「シュン、ナツノ」


突然聞き馴染みのある声に呼び止められて、振り返る。
地区大会が終わった夕方17時。プールを出た瞬間のこと。


「スミ」


まさかのことで、私は驚いて声が出なかったのに、シュンは至って平然とその名前を口にした。

────スミくん。

大会が終わった直後だからか、応援に来ていた観客たちや、悔しい顔をした選手たちが建物前に溢れている。その中から、あの花火大会の日のように、わたしとシュンを見つけ出すなんて、スミくんってすごい。

数年涙を流していなかった分、止めようとしても溢れるそれを流し続けて数時間。目は腫れているし、顔も浮腫んでる。こんな可愛くない状態で会いたくなかった、なんて少し乙女なことを思っている自分に驚いたり。


「……ふたりが面識あるなんて、知らなかった」
「同じ部活だから」
「それ、わたし、全然知らなかったよ」
「ごめんごめん、でも、シュンも言わないし、わざわざいいかなって」


悪気なさそうにケラケラと笑う。そういえば、スミくんの家の玄関には、熱帯魚が飼育された水槽の上に綺麗な風景写真がいくつも飾ってあった。それに、人付き合いが苦手なシュンが、最初から”スミ”と呼んでいたこと、違和感は確かにあった。ヒントはそんなところに落ちていたのに、気づかなかったのはわたしの方だ。


「でも、スミくんなんでわざわざこんなところに……」
「そりゃ、ね」


突然、背中の後ろに隠していた右手をスミくんが私の目の前へと差し出した。手には大きな花束が握られていて、驚いて思わず後退りしてしまった。

いきなり、どうして花束なんか。


「誕生日おめでとう、ナツノ」


一瞬理解できなくて固まってしまう。だって、自分でも忘れていた。私の誕生日なんて、シュンくらいしか知らないのに。

それが今日だなんて、どうしてスミくんが知っているの。


「なんで今日って知って……」
「シュンに聞いた」


思わずシュンを見ると、これまた悪気なさそうに「すごい花束」と呟いている。このふたりがこんな風に繋がっていたなんて予想外だ。滅多に人と関わらないシュンとまで仲良くしているなんて、スミくんは本当に侮れない。彼のことを苦手な人間なんて、この世にいないんじゃないかと思うほど。

差し出された花束はピンクを基調にまとめられていて、こんなの私には似合わないと思う。けれど照れ臭さそうにそれを差し出すスミくんの顔を見ると、なんだか何も言えなくなってしまう。

胸がいっぱいで、どうしようもない。だってわたし、この花束みたいに、抱えきれないほどのやさしさを、きみにもらった。


「え、ナツノ泣いてる?」
「泣いてない」
「うそ、泣いてるじゃん」
「スミくんのせい、だよ」
「うん、スミのせいだと思う」


横から冷静にそう言い放ったシュンの言葉に、焦ったように花束を持った手を引っ込めようとする。そんなスミくんが可笑しくて、思わずわたしは手を伸ばした。頬を流れていくそれは、さっきのものとは違う、暖かい温度をしている。

優しく両手で花束を受け取ると、スミくんは安堵したように笑った。その、優しい笑顔が見たかった。


「……来年も祝ってよね」
「え、それ、告白だと受け取っていいやつ?」
「ち、違う、バカ」
「はは、相変わらず素直じゃない」


頬が熱くなった、きっと泣きながら赤い顔をしている。こんなの、スミくんにもシュンにも見られたくなかったな。

そうだね、わたし、ずっと素直じゃなかった。ごめんね、でも、素直になるには、もう少し時間が欲しいよ。

私が花束から視線を上げると、スミくんとばちりと目が合った。その瞬間、うるさく心臓の音が鳴り出す。綺麗な顔をしている、そしてあまりにもやさしい顔で笑う。どうしてこんな風に、すんなりとわたしの中に入ってこようとするんだろう。

重なった視線に、スミくんがそっと私の肩を引き寄せた。手のひら分の距離を、初めて超えた。


「シュン、ごめん、ナツノのこと借りていい?」
「借りるっていうか、元々おれのものでもないし」
「はは、そっか、それはそうだ」


7月の気温が私たちの熱を上げていく。季節のせいか、気持ちのせいか、そんなことはこの際どうだっていい。今まで触れたどの異性の温度とも違う、スミくんの熱にまた泣きそうになると、震える肩をさりげなくやさしく引き寄せてくれた。


「ナツノ」


シュンが呼ぶ。視線を向けると、いつも無表情なくせに、ひどくやさしい顔で笑っていた。



「────幸せになって」



わたしはそれに、ゆっくりと時間をかけて頷く。「なるよ、だれよりも」とスミくんが笑った声を聞きながら、潤んだシュンの瞳を見ていた。

そのゆれる瞳に、ぼんやりとしたハルカの姿が映る。

何よりも大切で、だれよりも大好きな幼馴染が言った「幸せになって」という言葉を、わたしはきっと一生忘れないだろう。



ひとつの恋が過去になる予感がした。
─────18歳、最初の日だった。