シュン、怒ったかな。

少し前を歩いていたシュンに向かって投げた言葉、人混みの中とはいえ、きっとちゃんと聞こえていた。そして、シュンはそんなわたしに感情を見せることもない。


『うん、今は一緒にいない方がいいかもね』


シュンの顔、見たくない、なんて。子供じみたことを言って、困らせた。そんなわたしに呆れたようにそう言ったシュンの顔は見れなかった。怖かった。何も変わっていない。わたし、本当にずっとあの頃のままだ。

せっかく着た浴衣も、結った髪も、紺色に塗った指先も、なんだか全部捨てちゃいたい。

意味なかったのかな、この、5年間。

わざと怒ったようにシュンに背を向けて、反対方向に歩いてみせる。追いかけてくるのかな、なんて子供じみた考えはシュンには通用しなかった。

バカ、シュン、なんで追いかけてもこないの。本当の本当に、一緒にいない方がいいって、ハルカのこと忘れるべきだって、そんな風に思ってるの?


人混みをかき分けながらわざとゆっくり歩くけれど、そのうち本当にシュンが私を追いかけてこないことを悟って、目の前が真っ暗になる。もう数十分は経っているだろう。

人の声、うるさい。大勢の砂を蹴る音、うるさい。笑い声、カメラのシャッター音、何か食べ物が焼ける音、ぜんぶ、うるさい。聞きたくない。


なんで、みんな、そんな普通に笑っていられるんだろう。



「あれ、ナツノじゃん?」


人混みの雑踏の中。

どこかで聞き覚えのある声に、喉元が鳴った。こんな顔のまま家に帰ったらお母さん心配するだろうな、どうしようかな、なんて思っていた矢先。

顔をあげると、どこかで見たような男の人が立っている。身長はシュンより少し低いくらい、高校生のくせに金髪に近いような髪色、片耳ピアス。


「って、おーい、聞こえてんの?」
「……誰でしたっけ、」
「は? おまえ俺のこと忘れたの? 去年遊んでやったのに」


誰、と本当にわからないから聞いたのに、それは地雷だったみたいだ。わかりやすく顔を歪ませて私を睨みつけている。今、誰にも会いたくなんてないのに。

あれ、この感じ、なんとなく思い出した。

去年1度だけ関係を持った他校の先輩だ。街でいきなり声をかけられてすぐに誘いにのった。あの頃、ちょうど水泳部を辞めたすぐのこと。今よりもっと手当たり次第、誰でもよかった。傷の舐め合いみたいなこと。

でも、別に、今は、私に必要ない。


「……忘れました、先輩も忘れてください」
「は、生意気なこと言うね」
「もう関係ないし、」
「おまえ去年もそーやっていきなり連絡途絶えたよな、思い出したらイラつくわ」
「別に、先輩だってどうでもいいですよね、」
「生意気な口聞くなよ、誰とでも寝る女のくせに」



誰とでも寝る女、か、その通りだな。
来るもの拒まず去るもの追わず、誰でもいい。どうでもいい。私のことを本当に好きな人だっていないし、私が本当に好きになる人だっていない。

適当でいい。上辺でいい。なんでもいいんだよ。シュンと、ハルカと、その思い出があればそれでよかった。


「……確かに、そうですね」


あーあ、バカみたい、何してるんだろう、自分。

そう言って笑うと、先輩は見下して笑いながら「俺がもう一回遊んでやろーか? お前みたいなの、誰も拾ってくれないだろ」と吐き捨てる。うん、その通りだ、わかってるよ。

何も言わないことを肯定と捉えたんだろう、私の腕を先輩が引いた。人混みや騒音は私たちを隠すのに最適だ。すれ違う人たちは誰も不思議に思ってない。


このまま流されたらどうなるんだろう。去年の私なら、まあいっか、なんでもいいや、そんな軽率に、この人について行ったかもしれない。


簡単に触れる。そこに躊躇いなんてものはない。私の腕を掴んだ先輩の手は筋肉質で、自分のものとは力も質感も圧倒的に違うと思い知らされる。自分はちゃんと’女の子’だな、と、どこかで安堵する自分がいる。こんな時に、私っていやに冷静だ。

もし私がこのままこの名前も思い出せない先輩についていって関係を持てば、シュンやハルカはどう思うかな。─────スミくんは、どう思うかな。



「どーする? 俺の家だと時間かかるから駅前のホテル行くか」
「……」
「てかさ、結局おまえ、誰でもいーんだな、本当」


何も言わない私に、沈黙は肯定だと捉えた先輩は少し機嫌を直して私の腕を引いた。笑ってる、誰でもいいのはお互い様でしょ。

力、強いな。ひとつしか年が変わらないとはいえ男性だ、敵うわけない。

腕を引かれながら人混みを縫って歩いて行く。先輩の歩く歩幅が大きくて、必死に合わせるけれど何度も躓きそうになる。浴衣にも下駄にも慣れていない。

先輩はなぜか上機嫌で、何か話しているけれど、私はそれに返事はしない。というか、私の意見とか、きっとどうでもいい。適当に関係を持てる相手がそこに転がっていたから、適当に拾った、先輩にとったらそれぐらいのことなんだろうな。

誰でもいいって、残酷なことなのに、正当化する理由をみんな探してる。


なんか全部、どうでもいいや。


考えること、疲れた。シュンのこと、ハルカのこと、……スミくんのこと。この世に正解とかないし、なんでもいい、なんだっていいんだよ。めんどくさい、全部、どうでもいい、聞きたくない、どうにでもなれ。


あ、やばい、どうでもいいのに、どうして涙、出そうになるんだろう。





「──────ナツノ?」





人混みの中、呼ばれた名前にどくりと心臓が鳴った。だって、聞き馴染みのある声だ。

まさかね、こんなタイミングで、会うわけない。うん、そんなの、出来すぎてるもん。

聞こえた声にふと、顔を上げると、私の予想は裏切られた。


────スミくんが、いる。


今、一番会いたくなかったひと。なんで、どうして、そこにいるの。最悪なタイミングで出会ってしまった。スミくんの顔、一番、見たくなかった。

その瞬間、私は思わず強引に引かれていた先輩の手を振り払った。何も言わずに手を引かれていたから、油断して力を抜いていたんだろう。私の手首を掴んでいた先輩の手が宙に浮く。


思わず込み上げてきそうなっているものをぐっと堪える。スミくんまで数メートル、人混みのせいでまだ私とは確信していないみたい。不思議そうにこちらを見ている。

この距離だったら、シルエットしか、はっきりしないはずなのに。

どうしてわたしを見つけるんだろう。そしてわたしは、どうしてスミくんの声をわかってしまったんだろう。

返事のしない私に、ゆっくりとスミくんが近づいてくるのがわかった。やだな、いやだ、いま、会いたくない。


「なんだ、やっぱナツノだ。やった、会えないかなって思ってた」


人混みの中で距離を詰めて、顔が認識できるくらいの距離でそう笑う。会えないかなって思ってた、だって、バカみたい。

スミくん、私服、シンプルなんだね。

あーあ、スミくんはそうやって、何も知らないでやさしい笑顔を向けてくる。うれしそう。私に会えたのがそんなに嬉しいのかな、バカみたい。会えないかなって、会えるよ、ちいさな街の花火大会、探せばいくらだって見つけられる。

こんなの、運命なんかじゃないし、そんなもの、この世にないし、幸せとか、意味わかんないし。


「おい、何すんだよ、行くぞ」


怒ったような先輩の声は、スミくんには届いていないのかもしれない。再び私の手を取ろうとした名前も知らない先輩を避ける。スミくんに見られたくなかった。

わたし、シュンといる時、スミくんのことを考えていた。そんな自分のことが、信じられなくて、だいきらいで、ゆるせないんだよ。



「めちゃくちゃ浴衣似合ってるわ、まじで会えてよかった、てかなんでひとり? シュンは? って、────ナツノ?」



あ、最悪だ。こんな顔、だれにも、特にスミくんには、見られたくなかったのに。

人混みをかき分けて近づいてきたスミくんが私の顔を覗き込んだ瞬間、驚いて名前を呼んだ。近づいて、やっと私の表情が見えたんだろう。スミくんはびっくりしてるだろうな。そりゃあそうだ。だって、わたし、こんなところ人に見せたことがない。きっと、泣くのを堪えて、ひどい顔をしている。

それに、横には怒っている男の人。スミくんだって状況がうまく掴めてないだろう。

先輩は私が手を振り払ったことでさっきより不機嫌に声を落とす。


「は? 誰これ。てかお前、俺を舐めるのもいい加減にしろよ」
「……っ」


一瞬でも、名前も知らない人に、ついて行こうと思ってしまった自分が情けない。


「え? ナツノ、どういうこと? 誰これ」
「お前こそ誰だよ、ナツノの彼氏?」
「ああ、そうですけど、あなたは?」
「はは、こいつの彼氏とか、カワイソーだねオマエ。こいつ、誘われたら誰でも寝るって有名じゃん。俺も去年相手してやったし」
「やめてよ!」


思わず、声が出た。先輩が再度掴んだ手を、もう一度強く、振り払う。

わかってる、自分がしてきたこと、自分のこと、こんなふうに言われたって仕方ない。

でも、なぜか、スミくんのまえで、こんなこと言って欲しくない。やめてよ。

いつも適当に笑ってやりすごして、愛想を振りまいて、明るくいた。シュンの前でだって泣いたことなんてないのに。


「……すいません、傷つけなくないのでこの辺で」


え、と。私が先輩の手を振り払った直後、スミくんがそう言い放って、一瞬で私の手を取った。そしてそのまま走り出す。


「は? おいっ ふざけんなよ!」


名前も知らない先輩が後ろで何かを叫んでいたけど、スミくんは気にしない様子で私の手を引いて走る。下駄でうまく走れないけれど、さっきとは違う、躓いてもいいからこの人の背中を追いたいと思った。

お祭りの人混みは、まるで私達をかくまってくれるみたいだ。