバカ」

「恭平のバカ、タコ!」

「ぁあ!? てかどこ行くんだよ夜驚症克服の作戦考えんじゃねーのかよ」

「あたしは検査だ! てめー一人でやってろクズ!」

「……っはぁー!?」


 いきり立って叫ぶなりどかどかと歩いていく背中に訳がわからず叫ぶ。俺そんな怒らせるようなことしたか!?


「恭平さんって、結構ニブいですよね」

「拓真」


 さりげなくフレームインした車椅子がキ、と小さな音を立てて俺の隣に停まる。何が、と仏頂面で口を尖らせたら、曲がり角へと消えて行くミオを見送った拓真が、ゆっくりと顔を上げて。

 にこ、と微笑んだ。


「ヤキモチですよ」


「…誰が?」

「…もういいです」


 かく、と漫画みたいに車椅子の肘置きに置いていた腕を外す拓真に、一層理解が出来ず疑問符を浮かべる。ヤキモチって、あれか。俺にか。別にルナのこと取って食いやしねーよって言うのに、拓真にはやれやれといった感じで首を左右に振られた。なんなんだ。


「…つーかあいつ口悪すぎだろ。どんな教育受けたら一体あんな乱暴な口叩けるようになんのか、甚だ疑問でしかねーわ」

「それは、バレないようにしてるんじゃないですか」

「何を」

「さあ?」


 肩を竦めてすっとぼける拓真に、目を細める。


「人が嘘をつくのは決まって、自分か、大切なものを守りたい時の二つに一つです」


 
「詩人か〜〜〜!!」


 病棟の廊下を闊歩しながら叫んだら、通りすがりざまの看護師にしぃっと人差し指を突き立てられた。ぺこ、と苦笑いしてから、それでもすぐに鼻を鳴らす。

 なんなんだ、どいつもこいつも。ルナに関してもそうだけど、拓真。あいつ本当に10歳か。年の割に大人びた所作、悟りの開き方。俺絶対あいつと同じ年の時あんなこと思ってなかった。それに加えて時折挟んでくる全部知ってるみたいな口ぶり。

 どういう意味と言及すれば「僕子どもなのでよくわかりません」とか言って病室に帰ってしまうし、肝心のミオに至っては原因不明のご機嫌斜めでまともに掛け合ってももらえない。

 つかもう知らんあんなやつ。勝手にしろ。


「………あ゙〜もうむしゃくしゃする」

「いい加減にしてくれよ、爺さん」


 突然届いた大人の声に、立ち止まる。

 振り返ると、廊下の奥でじいさまを煙たそうに遇らう数人の大人たちが見えた。


 ☾


「もうあんたの興に付き合うのは懲り懲りだ。わかるだろ、潮時だよ」

「勝機がないとわかった途端尻尾を巻いて逃げるんだな」

「逃げる逃げんの問題じゃない。わかんないか。老い先短い老人蔑ろにすんのも癪だってみんな気を遣ってやってたんだよ、でもそれももう飽き飽きさ。将棋の続きがやりたいってんならとっとと退院して、今度は老人ホームで同志でも見つけるこった」


 後ろを振り返らずひらひらと手を振る中年男性数人を見送ると、じいさま、もとい松江宗山は僅かに視線を伏せる。

 その日、大部屋には人っ子ひとりいなかった。時間帯的に、検査やリハビリに行っているのだろう。…あとは。

 無機質に整えられた向かいのベッドに一瞥をくれてから自分の寝台に戻ると、窓の外を眺める。ふと何気なく振り向くと、入り口に「福沢諭吉」を携えた腕のみが覗いていた。


 途端、ひょこりと顔を出した青二才がにたり、と勝気に笑う。


「王座決定戦と行こうぜ、じいさま」

「………物好きなやつめ」



 
「わざわざ自分からカモに立候補するとはな。
 周りの老人共に毒されていよいよ焼きが回ったか」

「初めて見た時から思ってたけどじいさま、あんた友だち少ないだろ」


 半目で言うと将棋盤にぱち、と駒を指す。

 例によってじいさまの寝台脇、患者衣の襟に万札を差した俺の姿はまるで海外でいうチップか何かの類そのものにも見えるが、これって絶賛俺の全財産なだけに事は慎重を要する。


「金ヅル探してんのは知ってたけどしょっちゅうやってたのあれ。そりゃあんな対応にもなるわ、目があった人間手当たり次第引っ掛けるとか体のいいカツアゲだからな」

「カツアゲか。腕白だな」


 そんな可愛いもんじゃないやい、と睨むのに何が面白いのか、じいさまは低い声で笑った。目尻に皺を作って笑うじいさまを見ながらどうしようもねえな、と思う。その傍らで、俺がやんちゃをした時に妹がよく言う決まり文句「男のひとってどうしてそうなの!?」というワードがふと脳裏をよぎった。

 円。言ってやってくれこの爺さんに。今ならお前の気持ち、わからんでもないぞ。

 自分のターンで考えるふりをして、唇に手を添えるとじいさまを盗み見る。への字に曲がった口角に、眉間に深く刻まれた皺。真っ白な髪に、年老いて少し緑がかった目を見ていると座り直す拍子にこつ、と後ろ手にそれが当たり、存在を思い出した。


「ま、でも良かったじゃんじいさま。こーんな若くてかっこよくて見目麗しい友人を得たんだ、鼻も高いだろ」

「寝言は寝て言え」

「ほー。いいのかな〜? 今の俺にそんな口叩いちゃって。じいさまがそう来るならこっちにも考えがある」


 訝るじいさまにすい、と背中から取り出した「それ」を掲げる。

──────医学書だ。

 拓真から以前借り、「持ち主に返しておいてほしい」と言う伝言を今、まさに俺は果たそうとしていた。

 またしても不意をつかれたような反応を示すじいさまに俺はへい、とそれをテーブルに置く。

 
「じいさまお医者さんだったんだな」

「…童か」

「俺の見立ては間違いでなかったってことか」

「見立て?」

「うってつけだろ。“じいさま”」


 ふふんと得意げに鼻を鳴らしながら駒を指す。


「俺ってどうやら人を見抜くセンスに長けてるらしい」

「自惚れるな、見かけで判断してるだけだろう」

「あ、バレた? でもじいさまは風格出てたよ。初めて会った時から。ただもんじゃねえなーって」

「…遠い昔の話だ。人に神様だなんだと讃えられて、自身に驕っていた青い頃の。他人に没頭するあまり女房の異変に気付かず知った時には手遅れだった。それを機に家を出た一人娘は、一度だけ孫を預けに来たっきり。

 …娘も女房譲りで心臓が悪くてな。そこを患ったんだと思ったら、蝕んだのは全く別の病気だった。よく憶えてるよ、会いたくなかったんだろうに。頼る相手が私しかいなかったから、仏頂面で「一夏だけこの子を頼む」と頭を下げてきた。皮肉にも医者の娘だ。自分が余命幾ばくもないことを知っていて最期までもがいていた」

「…」

「娘の訃報を知ったのも、亡くなってからだ」


 将棋盤を睨むふりをして、目を瞠った。

 だけどすぐさま何事もなかったみたく「そっか」とだけ返した。ここで同調したり、慰めたりするのはなんだか違う気がしたからだ。必要以上に踏み入らない他人だから、じいさまは俺にそれを話した。きっとそうに違いないなら、これ以上踏み入る理由もない。「友だち」の枠を越えたところで、所詮。

 だから案の定、じいさまは話題を逸らした。


「お前、自分の容態はどうなんだ」

「見てのとーり。てかんな簡単に骨繋がんねーよ」

「手術がどうとか聞いたが」

「あぁ盲腸の話? もう終わったよ。おかげさまで昨日、てかどこ情報」

「規模の割に人が少ないからなこの病院。情報の一人歩きが早い」

「どうなのそれ、今時訴訟モンだっつの。告発してやろうか」

 悪戯に吹聴のモーションをして見せてからじいさまに左右に首を振られる。ちぇ、と口を尖らせていれば、静かに問いかけられた。

「…怖くなかったのか」

「たかだか盲腸だろ。なんかよくわからんけど悪いとこ取り除いて切って繋いでハイ終わり。周りが抱えてる痛みと比べたらちょちょいだよ」


 

 体が虚弱でいつ発作に見舞われて倒れてしまうか分からないルナ。

 酸素ボンベを担いで車椅子に乗る拓真。

 そして夜驚症のミオ。

 小児病棟で戦っているあいつらとは、比べ物にならない場所にいる。治療法があって手術で治る俺なんてきっと簡単でちっぽけだ。ちょっとの痛みは伴うのかもしれない。でもいずれ終わりを迎えるそれなら、きっとどうってことはないはずだ。


「…………けどそう言われてみればなんか痛いような気もしてきた」

「難儀なやつだな」


 あれ、と思いつつじくじくと痛み出す腹部を手で抑える。おかしい。なんでださっきまで全然平気だったのに。

 まさか手術失敗したんじゃ、と一瞬は不吉な予感が頭をよぎったが、俺の予想に反して突如込み上げてきた痛みは、さっと何事もなかったみたいに通り過ぎていった。そう、まるで波が引くみたいに。

 心配そうにするじいさまをよそに将棋を指す。その日は、長期戦だった。前は三十分くらいで勝負がついたけど、今日は話をしながらという点を差し引いても、もう一時間以上は経っていた。

 勝負に集中するあまりお互い黙りこくってからしばらくした頃、ふと寝台横の貯金箱に目がいった。

 じいさまと将棋で戦い、負けた方がお金を入れる例の貯金箱だ。無骨な黒の缶。───…畳の奥の、縁側の角にある。でも普段は手が届かないよう、衣装タンスの上から高々とこっちを見下ろしていて。だからそれが気になって。蒸し暑い夏の日に、それが何なのか、見上げて指を指して怒られた。

 怒、られた。




(誰に?)


「おい」

「んぉ」

「お前の番だぞ」

「あ、ごめ」


 やべ、と慌てて駒を動かしたせいであらぬところに指してしまい「あっ」と口に出す。でもそれがかえって良かったのか、じいさまは若干目を細めた。

 本来、原則として将棋の勝負中に私語は厳禁だ。

 勝負に気が散ってしまうし、大体勝つか負けるかのときにべらべら相手に話しかける棋士なんて普通いないからだ。趣味で行うそれでも大まかには同じこと。

 じいさまが他の相手とどんな対局をするのか知らない。
 だからなんとも言えないのだけれど。例えば、相手が俺じゃなかったとして。それでもじいさまは俺みたいに、対局中話しかけてきただろうか。