ああこれは機嫌を損ねる失言をしたな、と気付いた時には笠井に腕を掴まれ水を張った洗面所に顔面を押し付けられていた。
酸素を求めてじたばたと抵抗する私がよっぽど面白いのか上から何かの発言があるけれど踠いていたら聞こえない。前に同じ要領でトイレの便器の中に顔面を押し付けられたことがあったから衛生面ではこの【ペナルティ】の方がマシだな、とどこか客観的にこの状況を見つめている自分がいて、だけど物事は紙一重でその代償に私の致死率は上がる一方だった。
こんな時この男のやり方は確立されていて、意識を手放せると思った矢先にわざわざ顔を上げて呼吸をさせてからもう一度ふりだしに戻させる。鏡越しに見た乱暴に私の髪を鷲掴む男の表情はこれ以上にないほど嬉々としていて、手先さえ見えていなければその端正な顔立ちからきっと通り過がる異性の9割がこいつの狂気を知らずに恋に落ちるに違いない。それが逆に恐ろしかった。
抜き身のナイフが路上を手ぶらで散歩をしている様を夢に見て、溺死寸前の意識混濁を7回繰り返したところで買い物から帰った母が仲裁に入り私は難を逃れる。良かったとは思わない。声が出ないから頭の中で何故帰ってきたの、と充血した目でお母さんを睨みつけた。だってそうでしょう。この子には手を出さないでください、と逆上するお母さんの声が更に笠井の嗜虐心を掻き立てるというのに、お母さんは全部わかっていてわざと私から注意を逸らして自分にその矛先を向けさせてしまうから。
丁寧で落ち着いた声はそれでもこの後にお母さんに何をしでかすかを当て付けるように示唆してきて、動けない私に構わずお母さんの手首を引いて部屋に戻って蹂躙する。その時自分を傷付けられるより苦痛に歪む私の顔がよっぽど好きなのか、いつしか笠井はわざと扉を少し開けて私の表情を堪能するようになった。
ここから先はいつも、ほぼ同じ展開だ。
相変わらず私を私以外の誰かが客観的に眺めているような情景が浮かんでから、私は頭の中であの男を包丁で滅多刺しにする。血飛沫がそこら中に飛び散って原型が留まらなくなるほど傷つけて傷つけて傷つけて、それでもまだ足りないと血を舐めて嗤う私は人間の尊厳も道徳もそのどれをも凌駕していて、世間を行き交う18の女子高生がするにはあまりに猟奇的で残虐的な妄想に身を委ねてほっとしている。
気が付いたら泣いていた。
ああ、まだ人並みの悲しみが私にはあったんだな、と私は私を思い知る。
それくらい、私が守りたかったものは、もう随分前から正常ではなくなってしまった。