ひんやりとした空気が漂う廊下。消毒液の匂いに包まれた保健室。空っぽのプール。人の気配がない校庭。
ひとつひとつに様々な思い出があるから、それらを辿るほど切なくなっていく。楽しそうに笑う遼が眩しくて、彼からひとときも目を離したくないと思う気持ちとは裏腹に、その顔を真っ直ぐ見ることができない。

きっと、遼が生きていたら、こんな気持ちになることはなかった。この恋が実らなくて彼との日々が切ない思い出になっていたとしても、いつかそれは甘酸っぱい記憶となって心の中に大切にしまっておけただろう。

だけど……遼がいない未来を知っている私は、ほんの少しでも気を緩めると泣いてしまいそうで。明るい笑顔に胸が締めつけられ、上手く笑うことができない。

「美咲? なんで泣きそうになってるんだよ」

「え? 別に泣きそうになんか……」

「バーカ。親友の目をごまかせると思うなよ! 昨日も泣いてたけど、卒業が寂しいって感じの顏じゃなかった」

真面目な顔つきになった遼は、私の気持ちを見透かすように真っ直ぐな双眸を向けてきた。吸い込まれてしまいそうなほどに真剣な表情は、私を心配してくれているのがわかって、力強い眼差しと優しさに胸がキュンと鳴った。

「もちろん、寂しいだけじゃないよ! 私は、九州に引っ越すんだもん」

幸いにも進学と同時に引っ越したから、高校ではそれなりに友人もできたけれど……。この頃の私は、中学校を卒業することに対する寂しさだったり、知らない土地に行かなきゃいけないことがつらかったりして、とにかく漠然とした不安を抱えていた。
だから、遼との関係まで壊れてしまうと受け止め切れなくなりそうな気がして怖くて、最後の最後まで想いを口にできなかった。伝えられないまま永遠に会えない方がずっとずっと苦しい思いをすることになると知っている今なら、あのときの不安や怖さなんて乗り越えられたのかもしれないと思えるけれど……。

「別に九州に行ったってずっと友達だし、新幹線とか飛行機なら数時間だろ? お前が本当につらいときには、俺が会いに行ってやるから」

ぶっきらぼうな言い方だったけれど、必死にこらえていた涙を零れさせられてしまうくらい、彼は優しい笑みを浮かべていた。

ずるい……。十歳も年下のくせに、泣かせないでよ……。

「だから、泣くな。今日は笑って過ごそうぜ」

白い歯を見せて笑う遼が、私の髪をぐしゃりと撫でる。優しくなんてない手つきだったけれど、熱い手から与えられた力強い仕草に、ずっと前に進めずにいた心がほんの少しだけ救われたような気がした。
ただ、私は救われたいわけじゃない。

「遼」

大切な人を――遼を、救いたい。
だから、彼の気持ちはとても嬉しかったけれど、まだ涙で濡れたままの目尻を拭ってから口を開いた。

「卒業式が終わったら桜神社に来て。伝えたいことがあるの」

真っ直ぐな視線に向き合うように真剣な表情になった私に、遼は少しだけ驚いたような顔をしていたものの、程なくして頷いてくれた。

「わかった」

「待ってるから、絶対に来てね」

「あぁ、約束する」

今日は、十年前と違っていることがいくつもある。どれだけたくさんの“違い”を重ねれば未来を変えられるのかはわからないし、もしかしたらどんなに行動を変えてもなにも変わらないかもしれない。
だけど、一縷でも望みがあるのなら、できることは全部やりたい――。