「シュン」


名前を呼べば、猫背の背中が怠そうにこちらを振り返る。長い髪も丹精な顔立ちも幼い頃から変わらないなあと思う。久しぶりに会うと、尚更実感する。


「……遅い」
「ごめんってばー、バスの時間間違えちゃって」


申し訳なさそうな顔をしてシュンの元へと駆け寄った。私が15分も遅刻をしたのでさすがのシュンでも不機嫌そうな顔をしている。切れ長の綺麗な二重が絵になるなあ、なんて呑気なことを考えたりして。

学校からバスで25分。土曜日、国営プール。

キサちゃんから誘われた水泳地区大会へとシュンを呼び出したのは他でもないわたしだ。


「まあいいけど、はじまる時間ギリギリ」
「キサちゃんが出るの後半だからまだダイジョーブだもん」
「ふうん……」
「なにその、理解できないみたいな目」
「いや別に」


そういうのはタイプの違いじゃん。変な目で見なくてもいいのに、シュンってばいつも冷めた目をしている。まあ確かに、遅れてきたのはわたしが完全に悪いんだけどさ。

さすがの私だって、ちょっとは緊張してたんだよ。だって、あの花火大会の日以来、シュンと話していなかったから。2週間ぶりくらいかな。学校で顔を見ることはあったけれど、私から話しかけない限りシュンからコンタクトを取ることは一切ない。わかっていたから、自分からメッセージを送っておいた。『水泳部の地区大会見に行かない?』と。

来てくれるか心配だったけれど、待ち合わせの国営プール前にシュンの背中を見た時は安堵した。13時15分、日差しがジリジリとアスファルトを照らしていて、もう夏の匂いがしている。


「とりあえず中入ろ、涼しいだろうし」
「うん」


遅れてごめんね、ともう一度謝ると、いつものことだから、と簡素な返事が返ってくる。それでもいつも待ってくれているシュンは昔から優しいね。


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事前に用意しておいた(というか、キサちゃんがわざわざ2枚教室まで届けてくれた)チケットで館内へと足を踏み入れる。ロビーを抜けると温室プールをガラス越しに見ることのできる観客席がある。まだ地区大会なのでそこまで観客は多くないけれど、わたしとシュンはどちらが何を言うでもなくいちばんうしろの右端へと腰を下ろした。こういうところは似ているんだよなあ。

スミくんだったらきっと、よく見えるから前の席にしよう、とケラケラ笑う。想像できてしまうところが少し悔しいな。


「なんか、久々だね、シュンと話すの」
「そう?」
「そーだよ、薄情者」
「確かにここ2週間くらい部室が静かだった」
「人を邪魔者みたいに言うんだから」
「別にそういうわけじゃないけど」


キサちゃん何時から出るの、と聞かれたので、14時くらいかな? と返す。地区大会といえど水泳は個人戦なので、タイム競争とはいえ時間がかかる。いまは高校1年男子の部終わりかけだ。

キサちゃんのことはたまにシュンにも話していたから知っているはず。面識はないだろうけれど。

久しぶりに人が真剣に水泳をしているところを見る。学校のプールより広くて綺麗な水の中をいとも簡単に泳いでいく選手たち。今日の為に毎日泳いできたのかな。ガラス越しに見えるその姿は誰もが綺麗で、やはりサカナのようだと思う。

お昼の陽が差し込む室内プールの水面は、ひどくきらきらと光って揺れている。プールよりもずっと高い位置に設置されている観客席からの景色だから、余計に。


「……わたし、この間シュンが私に言ったこと、考えたよ」


会話を切り出したのは、私の方。シュンは私の方を向かず、真っ直ぐガラス越しに泳いで行くサカナたちを目で追っていた。

本当は、こういうことを自分から言葉にするのはひどく苦手だ。何かを決めたり責任を持ったりすることが苦手。誰かの言葉に頷いたり曖昧にした方がずっと楽だ。

『ずっと、こうなったらいいなと思ってた。ナツノが他の誰かを好きになればいいって』────花火大会の日、シュンが私に向かって言った言葉を思い出す。
 

「ずっと、私が他の人をすきになればいいと思ってた、って、言ってたよね、シュン」


声が震える。いつも横にいたのに、今日のシュンはもう随分と遠くにいるように感じてしまう。こんなこと、一生言わないでいいと思っていた。

シュンだけは、私と一緒に、ハルカを忘れないで生きていくと思っていた。


「……本当は、気づいてた? わたしが、ハルカのこと、好きだったこと」


ぐっと、拳に力を入れて、言葉にした。シュンの顔を見ることは、できなかった。

返ってこない返事の代わりに、わたしは「恋愛対象として」と、小さく、聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。こういうところ、わたし、とても弱いね。


「うん、なんとなく、気づいてた」


何を言おうか、どう言葉を紡ごうか、考えあぐねていたんだろう。数秒間が空いてから、シュンがそっと、息を吐いた。

その瞬間、どっと、肩の荷が降りたように、重いものがすべて取れたかのような感覚に陥った。ずっと、ずっと、シュンに言えなかった。シュンだけには、今後も言えないと思っていた。

誰よりもいちばん近くにいたのに、いちばん肝心なことを、長い間、きみに言うことができなかった。


「そっか、そっかあ……」
「ナツノが自分から言うなんて、思いもしなかったけど」


結局、シュンには全部お見通しだったのか。

急に視界がクリアになったような気がする。震える手とカラカラの喉を隠すようにしてそっとシュンを見ると、なんでもないみたいにまっすぐ前を向いていた。何も言わない私に、どうした? とでも聞くように。


「へん、だと思う?」
「なにが?」
「わたしが、女の子を好きなこと」
「なにがへんなの?」


至って不思議そうに、シュンが聞き返す。そのことに、私はぐっと、喉元がなる。

ああ、そうか、わかった。

私が、本当は、いちばん気にしていたんだ。自分自身の性対象が同性であること。亡くなった親友であること。大好きな幼馴染────シュンの想い人であること。言葉にすればシンプルなことで、シュンにとってさほど大きなことではなかったのかもしれない。私が思うよりずっと、シュンも、世間も、マイノリティであるわたしたちに、関心があるわけじゃない。

気にしていた。簡単だったのに、おかしなことではなかったのに、ずっと怖くて言いだせなかった。


「ただ、ハルカのこと、過去にできてないのは、俺も同じだったから」
「うん、」
「ナツノが他の誰かをすきになる時が、思い出を過去にするタイミングなのかなって、ずっと思ってた」


毎年、桜まつりの日。絶対に人前で涙流すような人間ではないのに、川に桜を流す時だけは、肩を震わすこと。その、シュンの肩を、5年間一度も抱くことができなかった。わたしたちはいちばん近くにいたようで、本当はずっとお互いに踏み込めなかったんだね。

カルキくさいプールのにおいが鼻をくすぐる。真っ直ぐに水の中を泳いでいく。あの中にわたしもいたかもしれない。もっと早く告げていれば、違う未来もあったかもしれない。

けれど、変えられない。交通事故で亡くなったハルカのことも、わたしたちが過ごしてきた5年間も。


「シュンも、ハルカのことがすきだった、よね」
「どうだろ、異性をすきになったことがないから、よくわかんないけど」
「え? でも、両思い、だったんでしょ?」
「両思い?」
「だって、ハルカと、手を繋いで帰ってるところ……わたし、見たよ」


シュンを見ると、困惑したように黙り込んだ。どういうこと? だってあの日、2人の背中をみてから、わたしはずっと、ふたりは両思いなんだと思っていた。


「ああ、思い出した、始業式の日」
「そう! 中学2年の、始業式の日だよ」


その前に、と。シュンがズボンのポケットからゴソゴソと何かを取り出した。それは色褪せて所々折れている。


「え……何これ」
「手紙」
「見ればわかるけど、誰から」
「ハルカ」
「ちょっと待って、どういうこと?」
「預かってたんだ、中学2年の春。ハルカから、ナツノへって。タイミングが来たら渡そうと思ってた」


何それ、そんなこと、予想もしていなかった。私は震える手でそれを受け取る。寒くないのに指先はひんやりとして冷たい。まるで氷を受け取るみたいな感覚。吐く息が浅くなるのを感じる。ガラス越しとはいえ、泳いで行く水の音やスタート合図の笛の音が聞こえた。


「先に読んだら?」


シュンの言葉に、震える手で、ゆっくりとそれを開いた。