終わったな、と痛感した。

 馬鹿笑いをした日々が記憶に新しい。

 伸ばした手でどうにか掴めないかと躍起になったけれど、手遅れだった気がする。
 藻搔いた手が虚しく空を裂いて思った。

 走馬灯は存在した。記憶のフィルムが耳の片方から容易く解けて散らばったとき、大切なのはいつも取るに足らないものばかりだった。

 ありがとうもごめんもさよならとも違う、有り触れた大層な御託。
 耳を塞ぎたくなる世界で次に目を覚ました時、せめてどうか◼️◼️には優しくあればいいと願う。










 学校で友人と悪ふざけをしていた。ら、誤って階段から転げ落ちた。

 結果、左足の複雑骨折・全治三ヶ月。

 死ぬこと以外はかすり傷だ。もう一度目を覚ました時、洒落じゃなくそう思う。


 

 目覚めたら、自分を家族や友人が取り囲んでいる絵面なんてのはどだい映画やドラマだけの話で、実際はそうでもない。

 それが危篤や峠だったなら話は別かもしれないが、無人の大部屋でひとりだった俺は見回りと思しき小太りの看護師に「あ、起きた?」なんて言われて。

 これ何本に見える、一本、今日は何日、○月×日。そんな定番のやりとりをしていたら、ばたばたという騒音を連れて妹が病室に飛んできた。


「もうバカ! ほんとバカッ!! 友だちとふざけてて階段から落ちるとかほんと何考えてんの!?」

「やーもうマジで驚いた。こう、ヒデとよっちゃんに昨日の原田の一発KO実演してたらつい熱くなっちゃってー、階段と気付かず、ずるっと」

「本当に心配したんだから!」

「こんな思いしたの小三の時以来だなー」


 うんうん、と腕組みして感心していたら左脚のギブスをバシッと殴られる。


「い゙っ…、てめぇっ! 折れてんだから加減しろ! 使い物にならなくなったらどーしてくれんだ」

「別にろくすっぽ使い道ないくせに大口叩かないでよねバカにぃ!」

「くーそー。つーかそうだよ二人は。いねぇの」

「知らない、昨日は来てたみたいだけど。てか階段から落ちて丸一日寝こけてるとかマジだっさい。理由聞いて心配して損した」

「うっそだあー。そんなこと言ってお前目ぇ真っ赤じゃん泣き虫円(まどか)、いでっ!」


 からかって見せたら今度はりんごを投げつけられた。食べ物を粗末にするやつがあるか、と叱るのに、知るかと言わんばかりの勢いで入院に必要なものが入った紙袋の中身を押し付けられる。


「って、お前もう帰んのかよ」

「お母さんにおつかい頼まれてるの」

「あっそー。なあ、フルーツバスケット今度持ってくる時はバナナにして。りんごより好きだ」

「はいはい」

「あ、あと可哀想なお兄ちゃんが元気になる雑誌かなんか買って来てもらえると」

「死ね変態!」


 

 そんなやりとりをしたのが、目覚めてすぐの話だ。

 その言葉通りあわやぽっくり逝きかけた兄に対する妹の発言だとは、よもや思うまい。だが世の中所詮は結果論だ。馬鹿やって勝手に死にかけたのは自分自身だし。自業自得か、とその時ばかりは素直に受け止めて、前のめりになった身体をベッドに預けた。


「…おつかい…」


 どこか釈然としない気分のまま、窓の外を眺める。

 真っ青な空に悠々自適な雲がのんびり散歩をしていて、あまりの平和の極まりなさに今自分が置かれている状況とのギャップを凄まじく感じる。



─────────暇だ。

 みんな今頃何やってんだろう。いや学校行ってんだろうけど。

 とは言っても、ヒデもよっちゃんも一歩間違えれば今俺が置かれている状況に十分なり得たというのに、一回の訪問っきり音沙汰なしとは、薄情な奴らだ。学校に行けば寝ても覚めても一緒にいてバカやったのに、俺たちの友情ってそんなもんだったわけ。

 そんな思いがふつふつと沸き起こり、知らず識らずのうちに苦虫を噛み潰したような顔になる。自分は割と無関心な方だと思ってたけど、いざ「こう」なってみると人並みに寂しいとかそういう感情、持ち合わせていたらしい。


「誰か連絡してこいよー」

 ベッド脇の小棚に置いていたスマホに手を伸ばし、あてもなく番号をタップする。

 プップップ、の音に続いてプツリと音が鳴った時、

「はぁい没収」


 後ろからスマホをかすめ取られた。


「あ。レオナちゃん」

「“ちゃん”じゃないしー。歳上」


 ぱし、と頭を叩かれていてっと軽く声を上げる。

 担当のレオナちゃんこと新田麗央那は、齢27の美人看護師だ。都内でも廃れた病院であるのをいいことに、髪は金に近い明るめの茶髪だし、カラコンをし、メイクもバッチリ決め、出会って数回目にした中でマスクをしてるところなんて見たことがない。

 けど仕事は出来るから周りも何も言えないんだそうだ。間延びした喋り方だろうが気怠げな所作だろうが、やることやってんならチャラだろう。強面のおばちゃん看護師よりはこっちとしても俺得だし、と破顔する。



 

「君さぁ、ここどこだと思ってんの。そんな全開でスマホ触るやつがどこにいるわけ。他の患者さんの迷惑になるからやめてくれるー」

「他の患者どころかこの部屋俺しかいないんだけど」

「今は偶然。広いからって何してもいいわけじゃなーい」

「マジすか。んじゃ没収前にレオナちゃんのLINEのID教えて」

「はい体温測りまーす」


 雑に体温計を突っ込まれて簡単にかわされる。とはいえ持病で入院って訳じゃないし、所詮は骨折だ。カルテに記入することも高が知れてる。計測中手持ち無沙汰そうにベッドシーツを整えたりする彼女に話しかけない手はない。


「なー、レオナちゃん可愛いから他の病室でもモテるんでないの。入院してる爺ちゃんとかにセクハラ受けたりしない?」

「まー、無きにしも非(あら)ずかな。適当にいなすし」

「用心棒とかつけたほうがいいって、今のご時世何が起こるかわかんないしさ。あ、因みに俺とかどっすか。結婚を前提にお付き合い」

「やだー。高校生とかガキだもん」

「往来行き交うスーツ着た大人だって元はガキだったんだよ、俺十年経ったらすごいと思うよ多分」

「自分で言っちゃうんだ、それ」

「スタミナだけはある。あと人徳」

「あー。ま、きみが将来大出世して生涯食いっぱぐれのないようあたしのこと養ってくれるってんなら、考えてみてもいいかもねー」

「えっ!? まじ…」


 そこで、スッと体温計を引っこ抜かれる。


「36度5分。いたって健康」

「それは良かった。てか今の話、」

「本来骨折だけなら大事を取っても一日二日ってとこだけどー、きみはぁ一応頭打ってるから。精密検査の結果が出るまで三日は入院。

 こじんまりした病院だから噂の一人歩きが早いんだって。あんまりぴんぴんしてたらドン引きされんの、場合によっちゃ逆恨み買うからね。だから一応大人しくはしといて。ってのがあたしが仰せつかった師長からの伝言」

「もれなく片足折れてる人間にそういうこと言う? 極めすぎだろ不謹慎」

「不謹慎ついでに言っとくとお金の工面はお父さんがしてくれるってさ。ま、家族だからトーゼンかぁ。可愛い妹とビジネスマンなお父さん持ってて羨ましー。

 あとトイレなりなんなりは松葉杖使って。今日一応きみが好きそうな雑誌の新刊入る日だよ」


 

 ☾


「エロ本のチョイスに関しては改良の余地ありだな」


 人妻ナース、調教、SM、エトセトラ。

 あまりに暴力的な言葉が並ぶ雑誌を手に取ったところで、健全な男子高校生が手放しに喜ぶと思ってんのか。もっとせめて健康的なのにしろよ、これ喜ぶの爺さんたちばっかだろ知らんけど。



「まいどー」

 遠路はるばる病室から院内のコンビニまで赴いたってのにこの仕打ちはない。

 結局雑誌は買わず目に付いた将棋の本とバナナ、パック牛乳を買って渋々病室にリターンする。左足が折れた今、直立一足歩行とはいえ松葉杖一つで人間そこそこいけるもんだ。

 はじめこそ脇痛いとか使い勝手に文句を垂れたが、使い慣れた今ではもはや左足も同然。


「あとは同室に誰かいたら話し相手の一つも出来んだけどなー」

「鈴木ちゃん、目の下すーっごいクマ!」

 ちびりちびり飲んでいたパック牛乳のストローがずこ、と音を立てた。

 視界のはたに見えたナースステーションの中、二人の看護師が向かい合って談笑している。その片割れは遠巻きから見ても顔面蒼白だった。


「うわやっぱり化粧で隠せてない…? もうむり眠い」

「まーた【長】の仕業ですか」

「ほんっと酷いよあの子…眠れないからって夜通し暇潰しに付き合わされてさ、寝かけたら発狂するしこっちはほとんど一睡も出来なかったんだから」

「病気だから仕方ないけどねー」

「いくら病気だからって夜勤が一睡も出来ないなんて重度すぎ。拘束器具なり何なり使ってさっさと隔離病棟送りにした方がいいと思うわ」

「無理無理。あの子には鎹(かすがい)がいるもん」

「マジほんといい迷惑」








 体力的に疲れていたのか、階段から転げ落ちてから丸一日寝こけていたわりにその日はすぐに眠りについた。

 部屋に戻って、病院食の後、夜食と称してバナナを貪りながら窓の外を見る。夜に浮かぶ月を眺めながら、ナースステーションでのやりとりが確か、眠りにつく寸前まで頭の片隅にこだましていた。


 

 そして翌朝、俺は人生で初めてベッドから転がり落ちて目を覚ました。

 健常時ならまだしも、何故今だったのか思い返すだけで腹立たしい。

 原因はスター・ウォーズでいうヨーダみたいな見た目で背中のひん曲がったよぼよぼの老人に寝込みを襲われたからで、高鳴る鼓動と狂気じみた悲鳴の後、その爺さんから「精密検査の結果出たよ」とついでみたいな声を聞いた。











 

「はっ? 盲腸?」


 背中のひん曲がったよぼよぼの老人医師が俺の担当医師であることを知るのに、そう時間はかからなかった。

 調子はどうだい、と聞かれてから、現在の状況に至るまで。そのほとんどを把握していたというのもその一つだが、それ以前に彼はまずなんの前置きもなしに精密検査の結果を報告し出したからだ。

 そして俺は別の意味で冒頭の喫驚に転ぶ。
 自分の自己紹介もなしに、誘(いざな)われるまま訪れた診察室で告げる老人医師が言うには、こうだ。


「んん。きみ頭打ってるからねぇ、やったでしょ精密検査。それで幸い、結果、脳や臓器に異常なし、左足の骨折だけってことがわかったんだけどぉ。
 腹部のX線写真で、そう、これね。写真じゃわかりにくいんだけどなっちゃってるのよ、軽度の虫垂炎。要するに盲腸」

「やっ…いやいやいや。でも俺別に体何ともないし」

「軽度だからねぇ。なんならこのタイミングで精密検査しといてよかったよ。ほっといたら痛い痛いになってたよ」

「はぁ…ま、自覚症状ないし。軽度なんだったら別に様子見とかで大丈夫なんすよね」

「や、手術案件」

「はぁ!?」

「早期発見が叶っただけでまだ軽度だけど、この炎症の感じはよろしくないねぇ。なるべく早めに手術して取り除いちゃったが早い。痛いの嫌でしょ。サクッと終わらせよ、サクッと」

「サクッとって…」

「良かったじゃない、偶然にも骨折でどっちみち入院してたわけだしさ。+大目に見て4日ってところかな。期間がちょっと延びるだけだと思って。

 人生でそうそう経験出来ない入院生活。せめてちょっとばかりエンジョイしてちょうだいな」


 ☾


「ふざっけんなよあの耄碌じじい!」


 話が終わってから自分の部屋に戻るまでの道のりで、目に付いた自販機横のゴミ箱を蹴っ飛ばす。
 スリッパでそんなことをしたもんだからあたりが悪く、ゴミ箱はがひょんと中途半端な音をあげた。