「ナツノ、行こ」
「あ、うん」


昼休みのチャイムが鳴ると同時に、1番前の席のスミくんが、1番後ろの私の席までやってきた。同じクラスというだけでなんだかソワソワするのに、みんなの前でこういうの、恥ずかしくないのかな。

男子は何かと囃し立てるけれど、女子の反応は目も当てられないものだ。スミくんは顔もスタイルもいい、おまけに愛嬌のある性格で誰からも好かれるタイプ。そんな彼のことを考えれば、私なんかと付き合っているなんて、やっぱり釣り合わない。

スミくんの連れ出し方は、強引じゃない。行こう、と言葉にするけれど、無理に手は引かない。付き合ったときも、付き合おう、と強引には言わなかった。必ず相手の了承を得て、双方の理解があって物事を進めたがる。そういえば、付き合って数週間経つけれど、スミくんに触れたことも、触れられたこともないな、と思った。

「東出さん、また彼氏変わったんだ」
「え、知らなかったの? スミくんだよ、サッカー部の」
「えー、タイプだったのにショック」
「スミくんっていい人だと思ってたのに、女の趣味悪いね」

屋上階段に向かうために肩を並べて廊下を歩いていると、そこら中からヒソヒソと小声が聞こえてくる。聞こえないように話しているのか、それともわざと聞こえるようにしているのか、一体どっちなんだろう。

聞こえてないフリ。気づいてないフリ。私はできるけれど、スミくんはどう思っているんだろう。どうして聞こえているのに、私に何も言わないのだろう。

「ねえ、今日の朝、男と一緒に家から出てきたらしいよ」

え、と。思わず声に出そうになった。でも反応したら負けだということは十に承知だ。

けれど流石にそれは語弊がある。誰かに今朝のことを見られていたんだろうか。うちは学校からそう遠くないから、あり得ない話ではない。大通り沿いだし。

でも、なんの情報もなくその言葉を述べたら、「私が男を泊めた」という簡素な事実だけ広まってしまう。さすがの私も、誰か特定の相手(それは、世間で彼氏と呼ばれる類いのもの)がいる時に、違う誰かと関係を持ったりはしない。人のことは傷つけたくない。こんな私でもそんな良識はきちんともっている。

どうしてだろう。

シュンや両親の前では男女が通じないのに、世間に出るとすべてを男女のカテゴリーで考えられてしまう。そうじゃないのに。でも、そうなることだって、わかっていたし、予想もついていたはず。わかりきっていたのに、浅はかだったのは私の方だ。

スミくんにだって聞こえているはずなのに、何も言わずに、スタスタと歩いていくだけだった。


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「ん、いい天気」


今日も立ち入り禁止の屋上へと足を踏み入れて、グッと腕を空へと伸ばす。それを見ながら私は日陰に腰掛けてお弁当を広げる。今日はお母さんが作ってくれた。もちろんシュンの分も。今頃色違いのお弁当箱を広げていることだろう。


「今日は焼きそばパンなの?」
「うん、たまごサンドがなくてさ」
「へえ」


へえ、そうなんだ、どうでもいいけど。なんて続いてしまいそうな相槌に自分で反省する、今のはよくなかったな、と。
スミくんを見ると、さして気にしていない様子で焼きそばパンの封を切っていた。今日も今日とて、彼は整った顔立ちをしている。


「今日の午後、数学と物理だっけ」
「うん、最悪だよね」
「ナツノも理数が苦手?」
「んーそうだな、でも意外と現代文とか古典よりは好きかも。でも物理は苦手」
「あーわかる、俺は化学も無理だけど」


あれ、公式とか化学式とか覚えて将来どーなるんだろうね、とケラケラ笑うスミくんの顔をじっと見る。


「焼きそばパン、美味しい?」
「うん? 欲しいの?」
「いや、別に……」


……どうしてこう、当たり障りのない話をするんだろう。中身のない会話。私と話していて楽しいのかな。身体的なふれ合いを求めているわけでもなければ、私を知りたいわけでもなさそうで、どうしてスミくんが付き合う選択をしたのか全く理解ができない。

今日だって、シュンを家に泊めていたこと、噂の声は聞こえていたはずなのに、どうして何も聞いてこないんだろう。それ以外にも、これまでだって、今日だって、散々私のひどい噂話を聞いてきたはずなのに。


「スミくんはさ、」
「ん?」
「当たり障りのない話しをするよね」
「え? どういうこと?」
「なんかこう、別に相手は誰でもいいような会話」
「ああ、うん、そうかもね」


それが悪いと思っていない、むしろわざとそうしているとでも言うように笑う。掴みどころがない、というのはこういうことなのかな。


「聞かないの?」
「何を?」
「何を、って……色々。今日だって、男泊めてたって、聞こえてた、でしょ」


ほかっておけばいいのに、私らしくない。

気になるのは、きっとシュンのせいだ。自分の意思じゃなく、シュンが「いい奴」だと言ったから。今までの彼氏と呼ばれる人たちと、彼は何が違うのか、興味が湧いた。いつもなら、どうでもいい、勝手に離れていくのを、引き留めもせず、感謝もせず、そっか、と見守るだけなのに。

スミくん、少しだけ、やっぱり、他の人とは違う。例えばシュンのことだって、無理に問い詰めたり、深く聞いてきたり、そういうことを、彼は絶対にしない。気になっている素振りすら見せない。私に興味がないのかと思うけれど、それも少し違う。だって、どうしてか、スミくんが私を見る目はいつも、やさしい。

だから気になった。気になってしまった。


「それは、聞いていいってこと?」
「え、と、」
「自分から話題振ったのに、なにそれって顔してるね」
「う、そうだね、ごめん」


自分の考えや発言に責任を持っていない。私の悪い癖だ。


「おれはナツノが聞いて欲しいなら聞くけど、聞いて欲しくないなら聞かないよ」


やっぱり、まただ。
私の許可を得たがる。強引じゃない。


「聞いてほしいっていうか、誤解が生まれたら嫌だなって、」
「……誤解が生まれたら嫌だなって、思ってはくれてはいるんだ」
「そりゃ、一応、彼氏なんだし」
「一応って、ナツノは素直だな」
「うーん? なんていうか、泊まったのは事実だけど、シュンは幼馴染で、家族絡みで仲良くて、昨日はうちの両親と一緒に誕生日を祝ってて、だから……」


喋っていて何を言いたいのかわからなくなってしまった。だってこれってすべて言い訳だ。スミくんにとったらそんなことどうでもいい。泊めたか泊めていないか、そこが重要なはずなのだ。


「うん、知ってるよ」
「え、知ってる?」
「だって、4月18日はシュンの誕生日だって、ナツノが言ってたからね」
「あ、そっか、そうだった」


私、スミくんの誘いを断ったんだった。すっかり忘れていた。


「そっか、って、忘れてたでしょ。それで、誕生日会はうまくいった?」
「……うん、ごめん」
「何で謝るの? お祝いできたなら、おれは良かったって思うけど」
「え、」
「微妙な反応。何か言って欲しいことでもあった?」


本当に、優しい顔で、笑うひとだ。

言って欲しいことなんてないけど、この反応は想像すらしていなかった。

大抵の場合、こういう時は彼氏の方が不機嫌になったり怒ったりするものだ。ひどければそのままフラれることもある。別に私はダメージを喰らわないけれど、男と女、というだけでシュンとの関係が認められないのは少々苦しい世界だな、とずっと感じていた。

もちろん、私とシュンの間に、出会ったときから一瞬たりとも、そういったものが生まれたことはない。私がいくら願ったって無理だろう。


「意地悪な、言い方するね、スミくん」
「え、そう? ごめん、悪気はないんだけど」
「彼氏として、聞きたいことはないの?」
「聞きたいこと?」
「だって、気にならないの? わたしにはよく、わかんないけど」


付き合うとか、彼氏とか、そういう物だと思っていた。嫉妬が伴うものなんじゃないのかって。


「んー、まあ、気にならないといえば嘘になるけど……。おれが無理矢理なにか聞いたり、言わせたりしても、ナツノの意思ですべて決めることだし」
「それは、そうだけど」
「ナツノが言いたかったら言えばいいし、言いたくないなら言わなきゃいい、それじゃダメ?」


どうしてそうやって、全部、私に委ねるの。


「スミくんは、どうして、私と付き合おうと思ったの?」


あれ、何故か、声が震える。よくわからない感覚だ。こんなこと、気にしたことなかったのに。シュンのひとことでこうも印象を変えてしまう。ずるいね。


「はは、変なこと聞くね、ナツノは」
「変なこと、ではないと思う」
「うん、そうか、それもそうだな」


妙に納得したように頷いて、何でもないみたいにわたしを見る。


「それは、もちろん、色々理由があるけど、一番は、傷つかないで欲しいから」
「傷つかないで欲しい?」
「うん、それが理由」


なにそれ、意味わからない、意味がわからなさすぎて、拍子抜けだ。


「私別に、傷つくとか、そういうの、ないよ」


もし、いろんな噂を聞いて、私のことを可哀想、だと思っているのならお門違いも甚だしい。《どうでもいい》のだ、シュンと、ハルカと、それ以外の人間関係すべて。


「うん、ごめん、変なこと言って。でも、ナツノが傷ついていなければ、それがすべて」


何を言っているんだろう、この人は、理解できない。

付き合う、彼氏彼女になる、口約束のそれは、確かに不確定で不透明なものだ。けれど、私にそれを求める異性たちは、少なからず何かしら理由があった。それも、自分本位の好意や、性欲、承認欲求、そういった、どろどろとしたまるで鉄の塊のような何か。
それを、真っ直ぐに、傷つかないで欲しいという。意味がわからない。

私に好意があるわけじゃない。何かを求めているわけじゃない。私の人生なんてこの人にとったらどうでもいいことなのに、どうして介入するの。


「なんか、スミくんって思ってたのと違うかも」
「はは、素直」
「だって、別に私のことが好きで付き合いたいわけじゃないでしょ? わざわざこんな風に時間をつくったり、意味わからないや」
「それはナツノも同じじゃない?」
「え、」
「俺のこと、好きじゃないけど、なんとなく一緒にいることを選んでる。違う?」


それは、確かに、そうだけれど。


「おれは、ナツノが傷つかないでいて欲しいと思ってる、それだけだよ」
「何それ……。そんなの、スミくんが気にすることじゃないよ」
「うん、そうだな、でも、できるだけ近くにいれたらそれでいい」


なにそれ、どうしてそんな、何でもないみたいな顔をして、そんなことを言うの。


「付き合う、って関係が手っ取り早くナツノに近づけると思ったからそうした。でももちろん、そんな口約束で相手を縛れるようになるとは思ってないよ、ナツノは好きに生きたらいい」
「本当に、意味わかんない、じゃあ付き合う意味なんてないじゃん」
「まあそれには、肯定も否定もしないかな。ただおれは、強要しないだけ。ただ、傷つかないでほしいと思ってる、それだけだよ」


爽やかな笑顔だ。綺麗で真っ直ぐな瞳。この人は、きっと傷なんて見たことがないのだろう。

その辺で転んだかすり傷を大きな傷だと思っている、そういう、やさしい世界で生きてきた人だ。だから、私やシュンのような、なんとなく周りに一線を引いている傷跡のような何かに、興味をもっているだけ。

この人の言葉を好意と捉えていいのか、それとは全く別物なのか、なんなの。私はうまく噛み砕くことができない。理解できない。わからない。


「ナツノとは今年初めて同じクラスになったけど、存在はずっと知ってたよ」
「私は、スミくんのことなんて知らなかったけど、」


嘘。本当は知っていた。でもどうでもいいと思っていた。容姿が整っているな、とか、それくらいの印象しかなかった。


「うん、それでいいよ。でもさ、おれはなんとなく、ナツノを見てて、、感情を表に出さない子だよなって思って」
「感情、?」
「うん、ナツノって人当たりはいいし、別に嫌われるようなタイプじゃない。いつも明るいし、よく笑うし」


そんなこと、自分でもわかっている。矛盾しているけれど、私は人に嫌われるタイプじゃない。人当たりがいいのも、人懐っこいのも、人に好かれやすいのも、わかっている。こんな風に軽率に異性と関係を持たなければ、もう少しうまくやれているとも思う。


「だから今、少しだけ見えたのがなんとなく、俺は嬉しかった」
「見えたって、別に、いつも通りだよ」
「はは、嘘。ずっと眉間にしわ寄ってる。意味わかんないおれにむかついてるんでしょ」


そう言われて固まる。返す言葉がない。図星だからだ。
人に怒るとか、そういうこと、滅多にない。感情を湧かすだけ無駄なのに、どうして、そんな風に溶け込もうとするの。


「なにそれ、本当に、意味わかんない」
「うん、人の気持ちなんて、意味わからなくて突然だからね」


悔しい、何を言ってもスミくんはさらりと交わして笑うだけだ。全部、一歩上手。


「だったら、別に、彼氏じゃなくてもいいのに、変わった私に興味があっただけじゃん」
「そう言われると、なんか心外だけど」
「私、軽薄だし、軽率だし、優しくないし、全部どうでもいいと思ってる。スミくんみたいな人が、一緒にいる方がへんなんだよ。スミくんだってわかってるでしょ?」
「ナツノの全部がわかるわけじゃないから何とも言えないけど、俺のことが好きじゃないのはわかってるよ」


なんだ、全部、わかってるじゃん。だったら、この時間も、この関係も、必要ないのに。


「うん、わたし、スミくんのことは嫌いじゃないけど、すきでもない」
「知ってる」


じゃあ、どうしろっていうの。強引に手を引かれる恋愛(と呼ぶには軽薄過ぎる関係だけれど)しかしたことがないから、自分で責任を負えないよ。


「……だから、距離を保ってるの?」
「距離?」
「無理に詰めてこようとしないじゃん、スミくんは」
「無理に距離を詰める必要がないからな。別にスピードは関係ない。ナツノの近くにいて、傷つかないでいてくれる、それがすべてで、それ以上でも以下でもない」


それって一体、どんな感情なの。どういう日本語で表すのが正解なの。

恋愛でも、友情でも、尊敬でも、哀れみでもない。傷ついて欲しくない、を、私はどういうふうに受け取ったらいいの。

スミくんの、歴代の彼氏と決定的に違うところ。無理に距離を詰めようとしないところ。物理的にも、心理的にも、彼は私に触れない。私が寄っていかない限り。


「スミくんは私に傷つかないで欲しいって言うけど、だったら、近くにいれれば、私がスミくんのことを好きでもきらいでも、関係ないってこと?」
「うん、まあ、そう言われるとそうなのかな。自分勝手なのか、おれって」
「自分勝手というか、理解不能」
「単純に好きだって言われた方が良かった?」
「スミくんはそんなこと、絶対言わないでしょ」
「さあ、そんなことわかんないけど」


からかうな、ばかやろう。


「もし私なんかを本当に好きな人がいるんなら、普通に、趣味悪いよ」
「自分でそんなこと言うなよ」
「言うでしょ、スミくんだってわたしの噂話、たくさん聞いてるくせに」
「うん、でも別に関係ないでしょ。どうでもいい」


どうでもいい、なんて、スミくんからそんな言葉が出てくるとは思わなかった。


「はは、めちゃくちゃ嫌そうな顔するね。おれのこと嫌いになった?」
「別に、そういうわけじゃないけど、」
「ああそう、ならよかった」


何を考えているんだろう、全然理解できない。でも目の前のこの人は、冗談を言ったり、適当なことを述べるような人じゃないと思う。

きっと本当に、《傷ついて欲しくない》と思っているのだ。赤の他人の、私に対して。

歴代彼氏や関係を持った人たちのことを思い出す。勝手に近づいて、勝手に離れていく。だから否定も肯定もしない。適当に頷くだけだ。付き合おう、にも、別れよう、にも。軽率な言葉に軽率な感情で返して何が悪いの。

適当な好意を寄せてくるあなたたちに、私の何がわかるというのだろう。でも、そんなことを思うこと自体、無駄だ。感情なんて持たないに越したことはない。


「ていうか、スミくんのことは理解ができなすぎて無理かも、どうしよう」
「はは、いきなりキッパリ言うね、おもしろいじゃん」
「面白いって何!」
「はは、別にどう思っててもいーよ、俺はさ、ナツノとこうやって話してみたかったんだよね。だからこうしてナツノが少しでも本心出してくれてるなら、それは結構本望だよ」


スミくんとは今年初めて同じクラスになった。基本他人に興味がないので、学年でもそこそこ有名なスミくんのことさえどうでもいいと思っていた。でも、スミくんはそんな私と話してみたかっただなんて、笑えるよね。


「もう気が向いたときしか話さないよ、意味わかんないもん」
「気が向いたら話してくれるんだ?」
「ていうか、スミくんなんて、私じゃなくたっていくらでも相手してくれる女の子いるでしょ。遊び放題なのに、意味わかんないよ」
「んー別に遊びたいと思ってないからね」


シュンの前以外でこんなふうに素で話したのはいつ以来だろう。私はこういう、自分のテリトリーに土足で踏み込んでくる奴がいちばん苦手だ。

知られたくないことを曝け出す必要はない。受け止めてもらえるなんてそんなこと思ってない。だから自分から一線を引きたい。
だから、《傷ついて欲しくない》なんて、そんなこと言うな、バカ。