「そろそろ上がるかな……」
湖の水面を眺めながら、私と一沙は並んで座った。もう手は離していて、熱はひとつ分だけ。ここらへんは虫がいないらしく、静かでゆったりとした熱気が私たちの肌をなめる。
私は首元をパタパタ煽いだ。首筋は少しだけじっとりと汗ばんでいる。それは一沙も同じらしく、彼はこめかみから一筋に汗を垂らした。それを拭い取る。
私は暗い夜の空をぼんやり眺めて口を開いてみた。
「花火、上がんなかったら絶対に怒られ損だよね」
「怒られる前提なんだ」
「まぁね。鍵をかけた時に音がしちゃったからさ、多分、気づかれてる」
「そっか……僕も一緒に怒られたら良かったね」
「一沙は逃げる前提なんだね。ほんと最低なヤツ」
「怒られるのは嫌だからね」
「はぁ……」
ずるい。でも、ノコノコとついていった私が悪いのかも。それに、この時間はやっぱり楽しくて後のことなんかどうでもよくなる。
一沙とこんなに話をしたのは久しぶりだった。それに、一沙の考え方みたいなものを知れた。今までは、昨日観たアニメどうだった? とか、漫画の続きどうなるんだろう? とか、明日は何して遊ぶ? とか。中学生にもなって、いつまで経っても私たちは子供のままでいたから、ちょっと大人びた話をするなんてことは今までにない。それに、いつも生暖かくて緩やかだったから、あの刺激物のような、ひんやりとした空気が忘れられずにいる。
「……さっき言ってた『死んだあと』のことって、なんで急に」
言ってみると彼は「うーん」と唸る。その低音は、どうしても調子はずれで上手く通らない。それが嫌だったのか、一沙は顔をゆがめて咳払いした。
「まぁ、実はね。僕が読んでた小説にそんなことが書いてあったんだよ」
なんだろう。「25時の光」ってタイトルの。それだろうか。
「簡単に言えば、いろいろと災難な主人公が悩みながら、自分の信念を見つけていくって話なんだけどさ。あんな涼しい水色の表紙なくせに、中身はとても暑苦しいんだ。でね、主人公が言うんだよ。『どんなに死にたくてもそれは一時的にどうしても感じるものであって、僕らはそんな危ない罠から逃げ続けなきゃいけない』って」
語る一沙の目は、本の世界を追いかけるようにキラキラしている。私はそれをじっと眺める。そして、率直な感想を述べた。
「どうしても死にたくなる、ってなんか物騒だね」
「うん。でも、人間にはそういう局面が絶対にあるんだってさ。それはどっか別の本で読んだ気がするけど。その危ない罠にハマったら死んでしまう。でも、人って必ず死んでしまうものだろ? それが早いか遅いかだけで。それでも、ただただ生きていかなきゃいけないんだって、そういうことが暑苦しく書いてある」
「へぇ」
「興味なさそう」
「そんなことないよ」
なんだか現実的じゃないから実感が湧かないだけ。死ぬ、とか。
私はまだ葬式に出たこともないからその感覚がよく分からなかった。だから返事は素っ気なくなってしまう。
「そう。じゃあ続けるけど」
一沙は疑心を向けながらも語り続けた。
「だからね、僕も今そういう局面に立っているんじゃないかなって思うんだ。漠然と寂しいって思うから。不思議だよね。顔や心は笑っていても、急にふと水を浴びたような冷たさに襲われる。友達と話してても、こうして蓮と一緒にいてもなんだか僕だけが取り残されている気がして、なんか……」
一沙は言葉を止めた。私が彼の手を握ったから。
「蓮……?」
そう呼んで、私の顔を覗き込む。彼の目は、暗がりでもはっきり分かった。
「泣いてるの?」
私が一沙の表情を知れるのだから、彼もまた私の涙に気づく。あふれる涙を私は止めることが出来ない。そのまま流れるに任せておく。水っぽい鼻をすすって、喉の奥を痙攣させて。溢れ出して止まらない。
「なんで泣くの?」
一沙は慌てるでもなく静かに訊く。
「だって、一沙が、そんなこと言うから……死にたい、って言いそうだったから」
「でも、そう思えてしまうんだよ」
「やめてよ」
「うーん……」
ようやく一沙の顔に焦りが浮かんだ。
「ごめん」
「許さない。一生許さない」
「そんな風に思ってくれて、僕は嬉しいんだけどな」
「絶対、許さないから」
一沙は黙り込んでしまった。湖には私のしゃくりあげる音だけが広がる。
早く花火が上がればいいのに。そうすれば、大きな音でこの情けなさが軽減されるだろう。キレイでパッと散りゆく夏の花を見ていれば、「悲しい」が「楽しい」に戻るだろう。
「……そろそろ花火が上がる、かな」
気まずそうに言う一沙。私は返事もせずにまだ鼻をすすっている。
「今から上がる花火はね、毎年この日、この時間に上がるんだよ」
「へぇ」
「それでね、その花火を見たら、光に目を奪われてしまうんだって」
「何それ」
「迷信? みたいなものだよ」
「それも本で読んだの?」
訊けば彼はすぐに口を開いてくれる。でも、その言葉は大きな爆発音によってかき消されてしまった。
しゅるる、と上に伸びて、パンッと開く音。それは轟いて湖畔を揺らす。水面に映る光の線はまばゆくて、音と光に思わず肩をびくつかせた。
「本当に花火が……」
「上がったね」
一沙は得意げに言った。
花火は後から後から、上へと放たれていく。それがたくさん重なっていけば、光が私の目を奪っていく。走る閃光は、赤やピンク、黄色、緑、青、次々と色を浮かばせる。細長い光の線。それは打ち上げ花火とは少し違う気がした。
「この花火が終わったらね――」
唐突に一沙の声が耳元のすぐ近くで鳴る。それは、パパンと実を弾くような花火の轟音にも負けないものだった。
「僕は……」
ドン、とひときわ大きな音。肝心な部分は口の動きだけで私に伝わる。その瞬間、目の前が明けるように眩しく白い光に変わった。私は耐えきれずに目を閉じる。
わななくような余韻を残し、音が消えれば眩しさも段々と消え入っていく。瞼の裏側でそれに気づけば、私はゆっくりと視界を取り入れた。
「……え?」
そこにあるはずの、一沙の姿がどこにもなかった。
湖の水面を眺めながら、私と一沙は並んで座った。もう手は離していて、熱はひとつ分だけ。ここらへんは虫がいないらしく、静かでゆったりとした熱気が私たちの肌をなめる。
私は首元をパタパタ煽いだ。首筋は少しだけじっとりと汗ばんでいる。それは一沙も同じらしく、彼はこめかみから一筋に汗を垂らした。それを拭い取る。
私は暗い夜の空をぼんやり眺めて口を開いてみた。
「花火、上がんなかったら絶対に怒られ損だよね」
「怒られる前提なんだ」
「まぁね。鍵をかけた時に音がしちゃったからさ、多分、気づかれてる」
「そっか……僕も一緒に怒られたら良かったね」
「一沙は逃げる前提なんだね。ほんと最低なヤツ」
「怒られるのは嫌だからね」
「はぁ……」
ずるい。でも、ノコノコとついていった私が悪いのかも。それに、この時間はやっぱり楽しくて後のことなんかどうでもよくなる。
一沙とこんなに話をしたのは久しぶりだった。それに、一沙の考え方みたいなものを知れた。今までは、昨日観たアニメどうだった? とか、漫画の続きどうなるんだろう? とか、明日は何して遊ぶ? とか。中学生にもなって、いつまで経っても私たちは子供のままでいたから、ちょっと大人びた話をするなんてことは今までにない。それに、いつも生暖かくて緩やかだったから、あの刺激物のような、ひんやりとした空気が忘れられずにいる。
「……さっき言ってた『死んだあと』のことって、なんで急に」
言ってみると彼は「うーん」と唸る。その低音は、どうしても調子はずれで上手く通らない。それが嫌だったのか、一沙は顔をゆがめて咳払いした。
「まぁ、実はね。僕が読んでた小説にそんなことが書いてあったんだよ」
なんだろう。「25時の光」ってタイトルの。それだろうか。
「簡単に言えば、いろいろと災難な主人公が悩みながら、自分の信念を見つけていくって話なんだけどさ。あんな涼しい水色の表紙なくせに、中身はとても暑苦しいんだ。でね、主人公が言うんだよ。『どんなに死にたくてもそれは一時的にどうしても感じるものであって、僕らはそんな危ない罠から逃げ続けなきゃいけない』って」
語る一沙の目は、本の世界を追いかけるようにキラキラしている。私はそれをじっと眺める。そして、率直な感想を述べた。
「どうしても死にたくなる、ってなんか物騒だね」
「うん。でも、人間にはそういう局面が絶対にあるんだってさ。それはどっか別の本で読んだ気がするけど。その危ない罠にハマったら死んでしまう。でも、人って必ず死んでしまうものだろ? それが早いか遅いかだけで。それでも、ただただ生きていかなきゃいけないんだって、そういうことが暑苦しく書いてある」
「へぇ」
「興味なさそう」
「そんなことないよ」
なんだか現実的じゃないから実感が湧かないだけ。死ぬ、とか。
私はまだ葬式に出たこともないからその感覚がよく分からなかった。だから返事は素っ気なくなってしまう。
「そう。じゃあ続けるけど」
一沙は疑心を向けながらも語り続けた。
「だからね、僕も今そういう局面に立っているんじゃないかなって思うんだ。漠然と寂しいって思うから。不思議だよね。顔や心は笑っていても、急にふと水を浴びたような冷たさに襲われる。友達と話してても、こうして蓮と一緒にいてもなんだか僕だけが取り残されている気がして、なんか……」
一沙は言葉を止めた。私が彼の手を握ったから。
「蓮……?」
そう呼んで、私の顔を覗き込む。彼の目は、暗がりでもはっきり分かった。
「泣いてるの?」
私が一沙の表情を知れるのだから、彼もまた私の涙に気づく。あふれる涙を私は止めることが出来ない。そのまま流れるに任せておく。水っぽい鼻をすすって、喉の奥を痙攣させて。溢れ出して止まらない。
「なんで泣くの?」
一沙は慌てるでもなく静かに訊く。
「だって、一沙が、そんなこと言うから……死にたい、って言いそうだったから」
「でも、そう思えてしまうんだよ」
「やめてよ」
「うーん……」
ようやく一沙の顔に焦りが浮かんだ。
「ごめん」
「許さない。一生許さない」
「そんな風に思ってくれて、僕は嬉しいんだけどな」
「絶対、許さないから」
一沙は黙り込んでしまった。湖には私のしゃくりあげる音だけが広がる。
早く花火が上がればいいのに。そうすれば、大きな音でこの情けなさが軽減されるだろう。キレイでパッと散りゆく夏の花を見ていれば、「悲しい」が「楽しい」に戻るだろう。
「……そろそろ花火が上がる、かな」
気まずそうに言う一沙。私は返事もせずにまだ鼻をすすっている。
「今から上がる花火はね、毎年この日、この時間に上がるんだよ」
「へぇ」
「それでね、その花火を見たら、光に目を奪われてしまうんだって」
「何それ」
「迷信? みたいなものだよ」
「それも本で読んだの?」
訊けば彼はすぐに口を開いてくれる。でも、その言葉は大きな爆発音によってかき消されてしまった。
しゅるる、と上に伸びて、パンッと開く音。それは轟いて湖畔を揺らす。水面に映る光の線はまばゆくて、音と光に思わず肩をびくつかせた。
「本当に花火が……」
「上がったね」
一沙は得意げに言った。
花火は後から後から、上へと放たれていく。それがたくさん重なっていけば、光が私の目を奪っていく。走る閃光は、赤やピンク、黄色、緑、青、次々と色を浮かばせる。細長い光の線。それは打ち上げ花火とは少し違う気がした。
「この花火が終わったらね――」
唐突に一沙の声が耳元のすぐ近くで鳴る。それは、パパンと実を弾くような花火の轟音にも負けないものだった。
「僕は……」
ドン、とひときわ大きな音。肝心な部分は口の動きだけで私に伝わる。その瞬間、目の前が明けるように眩しく白い光に変わった。私は耐えきれずに目を閉じる。
わななくような余韻を残し、音が消えれば眩しさも段々と消え入っていく。瞼の裏側でそれに気づけば、私はゆっくりと視界を取り入れた。
「……え?」
そこにあるはずの、一沙の姿がどこにもなかった。